レイヴン・ネット・スウィム
@Trap_Heinz
レイヴン・ネット・スウィム
二〇一七年後半から大量に急速にネット上へ発生し始めたバーチャルYouTuberという存在。しばしばVTuber(ブイチューバー、ヴィーチューバー)等と呼ばれる彼・彼女らは、アニメキャラクターの様な2Dや3Dで製作されたアバターを纏い動画投稿やネット配信サービスで活動する『バーチャル』な存在だ。だが勿論“中の人”と呼ばれる演者が居る事は皆分かっている。その上で成り立っている。
だが新時代を感じさせたその存在達は忽ち、僅か数年で陰気な日本人達にとって都合の良いビジネス道具へ成り下がって行った。顔を、素性を隠して活動出来る彼らは――。
× × ×
二〇二〇年一月十二日。VTuber事務所『V WIND(ブイ ウィンド)』所属のアイドル三人による初の単独ライブが行われた。六聞(ロクブン)ミズホ、一ノ瀬マリー、三葉ピース。二〇一九年初頭から活動開始してきた彼女らの一周年の集大成を披露する記念すべき大舞台だ。彼女らは純白のドレスを模した美しい3Dアバターを纏いステージ上をひらひらと舞っている。まさにアイドルの姿であった。
「皆さん! 今日は私達のライブに来て下さり、ほんっとうにありがとうございます! まだまだ行きますよー!!」
ミズホが満面の笑みで両手を大きくオーディエンスへ向け振るう。
「お前ら盛り上がってるかー!!」
ピースが叫び、更に会場の熱量を上げさせる。
「声小さいぞー! 盛り上がってんのかー!?」
普段は大人しいマリーも声を張り上げ更に会場を煽る。会場一杯に広がるペンライトが振り上げられ、客席から怒涛の如き歓声がステージへ向け押し寄せる。最新のAR技術で映し出される彼女らは、本当にステージの上に立っている様に見えた。
「っしゃー! ラストスパート行くぞ! 次の曲――!」
そしてそのライブを現地の会場からではなく、ネット上で配信されている映像を家で一人観ている男が居た。
「あぁ……カッコいい……」
男はPCのモニターに釘付けになりながら涙を流して居た。大垣勇気(オオガキ ユウキ)。三十歳。バイト暮らしの男。甲州街道の近く、世田谷区との境に近い杉並区の安アパートは、八畳板張りの狭い部屋でベッドを兼ねた二人座りのソファと品のない安物のちゃぶ台。それに小さな本棚をテレビ台の如く使い、その上に二十四インチのPCモニターが、その横の床にPC本体が直に置かれている。あとはビジネスホテルにでも備え付けてありそうな小さな正方形の冷蔵庫と小さな電子レンジ。壁にはV WIND関連のタオルやポスター、雑誌の切り抜き等が乱雑に貼られている。
男はちゃぶ台の上に置いてあった安発泡酒の三百五十ミリリットル缶を手に取りゴクリと一口啜る。心地悪い感覚が喉を通り、口内に気持ち悪い苦味を残していく。そしてふらと脳味噌が浮かれる様な陽気な気分へ落ちていくのを感じた。ライブは終盤へ差し掛かっており、三人で歌うオリジナルソングを元気一杯にステージ上で披露していた。彼女達を追ってきて、応援して来て本当に良かった。男は心の底からそう思って居た。こうやって彼女ら自身の歌をステージ上で歌い、輝いている。普段のYouTube上で配信している時とはまた違う彼女らの姿。これを観られただけで今までの応援や、スーパーチャット(YouTube上で行う事の出来る投げ銭)等して来た事全てにお釣りが来る程の感謝を覚えて居た。ただ現地の会場に行けなかった事だけを悔やんだ。こんなクソみたいなその日暮らしのバイト生活で捻出できる余裕が無い。ネット鑑賞チケットはライブ会場のチケットのほぼ半額だ。こちらを選ばざるを得なかった。こんな生活をしている自分が悪い。そんな事は分かってはいるが、今の社会が悪い、教育が悪い、企業が悪い、と周りに責任を押し付けたくて仕方がなかった。
そして最後のアンコール曲も終わり、舞台は幕を下ろそうとしていた。
「今日は本当に、」
「「「ありがとうございました!」」」
「またライブ会場で会おうね!」
「気をつけて帰れよ!!」
と彼女らが最後の涙の挨拶をし、退場しようとしたその時、突然照明が落ち会場中が真っ暗になる。現地会場やネット配信の視聴者も戸惑っている。そして舞台上の彼女らも混乱していた。そしてステージ上のバックスクリーンに『重大告知』の巨大な四文字が表示される。
『V WIND、活動開始から一年――』
聞き覚えのある声。なんとかという有名な声優の男の声がバックスクリーンに続いて映し出された文章を読み上げ始める。大垣もまた全ての身体の動きを止め、目を見開きただただモニターを凝視していた。
『V WINDは、新たな“風”を受け、更に前進する――!』
会場内では歓声が上がり出し、配信上でも『うおおおおおお』『きたあああああ!!!』等とコメントが爆速で流れていく。
『V WIND“二期生”、活動開始ッ!』
それと同時に、バックスクリーンにはその新たにV WINDに加入するであろう三人のキャラクターの影絵が映し出され、下に『ライブ終了後情報解禁!』と字幕が表示されていた。
「え、えっ?」
ミズホちゃんの戸惑いの声をマイクは拾っていた。
現地の会場や、ネット配信ページのコメント欄は大いに賑わい狂乱した。だが大垣はどこか違和感を覚えた。今日の初単独ライブの余韻を壊された様な気持ち。そして何よりステージ上でただただ困惑している彼女らを見て疑問を抱かずには居られなかったのだ。ステージ上で膝から崩れ、バックスクリーンを呆然と見上げているミズホちゃんの姿が鮮明に脳裏へ刻み込まれた。
ライブ配信が終了してから三十分程経っていた。大垣はトイレと浴槽が一体となっている狭い浴室で湯船に浸かりTwitterを眺めて居た。新たにV WINDに加わった三人がデビュー配信に先立ちTwitterアカウントの運用を開始して居た。
『七海(ななみ)ハルです。どん兵衛より赤いきつね派です。対戦よろしくお願いします。』
新たに二期生として加わった三人の内の一人、七海ハルのツイートだった。あからさまにオタクっぽい文脈のツイートを一言目に載せ、ウケを狙っている様で気持ちが悪かった。だが残りの二人と合わせ、とりあえずフォローしてしまっていた。
大垣のTwitterアカウントのフォロワーは一,〇五八人だった。そこそこフォロワーが居る方だと思って居た。主にVTuberのオタク連中をお互いにフォローしあっている様な数ではあったが。大垣はツイートボタンをタップし、iPhoneから文章を打ち込み始めた。
『V WINDワンマン、マジで良かった(語彙力) 現地組うらやましすぎ #VWIND1stLive』
ハッシュタグを付けたそのツイートに繋げてもう一つのツイートを付け足す。
『二期生の発表も驚いたし、嬉しいけど、正直ワンマンの余韻を壊された様な気もした…』
そして、ツイートボタンをタップする。それが俺の正直な気持ちだった。浴室に持ち込み新たに開けた缶酎ハイの缶を煽る。ドロっとした不快な甘さとレモンの下品な味が口に広がる。それからもボーっとTwitterのタイムラインを眺めて居た。先ほどのツイートは仲間内に少しリツイートといいねを押されていた。そこへ新たに通知が来る。
『現地マジ最高でした! GinGinさんも来られれば良かったのに〜〜』
『ロックラ@VWIND1st現地組』と書かれたアカウントからリプライが来ていた。文末に大袈裟に涙を流す絵文字付きで。Twitter上でよく会話をしているオタク仲間の一人だ。GinGinとは大垣がTwitter、ひいてはYouTube上で使っているユーザー名だ。
『現地マウントやめてください!!!』とふざけた文面を送り返す。するとすぐに返信が来た。
『次は一緒に参戦したいですねぇ〜! 二期生の発表の件、僕も少し気持ちわかりますが応援してあげましょ!』
このオタクはいつも前向きでポジティブだ。そういえば二ヶ月程前、数人のV WINDオタク達とオフ会を行った。その時に彼も居た。アキバで行われたVTuber事務所や個人配信者の枠を超えた合同の物販イベントがあり、それを一緒に見て回りおまけにアキバの他のオタクショップやゲームセンターも回り、一緒に食事して解散というよくあるオフ会の流れだった。
彼は俺よりも三、四歳は年下に感じた。勿論お互いに本名も年齢も職業も知らない。だがオタクっぽい独特の子供っぽさというか、自己中心的な性格を感じなかった。彼自身、こういった“オタクジャンル”にハマったのがV WIND、VTuberが初めてとは云っていたが。周りの話をよく聞き、気持ちよく相槌を返してくれる男だった。だがその“善良な一般人ぽさ”が逆に俺の不信感を買った。俺が捻くれ過ぎているのか。いずれにしろ、彼には“普通に良いヤツ”という印象しか残っていなかった。
現地に来れれば良かったのに、と彼は云っているが俺は現地に行く為のチケットを申し込んですらいないのだ。Twitter上で俺は「チケットの抽選外れた〜」等と小さな嘘を並べ立てていた。惨めだ。結局そんな事を思い返していると彼のリプライに返す言葉が見つからず、この会話は終わり、という意思表示のいいねボタンを押して再び酎ハイを飲んだ。
『現地に来て下さった方、配信で見て下さった方、本当にみなさんありがとうございました! 最高のライブでした! 楽屋で余韻にひたってます〜』
と、ミズホちゃんのツイートが流れて来た。
『本当にお疲れ様でした! こちらこそありがとうございました! ゆっくり休んでください〜!』
と素直な気持ちをそのツイートに対してリプライを送る。
二十三時頃になっても大垣はiPhoneからTwitterを延々と眺めてしまっていた。ソファに横になりPCで一ノ瀬マリーちゃんの過去の雑談配信のアーカイブを流しながら。昨日の深夜、ライブ前で緊張して眠れないからと急に配信枠を取ってやっていたのだが、俺はまだ見れていなかったので今更ながら見始めた。
「それでさ〜差し入れに優さんがピーチティーを持って来てくれたんだけど……あ、優さんっていうのはウチらのマネージャーさんね。あ、そう! 優ちゃんと言えばさ〜!」
彼女のゆったりとした喋りとコロコロと話題が変わって視聴者を置き去りにしていくトークは毎度の事だ。その飛び跳ねる様な彼女の喋りに少し口元を緩ませながらTwitterをまだ見る。
『一期生の子達はマジで二期生の事知らされてなかったぽいリアクションだったよね』
『V WIND、ホンマそういうとこやぞ』
『WIND運営が適当なのかサプライズなのかよく分からん事するのは毎度のことでしょ(適当)』
と、俺と同じ様に今日の二期生発表に対して怪訝に思っている人間はTwitter上にも一定数居る様だった。そこへ『十五日十九時より、二期生デビュー配信リレーを行います! スケジュールは下記をチェック!』とV WIND公式アカウントからまたしても唐突に発表が行われていた。一緒に貼られているURLは公式サイト上で毎日更新されている各所属VTuberと配信ページのURLがまとめられたスケジュールページのものだろう。
『まーた急にぶっ込んでくる〜』
『デビューはやっ!』
『情報解禁からデビューまでが早過ぎんだろ…』
『たのしみ〜〜!』
等とそのツイートに対して続々とリプライが続いていく。俺もリプライ欄を開き、『楽しみにしてます!』とまで入力したが、結局文章を削除し、何も送らなかった。送れなかった。
一緒に貼られていたURLをタップし、見慣れたウェブページの応答を待つ。明日、明後日のスケジュールをスルーしスクロールしていく。十五日、『十九時 涼咲(リョウザキ)カイ』『二十時 七海ハル』『二十一時 荒巻ユイ』と新人三人のアイコン画像と共に配信枠のサムネイル、URLリンクが貼り付けられていた。
「いや〜ほんと明日楽しみ。マジで期待しててね!」とPCのスピーカーからマリーの自信と興奮に満ちた声が響く。俺はPCから公式サイトを開き直し、なんとなく涼咲カイの配信ページを開いた。既に待機ユーザー数は五百人以上と表示されておりコメント欄も賑わっていた。もちろんここに居る人間達が十五日まで待っている訳は無く、先ほどの告知を見て俺と同じ様に飛んできただけだろうが。
『WINDのイケメン枠来るか?』『全裸待機』『キャーカイさーん!』等とコメントが流れていく。どこかそのノリに付いていけない自分が居た。
涼咲カイは三人が並んだイラストでは少し二人より背が高く見え、少しボサっとしたショートヘアに濃いアイライン、派手なピアス。黒のライダースジャケットに黒いラフなパンツと見た目からして男っぽい、カッコいい系キャラだというのを全面に押し出したキャラクターデザインだった。確かに一期生には無いキャラだと思う。女性人気でも取りに行こうとしているのだろうか? 勝手な推察をしながらとりあえずその配信ページのチャンネル名の隣に置いてある『チャンネル登録』ボタンを押した。同じくハルとユイについてもチャンネル登録を終わらせた。二期生の登場にどうしてここまで素直に喜べないのだろうか。冷めているのだろうか。スピーカーから流れる一ノ瀬マリーの笑い声に耳を傾けながら眠りに落ちて行った。
翌日。昨日の余韻も残る中月曜日はやって来てしまったので、大垣はいつも通りバイト先へ足を向かわせていた。住んでいるアパートから住宅街を抜け京王線を目指し歩く。だがしかし、家を出て数分と経たない内に急に腹が悲鳴を上げ出した。
「クソ、飲んだ翌日はいつもこれだ……それも家を出てから……」
冷たい空気に晒されながら男は足早に腹を抑えながら歩く。いつもそうだ。飲んだ翌日には必ずと言って良い程腹を下す。昨日は調子に乗ってビール、発泡酒、酎ハイと合わせて気付けば五缶も開けてしまっていた。しかし不思議なもので、腹痛はいつも家を出てから襲い来やがる。本当に不便な身体を持たされたものだ。iPhoneを取り出し時間を見ればまだ七時五十分。時間に余裕はある。脳内の地図を参照し、この辺りのコンビニでトイレが解放されている店をリストアップする。この先のファミリーマートには確かトイレがあったはずだ。どうかあってくれ、そして誰も入っていないでくれ。そう祈る様にコンビニを目指す。
五分程ヨタヨタと歩き、漸くそのファミリーマートに辿り着いた。自動ドアを抜けレジに居た女性店員を無視し一目散にトイレへ駆け込む。あった! 空いてる! ああ、神よありがとう! 無信者の癖に誰かに感謝をしながらすぐに男は腰を下ろした。
なんとか平穏を取り戻しトイレを後にする。おまけに今日の昼食に食う菓子パンを二つ、それとペットボトルの五百ミリのミネラルウォーターを取りレジへ運んだ。
「いや、別に、いいけど……」
そこには来た時には居なかったもう一人別の女の店員がおり、困った様に言葉を返していた。
「ほんとですか! ヤッター! じゃじゃ、終わったら直で行きましょうね!」
来た時に居た方の背の小さい店員が嬉しそうに何か約束をこじ付けていた様だ。仕事中に、それも朝から遊びにでも行く約束で浮かれやがってオンナ共が、そう思いながらそのはしゃいでいた女に背後から俺は声を掛ける。
「あ、あの……」
が俺の喉から出る声は意志に反してか細く高く、このバイト共に届いてなさげだった。
「あ、いらっしゃいませ!」と俺に気づいた小さい方の女が漸く接客してきた。後ろの煙草の棚を見る。
「二十八番も一つお願いします」
「かしこまりました〜」
小さなビニール袋にウェットティッシュと一緒に詰めてもらい、俺は少し苛立ちながら店を後にした。
俺は二十五になるまでは普通に大学を出て、普通のどこにでもありそうな下請け会社のシステムエンジニアとして働いていた。だが低賃金にサービス残業当たり前の日常、それに俺に何かと嫌味をぶつけて来る上司に嫌気が差し辞めた。そして次の職までの繋ぎとして始めた日雇いバイトをやっている内にうだうだと今に至ってしまっている訳だ。システムエンジニアとしてやっていた仕事も大した事では無くて、新たにエンジニア系の職に就ける程のスキルがあるかと言われれば微妙な所で、徐々に職を探す気は失われていった。
当初はこの日雇い派遣の仕事も、今まで経験した事のない仕事を色々出来て楽しいなと少し思ってしまっていた自分が居た。だがどの職場も単純作業ですぐに順応出来るし、どの職場も上の人間が腐っていて無駄な作業、無駄な時間を浪費しないといけないシステムなのだと分かってしまっていた。
今入っている職場も、工場内で簡単な機械の組み立てを延々とするだけの仕事であり、やりがいや楽しさなんて皆無なものだ。だが黙々と同じ作業を繰り返すだけの仕事は他人と関わる時間も少なく、楽で性に合っている様だった。それに俺は普通にやっているつもりなのだが周囲よりもスピードが早いらしく、俺たちバイトを束ねている正社員のどこかのアジア圏の国出身らしい男に気に入られ、俺はほぼ固定で週五で指名して貰い半年程この職場の世話になっていた。今までだって宅配業者の助手で雨の日も灼熱の日も街中を重い台車を押して走り回ったり、凍える巨大な冷凍倉庫の中で肉や魚の仕分けをやったり、今思い出そうとしても正確に思い出せない程の職場を経験してきた。そう思えば今の職場は本当に楽で美味しいと思ってしまっている自分も居た。
俺は工場付近の駅で降り色々な企業の倉庫が並ぶ地帯へ歩いていく。俺と同じ様な日雇いの様な老若男女が同じ駅で大量に降り、それぞれの職場へ死んだ目で歩いていく。これが俺の日常風景だった。イヤホンで耳を塞ぎ、スマホを眺めて視界を閉じている。異常だ。この光景を見て毎日思う。かく言う俺もまたポケットの中でYouTubeを開き、VTuberの配信を聞きながら退屈な出勤時間を潰しているのだが。この他の奴らも『自分は違う。皆な異常だ』とでも思っているのだろうか。そんな今まで五千回は思ったであろうどうでもいい思考を道端に痰と共に吐き捨てた。
朝からPCモニターの足を延々と組み立てていく作業を終え、昼休みの時間となった。俺は工場の一角に設けられた休憩スペース(とは言うものの、更衣室の横の廊下の広場にただ長机が並べられてあるだけの場所)のいつもの窓側の席を陣取った。イヤホンを取り出しiPhoneへ繋ぎ、適当に音楽を流す。今朝買ったチーズが乗ったデニッシュパンの袋を開け一口齧る。何度食っても、どこで買っても同じ味だ。口の中の水分を一瞬で奪われ、たまらずミネラルウォーターのキャップを開け一口飲む。
「大垣さん、何聴いてるんですか?」
と、ニコニコしながら一人のおじさんが声を掛けてくる。俺は人当たりの良い様にイヤホンを外してから何と言ったのか聞き返した。
「え、あぁ。今流れてるのはレディー・ガガですね。スマホに入ってる音楽を適当に流してるので、特にこれって決めて聴いてる訳じゃ……」
「へぇ〜! いいですよね、レディー・ガガ。俺も聴いてたなぁ〜!」
彼は中村さん。俺と同じ派遣会社らしく、先月あたりからこの職場によく来ていた。もう六十過ぎの白髪だらけのおじさんだ。人当たりが良く、普通に仕事の出来る人。だが俺もこんな歳になるまで働かないといけないのか、バイトで死ぬまで働くのか。と現実を突きつけてくる存在でもある。
「中村さん若いっすねぇ〜」
「いやいや〜有名だから聴いてただけよ」
「へぇ〜……」
そしてそこで会話は終わる。俺の飯の時間を遮ってまで訊きたかった内容だったのか、と少し心の内で愚痴る。俺が会話を広げる意志は無いと理解したのか、彼もコンビニで買ってきたであろうおむすびの包装紙を破り齧り付いていた。俺も再びイヤホンで耳栓をした。
俺はそそくさとパンを胃に詰め込み階段を登った。この会社の喫煙所は屋上にあり、周辺の風景を見渡しながら吸えるのが唯一の癒しだった。意外にも強く吹く冷たい風に煽られながら俺はポケットから取り出したセブンスターに火を点ける。イヤホンからは昨日寝落ちしてしまった所為で最後まで聴けていなかったマリーさんの配信アーカイブが流れていた。手すりに肘を置きながらぼけっと煙草を吹かす。他にも数人見知らぬ他の部署らしき人間達が煙草を吹かせ会話していた。そして俺の左端の視界に中村さんが入ってきて、こちらに軽く会釈をして彼もまた煙草を吸い始めた。話しかけてくる気は無いらしい。その意思表示が汲み取れるだけで俺は気を楽にして口内の甘い香りとイヤホンから流れてくる声に集中出来た。
十九時前。いつも通り家に帰ってきた。どんな作業進捗であれ、十八時きっかりに仕事を上がれるというのは気分が良い。バイトは本当に楽だ。勿論時給以上かそれなりには働いているつもりでは居るが。今日はこれといって食いたい物も思い浮かばなかったので寄り道せず帰宅しシャワーを浴びた。冷え性の手足先に四十二度に設定されたお湯が沁みる。はぁ〜と大きく息と声を同時に吐き出す。今日、出退勤の時の挨拶と、昼休みの時の中村さんとの会話とも言えない会話。それしか喋ってないな。ふとそんな事を思う。あ、今朝のコンビニで……。いや、あれは会話の内には含まれないな。コンビニバイトか……。絶対やりたくないな。あんな低時給でやらないといけない事多い仕事、絶対嫌だ。コンビニといえば煙草。条例だか法律だかが変わって店内の喫煙も出来なくなって、コンビニやらに置かれている灰皿も撤去されるらしい。更に値上げの噂もあるし、本当に良い様に迫害され搾取されている哀れな喫煙者達よ。そんな連想ゲームの様な脳内会話を止める。
今朝の二人の若い女の店員の姿を思い出す。顔は思い出せれない。彼女らの顔を直視した記憶も無い。でもああいうバイトなら俺にも彼女……は出来ないにしろ、女友達くらいなら出来るのか? と下心見え見えの思考が生まれる。今の派遣の仕事でそういう若い女と一緒に働く機会なんて一度も無かった。女と繋がるきっかけすら無い。またも俺は周囲へ言い訳をしていた。俺は今朝寄ったコンビニへ再び行こうと突然思った。そう思い立ち、俺は浴室を出て適当に髪を乾かし外出する準備をした。
家から歩いて十分程の場所にあるファミリーマート。環状線の大通りから一つ外れた旧道にあり、普通車が五台停められるスペースがある都心付近では珍しい少し広めのコンビニだった。今朝の店員は居ないだろうとは分かりつつ店内に入る。「いらっしゃいませ〜」とレジ奥から若い男の声が聞こえた。俺は入ってすぐ左折し、今朝俺を救ってくれたトイレを通路の突き当たりに見つつ、雑誌コーナーを物色する。特に買いたい本がある訳でも無いが、なんとなくキャンプ特集を組んでいる雑誌を手に取りパラパラとページを捲る。俺も金があったら、こんなん趣味にしてーな。彼女でも居れば尚更楽しいんだろうな、と思った。……俺はなんで急にこんな女の事を考え出したんだ? 三十を過ぎた所為か? 何か焦っているのか? 自分自身に湧き上がる謎の欲求に自身が一番意味がわからなかった。俺みたいな陰キャオタク。どうせ死ぬまで孤独独身なんだ。そう分かっていた筈なのに、どうして急にその様な発想が生まれてくるのだ。俺はパタと雑誌と思考を閉じ離れようとした。一瞬、成人向けコーナーに目を移してしまう。男の下心を煽り欲情させる様に並び立てられた下品な写真や言葉達に乗せられ掻き立てられてしまっている自分が居た。今朝の彼女たちもこれを陳列しているのだろうか。いや、何て気持ちの悪い事を考えているんだ! 最低だ! 自分の思考に薄気味悪さを覚える。俺は適当にカップのうどんとポテトチップス、それに三五十ミリのいつも買っているハイネケンの缶を手に取りレジへ運んだ。レジには背の低い俺と同い年くらいの男が立っていた。名札には『あきた』と書かれていた。お互い、クソみたいなバイトで頑張ってるよな。そう胸の中で告白した。
店から出て家を目指そうとしていた時、目の前を一人の女が自転車を漕いで通り過ぎて行った。はっきりとはしないが、今朝見た店員の一人だった様な気がした。ふと周りを見れば袴や着物に身を包んだ若い男女がウロウロしている。そうか今日は成人の日だったのか。もう十年前の事か……と再び胸の中に黒い靄が掛かった様な気分になった。
再び家に帰り早速電気ポットで湯を沸騰させている間、俺は我慢出来ずにハイネケンのタブを開け一口飲んだ。PCを起動させ、TwitterとYouTubeを開く。どうやらこの後二十時から昨日のライブ感想会、と称して三葉ピースちゃんが振り返りの雑談配信をする様だった。昨日の今日でもう配信を再開するとは、VTuberも大変な仕事だなと漠然と思った。配信開始まで四十分程あるな……。俺はTwitterを開いていたGoogleChromeのタブへ移ると、誰かがリツイートしたであろうイラストがタイムライン上を流れてきていた。V WINDとは別事務所のVTuberを描いたファンアートだった。『R-18差分はpixivにて!』と一文の後に添えられたURLを俺はクリックしてしまっていた。表示されたページには先ほど見たイラストが表示され、そして二枚目には衣服を纏っていないバージョンのイラストが表示された。曝け出された豊満な胸とこちらを誘惑する様な蕩けた表情を見て、俺は気が付けばパンツと下着も下ろしていた。俺はそのイラストレーターが過去に描いたイラスト達を漁り、PCのモニターに食い入る様に見ながら自分の陰茎を扱いていた。左手で扱きながら右手でマウスとキーボードを触り過去のイラストを漁って行く。怒った様に必死にその投稿者の過去のイラストを凝視しながら息を荒くし左手を振る。そして絶頂が近づいてきた時、また次のイラストのページへ移動した。そこにはV WIND一期生と呼ばれる様になってしまった彼女ら三人が全裸となり尻をこちらへ向け下品な姿でこちらを誘惑しているイラストだった。
「あっ……」
俺はその瞬間急いで浴室へ駆け込み、白濁液を便器の中へ吐き出す。
「ハァッ……はぁ……」
今まで見てきたVTuberの中で一番応援し、そして性的な目でなど一度たりとも見たことがない彼女らの下品な絵を見て俺は果ててしまったのだ。それまで別のイラストで欲情していたとはいえ、俺は途端に自分が惨めで最低な人間だという事を再認識した。
「クソが……」
ポツリと溢し、トイレットペーパーを雑に取り上げ愚息に着いた泥水を拭き取り流す。PCの前に戻り、俺はそそくさとpixivを開いていたタブを閉じる。そして閲覧履歴も削除する。そしてそのイラストレーターのTwitterアカウントをミュートにした。最低な気分だ。電気ポットのお湯はとっくの昔に沸騰し終えぬるい液体へ変わっていた。
翌朝。結局昨日のピースちゃんの配信は素直に見る事が出来ず、別のVTuberのゲーム実況配信を適当に流しながら寝てしまった。朝から最低の気分だ。まるで初めて自慰をしてしまった中学生の様に陰気な罪悪感が俺の心を覆っていた。
Twitterを見れば、V WIND二期生の三人のフォロワーは既に一万人を超えていた。恐ろしい人気だ。たった二日でもう俺の十倍以上のフォロワーか、等と思ってしまう。タイムラインにはもう二期生の彼女らのファンアートが流れていた。まだデビューもしていないのにこの人気。本当に凄いな。格好良いと思った数枚のイラストへいいねを押してiPhoneをパンツのポケットへ仕舞った。
俺は何故かまた昨日寄ったファミリマートへと足を運んでいた。元来俺はセブンイレブン派だし、このファミリーマートも駅に向かうには少し遠回りになるし、なのに俺はまた来てしまっていた。
「いらっしゃいませ〜」
とレジに立っている女が気怠そうに言うのが聞こえた。レジ前の商品を物色しながら一瞬その女を見る。確か昨日もう一人の女に言い寄られて困っていた方の女だと思った。今日もまた菓子パンと水を手に取りレジへ持って行く。
「三七十円になります〜」
彼女のやる気のなさげな声が耳を通る。だが悪い気がしない、どこか心地よい響きにすら感じた。声が特段良いという訳でも無いのに不思議な感覚だった。俺は五百円玉をトレーに置き、彼女を一瞬見た。名札には『ながみ』と書かれていた。ナガミ、さんはレジを操作し小銭を数えている。その下を向いた表情が妙に色っぽく見えた。
「百三十円のお返しです。ありがとうございました〜」
お釣りと一緒にレシートを受け取り、俺は軽く会釈して店を後にした。……俺は何ドキドキしているんだ。女に飢えすぎじゃないか? あんな歳下の女と付き合えるかなんて可能性を探るんじゃないお前。俺より五、六歳は下に見える。遊び盛りの歳だ。どうせ彼氏なりセフレなりが一人や二人は居るんだ、諦めろ。……だが、毎朝の少しの楽しみにしたって良いじゃ無いか。なぁ?
そんな小さな朝の楽しみを見つけた事以外いつもと変わらないバイトの一日を過ごし帰宅した。いつも通りPCを起動しTwitterを開く。ちゃぶ台に置かれたマウスを操作し仕事中見れていなかったツイートを遡って行く。『マリーさんご乱心!? 打ち上げでも相変わらず酒豪な一ノ瀬マリーと見守る三葉ピース』というデカデカとした文字で書かれた動画サムネイルが流れる。早速昨日のピースちゃんの配信の切り抜き動画が上がっていた。切り抜きというのは主に視聴者が面白いと思った配信内の箇所や注目を集めそうな場面を、文字通り切り抜いて短い動画にして転載している行為だ。勿論ファンによる好意的な動画もあれば、炎上を誘発させようとさせる様な悪質な動画もある。この動画はどうやら昨日の配信内で話したらしいライブ後の打ち上げでの他メンバーとの和気藹々としたやりとりを切り抜いているらしい。まずは昨日見れなかったピースちゃんの配信アーカイブを見よう。そう思いながら更にタイムラインを遡る。二十一時からはミズホちゃんの配信が予定されていた。ライブの振り返りと、過去の配信内で送られたスーパーチャットへのお礼配信を兼ねた雑談枠だった。スーパーチャットを送ってくれたユーザーの名前を呼んだりしてくれるこの手の配信は今や当たり前となっていた。当初俺は視聴者に媚びている様な、そして更なる投げ銭を煽る様な配信だと思って不快に感じていた。だが推している人に自分の名前やメッセージを読んでもらえる快楽には抗えなかった。俺のクソみたいなバイトで稼いだ小銭をちまちまと彼女らに投げる。それ位しか彼女らにしてあげられる事も無いのだ。
YouTubeでピースちゃんの配信のアーカイブを再生しながらまたタイムラインに目を落とす。
『一日考えてみたけど、やっぱV WINDの運営ちょっと信じれんわ あのタイミングで二期生発表は完全に一期生の顔に泥塗ってる』
という旨のツイートが流れてきた。俺もフォローしているVTuberオタクの一人だった。Twitter上で絡んだ事もないそこらに居るオタクの内の一人、というのが正直な印象だった。俺もライブをリアルタイムで観ていた時は同じ様な事を思いそして同じ様にツイートしてしまっていたが、こうやって他人の意見を見るとえらく幼稚な発言に見えて過去の自分のツイートも急に恥ずかしく思えてきた。案の定、『じゃあ勝手に推すのやめなよ』『チラシの裏にでも書いてろ』等と否定的なリプライが続く。あっという間にリツイートされ拡散されて行き、軽い炎上騒ぎへと発展していた。オタクが“お気持ち”をツイートして、信者に近いファンや煽りたいだけの人間が群がり叩き潰す。Twitter上ではよく見る光景だ。なんとも惨めで俺は一つため息をついた。
『まさかここまで一瞬で叩かれるとは思ってなかった』『でも同じような事思った人も居るでしょ?』
彼(恐らく彼だろう)はアカウントを非公開モードにし、お互いにフォローしている人間にのみツイートが見える状態へ避難していた。彼に同調すべきなのだろうか。憐れみからか同意からなのか、彼のツイートにちらちらといいねが押されていく。俺はただその光景を眺めていた。すると一件の通知が来た。その今見ていた彼から俺のツイートにいいねが押された通知だった。それは俺が先日投稿したツイート。
『二期生の発表も驚いたし、嬉しいけど、正直ワンマンの余韻を壊された様な気もした…』
という文章に対してだった。仲間を求めているのか、同じ声を上げる様に求められているのか。俺はどうしていいか分からず静かに彼のフォローを外した。
そんな事をしながらダラダラと飯を食いながらモニターを眺めていればもう二十一時となり、六聞ミズホちゃんの配信がスタートしようとしていた。
「みなさーん! こんばんは〜! 聞こえてますか〜?」
いつもの明るい彼女の声が流れてきた。結局ピースちゃんのアーカイブの内容は殆ど脳に入って来なかった。また切り抜きでも見よう。
「ライブ本当にありがとうございました! ほんっっとうに楽しかったです!」
彼女のハキハキとした喋り、それに立ち振る舞い。まさにアイドルと呼ぶに相応しい存在感、キャラクターを確実な物としていた。彼女の事が勿論好きだった。どう言い表せば良いか……まるで親戚にいる子供の様に、年に二、三度会ってたわいのない話をして無償の愛を注いであげたくなる様な、そういう純粋な好意を彼女に抱いていた。V WIND一期生の子達に対しては三人共に言える事だが。だからこそ初の大舞台でのライブは本当に成功してほしいと心の底から願ったし、実際にその光景を観る事が出来て感動したのだ。ネットからの視聴ではあったが。
「ネット配信は来週一杯までアーカイブ残ってますからね! 何回でも見てくださいね〜!」
身体を左右に揺らしながら健気に彼女が云う。俺もまた観よう。そう思った。最後の二期生発表のシーンは見ないだろうが。
「では、1stワンマンライブのスクリーンショットと一緒に振り返っていきたいと思います〜〜!」彼女の笑顔が眩しかった。
画面が切り替わり、ライブ冒頭の三人の登場シーンの画像から始まった。
「この技術すごくない? 私達完全に舞台の上に飛び出してきてるよね!」
舞台のポップアップ装置から三人がジャンプし腕を高く上げ輝く笑顔を振りまいている。そして次の画像へ移る。
「これ、気づきました? マリーちゃん着地失敗してたんですけど、そのまま何事も無かったかの様に次のフォーメーション行ってるんですよ? 凄くないですか!?」
彼女の明るい笑い声が響く。
「でもね〜、アンコール前に一回舞台裏にはけたじゃん? そこでさ『初っ端でミスってゴメン!』って私とピースちゃんに謝ってきたんだよ? そんな事気にしても無いのに。それにすぐ立て直しただけでもすごいって思ったのに、めっちゃ私達に気を遣う……というかその、私達のパフォーマンスを崩してしまった事を気にしてて、ほんとマリーちゃんのプロ意識すごいなって思った、尊敬した! えらい!」
ミズホちゃんのマリーちゃんへの素直な尊敬の念の言葉。その言葉をさらっと言えるあなたも十分すごいよ、と胸の内で言った。
「『いつも酒飲んでるお姉さんとは思えない』? いや、マリーちゃんめっちゃダンス練習してめっちゃ上手くなったし、ほんとすごいんだよ? でもまぁ、あんなに飲んで大丈夫なのかなって思ったりはするけどね」
彼女がケラケラと笑い、次の画像へ切り替えた。
「フォックスさん、センキュー! え〜、クランプさん、センキュ!」
配信の冒頭一時間程ライブの感想を視聴者のコメントを拾い交えて語り、そしていつものスーパーチャットへのお礼コーナーに移行した。
「えっと、GinGinさん、センキュー!」
俺の名前を呼んで貰えた。思わず口角が上がりニヤける。かなり前にスパチャした際には読み方が分からず“ギンギンさん”と呼ばれたのをいつも思い出してしまう。GinGinと書いてジンジンと読みます、と再度コメントして認知して貰えた時には天にも昇る思いだった。
「えーそれでは、今日はこの辺で終わろうと思います〜! お付き合いありがとうございました! 明日はね、待ちに待った“二期生”のデビュー配信リレーがあるからね! みんな一緒に見ようね!」
彼女は配信の締めに掛かっていた。俺も気分良く『お疲れ様でした〜!』とYouTubeのコメントを打ち込み送信した。それと同時に配信は終了しエンドカードへ画面は切り替わっていった。
俺もそれを見届けてから立ち上がり、食い終わったまま放置していたカップ麺の残り汁を便器に流し、容器をゴミ袋へ投げ入れた。そして給湯器の操作盤の運転開始ボタンを押した。
気付けばあっという間にV WIND二期生のデビュー日である水曜日を迎えた。俺は足早に職場から帰宅し、コンビニで買った唐揚げ弁当を流し込みPCの前に陣取った。何だかんだと言いつつも彼女らのデビュー配信が気にならない訳がなかったのだ。
『なんだか緊張してきたな…皆んなお手柔らかに頼むよ 配信はココから』
とリレー配信の一番手を務める涼咲カイが配信ページのURLを改めてツイートしていた。俺は既に彼女の配信ページをChromeの別のタブで開いており、そこには既に六千人を超える視聴者が待機していた。
『カイちゃんがんばえ〜〜! #涼咲カイ』とハッシュタグを付け、七海ハルがオタクっぽいツイートをまたも溢していた。あのイケメンキャラっぽい彼女をちゃん付けで呼んでいるのか、と思い少しニヤける。二期生の子らは裏で既に繋がりがあるのだろうか。デビュー前に色々とやりとりをしてキャラや喋り方等も決めたりしているのだろうか、と裏側の事が少し気になった。もう既に大量に居るVTuberの中で存在感のあるキャラと成る為に、それに企業所属のVTuberともなれば尚更多く考えられて居るのだろうと勝手に結論づけた。
配信が開始されオープニング映像が始まる。激しいロックのインストゥルメンタルに合わせて彼女のイラスト、3Dモデルの絵が少しアニメーションを付けられて次々と表示され、『Waiting Kai....』と表示された落ち着いた画面へ移行していった。新人でもこんなオープニング動画が用意されるのか、流石企業勢だなぁと幼稚な感想が浮かんだ。
「あーあー。チェックチェック。聞こえてるかな?」
そして彼女の第一声が聞こえる。画面も配信用の背景に切り替わる。YouTubeに打ち込まれたコメントを取得し配信画面内に表示されている。彼女の姿はまだ無い。
「おはよう、涼咲カイです。フフッ」
低音の艶やかで格好良い声が照れている。
『キャー!』『カイ様〜〜〜!』『くっそイケボ!!』とコメント欄も沸き立っている。俺も一瞬でその声に惹き込まれた。
「私の姿、見たい?」と意地悪く視聴者を煽ってくる。それに応えて『見たい!!』『焦らすなぁーw』とコメントも流れて行く。
「え〜、じゃあ……」と言葉と共に配信画面の上から彼女の靴が降りて来た。
「このスニーカーカッコいいよねぇ。私も普通に欲しい」とどうでも良い小さな感想を漏らす。
「もっと上が見たいの? しょうがないなぁ〜」
更に少し彼女の身体が画面上から降りてくる。腰あたりまで現れて来て再び止まる。
「見て見て〜、ヘソチラ」と彼女が黒いシャツとパンツの隙間から見える白い肌のお腹をくねくねと動かしながらカラカラと笑う。
「じゃあ今日はここまでね」
『そんなぁ〜〜!』『お顔を拝まさせて下さいカイ様!』『そこをなんとか姉御〜!』と既にこのノリに順応したよく訓練されたオタク達のコメント達が場を盛り上げて行く。俺も気付けば気持ち悪いニヤけ顔を晒してモニターを見ていた。
「も〜欲しがりさんが多いなぁ」
そう言いながらも身体を降臨させ、遂に全身を配信画面内に映す。
「あ、どーも、涼咲です〜」
照れながら云う彼女の身体がじれったく揺れる。その見た目と声と反する照れ屋っぽいキャラクターに視聴者共々俺もやられてしまっていた。これがギャップ萌えか。
「あ、この上の革ジャケねぇ、脱げるんですよ」
とおもむろに言い出し、マウスをクリックする音が聞こえた。すると、彼女が纏っていたジャケットが消え下に着ていた黒いタンクトップが露わになった。
その後はVTuberのデビュー配信ではお決まりとも言える様な流れで進んでいった。型のごとく彼女の自己紹介に始まり、彼女のファンの総称(ファンネーム)を決めたり、Twitter等でファンアートを描いて貰った際に付けてもらうハッシュタグを決め、ゆったりと、だがしかしあっという間に一時間は過ぎていった。
「じゃあみんな、今日はありがとう。これからよろしくね。じゃあ次は二十時から七海ハルちゃんの配信だよ。みんなで見ようね」
画面の中に居る彼女も笑う。
「じゃあ、またね〜」
そう言い残し配信は終了した。時刻は十九時五十五分。俺はTwitterを開きカイのデビュー配信に対する反応を眺めていった。その中に『イケボすぎて草』と七海ハルがツイートしていた文章も流れた。
『姉御マジでイケボで惚れた』
『キャラデザと声が解釈一致すぎてすこ』
『カイ様の歌とギターを早く聴かせてくれ!』
V WINDのファン層にも好意的に受け入れられている様だった。この配信だけで既に彼女は『姉御』という愛称を手に入れていた。彼女は以前バンドを組んでおり、そこでギターとベースをやっていたと語っていた。配信内でも俺の知らない海外のバンドの曲や、最近流行りのボーカロイド楽曲等を当たり前の様に軽くリフを弾いてみせる等、視聴者を更に興奮させ関心を惹いてみせた。活動していたバンド名等の詳細は勿論明かさなかったが、過去にそういった活動をしていたと云う事で中の人を調べ晒す、通称“特定”と呼ばれる行為を助長させる様で少し心配になってしまった。彼女の歌声、更には演奏スタイルの癖等から更に特定し易くなるのではないか。杞憂し過ぎだろうか。
そして反対にあまり好意的に受け入れていないファンも勿論居る。今までのV WINDのアイドル的な方針とは逆な“ロック”な彼女のキャラクターに、一期生が築いて来たイメージを崩すのではないかと思っている様だった。俺としては、今までに無い彼女というキャラクターがどの様な化学反応を起こすのかが楽しみになっていた。気付けば俺は彼女のデビュー配信を見ただけで今まで二期生に対して勝手に抱いていた疑心をかなり削がれていた。
そんな風にタイムラインを眺めている内、次の七海ハルの配信が始まろうとしていた。待機画面のBGMがフェードアウトしていく。
「あーあー、聞こえてますか?」と気の抜けた声がスピーカーから流れる。視聴者数は先ほどの涼咲カイから移動して来た人達も押し寄せ、既に視聴者数は五千人を超えていた。コメントも高速で流れていき、カイのデビュー配信の熱気も一緒に流れ込んで来ている様だった。
「あ、どーも。七海ハルです」
と再びやる気の無い声が響く。キャラクターを作ろうとも考えていなさそうな、素の彼女っぽい声だった。だがその声に何故か惹かれ、懐かしさの様な不思議な感覚を覚えている自分自身に違和感を覚えた。配信画面には最初から彼女の上半身が表示されており、元のキャラデザインからなのか、それともカメラがトラッキングした結果なのか、彼女の瞼は半分程落ちとても眠たげで気怠そうな雰囲気が現れていた。
「はーい、コメント見えてますよ〜。えっとでは早速、私はトークとか嫌いなので簡単に自己紹介していきます」
彼女は淡々と進行していく。
『やる気なくて草』『なんだこの新人!?』『眠いの?w』等とコメントにも流れていく。そんな事気にも止めず彼女は自身の名前や年齢等のプロフィールが書かれた画像を彼女の隣に表示させる。
「はい、名前は七海ハルです。年齢は二十歳。身長は一六〇cm。趣味は、映画観賞と……六聞ミズホ“先輩”です」と溢す。
『先輩が趣味!?』『あら^〜』や『先輩のどこが好きなんですか?』『趣味ズリン』等コメントが沸き立ち流れる。
「先輩の好きな所? そりゃあ全部ですよ」そうあっさりと、だがキッパリと答えた。
「見た目は勿論ですが、あの可愛らしさ優しさ強さ全てを兼ね備えた声。歌声に存分に活かされていて素晴らし過ぎます。彼女の心は、リスナーを気遣ったり、同期の子達への愛も溢れ、まさに天性のアイドルですよ」
『オタク特有の早口で草』『ガチやん……』
彼女がここで急に見せたオタクっぽい言動に呆気に取られていた。
「あ、そうですねぇ。ミズリン先輩のおすすめの動画とか配信をプレゼンする企画とかやりたいですね。あとミズリン先輩のライブ同時視聴とか……。あ、ミズリン先輩って呼んじゃった! 怒られるかな……」
何なんだこの七海ハルという生き物は! 他の視聴者もきっとそう思っているに違いない。ダウナーな喋りとキャラ。それに反して垣間見えるオタクっぽい可愛らしさ。この落ち着き様とオタクっぽさを出す演技は以前にも人前に立ったり配信をしていたからなのだろうか? いやそうに違いない。このギャップのあるオタク、というキャラクターを作り演じているのだ。……いや? 本当にそうか? 彼女は本当に素のまま配信している。そう思わせる何かがあった。他の視聴者もそう捉えているのか? たかだかネット上で、しかもアバターを纏って今しがた活動を始めた人間に対して何を熟考しているのだろうか。少なくとも彼女に対して俺はただならぬ関心を抱いていた。
「あ、勿論マリー先輩もピース先輩も大好きですよ」
『取ってつけた様なフォローで草』『あ、ってw』『雑なフォローたすかる』
「『取ってつけた様なフォローで草』? この前の1stライブを観てどれだけ私が感動したか……アンタ達には分からないでしょうねぇ」
初配信からもう視聴者をアンタ達呼ばわりし、既に彼女は視聴者との距離感を掴んでいる様に感じた。
「あ、全身見たいですか? そういえば……」
突然思い出したかの様に画面に映る彼女の姿を縮小していき全身が露わになる。彼女の緊張が解けてそう切り出したのか、と勝手に思い嬉しくなる。ダボダボのパーカーにタイトなショートスカート、それにロンドンブーツとストリート系のファッションに身を包んだ小柄でショートヘアの彼女。見た目だけで言えばカイの様なパンクロックでも好きそうな活発な女の子の印象を受けるが、今となればそのダウナーな性格と合わさり彼女らしい衣装に見える。病み系ファッション、とでも云うのだろうか。昔どこかで聞いた言葉『カメラのレンズを通して映える人間が映画役者、直接観た方が映えるのが舞台役者』。その言葉通りとすれば、VTuberはアバターを纏いネット越しの方が映える、第三の役者なのでは無いのだろうか。
「ママ(キャラクターデザイナー)はRHO先生です〜。ちょっと可愛すぎますよねぇ」
『めっちゃ似合ってるやん』『もっと自己肯定してもろて』『ハルちゃんにピッタリ』
「ほんとですかー? 私に甘すぎません?」
彼女は平静を保っているが、どことなく照れている様な雰囲気を感じさせる声にまた口角は上がってしまう。
「はいはい、他の子にもそう言ってるんでしょ? 次行きますよ。次」と言葉を並び立て進行していく。
「で、後はファンネームやら配信用のハッシュタグを皆さんと考えたくてですねぇ」
そう言いながら彼女は次の画像を表示する。
「ファンネーム考えてきたんですが、『ハル吉』『ハル推(お)』『ハルハル』どれが良いですか?」
淡々と言葉を並べていく。
『適当で草』『じいちゃんの名前かな?』『お前のじいちゃんハルハルかよ』とコメントも彼女の配信のノリが分かって来てそれに合わせて盛り上がりを保っていた。
「個人的には〜ハルを推してるって事が分かり易い『ハル推』が良いと思ったんですけどねぇ〜。え? 『ミズリンとの恋路を応援し隊』? 何言ってんですか、私なんかがミズリン先輩とそんな恐れ多い……もうハル推で良いですか?」
彼女の呆れるような演技した声に思わず笑ってしまう。
「配信ハッシュタグなんですけど、『見ハル』で良いですかね? 七海ハルの真ん中部分を取って良い感じで」
『もうそれでいいんじゃないかな』『好きにしてくれw』
「何なんだこの子」と思わず声に出して俺は笑った。完全に彼女の事を好きになっていた。
「リレー一番手のカイちゃんがギター弾いたり何かすごい特技色々やってましたけど、私ほんとそういう特技とか芸とか無いんですよね〜」
彼女は呆れた様に、諦めた様に言う。
「ホンマ、ハードルあげんといてほしいわ〜」とエセ関西弁で笑いを誘う。
「一番好きなミズホ先輩の一番好きな配信ですか? そうですねぇ〜……。好きな配信というか、好きなシーンで言うと、前にスタジオでやってた一期生がお互いに作った料理を食べ比べる動画あったじゃないですか? あれでミズホ先輩がマリー先輩の料理食べた時のリアクションが好きですね」
『細か過ぎィ!』『もうこまかすぎて伝わらないネタなんよ』『オタク特有の着眼点』等とコメントでツッコまれる。
「あ、うみゃーこれこれすき、みたいなの。動画の字幕で半角カナで『ア、ウミャーコレコレスキ(呪文?)』って文字起こしされててめっちゃ笑ったんですよね。その場面のキャプチャも勿論保存してます」
『わかる』『オタクくんさぁ…w』『これは名誉ミズホリスナー』『俺も見たはずなのにそこまで覚えてないw』
「あ、その動画のURL貼りましょうか? ……はいこれ、みなさん可愛いミズリンを見てくださいね」と、同時にYouTubeのコメント欄に彼女が送ったその動画のURLが流れる。
『草』『なんだこの後輩!?』『後で見るわw』等と視聴者達もこのオタク少女の扱いが分かって来た様だった。俺も後でその動画を見直そう。そう思った。
「配信で言ったらそうですねぇ……やっぱ初配信じゃないですか? 少し緊張して声も高いミズリン先輩、かわいいです。めっちゃ。抱きしめたくなりますよね」
『シンプルにキモくて草』『オタクくんさぁ…(2回目)』『ハルさんはもうちょっと緊張しろ』『本当に初配信がこんなんでいいのかよ!』等と散々な言葉を投げかけられている。
そうしてあっという間に五十分は過ぎ去って行った。
「はい、じゃあこんな感じであまりぱっとしない私ですが、これからよろしくお願い致します」
お辞儀をしたのか、少しだけ彼女の頭が下がったのが分かった。やはりああいう淡々としたキャラを演じているのだろうか。この“普通”に良い子らしい所作だけで更に好感を抱いてしまう安い男だった。
『めっちゃ好きなキャラだわ、推す』『8888888888888888』『がんばれー!』等コメントが流れていく。
「ありがとうございます。それでは、この後二十一時からは二期生デビューリレーのラストを飾る『荒巻ユイ』ちゃんの配信です。とっととこんな配信閉じて、ユイちゃんの配信ページへ飛んで下さいね。私も観ます」
『とことん卑下してて草』『姫サーのオタ』『ただの一般V WINDオタク』『わかった!』
「それでは、ありがとうございました〜〜〜」と彼女は残し、あっさりと配信を閉じてしまった。本当にあっという間だった。この例えようのない胸の高鳴りというか、もっと彼女を知りたい、見ていたいという気持ちは何なのだ。これが恋ってやつか。VTuber相手に何を思っているんだ俺は。俺はちゃぶ台に置いていたコカコーラの缶を一口飲む。既にぬるく、炭酸も抜けている。
『ママはRHO先生か! 道理で俺の性癖に刺さる訳だ』
『ダウナー系な声すこ』
『めっちゃかわいかった。今までに居ないキャラ』
『ミズリンとのコラボ楽しみ〜』
『ただの古参V WINDファンで草だった』
Twitter上でも彼女の衝撃的な初配信に話題は掻っ攫われていた。俺もこの何とも形容し難い彼女への気持ちを文字に起こしたいが、なんと言えばいいのか……。
『初配信、観てくださりありがとうございました。緊張で吐きそうでしたがなんとか致命傷で済みました』
タイムラインに彼女のツイートも流れてくる。俺は即座にリツイートといいねを押す。このオタクっぽいキャラは演じているのだろうか。わからない。だがいつか本当の素を出した彼女が見れるだろうかと期待してしまっている自分も居た。
『初配信お疲れ様でした! めっちゃ応援してます! 今度ワンマンライブの同時視聴とかどうですか?』
俺は特に考えもせずキーボードを打ち込みリプライを送った。そして『ハルさんめっちゃ好き〜〜〜 推す〜〜〜〜 #七海ハル #見ハル』と内容の無いツイートを俺も溢した。
そんな興奮冷めやまぬまま、二十一時となり荒巻ユイの配信も始まろうとしていた。涼咲カイと七海ハル。この二人だけでももうお腹いっぱいの気分だった。さて、次はどんなキャラが登場するんだ?
「え、あっ。……始まってる? 固まってるな……あーあー聞こえていますでしょうか……?」
突如配信が始まったかと思えば、か弱くあたふたとしている声が聞こえて来た。
『聞こえてますよー!』『ユイちゃーーーん!』『きたああああ!』と視聴者も応える。
「あ、コメント来た……。あ、どうも先輩、じゃなくてみなさん、始めました! あ、違う初めまして〜!」
なんだこのドジっ子は! 俺はまたしてもニヤニヤとしながらモニターを見つめる。あざとすぎるだろ、キャラじゃなくて素でこれなのか?
「ちょっと待って下さいね……。YouTubeくんからの応答が無いんですが……」
画面に表示される彼女の表情も困り眉で可愛い。何とも加虐心を唆られるいやらしいキャラだ。
「とりあえずみなさんに見えてるなら続けましょう! 初めまして荒巻ユイです〜!」
『ゴリ押しで草』『まさかのパワータイプ』『二期生の脳筋枠か?』とコメントも盛り上がりを見せる。
「えーホントに反応しないんですけど……用意してきた画像とか読み込めないー! でも途中で止めたらダメですよね! もう口頭で自己紹介していきます〜!」
可愛らしい見た目と声に反して意外にも図太く強い精神に笑いもしたが、同時にこの子も好きな人だと俺の本能が云っていた。iPhoneでTwitterを見れば『かっっっっわ #荒巻ユイ』とハルちゃんもツイートしていた。
彼女もなんとか初配信を乗り越えファン達に温かく迎え入れられた。あざと可愛くも素でああいう人物なのであろうと視聴者を納得させ引き入れた。三人の電撃的なデビュー配信はあっという間に終わり、そして華々しくスタートを切らせた。勿論万人に好かれるなんて誰にだって無理だろうが、彼女らは殆どのV WINDファンに好意的に受け入れられる事に成功した。俺もカイちゃんの配信で疑心は既に消え去っていたが、改めて三人の配信を見終わり俺の無駄な杞憂であったと思わされた。今となっては新たにV WINDに来てくれてありがとうと感謝を伝えたいくらいだ。
三人に共通して思えるのが、誰もキャラクターを“演じて”いると感じさせない事だ。一期生の面々もそうだ。決して演じている様に感じさせない。本当に彼女らは素のままバーチャルのアバターを借りて配信しているのではと思える程、演技臭さが無くて無条件に好感を持ってしまう。勿論自分のキャラを初志貫徹演じている人も居るのだろうが、どこか好きになれない自分が居た。よく居る、鼻につくアニメ声・萌え声を作って喋っているVTuberはどうも苦手で不快に感じる、悪い意味の鳥肌が立つ。ネタとしてやっているのではなく、それがウケると思って本気で視聴者に媚びているのだ。そしてそれを嬉々として受け入れるオタクも嫌いだった。同族嫌悪というヤツだ。
『見てくれてありがとうございました〜! 冒頭パニくっちゃってごめんなさいい! これからよろしくお願いします!』とユイちゃんもツイートを残していた。
『二期生のみんなー! みんなめっちゃ可愛かった〜これからよろしくね!』とミズホちゃんもツイートをしていた。
翌朝。寝ぼけながら開いたTwitterに来ていた通知で眠気は一瞬にして吹き飛んだ。ハルちゃんからの通知だった。昨日送ったリプライに対していいねだけで無く、リプライまで来ていのだ。ワンマンライブの同時視聴を勧めたツイートに対して『良いですねぇ〜 運営にやっていいか聞いてみます』と至極当たり前の様に返信してくれていたのだ。それが堪らなく嬉しくて俺は一、二分iPhoneの画面をずっと視てしまっていた。逡巡した挙句俺はそのツイートにそっといいねを押して『是非やりましょう!』とだけ短く返信した。
家を後にしいつものファミリーマートに寄る。菓子パン二つと水を取り、レジへ運ぶ。今日も“ナガミ”さんは居た。
「五百四十円になります」
「あっすいません、二十八番のタバコも一つお願いします……」
完全に見惚れていた。伝えるのを忘れていた事を申し訳なく思いながら言う。
「二十八番ですね〜……」
彼女が後ろを振り返り背伸びをして俺のセブンスターを取ろうとしている姿が愛らしかった。タイトなパンツに浮き上がるヒップラインに一瞬目が移ってしまい慌てて逸らした。
「画面のタッチをお願いします」と云われ、レジの画面に表示された『20歳以上です』の表示をタッチする。もう三十になってしまったとここでもリマインドされている様で悲しさをいつも胸に抱える。財布から小銭をトレーへ出す。
「三百円のお返しです。ありがとうございます〜」
「……どうも」
俺は小さい声と共にお辞儀を返し店を後にした。きっと俺の声は彼女へは届いていない。
今日も今日とて電車内は満員だ。人の熱と不愉快に熱い暖房の熱で蒸された空気が、駅でドアが開くと同時に人々と共に掻き入れられる冷たい空気と混じり合いなんとか人間が生存して居られる空間に保ってくれている。人いきれする中俺はいつも通りポケットの中のiPhoneでYouTubeを開いていた。勿論昨日行われた七海ハルちゃんのデビュー配信のアーカイブだ。彼女の一言一句が俺のツボにハマり無条件に心を軽くさせてくれる。完全に彼女の虜となっていた。俺は電車内でドア側を陣取れなかった場合は吊り革を両手でいつも掴む様にしている。今の日本、痴漢の罪を着せられてしまえば幾ら無実だと言い張っても男の声なんて小さな物だ。それに俺の様なコミュ障のオタク男なんて格好の餌食で、簡単に人生を捻り潰されるだろう。そんな最悪の免罪に巻き込まれない様に俺は神に祈りながら両手を空に上げ、イヤホンで外界と断絶しているのだ。耳から入る彼女がファンネームを決めている際の一幕で思わず口角が上がり気持ち悪い笑みを溢してしまう。俺の顔なんて誰も見てないであろうが今自分が酷い顔をしてしまっていると鏡を見ずとも分かるのが辛い。俺は必死に平静を装いまた意識を耳へ飛ばした。そういえば最近海外で流行り始めたウィルスに反応してかマスクを着けている人が増えた気がする。どうせ海外の一部で流行ってる病だ、日本まで来ることはまず無いだろうとどこか楽観している。が、ああいう病が流行ったとしても日本の生きる屍達は毎日の通勤を止めないのだろうなぁと容易に想像がつく。俺もそのゾンビの中の一人になってしまうのだろうが。今の内にマスクを買い占めて転売する屑人間にでもなってやろうか、一財産築いてやろうか。
いつもの工場へ入り朝礼を済ます。今日はPCモニターの初期設定を延々と行う作業だった。箱詰めされた二十インチ程のモニターがパレットに山積みされている。これを全部やるのか、と一瞬嫌気が差すが俺は唯のバイトだ。終わっていようがいなかろうが十八時になれば上がらせて貰う。そう自分に言い聞かせ一つ目の箱を自分の机まで持ってきて中を開けた。
昼休みに入りいつもの窓側のパイプ椅子に座りiPhoneにイヤホンを挿す。「おつかれ〜。大垣さんやっぱ作業早いねぇ〜」と中村さんに話しかけられ、会話とも言えないレベルの短い会話をした。そして自分の時間を取り戻しTwitterを開く。仕事中見ていなかったタイムラインを遡って行く。するとハルちゃんが呟いていた内容が目に付く。
『明日、V WIND1stワンマンLiveの同時視聴するぞー!(運営許可済み!) フライデーナイトは酒を飲みながらあの感動のライブを観る!!』
なんてこった、昨日の今日でもう企画を通したのか! しかも俺が提案した事に乗ってくれたのが嬉しくて堪らなかった。俺は即座にそのツイートをリツイートし『同時視聴きたーー!!』と素直な感想を述べた。まぁあのライブの同時視聴をしようなんて俺以外の人間も勿論言っていたのであろうが、俺は彼女から企画を進めてみるとリプライも貰っていたんだぞ、と誇らずには居られなかったのだ。それに彼女のオタク全開でテンションのおかしなツイートを見て単純に嬉しかったのだ。そしてもう一つツイートしていた。
『そして今日の夜は初のゲーム実況です〜。十九時からVTuberの通過儀礼らしい壺おじやります』と共に配信予定のページURLが貼られていた。先程のツイートとのテンションの落差に思わず笑ってしまう。ああそうか、デビューしたんだからこれから色々YouTubeで配信してくれるんだ、と当然の事を改めて思った。彼女の事をもっと知りたい、声を聴いていたい、そう思わせた。
家に帰り即座にチーズカレーヌードルにお湯を注ぎPCの前に座り込み、YouTubeを開きハルちゃんの十九時からの配信ページを開く。配信十五分前だが既に三千人が待機していた。彼女のチャンネル登録者数も一万人を越えていた。たった一晩でだ。恐ろしい人気だ。俺は麺を啜りながらTwitterを覗く。二十一時からはカイちゃんが早速カラオケ配信を行う様だった。彼女が歌を武器にこれからやっていくんだぞ、という意志の現れに思える。彼女ら二期生の配信に被せない様にしてか、二十三時からマリーちゃんがASMR配信を行う告知も流れてきた。
『ハルちゃんが壺でイライラするの楽しみすぎる』というツイートも目に入った。『Getting Over It』、日本ではよく『壺おじ』等と呼ばれるこのゲームは、何故か大きな壺に入ったおじさんがハンマーを使ってゴールを目指しステージを登っていくだけというシンプルなゲームだ。だが独特の操作性、難易度の高さからクソゲーと呼ばれたりもするし、同時にクリア出来た時の大きな達成感、クリア方法を考えながら進めないといけない攻略性の高さから偏にクソゲーとも呼べない、良く考えられたゲームとも評される、何故かVTuberの間で流行っているゲームである。今までも幾多のVTuber達が挑み、挫折し、暴言を吐き散らして来た伝統のゲームだ。今から彼女がどんなリアクションを見せるのか楽しみだ。
『早速歌枠たすかる』『姉御の歌声はよ聴きてぇー!』とカイちゃんの歌枠に対してもファンの期待は高まるばかりだった。
「はいこんばんは〜。七海です〜。今日はみなさんもご存じであろう壺おじやっていきます〜」
昨日と同じ気怠そうな声が聞こえてくる。
「まぁ簡単に説明すると、この画面に映っているおじさんが頑張ってゴールまで登っていくゲームです。あ、そういえばもう一万人、チャンネルの登録者行ってたんですね〜。本当ありがとうございます。こんな配信見てないで六聞ミズホちゃん、ミズホちゃんの応援をよろしくお願い致します」とふざけて、いや、本心なのか? を彼女は溢す。
「はい、じゃ〜始めていきますー」
配信画面はゲームをキャプチャした映像を中央に据え右下に彼女のアバター、そしてコメント欄を彼女の上に配置した、よくある画面配置だと思った。
「うわ、なんじゃこりゃ。想像以上に操作ムズいぞ……」と早くも弱音を溢していて可愛い。
少し登った所でミスし、最初のスタート地点まで戻ってきてしまう。「あっ……クッソ……スゥーー……」と小声で愚痴が出てきて思わず声を出して笑ってしまった。
『クッソで草』『声聞こえてましてよ』『配信乗ってますよ』等と視聴者も煽る。
「うるさいなぁ! しょうがないじゃん! こっちだって頑張ってんねん!!」
早速彼女のキャラを壊してくれた壺おじに俺は感謝した。
それから二十分程奮闘していく内に彼女はコツを掴み少しずつ登って行った。コメント欄でも『コツ掴むのが早い』等と云われていたが本当にそうだと思う。頭の回転が早くて、物を覚える為に要点を押さえるのが得意なタイプ。何でもすぐに出来てしまうタイプの人間だと直感的に思った。俺と似た様な人間かとも思う。器用貧乏と呼ばれてしまう人種か。
「いやー結構登ってきたんじゃない? あ、ちなみにこのゲーム、存在は知ってましたけど本当に初見なのでこの先もイライラポイント続出だと思いますよ」
そう諦めた様に言う。
「え、まだ五分の一くらい!? 二合目!? マジぃ〜〜?」コメントを拾い絶望していた。『いや、本当要領掴むの早いと思いますよ!』と俺も励ましのコメントを送ってしまった。「はぁ〜マジかぁ、がんばるかー」と溢しつつも言葉を続ける。
「そういえば冒頭で、あと初配信の時にも“こんな配信”なんて言ってしまいましたけれど、自分を卑下する事は自分を応援してくれている人を裏切る行為だと昔どこかで聞いたのを思い出しましたわ。このクソネガティブな思考もやめないといけませんことねぇ」
と淡々とゲームを進めながら言う。
『そうでございますよ』『もっとご自分に自信をお持ちになって!』と何故かコメント欄もハルちゃんに釣られてお嬢様口調になる。でも、良い言葉だなと思った。俺を応援してくれている人間なんて居ないが、そういう意志を持って活動してくれているというのがなんだか気高く、格好良く映った。
そうして結局ステージの半分程まで行ったがミスして殆どスタート地点と変わらない場所まで落下してしまい、丁度良い時間となったので配信は終わってしまった。だが彼女がミスした時の喘ぎ声、叫び声、そして暴言の数々はきっと明日には切り抜き動画として幾つもアップされるだろうと容易に想像出来る撮れ高の多い配信だった。最近の切り抜き動画の投稿者の人気を見て、他人の配信を利用して何人気者気取ってんだと思ってしまう事もあるが、俺もファンアートとか描ける訳でも無いし推しの布教の為にも動画編集に挑戦してみようか、等と浮ついた事を考えてしまう。活動開始したばかりのハルちゃんについて扱えば、自ずと有名になれるのではないか? と俺の何かの欲が胸の内でもぞもぞともがいていた。
『ハルちゃんめっちゃ可愛かった! こんな砕けた感じの人だったんだ!』といつものロックラくんが呟いていた。アカウント名の後ろには未だ@VWIND1st現地組と書かれている。まぁ俺は初配信から可愛いヒトだと分かっていたけどね、と謎のマウントを取りそれと同時に同意を示すいいねを押した。
『壺おじお疲れ様でした! 明日の同時視聴も楽しみにしてます〜〜! #見ハル』と俺もツイートした。
その後二十一時から配信されたカイちゃんの歌枠は圧巻の一言だった。バンドとして活躍して来ただけの事はある風格、ボイストレーニングを受けている一期生のメンバーにも決して引けを取らない歌声。ロック調の歌はもちろん、しっとりとしたメローな曲でも何無く歌い上げる、というよりは“心”、魂とでも言うべきなのかが込もっていると音楽について詳しく無い俺の様な素人にも分かる凄味があった。今日はミニライブと称しセットリストを自身で考えノンストップで四十分歌い切った。
「いや〜ギターとかの音も乗せられたらいいんだけどね〜。ミキサー持ってないし、防音室狭いし」
ライブを終えケラケラと苦笑いしていた。トークの時のおっとりと、そしてどこか抜けている様な声が歌とのギャップを生み益々リスナーを惹きつけた。なるべく喉に負担を掛けない自然な喋り方を心掛けているのだと配信内でも言及していた。この配信だけで彼女のちゃんとした録音環境で録られた曲が聴きたい、ステージ上で歌う姿を見たいと純粋に思わせた。
『ちょ、歌声もかっこよすぎんか???』とハルちゃんもツイートしていたのを見て俺は笑顔になった。
俺もやってみるか。そう唐突に思い出し、無料で配布されている動画編集ソフトの一つをダウンロードし始めた。
翌日。二十一時前に俺はPCの前に待機していた。本当にVTuberの配信を観る事くらいしか楽しみがないのだなと自分を卑下するが、好きな事を純粋に楽しめているのだから良いだろう、と心の持ち様を変えてみた。
『おまえらー! 酒は用意したか! ライブのアーカイブ視聴チケットは買ったか! イクゾ!!』とハルちゃんはテンションMAXのツイートを殴り書きしていた。俺はライブをネット上で視聴していたのでアーカイブの視聴期間も残っていた。『準備万端です!』とビールジョッキの絵文字を付けてリプライを送る。ちゃぶ台の上には近所のスーパーで買ってきた惣菜の唐揚げとビール缶が既に蓋を開けられ啄まれている。明日は休みだ、腹痛が来ようがどうでも良い。どうせ何の予定も無い。
「えーご来場の皆様、本日は『V WIND 1stワンマンライブ』同時視聴配信にお越しいただき誠にありがとうございます」とハルちゃんのふざけたMCと共に配信は始まった。
「上映開始は二十一時五分を予定しております。画面上に表示されておりますタイムコードで皆様の視聴画面と同期して貰えればと思います。勿論この配信枠ではライブ音声及び映像の配信はございません。ですがスクリーンショットのSNSへの投稿は公式より認められておりますので、画面左下にもございますハッシュタグ『#VWIND1stLive』を付けてどんどん呟いて下さい」
彼女のかしこまった演技する物言いに俺はニコニコしながら画面を見つめる。
「えーまだチケット購入がお済みで無い方は、概要欄にありますURLよりお買い求め下さい。それでは、上映まで今暫くお待ちください」と上映前のアナウンスが終わった。
「いやーたのしみだなー!」そうオタクっぽい彼女に戻って声を発したと同時に手書きで作ったのであろうサイリウム、鉢巻、法被の画像を彼女のアバターの上に雑に重ね、アイドルのライブに参戦しているオタクっぽい格好、“正装”へと変身した。俺も思わず吹き出してしまい『草』とコメントを送る。
『オタク参戦!』『一般V WINDオタク来たな』『姫サーのオタ再び』『アナウンスのお姉さん返して』とコメントも一気に盛り上がる。
「いや〜〜もうオープニングムービーで泣く自信あるわ。色々うるさいと思うけどごめんね」と謎の宣言をしてみせた。
そして五分となり同時視聴が始まる。「五秒前、三、二、一、スタート!」と彼女の配信画面のカウントが始まったと同時に俺もライブのアーカイブを再生開始した。ライブのオープニングが始まり、これまでの彼女らの軌跡や印象に残る配信の切り抜き、そしてライブの練習風景等が音楽に乗り映し出される。そしてオープニングが終わったと同時にステージは明るく照らされ、一期生三人がステージ上へポップアップし登場する。それと同時に彼女らが一番最初にリリースしたオリジナルソングを歌い始める。
「いや、もうむり……」と涙ぐんだ声が聞こえる。ハルちゃんは本当に泣いていた。俺もそれに釣られてかライブの興奮を再び思い出し涙を一つ落とした。
「ほんとみんな綺麗……。アイドルドレスも最高すぎる……」と尚も涙声で言う。そしてマイクのミュートもせず彼女が鼻をかむ音が聞こえる。
『初手限界オタクで草』『わかる(わかる)』『鼻水たすかる』
「一曲目でこの曲を持ってくるのは正直分かっては居ましたけど、やっぱムリ……」
彼女は本当に一期生の子らが好きなんだなと思った。だが同時に、果たして彼女はあのドレスに身を包みステージに立ちたいとは思っているのだろうかと疑問にも思った。本当に唯のV WIND好きなオタクが紛れ込んで来た様な風だ。Twitter上でもここでも“一般オタク”等と云われている。デビュー配信でも彼女は具体的にVTuberに成ってからやりたい事等の目標も掲げていなかった。彼女はどういう人間なのだろう。意外にも表情豊かで面白い人だとは思う、好きだ。けれども本当に彼女はV WINDの何なんだろう。人生に何の価値も目的も見出せない俺みたいな人間が口出しできる事ではないが。
ライブは中盤に差し掛かり六聞ミズホちゃんのソロ曲が始まった。選曲は鬼束ちひろの『私とワルツを』。
『時計は動くのをやめ 奇妙な晩餐は静かに続く――』
美しいピアノの旋律と共に始まり、ミズホちゃんのか細くも透き通る声が合わさっていく。俺もライブ画面に見惚れじっと観ていた。ハルちゃんの配信画面からは何も音は流れていない。ただただ視聴者共々彼女の歌声にひれ伏していた。
『悲鳴を上げて 名前を読んで 一度だけでもそれが最後でも』
最後のサビに入り曲も終わりへ向け壮大に駆け上がっていく。
『誰にも傷が付かないようにと ひとりでなんて踊らないで そして私とワルツを ――どうか私と、ワルツを……』
俺は静かに涙していた。改めて圧巻の歌声、パフォーマンスだった。ライブでもミズホちゃんが感極まり最後のワンフレーズは少し声が上ずっていた。それが尚更視聴者達の涙腺を刺激する。そしてピアノと弦楽器達も静かにフェードアウトしていく。
『88888888888』『圧倒的…』『やっぱミズリンの歌すげぇ』とコメントも流れていく。俺も『8888888888888』とコメントする。パチパチパチと読む、拍手の擬音から来たネット上での独自の表現文化だ。
「うぅ……グズッ……」とハルちゃんの配信からは彼女の嗚咽しか流れていなかった。それを聴き俺は再び涙していた。
「ホントすごいですミズリン先輩……」と漸く感想を溢した。
「私、WINDのオーディションに同じ鬼束さんの月光を歌って送ったんですけど……その時も自分じゃ酷い歌声だと思ってましたけど、ほんと先輩の声の前じゃ私なんてほんとひどい声だなって、比べるのもおこがましいなって……」
彼女が必死に明るく話そうとする口調に胸が痛くなる。
『ハルさんの歌も聴いてみたい』『でもそれで受かったって事は認められてるって事だよ』とライブの同時視聴を放置してハルちゃんを慰めるコメントが次々と流れていく。
「私もV WINDに入ってしまった以上は、先輩達にも、リスナーにも認められる存在になりたいですね」と言葉を続ける。
「デビューから三日でここまでヘラって自分を曝け出したVTuber他におる?」
彼女は開き直ったかの様に笑い、リスナー達にも笑顔が訪れる。俺も彼女は彼女なりに考えていて、そして強い意志を持っていたんだなと分かり尚更応援してあげなければと突き動かされる。
ライブも終盤へ向け怒涛のオリジナルソングメドレーが始まる。
「あーここ好き〜〜……。三人のパート分けからのハモり最高」
彼女はまたも涙声で感想を漏らす。
『これまでの一期生の集大成って感じがする』『MVもめっちゃエモくて少し泣く……』『これ以上オタクを泣かせるな!』
俺もライブを観ながらまた涙していた。この同時視聴中、彼女と涙してしまうタイミングが尽く同じで笑ってしまう。そこに同じオタクとしての信頼というか、分かっているオタクだなと感じた。そんな所にシンパシーの様な物も勝手に抱いてしまっていた。
そしてライブは盛大にアンコールまで終え、問題の二期生デビューの告知が始まろうとする。この同時視聴でもそこまで観るのか疑問に思っていたが、彼女は“一期生”の子らの挨拶が終わった所で画面に表示していたタイマーをストップさせた。
「まぁこの後は私たちのただのデビュー告知なので、同時視聴もここで終わりましょうか」
急に冷たく、業務的に彼女が終わる告知をした。
『お疲れ様でした〜』『たのしかった!』等と好意的なコメント達が流れていく。
「……まぁ、皆さんも知っていたり、感じた方も多いと思いますけど、この場で私たちのデビュー告知をするのは何だかなぁって感じもしましたよね」
と当たり前の様に言ってしまう。確かに俺もそう思った。だが当の本人がそんな事言ってしまって良いのか? 俺は不安になる。
『そんな事言って運営に怒られないの?』と素直にコメントを投げる。
「まぁ結構批判もあったから運営も分かっているでしょ」と彼女は軽く流す。
「あ、勘違いしないでくださいね! 『私はあのタイミングで告知なんてして欲しくなかった』とか弁明したい訳じゃないですから! 素直にライブをもう一度皆さんと一緒に観たかっただけですからね! いや、こう補足するのが余計に弁解してるみたいだな……」
彼女は自分の失言に気付く。
「まぁ……何かあったらアーカイブ消されちゃうかもしれないけど、今日はめっちゃ楽しかったです! 本当ありがとうございました!」
これが彼女なりの先輩達、ファン達への気遣いなのだろうか。だが俺としては彼女の誠実さが尚更好きに成った。
この配信で見せた彼女のぶっちゃけぶりとオタクっぷりは更に話題となり人気に拍車をかけた。彼女の言った通り、デビューから僅か数日でここまで内面を曝け出し、人々へ好感を与えたVTuberは他に居ないだろう。勿論この配信のアーカイブは削除されずに今も残っている。
『正直ハルさん、V WINDに何故か紛れ込んだオタクだと俺も思って居た。WINDに来て何がしたいんだろうって。けどあっこまで吐露してくれて本当に嬉しかった。ハルさんも強い意志を持ってV WINDに来たんだなっていうのが分かった。WINDに来てくれて本当にありがとう。あなたの歌声も、ステージに立つ姿も楽しみで仕方ない。 #見ハル』
そう素直な感想をTwitterへ投げる。そしてすぐに同じく配信を観ていたであろうフォロワーから数個いいねを貰う。俺はそれを同族からの同意と既読マークの様に思い、何かしらの欲を満たしシャワーを浴びた。
翌日、土曜日。既に窓からは明るい日差しが差し込んでおり、その光で目が覚めた。結局ライブを観ながらずっと泣いたりコメントしたりでほとんど酒は飲んでないに等しかった。シャワーを浴びた後すぐに布団に潜ってしまい、冷蔵庫にはまだ二本の五百ミリリットル缶のレモン酎ハイが眠っている。ソファから上半身をぬるりと起こし毛布から出る。鋭く冷たい空気が鼻から入ってくる。
ちゃぶ台に置いてあったiPhoneを取り、サイドボタンを押す。時計を見ようと思ったのだが、それより前に通知に目を奪われ、疑う。
『あなたのツイートが5,000+件いいねされました』
見たこともない数字だった。ロックを解除しTwitterを開く。すると昨日のツイートに二千件を超えるリツイート、それに五千を超えるいいねが付いていた。いわゆる少し“バズ”った状態だった。ネット上で急激に話題になるという俗語だ。その状況に俺は理由もなく舞い上がった。だが同時に厨二臭いツイートを俺みたいな三十になる男がしている事に少し恥ずかしさも覚えた。俺がフォローしている人間、そうでない人間からも沢山同意のリプライが届いており素直に嬉しくなった。何か返信すべきか。こういう少しバズった時には何か自分の宣伝したい事をツイートにぶら下げるのが恒例だ。
『V WIND二期生、七海ハルちゃんをどうかよろしくお願いします!!!!』その一言と共に、彼女のYouTubeチャンネルのURLを貼り付ける。そして更に『ハルちゃんの切り抜き動画もアップしています、よろしければどうぞ…(小声)』ともう一つ、俺の切り抜きを上げているチャンネルのURLも貼り付けてしまった。
今日も良い天気だなチクチョウ。そう心の中で呟きながら俺はアパートの駐輪場から自転車を出す。チャリを漕ぐ。近所のお気に入りのラーメン屋は家から十分と掛からない場所ではあるが、この時期自転車に跨るのは余りに身体に当たる風が痛い。そしてラーメン一杯を食う為に行列に並ぶ等と言う愚はしたくないので、昼時のピーク前の十一時半頃に店に着く。朝飯も食ってないので、腹は麺を迎え入れる準備万端だ。
店の前に着き、自転車をガードレールに立てかけて停める。
「いらっしゃいませー!」
引き戸を開けると厨房に立つ店員達の威勢の良い声に出迎えられ、軽くお辞儀し食券機へ向かう。ラーメン(並)のボタンを押し、出てきた食券をカウンターへ置く。
「味のお好みはありますか?」
「えーっと、硬め濃いめ、ネギ抜きでお願いします」
「ご飯はどうします?」
「並盛りで」
「はい〜、少々お待ちください! 硬めイチ!」
頭に白いタオルを巻いた若い男の店員はカウンターを離れ厨房へ注文を伝える。「少々お待ちください!」と別の店員の声も響く。やはりこの時間帯は閑散としていて良い。土曜の昼前でこの空き具合だ。大通り沿いのこの店、店の前に路駐したタクシーの運転手や、近所の大学生徒らしき人間が数人食事している。だがあと三十分もすれば店の外まで行列が出来てしまう。何故他の人間はもう三十分早く家を出て、行列に並ばずに食うという選択をしないのだろうか? 十二時過ぎてから食うのが普通なのか、良いとされているのか。友人が居れば待ち時間も楽しく過ごせるひと時なのか。まぁこちらとしてはこの混まない時間帯を作ってくれてありがとうという感じだが。
「お先にご飯です〜」
「あ、あざすー」
カウンターに置かれた茶碗を受け取る。先ほどの若い店員とは別の、四十代そこらに見える店員だった。いつも居る、店長だと勝手に思っている。
「お兄さん、いつもありがとうございます。これよかったら」と、その店員から一枚のカードを一緒に貰った。
「え、ありがとうございます……」
その店員はニカッと気持ちの良い笑顔を見せてまた厨房に戻る。マスクをしていても目尻が転び、笑顔を向けてくれているのだと分かる。手に取ったのはよくあるスタンプカードだった。店に来るたびにスタンプを押してもらって、溜まったポイントの数によって無料でトッピングの具材等と交換出来るというあれだ。前々からカードの存在は知っていたが、特に気にせず貰ってなかった。だがこう言われて渡されてしまうと嬉しくなってしまうのが人というものだろう。俺は既に一つ目のスタンプが押されているそのカードを長財布へ仕舞った。
「お待たせしました、硬め濃いめネギ抜きです!」「お待たせしました!」
少ししてラーメンも到着した。横浜家系と云われるラーメンだ。コッテリとしたスープに麺とチャーシュー、それにほうれん草と三枚の海苔が待ち構えている。卓上に置かれているセルフトッピング用のおろしニンニクをひとさじ、そしてゴマ、コショウを振りかける。そして白米にかっぱ漬けを乗せ、食す準備は整った。
「頂きます」
小さく言い、割り箸を丼に漬ける。スープと脂の絡まった熱々の麺を持ち上げ、啜る。食うと益々食欲が目覚める。追加したニンニクも容赦なくパンチを繰り出し俺の脳味噌を叩き起こす。レンゲでスープを掬い一口飲み込む。あぁ、美味い……。去年の秋頃から週に一、二度は必ず訪れている気がする。そりゃ顔も覚えられてしまう訳だ。思えば、ここらに住み始めて五年になるというのにこんなに美味いラーメン屋に今まで気付けなかったのは本当に惜しい事をしていた。そもそも家系ラーメンという存在は知ってはいたが食おうと思った事が無かった。東京はそこら中に美味い飯屋が転がっているが、俺の様な貧乏でしかも食に興味のない人間はコンビニ弁当やらカップ麺で腹を満たせれば良い。ただの生きる為に必要な栄養を摂取する行動にしか捉えていないのだ。SFやディストピア映画であるような、必要な栄養素が詰まった錠剤やらレーションを食べるだけで生きられる様になったら、俺は抵抗なく錠剤を呑んで生きていくのだろう。だが、たまにはこのラーメンを食いたいと思うかもしれない。人間らしく。
一通り麺も白米も食し、更に卓上のおろし生姜をひとさじスープに落とし、レンゲで飲み進めていく。
「あぁー……」
思わず声が漏れる。この罪の意識を自覚させる暴力的なスープを飲み進め、最後はどんぶりに直接口を付け飲み干してしまった。ごちそうさまでした。心の中で呟き、空になったコップを持ちウォーターサーバーで半分ほどまで注ぎまた席に戻る。その頃には徐々に客足が近づいてきていた。店内の席はほぼ埋まっている。水を飲み干し、コップやどんぶりをカウンターの上に上げ、テーブルクロスで軽く机を拭く。
「ごちそうさまでした〜」
カウンター内に居た店員に言う。
「ありがとうございます、またお待ちしてます!」
他の店員からもありがとうございましたと云われ、軽く頭を下げ店を後にした。この店の店員さん達のハキハキした接客は正直言って好きだ。こういうのが苦手でラーメン屋に行くのを躊躇する人も多いらしいが。
あぁ〜食った。心の中で満足な声を上げ、ぽっこりと膨らんだ腹を一度叩く。すっかり腹も出る様になってしまった。またしても『歳』という文字が背後から襲い掛かってくる。まぁ、こんな身体に悪そうなモン食っても普通に美味いって思えてるんだから、まだ若いって事にしといてくれよ。
iPhoneを開けば、まだ例のツイートについての通知が大量に来ていた。流石に煩わしくなってきたので、そのツイートの『会話をミュート』ボタンをタップし、俺はひと時の人気者気分を終了した。
V WIND二期生全員、配信を開始して一週間足らずでチャンネルが収益化されていた。これによりスーパーチャット等による投げ銭が出来る様になった。一期生が築いたベースがあったとは言え凄まじいスピードだ。ハルちゃんの登録者数は既に三万人を超え、他二人も優に二万人を超える登録者を抱えていた。
今日もハルちゃんの配信をiPhoneで聞きながら俺はチマチマとPCで動画を編集しながらコンビニ弁当を食っていた。今日は雑談枠と称して一月に起きた事についてざっくばらんにリスナーと会話しながらトークを繰り広げていた。彼女が元声優だとかミュージシャンだったかどうかなんてどうでも良い。ただただ本当に彼女の声が好きだった。聞いているだけで心が軽くなる。どうでも良い事を考えずに済む。“前世”と呼ばれる中の人の過去を詮索する輩はクソだ。兎に角、こんな逸材をV WINDはよく見つけたものだ。
俺は手直しを終えた動画を一度書き出し再生してみる。ハルちゃんがデビュー直後に行ったライブ同時視聴配信で見せたリアクション集だ。初配信とこの前やっていたマリオカートの実況プレイに続いて三個目の切り抜き動画になる。一つ目の動画は再生数三百回余り、二つ目に至っては四十二で止まっている。以前のプチバズりがあったとしてもまぁ所詮そんな物かとも思う。他の切り抜きしている奴らの動画と比べても肩を並べられるクオリティだと思ってはいるが何かが足りないのだろう。字幕のフォント、字幕を出すタイミング、シーンの切り替わりのタイミング。人の目につきそうなサムネイルの作り方。それらを色々な切り抜き動画を見て学んだつもりだった。クリエイターなんて名乗れたモノじゃないが、何かを作っても誰にも見向きされない、評価されないというのはこんなに自尊心を傷つけるのか。同じ様に無名で芽の出ないバーチャルYouTuberだって腐るほど居るのだろう。
ネット上では何が起こるか分からない。何がキッカケで“バズ”るか分からない。人気の同業者か芸能人かにプッシュされて人気が出たり、はたまた配信中の奇行が切り抜かれてたまたまTwitterで拡散されまくって流行ったり。ついこの前も、新しくデビューしたVTuberが全く別界隈の、とあるアニメファン達の間で話題となりバズっていた。よく言うだろ『ネット上ではゴミも宝も同じ棚に並べられている』って。多分俺のはゴミで、人気の奴らが切り抜く動画は宝なんだろう。だが、何がきっかけでゴミに宝の価値が付くのかが分からないのがネットの世界だと勝手に思っている。
この伝説とも云える例のライブ同時視聴配信は多くのV WINDファンが見て共感し彼女の人気にも繋がったであろうが、“外の人間”にあまり見られていない様に思う。こんなにも面白く、一オタクとして理解が深く、そして自分を曝け出す事の出来る人間が居るという事をもっと色々な人に知ってもらいたい。俺の願いはただそれだけなのだ。同時視聴枠の切り抜きは勿論幾つかアップされているが、どれもそこまで注目されていない。ならば自分で作って、自分で“布教”しようという訳だ。俺の承認欲求を満たしたい訳ではない、あくまでハルちゃんがもっと人気になって欲しいという願いからなのだ。
俺はもう一度ハルちゃんが配信しているタイトルを見た。言っているそれは『もう一月終わるらしいっすよ皆さん』。
二月八日。遂にこの日がやってきた。V WIND一期生と二期生全員でのコラボ配信だ。ここまで一・二期生間でのコラボ配信は行われておらず、二期生達は配信者としての個人の腕を磨き、よく知ってもらう為の期間だったのだろうと思う。
『V WIND1+2期生 お互いの事をもっとよく知ろう! 一番クセがすごいのは誰だ!?選手権』と題された配信枠が先日から用意されていた。配信されるのはミズホちゃんのYouTubeチャンネル上だった。内容は二期生の子らのプライベートな部分にも踏み込んだ一問一答や、二期生の子達のハマっている物や趣味についてそれぞれプレゼンし、題名の通り一番クセの強い人間を決めるという配信らしい。
この一ヶ月弱で、俺は完全に七海ハル信者へと落ちてしまっていた。謂わゆる“ガチ恋勢”と呼ばれるオタクに分類されてしまうのかもしれない。彼女の声、喋り方、考え方、その全てが俺のツボにハマり好きで仕方がなかった。3Dのアバターを纏った画面の向こうの人間に何を感じているんだと分かってはいるが、好きになってしまったのだから仕方がないのだろう。
『先輩達とコラボーーー!! 緊張でまた吐きそう』とハルちゃんが嘔吐している絵文字を付けてツイートしていた。俺はリツイートし『どうせミズリンの事プレゼンするんやろなぁ』と呟いた。彼女へのリプライへも『ミズリンのプレゼン頼む』『プレゼン内容バレてて草』と続いていた。初配信で彼女が云っていた『ミズリン先輩のおすすめ動画とか配信をプレゼンする企画』をここでやるのではないかともっぱらファン達は予想していた。兎に角俺は二期生の子達はどういう風に一期生の子らと絡んで行くのかが楽しみで仕方なかった。
「私は割と猫みたいな性格だと思ってるんですけど……」
カイちゃんが少し照れ臭そうに云う。
「えーもっと強そうな他のネコ科じゃなくて?」
「いやー割と私、人見知りですし、気分屋ですし……」
「そう言われたら猫っぽく見えて来たかも……」
ピースちゃんが納得したようなしていないような反応をする。
「たしかにね! ……えーじゃあ、ハルちゃんはどお?」
「いやいやいや! なんですかその雑なフリ! やめてくださいよミズリン先輩〜〜」
「アッハハハハハ!」
「じゃあ言いますけどぉ〜……」
「あ、言ってくれるんだ。はい、どうぞどうぞ〜!」
コラボ配信は予定通り二十一時に開始された。二期生の子達のプロフィールを改めて深掘りしながら和気藹々とした空気が流れていた。今は二期生の子らを動物に例えたら何なのか、という話題だった。
「えっと、私を動物に例えると……“カラス”ですかねぇ」そう、少し意味深そうにハルちゃんはミズホちゃんの問いに答えた。
「カラス!?」
「なんで数ある動物の中からカラスを選ぶの!?」
ピースちゃんとマリーちゃんが笑いながら盛り上げる。俺も何故にカラスなのだと思う。
「カラスの様に何にでもたかって行くただのオタクですので」
「あ〜……」
ユイちゃんだけが同情の様な声を上げた。その瞬間、ハルちゃんのアバターが画面から消える。
「どうした!? どうしたァ!?」
ピースちゃんが騒ぎ立てる。
「え? あ、ごめーん! ちょっとハルちゃん消えちゃった……」
「ちょっとミズリーン!」
「ハルちゃんないなった……」
「いや、いいですよミズリン先輩。私なんて特に動かないので立ち絵で十分ですよ」
『3Dの意味よw』『草』『動けや!』等とコメントも大量に送られて来る。そうしている内に彼女のアバターは復活し再び画面上に現れる。
「あーまぁ、ホント特にハマってるゲームとかアニメとかも無くて、ネット上で流行ってるものを浅く広く知ってるだけのダメなタイプのオタクなので、カラスが妥当かと」
「なんじゃそりゃ!」
と一先ずそのトークは一区切り終わった。……カラス。黒く賢い動物というイメージを俺は先に思い浮かべる。が、雑食で人の出したゴミ等何でも啄み回る動物だとも確かに思った。だが何故カラスなのだろうか。その事がやけに心に残った。そういえば漸くミズホちゃんとのコラボのはずなのにハルちゃんはどこか冷めていて、あまり嬉しそうに見えなかった。きっとオタク全開で気持ちが悪い位の彼女の姿を拝めると思っていたが、平静を装っているのだろうか緊張しているのだろうか。推しの前でオタクが素を出せなかったりするのはよくある話だ。だとしても今日の彼女はどこか違う気がした。
そうしたまま配信は続いていき、それぞれが持ち込んできたプレゼン会に移る。一番手のユイちゃんは安くて手に入り易いオススメのアロマキャンドルを資料にまとめて来ており、とても女子力溢れるプレゼンだった。可愛い。
「ユイちゃんありがとう! じゃあ次ハルちゃん!」
「はい、私が紹介したいのは――」
コメント欄にも『どうせミズリン』『ミズホオタク来た』等と書き込まれている。
「はい皆さんご名答、六聞ミズホちゃんの、“ここ好き!”ポイント、です!」
画面には『六聞ミズホ年表』と題された画像がでかでかと表示される。
「う、おぉ……」というミズホちゃんの漏れた声が聞こえる。
『ミズリンドン引きで草』『年表!?』『PDFでくれ』等コメントも予想通りの盛り上がりを見せる。
「いや、別に引いてないよ! えーでは、ハルちゃん、プレゼンをお願いします!」
「はい! では、皆さんご存知の箇所も沢山あるとは思いますが、彼女の活動をこの年表で振り返って行きながら、私の“ここ好き!”ポイントを挙げていきたいと思います、よろしくお願いします」
「おー」「わ〜〜」等と他の子達も半分呆れながらも盛り上げる。
彼女の演説にも似たミズホちゃんの過去の活動の振り返りと共に、マニアックすぎる彼女に関するクイズも挟み込み、リスナーは大いに盛り上がっていた。一・二期生の他の子らは呆然としていた。が、ハルちゃんは語りを止めない。
「はい、ここで最終問題です! 初フルトラ3D配信を行ったミズリン先輩ですが、この後機材トラブルにより、一瞬配信が止まってしまいます! 復帰までの間『場を繋いで』とスタッフから無茶振りされ、思わず先輩が返した言葉はなんだったでしょうか!」
「わかんねーよ!」とピースちゃんがツッコむ。
「ヒント無いんですか?」とカイちゃんが聞く。
「えーじゃあ大ヒントです! ミズリン先輩は『〇〇してる事しかできないんだよー!』とブチギレました」
「ブチギレ!」
「えーなんだっけ? ミズリン覚えてないの?」
マリーちゃんがミズホちゃんへ聞く。
「……え? あぁー何て言ったっけ」と苦笑いしながら彼女が返した。
「誰も分からないですか? じゃあ正解はこちら。『台本に書いてる事しかできないんだよー!』でした」
「そんな事言ったの!?」
「えー全然覚えてないや〜」
「いやーこの時の言い方がめっちゃ可愛いんですよ〜。ガチ焦りプラス照れっぽい言い方というかですね」
「うわぁー」
「きっも! ユイちゃん引いてるじゃん!」
「仕方ないです。一般オタクなので。はい、では以上『ミズリンのここすき!』のコーナーでした」
「何のコーナーだよ! はい、ありがとうございました〜。ミズリンさんどうでした?」
ピースちゃんがミズホちゃんに振る。
「あ、愛が伝わって嬉しかったよ!」
「あああああっ、ありがとうございますゥ〜〜〜」
「きめぇ〜!」
コメント欄も『これは名誉ミズホリスナー』『シンプルにキモくて草』と等と盛り上がりを見せた。俺もそのやりとりを見ていつの間にか笑いながらモニターを見つめていた。無論、一番クセが強い人物にはハルちゃんが選ばれた。終わってみれば楽しい初コラボ配信だった。最初に感じた違和感等忘れ去っていた。
世はバレンタイン・デーと、渡来したウィルスに依って話題が掻っ攫われている二月十四日。二〇二〇年が始まってあっという間に一ヶ月が過ぎ、すぐに二ヶ月目も終わるのだろう。
勿論職場でもプライベートでもチョコレートを貰う筈も無く俺は静かに帰宅した。夜のファミリーマートに寄れば、既にバレンタイン商戦用のチョコレートに二割引のシールが貼られている。レジ前のワゴンに大量に積まれた箱達の中から九種類九つのチョコが入った商品を一つ取る。税込二百八十円。安いのか高いのか。
俺だって中学生位の時は、いつか誰からかチョコを貰えるのではないかと年相応に休憩時間や放課後ソワソワしていたものだ。そんな俺が中三の時、好きだった子からチョコを貰った事がある。中学に入り、インターネットというものに触れて以来俺はもう既にオタクと呼ばれる人種へ変貌していたが、そんな俺が貰えてしまったのだ。
当時の俺の友人(勿論オトコ)が俺の想い人と同じ陸上部という事もあり仲が良かった。だからよく友人とその子と三人で間接的に話をしていた。そしてバレンタインの日、話の流れで彼女が学校へチョコを持って来ていると言った。もしかして俺宛てなのか、と俺の心は浮ついた。だが誰に渡す為の物かは言わなかった。そして無礼な男、当時の俺はこう言った。「じゃあ俺が貰ってやるよ!」俺はその子からチョコが欲しくて仕方がなかった。喉から手が出る程、という意味をそこで分かったのかも知れない。そしてその子は「じゃあ……放課後に取りに来て」と小さく言った。俺はまさか本当に貰えるとは思ってもいなくて舞い上がり、人生最高の瞬間だったと思う。
そして放課後。隣のクラスだったその子に恭しくドギマギと近づいた。六時限目の授業が終わり、ホームルームも終わり、皆が部活へ行こうと慌しい教室の中でさり気無く。
「……アレ、貰える?」
「うん……」
そう言い彼女は教室の後ろにある自分のロッカーへ向かった。俺も後に付いて行く。そしてロッカーの中から黄色い派手な袋を取り出し手渡された。
「じゃあ……」
「あ、ありがと……」
そこで会話は終了。俺も何故か恥ずかしくて急いで教室を出た。
まぁ何という事はない。その子が好きだった子にあげられずに溢れていたチョコを俺が奪ってしまったのだ。何て図々しい男なのだ俺は。今になって思えば、彼女は俺の友人の事が好きだったのは明白だ。俺は二人の間に居た邪魔者でしかなかった。そう、未だその事を思い出しては悶え苦しむ。二人の友人だと勝手に思い、その間にずかずかと土足で踏み行っていた間抜けな俺。その友人とも中学卒業以来連絡を取っていない。そしてその子は高校一年の時に二個上の先輩と関係を持ち、子を孕み中退したらしい。哀れな俺。俺の青春は中学生で終わっている。その思い出だけが味の無くならないガムの様に俺の心の底にずっとへばり付き、苦い味を出し続けている。あの少し俯いた時の儚げなショートカットの、綺麗な放課後の横顔が……。
「……セブンスターのソフトでよろしかったですか?」
その言葉に現実に引き戻される。
「あ、ああ。お願いします」
過去に囚われている内に、レジに立つナガミさんの声が耳を素通りしていた。彼女はかしこまりました。と言い残しいつもの棚上のセブンスターを取る。
「……よく、覚えてらっしゃいますね」
彼女にギリギリ届く位の声量でなんとか話しかける。
「そりゃ……最近毎日の様に来られてますから。勝手に覚えますよ」
「そういう、もんなんですね……」
レジ前の液晶に表示された『20歳以上です』のボタンをタッチし、表示された金額を財布から取り出そうとする。
「あの……今朝もいらっしゃいましたよね? ずっと働いてるんですか?」
「? ええ、そうですけど」
彼女が怪訝な目を向けつつ答える。
「あ、いや、朝からずっと働いててすごいなって……」
「いやまぁ、する事が無いだけなので」
彼女はあっけらかんと言う。バレンタインなのに? そう無礼な俺が声に出そうとする。だが今は言葉を発さなかった。
「……ほんとお疲れ様です、また来ます」
「ありがとうございます」
彼女が軽くお辞儀し、俺もそれに倣って返す。
店の自動ドアをくぐり、俺は飛び跳ねる心臓を抑えつけるのに必死だった。最高にときめいてしまっている。『また来ます』という言葉は流石に気持ち悪かったか? 頑張って下さい、とか、お疲れ様ですだけで良かったのでは? いや、『お疲れ様です』も何かおかしい。俺は同僚か同業者か? と家に向かう足も止まり、跳ね上がる心臓に対して脳内では盛大に反省会議が行われていた。店から出て道を渡り、向かいからファミリーマートを振り向き眺める。金曜日の二十三時過ぎだというのに客が一人も居ない、二人だけの空間だった。神が用意してくれていた神秘の空間だったのかも知れない。俺が出てから多分誰も入っていない。今から引き返して、彼女に連絡先でも訊いてみるか? 今ならもしかしたら、今を逃したらもうチャンスは無いかもしれない。……だが、普通に考えれば断られて当然だ。最悪、通報されるなんて事にでもなれば、人生最低の日になるかもしれない。俺みたいなオタクがそんな勇気もないし、する事も許されないのだ。
「また月曜も来よう。それで良いじゃないか」
彼女に朝会えるだけで嬉しい。それで良い。俺は自分へ言い聞かせて、静かに帰路へ就いた。
そして今日はハルちゃんの初の歌ってみた動画がアップされていた。
「お前らどうせチョコ貰ってないんだろ? コレやるよ」と投げキスしている絵文字を付けてこの動画のURLをツイートしていた。楽曲は他のVTuberにも多くカバーされている『ロストワンの号哭』。確かピースちゃんも歌っていたし、先日カイちゃんのカラオケ配信でも歌っていた、有名なボーカロイド楽曲だ。
彼女の歌声は、いつものあのダウナーな性格の子が発しているとは思えない程パワーに溢れたパンクでロックな声だった。勿論曲調に合わせてそう歌っているのもあるだろうが、スタジオで叫び、そして騒ぎ暴れ回っている画がイヤホンを通して脳に伝わってくる。聴いていて楽しいし、心を蹴り上げられ突き動かされる様な衝動のある歌だった。俺は気付けばずっとループで十回は繰り返し聴き、そして涙していた。よくある、中学生男子が洋楽を聴いて衝撃を受け酔倒するのは、多分こういう巨大なショックを受けるからなのだろう。俺は十数年越しにその現象を理解した。
いつも素敵なコンビニ店員さんとも話す事が出来て、推しの初の歌声も聴けて、幸せなバレンタインデーだっただろう。俺はハルちゃんの過去の配信アーカイブをPCから垂れ流しながらソファに横になる。幸せを噛み締める様に一つ大きく息をつき、静かに目を瞑った。
三月四日。VTuber界隈がとある話題で持ちきりとなっていた。二〇一七年の夏頃から活動を開始していた『ヴェイガ・ラヴ』が三月末を以て無期限の活動休止に入る事を突然発表したのだ。彼女もVTuber黎明期を支えた功労者の一人であり、ブームの火付け役となった人物だ。彼女の動画や配信をあまり見た事は無い。だがそれでも彼女は偉大な人物であり、新たにデビューしてきた子達とも所属の垣根を越えて気軽にコラボレーションをよく行い、VTuberの先輩ではなく同じ“VTuber仲間”として同じ目線で接し、皆から愛されている存在だというのは当然知っていた。V WIND一期生の子らとも当然の様に昔コラボを行っている。そんな彼女が健康上の問題もあるが、今後の為の休息、そして新たな段階へステップアップする為の期間として前向きな活動休止である事を自身のチャンネルにアップした動画内、そしてTwitter・公式サイト上でも発表していた。
俺は家に帰って来てからその五分に満たない動画を見て思わず涙していた。これまでも数多のVTuberが現れては消えていった。だがこんな大きな存在でさえもあっさり数年で休止してしまうこの世界の残酷さに耐えられなかった。
『ラヴさんも活動休止か… 本当にお疲れ様でした、また会える日を楽しみにしてます』
思わず一言ツイートした。そうしたら色々と思いを吐き出したくなってくる。
『あんな大御所ですら休止に入ってしまう世界… 普通に可愛い声と見た目してんのに全然売れてないVTuberとか、引退報告とかもなく配信もツイートも途絶えてる子とかゴマンと居るもんな…』
心が真っ暗な沼に沈んでいた。あんな世界で活躍している彼・彼女らは本当にすごい。そう素直に思う。だがもし、俺が一番推しているV WINDの子達、あの子らの一人でも引退や休止となってしまったら、俺はその時どう感じるんだろう。想像するだけで怖い。心が痛い。ずっと居ていて欲しい。素直な我儘を言えば誰しもこう思うだろう。何事にも終わりがあるとは分かってはいてもそう願わずにはいられなかった。
『V界隈にしても何にしても物事の流行り廃りが早過ぎて…本当に消費されたら、飽きられたらすぐに捨てられてしまう大量生産・消費の世界。』
『大手企業お抱えのVでも、『人気出ないし切るか』って上の人間の一言で消されちゃうかもしれないのが怖い。ほんとVは日本の芸能界と全く同じクソみたいな体系を、ほんの数年足らずで形成してしまった。恐ろしいね。演者は搾取されるモノ。』
と自称評論家ぶった文章も投稿してしまった。
『めっちゃ分かります… WINDの子達が去ってしまったらと考えると…』
と涙を流している絵文字を付けていつものロックラ氏からリプライが来ていた。やはりオタクは同じ事を考えるのか。
『ラヴちゃーーん! また遊ぼうね! 待ってるからね!』ミズホちゃんがラヴちゃんへツイートしていた。そしてハルちゃんもツイートしていた。
『ラヴさん。VTuberの偉大な大先輩。私にこの世界へ飛び込んでみようと思わせてくれた方の一人。いつか一緒に仕事が出来る日を願っています。それまで頑張ります。ゆっくり休んで下さい。』と真面目な文章だった。彼女は皆に、本当に愛されていた存在だったのだと今更ながら分かった。その事実が尚更辛かった。
三月十三日。十三日の金曜日。あの震災からもう九年も過ぎ去ったのか、とネットニュースを見ながら思う。そんな中で相変わらず世間は新型のコロナウィルスというモノに蹂躙されていた。
そんな真っ黒な気持ちを晴れさせてくれるのが、今日初めて行われる七海ハルちゃんのYouTubeチャンネルのメンバー限定配信だった。メンバーシステムとは月額五百円程でチャンネルの有料会員となり、会員向け限定の配信や動画を見る事が出来るという、ファンクラブの様なシステムだ。それ以外にもメンバーの特別なスーパーチャットが送れたり、そのチャンネルで行われる配信等のコメントで使えるオリジナルの絵文字をチャンネル主が設定することが出来る。もっぱらその絵文字同士を組み合わせて変な文章を作ったり、配信にリアクションを投げたりして遊ぶのが俺の密かな楽しみだった。そして自分のユーザー名の横には、メンバーシップ加入者である事を示すバッジが輝き、少し誇らしくさせてくれる。
そんな事だけで満足していたら遂にメンバーシップ会員限定の配信してくれると聞き、それだけで嬉しくて堪らなかった。
「メン限やる〜」
の一言だけ配信開始を告げるツイートをし、内容は一切伏せたまま配信はスタートした。
配信ページを開くと、いつもの配信でもよく彼女が使っている馴染みのあるBGMが流れていた。俺はページを開いたまま冷蔵庫を開け、五百ミリリットルのコカコーラ缶を取り出した。ちゃぶ台の前に座り直し、カシュッという心地よい音を聞き一口飲んだ時、急にハルちゃんの声がした。
「みなさ〜ん、聞こえてますか〜?」
俺は耳を疑った。右のスピーカーからしか声が出ていない……!? 俺は慌ててイヤホンをPCに繋ぎ配信を見る。
「はーい、左耳さんも、聞こえてますかぁ〜?」
いつもよりおっとりと落ち着いた声。吐息が多く、色気がある。その声を聴いて俺の全身の鳥肌が立っていた。良い意味で。
「ハルちゃん、それは…ズルいよッッッ #見ハル」
とハッシュタグを付けて思わずツイートする。ASMR配信じゃねーかッ! 俺は歓声を上げて喜びたかったが耳を澄ましイヤホンへ集中する。同じくメンバーの人間達が書き込んでいるYouTubeのコメント欄も阿鼻叫喚していた。
メンバー限定配信の内容をSNS等へ書く事は禁止されている。切り抜き動画なんて以ての外だ。それにしても予告無しでASMR配信をしてくれるなんて思ってもみなかった。ましてやあのハルちゃんが。いや、今までだって色々ぶっ込んで来た、人を良い意味で驚かす事が好きな彼女らしい、最高のプレゼントだった。
「メン限初配信、来てくれてありがと〜〜」
彼女が俺の右耳へ囁く。
『こちらこそこんなサプライズありがとうだよ!!!』
ハル画伯が描いた、謎の男がサイリウムを振りながら泣いているオリジナル絵文字を文末に付けて送信する。
ASMRとは聴覚や視覚への刺激によって感じる、心地良い、脳がゾワゾワするといった反応・感覚。の英文の頭文字から取られた単語らしい。VTuber界隈では主にバイノーラルサウンドで、あたかも自分の耳を触られたり、近くで話している様な感覚に陥らせ、オタク達を喜ばせる為のコンテンツを主に指している。
「安いヤツだけど、ASMRマイク買ってみたぜ〜〜いぇーい」とよく分からないテンションで彼女は話を続ける。本当に俺のすぐ横で話してる様な、そんな存在感を与えてくれる未来の道具、バイノーラルマイクに最大の謝辞を送りたい。
「これさーテストで録ってみた自分の声聴いてみたけどさーキモち悪すぎてワロタ」
彼女がクスクスと笑う。彼女が純粋に楽しそうにしている声を聞くだけで、こちらまで嬉しくなって来る。
「キミたちが投げてくれたスパチャは、こーやって機材になったり、私の食事になったりしているのだよ。いつもありがとね」
チュ、と左耳から聴こえる。……可愛いすぎんか? 俺は滅茶苦茶ドキドキしてしまっている事に気が付いた。それと同時にとてつもない喜びも。
『可愛すぎんだろ…こちらこそいつもありがとう』
と素直な言葉をコメントした。
『ハルちゃんすきすき』『こっちこそありがとう!!』『今日のハルさんなんか違うくね? いつもの子返して』『酒飲んでる?』『別人説は草』『ふーんエッチじゃん』等とオタク達は軒並み彼女に撃ち落とされていた。
よく俺は彼女に「ありがとう」と言っている。そして彼女も「ありがとう」とこうして言ってくれる。なんて素敵な関係なのだろう。お互いに感謝しあえる、推しとオタクのWin-Winな関係。どうして社会ではこの簡単な図式が成り立たないのだろう。どうして子供でも出来ることを大人になると出来なくなるのだろう。どうして世界は平和にならないのだろう。どうして銀河は……。俺は宇宙の真理への一歩目を突っ込もうとした寸前で止め、この東京都杉並区へ意識を戻した。
「ねぇ、これ聴こえるかな……?」
そう彼女が言い、何か布が擦れる音がした。そして「トクッ……トクッ……トクッ……」という少し早いビート音が聴こえる。
「アハっ、聴こえた? 私の心臓の音。私もちゃんと生きてるんだよ」
俺は涙が出そうになった。バーチャルな存在の彼女。だが、こうしてちゃんと生きている。それだけで嬉しくて、褒めてあげたくなる。推しが生きているだけで幸せ。これが尊い、ということなのか。
『生まれてきてくれてありがとう……』
再び涙を流す謎の男の絵文字を付けてコメントを送信した。
「えーっと? 『初赤スパ失礼します! 初メン限、そしてまさかのASMR配信ありがとうございます…! 本当にありがとう、生まれて来てくれてありがとう』。えーっと、ギンギンさん、ありがとう!」
ASMRマイクで一通り遊び終え、バイノーラル雑談というよく意味の分からない題を付けたフリートークへ配信は移行していた。そして俺の投げた一万円分のスーパーチャットが読まれ、俺は気分良くぬるいコカコーラを飲んだ。スーパーチャットは投げた金額に依って表示されるコメントの色が変わる。その最上位が一万円以上のスパチャで色が赤に染まる、通称“赤スパ”。それを投げてしまったのだ。あぁ、二週間分の食費が、と俺は冷ややかに心の中で苦笑した。
そして既視感を覚える。俺のアカウント名『GinGin』を一期生の六聞ミズホちゃんと同じ『ギンギン』と読んでいたのだ。俺はその光景に笑った。俺は『ギンギン、ではなくジンジンと読みます!』と涙を流しながら笑っている絵文字を付けてコメントを送った。だが色のついていない俺のコメントは他の濁流の様に流れるコメント達に呑み込まれ、勿論彼女に読まれる事もなく消えて行った。
× × ×
翌日。俺はゆったりとそして清々しい気分で目を覚ます。時計は十時二十分。冷たい空気と暖かな朝日が部屋を埋める。昨日の金曜の夜を最高のハルちゃんの配信を見て過ごす事が出来て、俺は最高の気分のまま翌日を迎えた。昨日の配信を見終わってからTwitterでハルちゃんやV WIND関連のツイートをサーチする事もなく俺は寝た。Twitterに限らず、ネットを使っていれば当たり前の事だが、自分にとって良い・好きな情報だけを目に入れるという事は困難だ。必ずその好きな事を探そうとした人間が目にしてしまう様にネガティブな発信をしているアカウントや、他人のどうでも良い個人的な感想まで引っ掛かってしまう。百個ポジティブなツイートが並んでいたとしても、一つのネガティブなツイートを見てしまえばその意見に引っ張られて俺の心ももれなく暗黒面へ引っ張られてしまう。そういう弱い人間なのだ俺は。
今まで何度Twitterを辞めようと思っただろうか。分からない。他のSNSはやっていない、やる理由も無い。Twitterだって別にやる必要は無い。だが現実世界で友人と呼べる人間が居ない俺は、ネット上で馴れ合う相手を求めてしまうのだった。推しについてのオタクトークや、自分の推しを他人に推める、通称“布教”等という行為が何となく楽しくて何となく惰性でネット上に存在し続けているのだった。
そんなネットに半日触れていないお陰か、俺は最高に気分が良かった。この際Twitterもやめるか、切り抜き動画の投稿も止めるか。そんな思考が頭を過ぎる。冷たい水で顔を洗い、歯も磨く。そしてシンクの上にある換気扇を回し、セブンスターに火を点ける。最後の一本だった。ぽうと口の中に広がる葉の甘味が程よく脳を身体をリラックスさせてくれる。Zippoの火が弱かったので近くに置いてあったオイル缶を手に取る。Zippoの中身を抜き出し、綿へオイルを染み込ませていく。オイルのよく通る香りが鼻をツンと刺激する。組み立て直し、一度火を点けて見る。よし。お前は良いよな。メンテナンスさえすればずっと生きていく事が出来て。咥えていた煙草の煙が涙を誘う。
よく晴れた空だった。俺は何の気無しにiPhoneを持たずに外へ出てみた。家の鍵と財布、ライター。それに今のご時世着ける事が当たり前になってしまった不織布マスク。スマホが無い状態で外へ出る。音楽も聴けない。Twitterを見る事も出来ない。地図も電車の乗り換えも調べる事が出来ない。滅多に使わないがカメラも無い。落ち着かない。スマホ依存などと言うが、もはや必需品、身体の一部とでも言えるのでは無いだろうか。ノートもパソコンも人間からすれば外部記憶装置であるように、もう必要な部品の一部なのだ。だが不要なら取り外して過ごしてもみたい。
天気が良いので外に出てみたは良いものの、特に行く当ても無い。気付けばもはや毎日の様に通っているファミリーマートへ向かっていた。丁度良い、煙草を買っておこう。店に入り、特に他の商品も見る事もなくレジへ進む。
「いらっしゃいませ」
初老の男がレジだった。今日はナガミさんは居ないか……。少し残念がる自分の心が居た。彼の胸には店長と書かれたプレートが貼られていた。
「すいません、二十八番を……あ」
「あ〜……」
俺とその店長が同時に声を発した。俺が目を向けた二十八番の所はスッポリと穴が空いており、切れていた。
「あぁ〜すいません、入荷が遅れてまして……」
男が申し訳なさそうに言う。これもコロナの所為なのか。何でもかんでもコロナの所為にしてしまいそうになる。
「あーそうですか……」
他のタバコを吸うか、他の店を当たるか……。一瞬迷う。
「大丈夫です、ありがとうございます」
「すいません、またお待ちしてます」
彼の愛想笑いに小さくお辞儀し店を後にする。本当にコンビニの仕事はしたくないな、と改めて思う。自分が悪い訳でもないのに謝ったり、馬鹿らしくて俺には到底出来ない。
店を出て旧環状線沿に下り方面へ歩いていく。少し先にあるセブンイレブンに行こう。iPhoneも無く、使い道の無い俺の思考は煙草に囚われていた。普段あまり歩かない町をキョロキョロと見渡しながら歩く。いつもiPhoneが収まっている左のケツのポケットが空いていて不思議な気分だ。だが、こうやって周りをちゃんと見ながら歩いている。それが堪らなく心地良くなってきた。俺の周りにはスマホを見ながらイヤホンで耳を塞いで歩いている女が道の反対側を歩いている。スマホ片手に電話しながら自転車に乗ってる男、道端に座ってスマホを眺めて時間を潰しているUberの配達員。そんな人間達を見て俺はどこか優越感に浸っていた。お前達が縛られているその小さな板きれなんぞに俺は支配されていない。俺は自由の身なのだ、と。
ここにも数年住んでいるが、本当にこうやってちゃんと街並みを視ながら歩いたのは初めてかもしれない。家の最寄駅は環状線を外れて、どちらかと言えば上りの方角だ。環状を下る方角に用がない。二度ほど、その方面にあるとんかつ屋とラーメン屋に自転車で行った位だ。どちらもチェーン店の。そのどちらかへ向かう途中で確かセブンイレブンに寄った記憶があったのだ。その時も自転車だったので周りの街並みをじっくりと見てなどいない。こうやって歩いてみて気付く事ばかり。こんな所にコインランドリーがあったのか。ロケ弁を作ってる弁当屋もあるんだ、昼間はランチもやっているのか。店先には換気扇から吐き出された肉とステーキソース的な良い香りが広がっている。手描きで作っている歴史のありそうな看板屋。本当に小さな喫茶店。全く知らなかった事ばかり。そんな小さな発見が何故かとてつもなく嬉しかった。何故ここまでポジティブな気持ちなのだろう。普段の陰気な自分には考えられない。ハルちゃんのお陰なのか、それともこの太陽がそうさせているのだろうか。
暫く歩いていると、軽やかで甘いバターの様な香りが漂って来た。その香りの元へ辿ってみると、一つのカフェが通り沿いにあった。以前からあっただろうか? 最近の流行っぽいお洒落な、真新しい店にも見える。ビルの角にあるその店は、二面が大きなガラス窓となっており店内がよく見える。綺麗な暗い木目の床に、グレーのセメントが剥き出しの壁。若干暗めの照明が一層落ち着いた雰囲気を醸し出してる。店の前の立て看板に描かれた黄色い毛のクマのキャラクターが店内へ誘っている。正直こういうお洒落な店に入った事も無いし、普段なら入ろうとすら思わないが、今の上機嫌な俺の心がこの甘い匂いの正体を探ろうと興味を抱いている。俺は思い切って店に踏み入れた。
扉を押すと、上に付いていたベルが小さく鳴る。正面にレジカウンター。更にその奥に厨房、工房というべきかがある。窓際のカウンター席、それに三つの丸テーブルと椅子。どれも木板と鉄製のフレームの組み合わせで無骨ながらこの店の雰囲気にマッチしている。落ち着いたジャズ調のBGMがゆったりと流れ、照明もただのLED球ではなくレトロな暖かい雰囲気を醸し出すエジソンランプで統一されていた。
「いらっしゃいませ」
レジに立っていた女性が言う。俺は小さく頭を下げ店内を物色する。入ってすぐ右手は小さなグッズコーナーとなっていた。店先で健気に咲いていたクマのキャラクターが描かれたTシャツや小物入れが並んでいた。マグカップを少し欲しいと思ってしまった自分が居た。
そのままレジへ足を進める。カウンター席には三人程パラパラと女性客が座り落ち着いた時間を謳歌していた。俺の様な人間向けの店では無かったか、と場違いを自覚するが、女子向けを全面に出した訳ではないこの落ち着いた店はとても居心地が良く感じた。そしてレジカウンターの前に立つ。
「店内でお召し上がりですか?」
「あー……はい」
一瞬迷ったが折角なのでこの店の雰囲気を味わって行こうと考えた。カウンターに置かれているメニューを見る。どうやらこの店はフィナンシェと呼ばれる菓子を売りにしているらしかった。
「えーっと、ちょっと考えさせてください」
「ごゆっくりどうぞ」と店員さんは綺麗な笑顔で俺を急かさない。面接の時に言葉に詰まったら、少し考える時間を下さい、と言えと学校の就職面接の練習で教えられたな、とどうでも良い事を思い出した。
フィナンシェ、そんなお洒落な物食った事ないぞ。メニューには丁寧に写真と説明が載っている。小さなバターケーキの様なものらしい。マドレーヌ、とは違うのだろうか? と思いながらも考える。
「えーっと、バターフィナンシェ二つと、チョコも一つ。あとローズヒップのホットを」
「かしこまりました」
極当たり前の様に紅茶も注文したが、メニューに数種類載っている紅茶の違いなんてわかりゃしない。インスタントの安い紅茶しか飲んだ事ない。コーヒーも飲めないので、ローズヒップという名前だけ聞いた事のある紅茶をまるで頼み慣れている様に頼んでしまった。
通り側のカウンター席に座り運ばれてくるのを待つ。なんて優雅な休日の過ごし方だろうか。本でも持ってきて静かに時間を過ごしたいものだ。ここ数年本なんて読んだ事ないけど。iPhoneを持っていないので分からないが、恐らく今は十一時前だろう。丁度空いている時間に来られたのかもしれない。俺はいつも行くラーメン屋の事を思い出しフッと一人嗤う。笑ったのが恥ずかしくて誤魔化す様にまた周りを見ようと首を横へやった。
「あ」
「?」
思わず漏れた声に一つ席を飛ばした右隣に座っていた女性がこちらを向き、俺と目が会う。
「……こん、にちは」
「あ、こんにちは。……セブンスターのお兄さん?」
「あぁ、そうです……」
女性とこんな風に喋った事なんて無い。なんて返せば良いのだ。脳内は真っ白で思考が全く出来ていない。
「こういうお店にも来るんですね。あ、いや今の言い方は失礼ですね、えぇと……」
「あ、いや、実際僕もこういうお店初めてなので……しかもナガミさんと会えるなんて思ってもなくて」
「……お客さんって店員の名前覚えるもんなんですね」
「あ、いや……セブンスターの人って覚えられるのと同じですよ」
「まぁ……お互い似た様なもんですか」
彼女がフフ、と小さく笑う。
「お待たせしました〜」
店員が俺たちの会話を邪魔しない様にか、俺の左側へ回ってトレーを置いてくれた。
「ありがとうございます」
皿に飾られたフィナンシェの甘い香りが鼻腔をくすぐる。俺はいただきますと小さく呟き、一つをぱくりと口へ運ぶ。
「甘、うま……!」
驚きと嬉しさで思わず感嘆が漏れる。
「めっちゃ美味しいですよね」
俺の横顔を眺めていた彼女が云う。
「いや、本当に美味しいです」
「まぁ私もこの店人に教えて貰ったんですけどね」
俺の素直な感想に彼女が笑顔で返してくれる。優しい湯気の上がるマグカップを取り近づける。酸味と甘味の共存する豊かな香りが和ませてくれる。一口啜るとその香りが口いっぱいに広がり、残っていたバターの風味と合わさり益々美味しく感じる。
「……なんというか、スゲー贅沢な気分です。全然語彙力が追いついてないですけど」
俺は苦笑しながら彼女へ投げかける。
「いや分かりますよ。私もなんて言い表せば良いか分からないですけど、この贅沢な時間と気分を味わう為に足を運んじゃってるんだと思います」
と、彼女はカウンターの上に置いてあったスマホを取り何かに目を落とす。
「あ、すいません、一人の時間を邪魔しちゃって、つい話しかけてしまって……」
俺は今更慌てて謝罪する。
「え? いや、全然良いですよ! ほんと癖でいじっちゃうんですよ……スマホ依存ってヤツですかね」
「あ、いや、分かります! 俺もほんとスマホ依存みたいな、つい触っちゃって……。だから今日、スマホ家に置いて出掛けて来たんです」
「え、めっちゃ良いですね、それ」
「何だか人間関係とか、ネットに縛られていない様な気がして凄くラクに感じてます。周りの景色もクリアに見えて、だからこの店も見つける事が出来て」
「じゃあ、私も始めてみようかな」
そうニコリと言いながら、彼女はスマホの電源を落としパンツのポケットへ仕舞った。
「あの、最近この辺りに越して来たんですか?」
「いや、五、六年前から住んでます」
「え、そうなんですね〜。最近よく来て下さってるからてっきりそうなのかと」
「いや、実は一月の頭位に朝から腹の調子が悪い日があって……それでたまたまあの店に飛び込んだのがキッカケで」
「え、じゃあウチのコンビニに来た最初の理由ってトイレがあったからなんですか!?」
彼女が大袈裟に笑いながら言う。彼女のパッチリとしている瞳が閉じて目尻に皺を作る。特段高い訳では無いが潰れてもいない綺麗な鼻立ちと、薄く横に広がる口。ほっそりとした頬。それらが上手く配置され、美人に見える。最近バッサリとカットされたショートヘアも似合っている。まるでハルちゃんの様な可愛らしさだった。
「えぇ、まぁ……そうなんです」
俺も思わず笑ってしまう。
「最近トイレの貸出してない店の方が多いですもんねぇ。お兄さんの人生が救われて良かったです」
「ほんと感謝です……。あと、俺大垣って言います。その、お兄さんって呼ばれるの何だか気恥ずかしくて」
「え、あぁ、すいません。オオガキさん。改めましてナガミです」
「どうも……。当然の様に名前呼んでてすいません……ナガミさん」
ここに来て急に恥ずかしくなって赤面してしまう。
「何で最近はウチによく来てくれるんです?」
彼女が何気なしに訊く。俺は不意をつかれる。
「いや、なんていうか……特に理由は考えたことも無いですけど……」
「すいません、そうですよね、コンビニに行く理由なんて特にないですよね」
彼女が笑う。嘘だ。毎朝あなたの顔を見たくて行っているのだ。そう素直に言えたら良いのに。
「あーいや、ずっと駅近くのセブンかローソンばかりだったので、たまにはファミマ使おうかなってだけです」
意味の分からない意味のない蛇足な言い訳を返した。
「ナガミさんはいつ位からあそこで働いているんです?」
「私も五年程前からですよ」
「え、そうだったんですか」
今まで会う事が何故なかったのか、と言おうとした。
「今まで会わなかったのが不思議ですね」と彼女が言う。確かに、と返し「どこかですれ違ってはいたかもしれないですね」と返した。
ここまで話しながらお茶をしつつも一つ分の席が空いたままなのが、二人の距離感を示す様で面白くも悲しくもあった。
彼女が周りをキョロキョロと見渡した。店員を呼びたいのだろうかと思った。が、彼女はポケットからスマホを取り出し電源を点けた。
「……スマホが無ければ時間も分からない世界ですね」
彼女が苦笑する。
「楽しくて長居しちゃいました。すいません、用事があるので先に失礼しますね」
「いや、気になさらず……。こちらこそ楽しかったです」
「じゃあ……また」
「あ、はい……また」
彼女が小さく手を振りながら席を離れ、店を後にする後ろ姿を見送った。
これは現実か? この俺が女の子と楽しくお喋りしながら優雅にお茶をするなんて! 俺は左手の甲の皮膚を抓り痛みを実感する。トレーに残った最後の一口分のフィナンシェを食べ、ぬるくなった紅茶を飲み干した。いや、俺が話し掛けてしまったから彼女が付き合ってくれていただけじゃないか? 一人残されたカウンター席で既に脳内反省会が開かれていた。自己肯定? 俺にそんなモノは無い。認めてくれる人、評価してくれる第三者が常に俺の周りには居ない。常識的に考えて、“イコールな目線”で考えて、俺みたいなオタク男が普通の女性に構ってもらえる筈は無い。コンビニの常連でお互いに顔を見知ってしまっているから断るにも断り辛かったのだろう。本当に申し訳ない。切腹でもしてしまいそうな勢いだ。
だが、なんて最高な休日になってしまったんだ。その事実に変わりはない。
カフェを後にし、当初の目的であったセブンイレブンへ歩いた。レジでセブンスターを受け取り包装ビニールを破る。店の前の灰皿に近付き火を点ける。Zippoの油と葉の甘い香りが広がる。はぁ。と一息吐く。フィナンシェの香りを思い出す。ナガミさんの笑顔を思い出す。相変わらず天気の良い青空を見上げ、自分に浸ってしまう。
家に帰った頃にはもう十三時半だった。ソファに身体を投げ天井を見上げる。あと一時間もしたら微妙に空腹が来るのだろうなぁとぼけと思う。この孤独な部屋と先程までの楽しかった時間との落差に堪えられない。ポケットから煙草を取り出し寝たまま火を点ける。換気扇も回してない部屋に煙が充満して行く。ソファから身体を起こすのも怠くてちゃぶ台の上に置いてあったコーラの空き缶に灰を落とす。煙草を持った右手を天井へ伸ばす。煙が真っ直ぐに立ち昇っていく。
孤独に堪えられなくて、またいつもの様にPCを起動し自らインターネットの蜘蛛の巣へ絡まりに行く。Twitterを開いて目についたV WINDの切り抜き動画のリンクをクリックする。画面内の彼女らの楽しげな光景を見て少し救われた様な気になる。
動画を裏で流しながらTwitterのタブへ戻る。誰かがリツイートして流れて来た不愉快な文章に目が着く。最近新たにデビューしたVTuberの子の中の人を特定した様な事をまとめているネット記事だった。そのツイートの上に表示されている『Rickyがリツイートしました』という表示をタップし、その人間のプロフィールを開く。Twitter上でも絡んだ事がない人間だ。恐らくフォローされたから半自動的にフォローバックしたのだろうが。そいつの右上のメニューを開き『ブロックする』をタップする。そして文字を並べていく。
『もうさ〜Vの中の人とか前世とか詮索する野暮な人間死んでくれ〜〜 それか俺の目のつかない場所でやってくれ〜 チラシの裏か便所の壁にでも書いてろバーーーカ』
不愉快な文字列で俺の心が汚された。気付けば開いていた切り抜き動画も終わっていた。内容は側頭部から側頭部へ通り抜け全く脳みそに残っていなかった。そしてそのままいつもの様に海外のアダルト動画サイトを巡り、折角の最高の一日を最低な気分で終えた。
翌週。俺はいつも通りの何の予定も無い土曜日を迎えるはずだった。二日前までは。またあのカフェに行けばナガミさんに会えるだろうか。そんな下心丸見えな思考が脳裏を過ぎっていた。週明けの月曜日、いつも通りにファミリーマートへ行った時にも彼女はいつも通り居た。レジへいつも通りパンと水を持ち込めば、彼女は優しく微笑み「ありがとうございました」と云った。まるで僕ら二人にだけ分かる合図のだったかの様に。
そんな甘い平日の思い出に浸っていれば家を出なければならない時間となっていた。俺は玄関を出て部屋の鍵を閉める。あぁ、クソ。マスクを忘れた。すぐにまたドアを開け、靴箱の一つを小物置としている場所から箱に入ったマスクを一枚取り出し、パンツのポケットへねじ込む。あぁ、クソ。昨日使ったマスクがポケットに入ったままだった。その昨日のマスクを玄関に放り投げそのまま部屋を後にした。
今こうして道を歩いているのは、例のいつもTwitter上で絡んでいるロックラ氏からオフ会に誘われたからだ。彼のアカウント名の後ろには愛も変わらず『@VWIND1st現地組』と鼻高く書かれている。そしてそのオフ会の目的というのも、渋谷のショッピングモールのワンフロアでV WINDと他二つの大手VTuberグループが合同でコラボショップを期間限定でオープンしており、それに行こうというだけのものだった。正直俺はそういうグッズ系にあまり興味を持てない人間だったし、何よりそんな散財出来る程の余裕が無かった。Twitterのメッセージ上で彼から誘われた時も、あまり惹かれるグッズが無いからと遠回しに断ったが、他にもV WINDのオタクを誘っているがオフで会った事ある俺が居てくれると安心出来て嬉しいと云われてしまった。そう云われてしまえば俺みたいな人間は気を良くして誘いに乗ってしまうというものだ。チョロい男だと思っているし、思われているだろうが、まぁどうせ暇な土曜日だ。Twitter上だけでない、現実世界で交友関係を持っておくのも良いもんだろう。
最寄駅から昨晩調べた時間通りの電車に乗り、Twitterを開く。一応ロックラ氏にも『今から向かいます〜』と短いメッセージを送っておいた。そしてChromeのアプリを開き、開催中のコラボショップの公式サイトを開く。グッズ一覧の項をタップし、大量の画像が表示される。ステッカー、缶バッジ、Tシャツ、アクリルスタンド、マグカップ、タペストリー……。よくあるグッズ達が並んでいる。今回のコラボに合わせ、有名なイラストレーターによって描かれた彼女らのアイテム達だが、どれも特に欲しいと思わせない。金があれば端から端まで取り敢えず買う様なオタクになっていたのかもしれないが。まぁ現地で見てみて、本当に欲しい物があったら買おう。これは財布の紐をしっかりと閉めておけ、という自戒で自己暗示でもあった。
先ほど送ったメッセージへ、親指を立てた絵文字が一つ送り返されていた。
京王井の頭線の終点、渋谷駅へ降り立った。今日も人、ヒト、ひと。外出自粛の呼びかけが効いている風には見えない。まぁ俺もその内の一人なのだが、国が緊急事態宣言を出すかどうかという瀬戸際というのに呑気なものだ。俺は目的のショッピングモールを目指し街へ降りる。駅からは目と鼻の先だ。よく見るスクランブル交差点の風景。その一部に自分が成っているという気持ちの悪い違和感。周りは若い子供ばかりだ。オシャレと思い込んで自分を飾っている、可愛い子供達。大声で喚き、コーヒーショップのロゴの入ったカップを自慢げに啜りながら。それに混ざり、まだ若いと思い込んでいる可哀想な男女達も目に余る。路上にはタクシーと配達業者のトラックが所狭しと場所を取り合っている。俺も嘗てはこういう配達系のバイトもしていたな、と思う。新宿の方だったが、中心街よりは外れた場所だったのでここまで酷い現場では無かった。一度原宿へ応援に回された時は冷たい雨に射たれて散々だったな、とどうでも良い関連した記憶までも掘り起こされる。
「あ」
信号を待っていると、横から声がした。
「GinGinさん! お久しぶりです!」
「あ、どーも」
黒いカジュアルなジャケットの上から深い青のコートに身を包んだロックラ氏が笑顔で云う。きっちりとワックスで纏められた髪型も相まっていつも通り彼は爽やかでオタクっぽくない。仕事に来ているのか、とも思わせる。
「すいません、急にお誘いして。でも嬉しいです!」
「いやいや、別に……」
なんと返して良いのか。
「家近いんですか?」
「え? まぁ……?」
「いや、さっきメッセージ来てたのに、もうここに居たので」
彼が愛想良く笑う。信号が青に変わり、一斉に人間の群れが四方向から交差点の中心を目指し歩み出す。俺たちも同時に歩き出す。
「あぁ、まぁ京王線沿なので」
「けいおう……へぇ〜」
「まぁマイナーな線ですよ」
彼の分かっていなさそうな反応に対して俺は皮肉っぽく言う。
「いや、そんな! 生まれてからずっと品川なもんで、西の方には疎くて」
「あぁ、そうなんですね。逆に僕はずっと世田谷とか杉並辺りしか住んだ事なくて、東の方はよく分かってないので」
「じゃあ同じ様なもんですね」
彼が笑いながら言う言葉に、先週ナガミさんからも同じ様なセリフを云われた事を思う。交差点を渡り切り、目的のビル前へあっという間に着く。
「あ、ロックラさんですか〜? 初めまして『ドッピオ』と言います〜」
入り口前の街路樹の下で待っていた一人の男が近付いてくるなり言った。
「初めましてGinGinです〜」
「初めましてロックラです〜!」
オフで会った時の恒例とも言える光景だ。ロックラが楽しそうに言う。
「GinGinさんのツイート、いつも単刀直入で言いたい事言っててめっちゃ好きッス!」
「え?」
ドッピオと名乗った男に急にそんな事を言われ返す言葉が思いつかない。俺の幼稚な言葉達も千人近くの人間に見られているのだ、と再認識した瞬間でもあった。
「まー少々過激ですけど、僕も好きですよ」とロックラまでもが笑いながら賛同してくる。
「えー……いや、そんな風に言われた事なくて……なんと言えば良いか」
「まぁGinGinさんはそのままのスタイルを貫いてください!」
「そう言われると幼稚な文章が恥ずかしいばかりです……。ドッピオさんって俺フォローしてましたっけ?」
俺はポケットからiPhoneを取り出しながら言う。
「いや〜それがフォロバして貰えてないんですよ〜〜」と彼は大袈裟にガッカリした様を装う。
「えーと……」
俺はフォロワー一覧を開き、彼のアカウントを探す。
「いや、何かフォロバ催促したみたいでごめんなさいね」と思ってもいなさそうな言葉をリムレスの眼鏡の奥の細い目が言う。
「そういえばまだリッキーさん来てないですね」
ロックラが言った言葉にドキとする。
「まぁ僕らが早すぎるだけですし、適当に待ってましょ」
ドッピオがそう言いながら緑のジャンパーの左ポケットからスマホを取り出した。
「あ、フォロバありがとうございますぅ〜!」と彼は開いたTwitterの通知に気付きお礼を言ってくる。
「あぁ、いえ、よろしく……」
そんな事より、だ。俺はプロフィールの設定を開く。プライバシーの項を開き、ブロックしているユーザー一覧を表示する。そして先週ブロックした『Ricky』というアカウントのプロフィールを開き、『ブロックを解除する』を押した。なんてこった。今日会うもう一人の人間はつい最近ブロックした人間だったのか。いや、同じ名前で別人かもしれない、が、俺の小心はビクビクしていた。もし相手は今日俺と会うと分かっていて、ブロックされていると分かった上で会いに来たとなれば、何と言われるか。いや、ネット上だけでの繋がりだ。何か言われたら俺はそっぽを向いて駅に向かえば良いし、何かの勘違いだとしらばっくれても良い。『あなたは良い人かもしれないけど、ツイートは不快だったからブロックした』と単刀直入に言えればどれだけ楽だろう。そうだ、人が素直な言葉を言えればどれだけラクか。同時に争いも起こるだろうが。ストレートに言葉を発する事が出来る人間がこの上なく羨ましい。
待つ事数分、推しについてのオタクトークをしていればすぐにその『リッキー』氏も現れた。
「ロックラさん〜! おまたせしました〜」
何と言う事だ、まさかの女性だった。
「あ、リッキーさん! お久しぶりです〜!」
「こちらGinGinさんで、こちらドッピオさんです」
「はじめまして〜!」
「あ、どーも……」
「は、はじめまして……」
俺とドッピオは面食らい、言葉を返す。このドッピオもまさか女性だったとは思っていなかった様だ。
「リッキーさんって、その女性……だったんすね……。今までのご無礼、お許し下さい!」
彼が大袈裟に頭を下げる。つくづくこういう男なのだと、会って十数分で理解した。
「いやいや、全然良いですよ! 女って言うとヘンなアカウント達に絡まれて面倒なだけですから」
彼女は苦笑いする。マスクをして、さらに黒いウールのハット帽も被っている所為で素顔が分からない。最近の街中も皆目元しか見えない所為で、皆等しくそこそこ可愛く綺麗に見えてしまう。クリーム色のコートの隙間から、白いフリルのブラウスが見える。それに同じくひらひらとした黒のスカート、膝まであるブーツ。その出立ちにまるでオタサーの姫の様だ、と内心で少し笑う。いや、実際今ここにあるのはオタクサークルの様なもんか。
「あーですよね〜」とロックラが同情を示す。
「えーっと、リッキー、さんって俺フォローしてましたっけ?」
先ほどドッピオに言った様にさりげなく訊く。
「えっと、ジンジンさん……ですよね。すいません多分私もフォローしてなかったと思います」
「あ、いや僕なんて別にフォローしてもしてなくても一緒ですから」
慌てて弁明していると、彼女がスマホの画面にTwitterのプロフィールを表示し見せて来た。
「これですー」
そのプロフィールの一番上に表示されている絵を視て分かった。
「え、リッキーさんって、あのりっき〜さんだったんですか!?」
「え、知ってたんですか!?」
「そりゃあ……フォローしてますし……」
言葉が続かない。V WINDに留まらず、多くのVTuberのファンアートを上げている『りっき〜』さんだったのだ。脳内でずっとローマ字で表示されていたその名前が急に平仮名に変換され始めた。フォロワーも三万人を超える有名人だ。俺もそのフォロワーの内の一人だ。ネットスラングで言うなれば『神絵師』と呼ばれる部類の人間だろう。何度氏の……彼女の作品をリツイートしただろうか。
「本当ですか!? ありがとうございます!」
そう言われている内に一件の通知が来ていた。彼女からフォローされた通知だった。正確にはフォローバックだ。
「いや、僕なんて本当フォローしなくて良いですから……」
「GinGinさんって切り抜き作られてるんですね〜! 編集とか出来る人すごいです!」
彼女はあっという間に俺のプロフィールから動画を上げている事を見つけ出していた。
「いや、元が面白い配信を切り取らせて貰ってるだけですので……」
「いやいや〜」
彼女の賛辞に俺の耳は林檎の様に赤くなるのが自覚出来る。
「……まぁお互い自己紹介を終えた所で、早速ショップ行きましょう。寒いですし」
ロックラが微笑みながら言い、皆もそれに賛成し店内へ入って行った。
五階のイベントフロアへ到着すると、ここもまた人でごった返して居た。
「やっぱすげー人ですね」
ドッピオが零す。
「これからこういうイベントも中止とかになって行くんですかね」
ロックラも来て早々寂しい事を言う。
「ま、今日は楽しみましょ!」
「そうですね!」
りっき〜さんの言葉に引っ張られV WINDのブースへ入って行く。壁沿いの棚や低いテーブルの所狭しとグッズが並んでいる。四人で固まって人の隙間を掻き分け物色していく。
「V WINDのシャツ、もう今日分は売り切れですって〜」
「マジですか」
りっき〜さんとドッピオが話しながら先を行く。ロックラも楽しそうに見ながら左手に抱えているカゴへどんどんとグッズを放り込んでいく。金持ちめ。
「ほんとすいません、あまり興味なさそうだったのに来てもらって」
急にロックラが俺へ言う。俺が何のグッズも手に取っていなかったからだろうか。
「いやいや、全然……」
俺はテーブルに置かれていたマグカップのサンプルを取る。本当にどう会話を繋げれば良いのか分からない。そういえば、と思い次には言葉が出ていた。
「りっき〜さんとは会った事あるんですか?」
「あ〜実は仕事で会った事がありまして」
「え、仕事で」
ロックラ、謎の男。
「僕、アパレルブランドの会社をやってまして……、いや、会社といってもほんと、小さい会社なんですけど」
彼が苦笑いしながら謙虚そうに言う。彼の今までの言動に『社長』という文字が背景に加わる事で腑に落ちている自分がいた。若さに似合わずしっかりとして、それでいて驕らない彼の素顔。
「そこで彼女とコラボした商品を一時期出してたんですよ」
「へ、ぇ〜……」
俺はそう感嘆を溢す事しか出来ない。
「まぁ、今は神絵師のイチファンででしかないですけど」
彼の目が優しく細まる。マスクをしていても爽やかな笑顔をしているのだろうと分かる。
「彼女のあの、綺麗な線と色使いすごいですよね……」
「ほんと良いですよね。絵の事とか全然分からないですけど、めっちゃ好きです」
彼の会話を引き取って言う。彼女の絵の持つ力には、俺も同意見だ。
「今回のV WINDのコラボみたいなのに呼ばれたらいいのにな〜とか願ってはいるんですが」
「あーそうなったら嬉しいですね」
「僕にもっと知名度があれば……」
と何故か彼が自分の不甲斐なさを責めていた。ある意味VTuberと同じ“推し”である彼女の幸せと活躍を願うオタクがここには居たのだ。
「ロックラさん! これめっちゃ可愛いですよ!」
先に立っていたりっき〜さんが言う。それに招かれてロックラは彼女の側へ行く。彼らはお互い本名も仕事も分かり合っている、俺とは違う次元で付き合っているのだ。そう、急に距離感を、現実を突きつけられた。そんな男がオタクの仮面を被りTwitterをやっているという恐怖に近いものを感じた。
俺は自然と三人を離れ、壁際に立つ棚を見始めた。まるで本棚の様に正方形に型取られた枠達が壁一面に並んでいる。丁度俺の目線の高さの棚に、壁掛けのキャンバス絵画が並んでいた。VTuberをモチーフとしたアイテムとは思えない洒落たアイテムだった。油絵調に淡く抽象的に描かれた絵。V WIND一期生三人のライブ時の純白のドレスに包まれた後ろ姿が拳を高く上げステージ上から会場を眺めている。スポットライトに照らされ、会場一面に輝くペンライト。彼女らの背から放たれるアイドルとしての威風――。圧倒された。こんなアイテムも販売していたのか。横を見れば『会場限定販売』の貼り紙。オタクの物欲を刺激する方法を心得ている。三十センチメートル四方のそれの展示サンプルを手に取る。その時、ある日この三人の絵で自慰をしてしまった記憶がフラッシュバックし、吐き気が襲ってくる。こんな素晴らしい作品であんな最低な記憶と結びついて脳内に表示されるなんて。だが手に取ったその絵をもう一度見て思う。やはり買おう。五千円と少し強気な値段設定ではあるが、この絵を部屋に飾りたい。そう思わせた。俺はサンプルを戻し、同じ棚に並べられている箱に入っている新品を取り三人の元へ戻って行った。
一通りショップを見て周り、一同満足してショッピングモールを後にした。俺は結局そのキャンバス絵だけを購入し、大切に手提げ袋を脇に抱えた。他三人は俺のよりもう一回り大きな手提げ袋を一つ二つ持ってほくほくとした表情だった。
その後は近くのカフェで軽く食事とお茶をして解散となった。有名な絵師と知り合えた事、ロックラの職業を知ってしまった事など、あまり頭に残っていなかった。今日は自転車で渋谷まで来なくてよかった、と電車内で大事に絵を抱えながら思った。
家に帰り、早速キャンバス絵の箱を開ける。ショップで見た時のまま、輝かしい絵だった。飾ろう。そう思い立ち、部屋の壁を埋めているポスターやタオル等を全て剥がした。玄関から入ってきて真正面、一番部屋の奥の壁一面に真白い壁紙が姿を表す。その壁の中心の位置にきっちりこのキャンバスが来るように何度か壁に貼っては少し離れて見てみて、また貼る事を繰り返して。完全に絵が水平になっている事を確認して満足する。その真っ白な壁を目の前に、床にぺたりと座り込む。俺はその絵が堪らなく好きで、十分ほどぼーっとそれを眺めていた。
三月も終盤に入った頃だった。いつも通りファミリーマートでナガミさんから英気を貰い、いつも通りの満員電車に詰められバイト先へと向かった。朝礼後俺や中村さん含め数名の派遣バイトの人間が集められた。
「アー、みなさん。実は……」
いつものリーダー、ウェンさんがきまりが悪そうに切り出してきた。皆は寝ぼけた冷たい目で彼を見る。
「ご存じかもしれませんが、コロナの影響で部品の輸入が出来なくなったり、費用の高騰が既に目立っていましてその……申し訳ないのですが、皆さんは今月一杯で終了とさせてください……」
彼の流暢な日本語にも詰まりが見える。
「そんな……」
中村さんが絶望した様な声を出す。俺は特に何もリアクション出来なかった。
「すいません……皆さんいつも良く働いて下さってとても助かっていたのですが、皆さんを雇う余裕が無くなってきたみたいで……」
ウェンさんがあまりに辛そうな声を出すのでこちらとしても何とも言い返せない。これもコロナの所為だ。それに派遣のバイトなんてこんなもんだと思っている自分がいた。
「皆さんの会社の方にも連絡してありますので、またそちらからも連絡が来ると思いますが、何卒よろしくお願いします……」
彼がもう一度頭を下げた。
「了解っす」「うぃー」「わかりました」ポロポロと周りの男達が返事をした。「すいませんが、今月末まで皆さんよろしくお願いします」と再三彼が頭を下げ、皆いつもの自分の持ち場へ就いた。
「……こんな、急に切られるもんなんですね」
今日は小さなモニターを組み立てる作業だった。俺は組み上げたモニターを樹脂製のハードカバーにはめ込みながら中村さんの声を聞く。
「まぁ、派遣なんてこんなもんですよ。それに、コロナですし」
俺はそっけなく返す。
「そうなんですねぇ……。皆さんも割とあっさり受け止めてましたもんね」
「まぁ……。中村さんってここが現場初めてだったんですか?」
「いえ、三つ程転々としてきましたけど、全部ワイユーワークから紹介されての異動だったので、こう、働いてる会社から直接云われたのは初めてだったので……」
「あぁー……」
そういえば、俺も直接クビと言われたのは初めてだったかもしれない。クビ、というか契約終了というか。まぁ同じ意味だろうが。俺なんて社会の歯車なんて大層なものじゃない。毎日スーパーマーケットのタイムセールに死に物狂いで群がる主婦の履いている靴下に使われている繊維素材の一部に過ぎない程ちっぽけな存在なのだ。有っても無くても変わらない様な。替わりなんて幾らでも居る、誰でも出来る仕事しかしてない。
脳内のネガティブ物質が溢れ出し、一気に仕事のやる気を奪って行く。俺はどこに焦点を合わせている訳でもなく、ぼーっと机と、だらりと垂れている自分の手を見つめ立ち尽くしていた。
「でもまぁ、今月末までよろしくお願いしますね」
中村さんの引き攣った笑顔がこたえる。そんな眼で見ないでおくれ。
「はい」と、精一杯明るく応える。そしてすぐに手を動かし、作業へ戻る。
家に帰り、ソファに飛び込む。だぁーーっと声の様な物が息と共に喉から溢れ出る。バイト、クビか。その実感が漸く湧いてくる。たかだか派遣のバイトなのに。今まで自分から辞めた事はあったけれど、こう面と向かって相手から切られると。来週から新しい職場を紹介してもらうか。その事がやけに億劫で腰が重い。むしろこのまま出勤予定を提出せず暫く休むか。何の予定も無いのだけれど。
そのまま気怠く時間は過ぎ、翌週の金曜日を迎えた。四月も三日だ。先週と今週出勤した分の給与を貰いに、新宿にあるワイユーワークの事務所を訪れた。「お疲れ様です〜」と気怠く挨拶をし六階のドアを引く。中には俺と同じ様に給料の受け取りを待つその日暮らしの人間達が列を成していた。なんとも惨めな光景だが、俺もその内の一人だ。受付で自分の名前を書き、出勤表を提出する。これが俺の金券だ。十数分待った後、漸く名前を呼ばれ給与を受け取った。一週間半で六万四千円程。それが俺の仕事の価値。
金額を確認し下の階へ戻る。エレベーターを降りビル正面の自動ドアを目指していると、丁度中村さんが入ってくる。彼も給料を受け取りに来たのか。「あ……」と声を発し、その後にお疲れ様です。と言葉を続けようと思った。が、彼は俺を見向きもせずエレベーターを目指して中へ入って行った。俺に気付かなかっただけ? それとも職場外では別に何の関わりも持ちたくないという意思表示だったのか。分からない。いつも気さくに話しかけてくれる人間にスルーされるとここまで悲しいのか。俺より二十歳は上の大人に。なんだかこの一瞬の出来事がひどく印象に残り、物悲しい気分にさせた。
何かが喉奥に引っかかったまま、それを押し流し込めるようなガッツリした物が食いたい、そう俺はそのまま事務所近くのラーメン屋へ向かった。二郎系と呼ばれる店へ。
「ニンニク入れますか?」
「野菜少なめの他マシで」
いつもの注文を言い、巨大などんぶりに盛られた麺がカウンターの向こうから現れる。茹でたキャベツともやしがスープの上にこんもりと積まれている。野菜少なめでもこの量。最高だな。丼の端に盛られた刻みニンニクをレンゲの中でスープと溶かし、全体に撒いていく。そして丼の底から麺を持ち上げ、野菜と入れ替える様に混ぜる。『天地返し』と呼ばれる二郎系の食い方だ。そして卓上に置かれているブラックペッパーを取り満遍なく掛け、食う準備は完了だ。スープとニンニクが絡む太麺を一気に啜る。ニンニクがガツンと脳みそを殴り起こす。脂濃いスープも麺に絡まりいつも通り美味しい。ネット上では『豚の餌』等と比喩されよくネタにされるが、言い得て妙というか、しっくりくる蔑称だと思う。そんな事を思いながらトロトロになったチャーシューも一口齧る。これも最高だ。俺は黙々と麺を頬張り続ける。俺はストレスを感じると食欲に繋がるタイプの人間なのだろうか。暴飲暴食をしたり、散財したり、様々なストレスの吐口を人々は持っているが、俺はそれを実感した事が無い。ストレスが無いのか、何も考えずに生きているだけなのか。
「ごちそうさまでした」カウンターの上に丼とコップを置き店を後にする。ニンニク臭くなった口をマスクで封じ家を目指す。この一杯で満腹になる、完全食だ。電車内でもなるべく息をしないように気をつけて帰る。
各駅停車の人の少ない車両の片隅で思う。そうだ、いっそのこと創作にでも専念してみるか。創作? はて何の事か。
× × ×
俺がTwitterを辞めようが、動画投稿を辞めようが、誰も「あれ? 最近GinGin見ねーな」なんて思わない。ロックラ氏? りっき〜さん? そう思われる様な間柄の人間なんて居ない。俺が死んで悲しむ人も居ない。リアルでもネット上でも。今もしこの部屋で死ねば、何日後、何年後に気付かれるのだろう。ちゃんとした企業にも属してない、家族とも連絡を取っていない。そんな俺にいつ誰が気付くのだろう。派遣の仕事も入れてない。家賃の滞納が半年くらいすれば誰かが踏み行ってくるだろうか。保険料か、年金か? 金の未納くらいでしか人が訪ね来る未来が見えない。宗教の勧誘か? 電力会社のセールスか? いずれにしろ来ても家の中までは入ってこない。高齢者の所には生存確認に役所の人間が尋ねて来たりするらしいが。孤独死。ミイラ化して悪臭を放つ俺の死体。
なんて虚しい。俺は一つの動画を書き出しながら考える。今日もまた七海ハルちゃんの配信の切り抜き動画だ。俺のYouTubeチャンネルはもっぱら七海ハルちゃんの配信の切り抜き専門に傾きつつあるが、V WINDの他の子の配信も俺が見て面白いと思った所は切り抜いてざっくばらんにアップしている。“面白いと思った所”なんて、なんて上から目線の発言だろう。だが俺が着目して切り抜いた動画達は着実に伸び、チャンネル登録者も増えつつある。今現在で三千人もの人間が俺の動画を気に入って登録してくれている。その事実が俺の自尊心、承認欲求を満たす。当初はハルちゃんを、V WINDの子達を多くの人に知ってもらいたいという純粋な気持ちだったのに。どうしてこうなってしまったのだろう。だが俺の意見なんて欲なんて、動画を見ている人間達には伝わらない、分からない。だからバレない。最近では切り抜きを上げているチャンネルの収益化を通して利益を貰っている人間が居るらしい。クソ野郎共だ。他人の配信を切り取っているだけの分際で何カネを貰ってんだ。俺でもそれ位は弁えている。いつかハルちゃんに見てもらえればそれだけで良いのに。
それにしても今日作った動画は最高だ。いや勿論元となった配信が最高だったのだ。俺はセブンスターの箱を叩き一本取り出す。彼女がリングフィットアドベンチャーというフィットネスゲームで疲弊し、喘ぎ声に似た悲鳴を上げてしまいながらプレイしている様はセクシーでセンシティブだったが、必死にプレイしている様は可愛らしく面白かった。咥えた煙草に火を点け、煙を燻らす。彼女の喘ぎ声には下品なピンク色のフォントを使い丁寧に文字起こしし、更にピンクを基調としたオーバーレイを掛けいやらしさを引き出す。我ながら下品な編集であるとは思っているが、元の配信の良さを引き出す事に成功しているのでは? と自画自賛せずには居られなかった。編集覚えたての子供がフィルターで遊びまくってる様な感を出さない事にも気を付けたつもりだ。俺は出力した動画を一回再生し、変な箇所が無い事を確認してYouTubeへアップする。そこで灰を一つ灰皿に落とす。サムネイルも用意しており『センシティブ注意? 体力クソザコお姉さんのリングフィットアドベンチャー』と疲弊しきったハルちゃんの顔に添えてデカデカと文字を羅列した画像をセットする。さぁ、今日の作業終わり。俺はまるでひと仕事終えたかの様な満足感を得ていた。ソファに身体を預け、また一回煙を天井へ向け吐き出す。
ふと、昔の配信で彼女が自分の事を動物で例えるなら『カラス』であると言っていた事を思い出す。カラス。未だにその言葉が引っ掛かっている。確かに今までの配信を見て分かってきた彼女の像というのは、よく居そうな、悪く言ってしまえば量産型のオタク女。何かに特別造詣が深かったりする訳でもなく、本人も言っていた、カラスの様に適当に色々な物を啄く、浅く広く知識を持つだけの人に過ぎない。ズボラな性格、男っぽい性格。気怠そうに喋り配信をする姿勢。でもきちんと配信の企画を考えたり、何か自分で作るなり用意しなければならない事はやる。そんな彼女の姿勢が好きだった。いや、自分に近いものを勝手に感じていた。そうだ、俺は彼女に自分を投影していたのだ。V WINDオタクとしての彼女の一面にも、そういった普通の人としての面も。この気持ちは何なのだろうか。自分はカラスの様な人間だと言えてしまう彼女は何者なのだろうか。
それに比べたら俺は、いや俺こそ汚く何にでも啄む様に切り抜き動画を量産して、分かった様な事を呟き汚すカラスの様な生き様だ。彼女は同じカラスでも気高く賢い、大空を舞うレイヴン。俺は地面に転がっているクロウだ。
せめてネット上でくらい、彼女の様な気高いカラスと成れないか……。
十七時二十分。十九時にYouTube上で公開される様に予約投稿をし、Twitterでも動画アップの告知ツイートをする。俺は個人で使っているアカウントと分けてこの切り抜きチャンネル専用のTwitterアカウントも用意した。いつも使っているGinGinのアカウントはあくまでも個人用だ。勿論YouTubeのチャンネルも切り抜き動画投稿用のものだ。
さて、十七時半か。編集に夢中で昼飯も食ってなかった。松屋にでも行くか。ドミノピザでも持ち帰るか……。キッチンの隅で埃を被っている炊飯器が視界に入る。ご飯……カレー、でもたまには自分で作るか。たまには良いな。うん、そうしよう。そう思い立ち家を出る準備をした。
近所のスーパーマーケットまで自転車を漕ぐ。通り沿いに面した店の前に着き、大量に停めてある自転車達の列へ俺の自転車も並べる。しまった十八時前、一番混む時間帯じゃあないか。まぁ良い。俺は入り口横のカゴを取り店内へ入る。主婦や家族連れで混沌とする店内を何とかかき分け物色していく。カレールゥ、にんじん、じゃがいも、玉ねぎ、牛肉。それに九百グラムの小さい袋の米。オマケだ、ハイネケンのロングネックも二本買って帰ろう。レジの長蛇の列に並び、重たいカゴを一旦床に置く。iPhoneを取り出しTwitterを覗く。二十時からミズホちゃんの雑談配信か。帰って調理していれば、丁度食う時間と合うだろうな。そう思いながら一旦iPhoneを閉じ、カゴを持ち上げて三歩進む。
炊飯器をセットし、それから切った野菜と肉を鍋に放り込んでいく。俺は別に料理するタイプの人間じゃないので作り方に拘りなんてない。スパイスをイチから調合したルゥなんて作りたくもないし。実家で一度カレーを家族に振る舞った時に父に驚かれた事を思い出す。「お前料理できるんか」と言われた。俺は「鍋に具材突っ込むだけじゃん」と答えた気がする。こんな簡単なカレーなんて、料理と言えるのだろうか? 何を以って料理と、調理と言うのだろうか。レトルト食品やら冷凍食品が進化している現代に於いて、料理とは何なのか。どうでも良い思考をしながらハイネケンを一口飲む。調理しながら飲む酒って何となくお洒落でカッコいい気がする。何か昔に観た映画の影響だろうか? ぐつぐつと鳴っている鍋を見て、じゃがいもとにんじんが程よく柔らかくなっているのを確認する。一旦火を止め、カレールゥを投入し溶かしていく。カレーの香りというのはどうしてここまで食欲を刺激するのだろうか。ヘラで溶かして、俺のやる唯一のこだわり、ワンポイント隠し味、とも言えないものを投下する。ケチャップだ。冷蔵庫のハインツケチャップを取り出し鍋へ一周掛ける。そして再び火を点け鍋をかき混ぜる。もう少し煮て置けばこれで完成。簡単な物だろう。
二十時前。丁度米も炊けたので皿に盛り付けPCの前に待機した。調理中に既に一本空けてしまったので二本目のハイネケンも取り出す。
「いただきます」
柄にもなく家でそう唱える。スプーンをカレーに突っ込み一口分よそう。そして口に入れれば立派なカレーが出来ていた事が分かった。美味いじゃないか。やはりカレールゥはジャワカレーの中辛に限る。ハイネケンも喉を通し俺はすっかり上機嫌になっていた。数時間前まで孤独死について考えていた男とは思えない。脳内では料理人として生きていくのも良いのでは? 編集マンになるか? 等と阿呆な意見が飛び交っている。やはり俺は飯を食う事でストレス発散を、現実逃避をしているのかもしれない。美味いビールがその手助けをしているのかもしれないが。
そして二十時となり、六聞ミズホちゃんの雑談配信が始まった。最近あった事や、リスナーのコメントを拾いそれに答えたりと、自然で楽しい時間が流れていた。俺はカレーをおかわりしてしまい二杯目に突入していた。
「え? ピースちゃん居た?」
彼女がコメントに気付き反応した。
「え? 『ミズリン、昨日の話はしないの、カナ??』? え、何のこと……?」
彼女が戸惑いながら笑う。
『ミズリン、私はミズリンのママじゃないのよ』文末にほろりと涙を落とす絵文字を付けたそのピースちゃんのコメントが流れた。
「あー! なんで言うのー!!」
『え? どういうこと?』『くわしく!』『ピースママ…?』とコメント達も繋がる。
「もー! こうなったら話さないといけなくなっちゃうじゃん〜」
困り顔で笑う彼女が可愛い。
「いやですね、昨晩ママにLINEしたつもりだったのに、ピースちゃんに送っちゃってたんですよぉ……」
『草』『なんて送ったの?w』
「いやぁ……。『ママ、今週末帰るからハンバーグつくって〜』って……」
『かわよ』『かわああああ』『はんばーぐ!』そのコメント達に混ざって『可愛いねぇ〜〜〜!!!』とまたもピースちゃんがコメントしており俺も笑顔でカレーをまた一口頬張った。ライブではあんなに格好良く輝くアイドルの子が、こうやって可愛らしい素の姿を見せてくれる。これだから推すのをやめられない。
こうやって配信内で同期の子が遊びに来る事は良くある。だが、一期生と二期生の間ではあまりその光景は見られないのが悲しい。特にミズホオタクを初っ端から自称し強烈なキャラクターを印象付けさせたハルちゃんも遠慮しているのか億劫なのか、あまりミズホちゃんとの絡みも無く正直ガッカリしていた。個人的なイメージだが、V WIND一期生、二期生共に同期の子達との仲が良く、良すぎて他と余り絡まない様な印象を受ける。喜ばしい事なのかもしれないが。そんな個人的感想を抱きつつミズホちゃんの配信も終わってしまった。俺は空いた皿を流しに置き、ハイネケンのビン達も軽く水でゆすいで玄関に並べて置く。キッチンの換気扇のスイッチを入れ、煙草を一本咥える。
十九時にアップされた動画を見れば既に一,〇〇〇回再生を超えていた。上々な滑り出しだろう。絶対にこの動画も伸びる、と自分の中の何かが囁いた。
ある日。大手事務所所属のVTuberの一人が、配信内で彼氏の存在を匂わせる出来事があり大炎上を巻き起こしていた。発狂し、頑張って擁護しようとする信者も、持ち上げて炎上に油を注ぐ輩も全員が気持ち悪くて吐き気を催す。
『ちげーんだよ 別にVの中の人がどんなプライベートだろうと好きにしてくれってんだよ ただ隠すなら徹底して隠してそのキャラを演じてくれって言ってんだ』
俺は本音をツイートした。彼女らだって普通の女性だ。彼氏くらい居てもおかしくはない、そうとは分かりきっている。
『Vの中の人のプロ意識の欠如というかなんというか… 素人とプロの境界も曖昧な存在だけどさぁ』
たかだかオタク相手にアバターを纏ってネット上でおしゃべりしているだけと側から見れば思われるかもしれないし、本人達もそう思っているのかもしれない。だがそれで金を儲けているのだ。それも企業に所属している人間なら尚更一応のプロ意識みたいな物を持つのが普通ではないのか? VTuberという未知の存在が出現してまだ数年。企業の体勢、業界全体が未熟で発展途上なのも分かる。それくらいは俺でも分かっているつもりだ。
V WIND、それを運営しているウィンド株式会社。彼らはどうなのだろう。真っ先に今年初めのV WIND1stワンマンライブの事を思い出す。一期生と呼ばれる様になった三人の活動一周年を飾る華々しいライブ。だがそのラストに二期生のデビュー告知をねじ込んできた。壁に掛けられている先月買ったキャンバス絵を見上げる。一期生の輝かしい姿。それ以外でもV WIND運営は杜撰だと思わせる事は何度かあった。だがV WINDに所属している六人がまともな、常識を持った子達であるから成立している。彼女らの性善説に基づいた、それに依存した体制だと思わざるを得ない。元来ウィンドはアプリゲームを開発していた会社だ。そこで3DCGとVR技術を流用してネット・ヴァーチャル空間上で活動出来るアイドル部門『V WIND』を設立した訳だ。そして同時期に流行り始めたVTuberブームに乗り、見事人気を博しその地位を不動の物とした。つまり元々芸能やマネジメント関係には全く精通していない会社と言う訳だ。何か手違いやトラブルがあったとしてもそういう駆け出しの会社だから仕方ない、とファン達がそういう目で見てしまう節もある。そして彼らはそれに甘えてかは分からないが、何でもサプライズとして発表すればウケると思っている様な節や、どこか詰めの甘い印象を与えているのも事実だ。二期生の発表の時の様に。
「あーあの切り抜きね、見た見た〜」と画面の中の彼女が笑いながら云う。
「正直に言いな初見さん? あの切り抜きから来ましたって」
あの切り抜きとは例のリングフィットアドベンチャーの動画の事だとは全員が分かっていた。そう、昨日彼女がリツイートしていた。だが俺が作った動画ではなかった。ニコニコ動画という別のサイトにアップされていた物だ。別に良いが。
勿論その動画も見てみた。だが自分の動画よりもそっちの方が評価されている理由が分からない。単純に切り抜き、字幕をつけただけの動画。俺のは凝りすぎてしまっていたのだろうか? だが俺の動画も二万三千回は再生されている。後はハルちゃんの好みだろうか。単純に目に入ったからツイートしたのだろうか。こんなどうでも良い事ばかり考えてしまう。
「あ、『あの動画から来ました』〜? 素直でよろしい!」
だがケラケラと笑うハルちゃんを見れて俺も嬉しい。
「いやね、大した事してないですけど、他にも色々配信してるんでアーカイブ見てって、よかったらチャンネル登録してくださいね〜」
『初見さんだ! 囲え!』『宣伝出来てえらい!』『言えたじゃねぇか…』
そんなクリエイター気取りのニート期間を満喫していれば直ぐに四月も終わりが顔を見せてきた。動画も十七本も今月だけで上げた。毎日動画の編集をして、飯を食ってオナニーして風呂に入って寝る。ひたすらニコチンを摂る。本当に時間の浪費でしかなかった。かなしい。俺は何がしたいんだ。何が悲しいのかすら分からない。ただ、かなしい。でも生きていく為の日銭を稼ぐ為にあくせくバイトをしなくても良いというのは、精神的には良かったのかもしれない。
が、結局ハルちゃんに俺の動画を見てもらえる事は無かった。いや、もしかしたらツイート等のリアクションをしていないだけで見てはいるのかもしれない。分からない。そういえば一週間ほど前、初めてハルちゃんとコラボした別事務所の子が居たが、俺がそのコラボの様子を切り抜いてアップした告知のツイートをその子にリツイートされてしまう始末。だが彼女はリツイートもいいねも押してくれていない。それでもいつか、その内、俺の動画もされんじゃねぇかと淡い期待を毎日抱く。
『未だ俺はアナタに見て貰えなきゃやってる意味が無い、なんてどうでもいい事に固執してしまってんだ』
まるでメンヘラ女が何かを匂わせる様な主語も中身も無い文章をツイートしてしまう。今月一ヶ月こんな生活をしただけでもう金が無い。哀れな人生だ。働くか……。本当、何の為に生きているんだろうか。か。かなしい。い。生きづらい。ロックラがいいねを押した通知が来る。
そうこうしている間に五月に入り、まるで夏の様な日差しが刺さる。一月から三月はあっという間に過ぎる、という諺か慣用句かがあった気がしてGoogleで調べる。『一月往ぬる二月逃げる三月去る』か。うーん、これだった様な気もするが、いまいちしっくりと来ない。気付けば四月も通り越してしまった今、言葉に『四月失(しっ)せる』とでも追加しておいて欲しい。
いつの間にかファミリーマートの店員さん、“ナガミ”さんが居なくなっていた。ここ数日、いや一週間以上見ていない。病欠だろうか? 引っ越した? 辞めた? 俺には何も言わずに。今流行りのウィルスにでも罹ってしまったのだろうか。
まさか俺が毎日このコンビニに現れるからナガミさんは辞めた? 俺の所為? まるで俺がストーカーしていたみたいじゃないか。いや、実際そう思われていたのだ。もう嫌だ。
店を出て煙草をポケットから取り出し吸おうとする。が、灰皿が無い。灰皿が置かれていた店の端のガラスには『新型ウィルス感染拡大防止の一環として灰皿を撤去しました』の張り紙。そういえば店内のトイレも使えなくなってた。何でもかんでもウィルスの所為にしやがって、自分らの仕事を減らす為の口実だろ。俺はお構いなしにセブンスターに火を点け、そのまま家まで住宅街を歩いた。
少し近道しようと公園を歩いた。その時、ふと足元を見た時に蟻が行列を成しているのを見つけ列を飛び越えた。もしかしたら俺は無意識に土の上の蟻を踏み潰しているかもしれない、殺しているかもしれない。普通の人間は気付かないままそこを歩き去る。だが踏みつけてしまった蟻を見てしまったら、たちまち罪悪感の様な憐れみな様な感情に呑まれるだろう。無意識に、無邪気に人は命を殺している。
ガキの頃、地元の夏祭りのくじ引きでエアーガンを当てた。それを持って後日遊びに出掛けた。そしてふと目についた。電線に泊まり、他の仲間達とちゅんちゅんと言葉を交わしている小さなツバメ。そのツバメへ、俺は理由もなく引き金を引いた。途絶える鳴き声。バサバサと一斉に電線を飛び立っていくツバメ達。一つ、落ちる影があった。地面の草むらには一羽、ツバメが堕ちていた。殺していた。理由もなく。銃を構え引き金を確かに俺が引いたのに無意識だった。殺意なんてこれっぽっちも無かった。好奇心さえも。これも踏み潰されて死んでしまう蟻と一緒なのか? 消えていくべき運命の命だったのか?
ネット上でも同じだ。相手は知りもしない他人。オブラートに包まれていない言葉が容赦なく飛び交う。俺は現実でもナガミさんという女性を傷付け消してしまったのか。
今にも降り出しそうな曇る空と湿度に押し殺されそうになりながら俺は這って玄関を登った。眠い。寝ないと、身体が持たないや。
倒れ込む様に玄関を上がり、冷凍庫からアイストレーを抜き取る。そして風呂場へ行き桶に氷を全てぶち撒ける。そしてシャワーから水をそれに注ぐ。そして四つん這いになりそこへ頭から突っ込む。
「あーー……アアッ!」
バサと頭を上げ、髪から滴る冷水も気にせず風呂場の片隅に力無く座り込む。靴も脱ぎ捨て、引き寄せた桶に両足を突っ込む。
五月も中旬に入り、流石にまずいと思いまたワイユーワークで仕事を紹介してもらった。夜勤の倉庫での仕分けのバイトだ。昔やった様な冷凍庫の中の作業でない分少しは楽、とも思っていたが物量がひたすらに多くて毎日足の裏の皮は剥け、タコも出来て足の裏全体が常に痛む。腰も手首も痛い。ひたすらにカゴからカゴへ荷物を分けていく単純作業。やる事は送り先の住所ごとに分けて行くだけ。それ故にきつい。毎朝十時頃家に帰ってくる頃には体力を出し切りへとへとだ。それに徐々に暑くなってきたこの時期。深夜作業とはいえ汗が止まらない。帰ってきたらすぐにシャワーを浴びなければと分かってはいても数日に一回は帰宅後そのまま気絶する様にソファに倒れ、泥の様に十八時頃まで爆睡してしまう。限界だ。毎日が。なんでこんな事までして東京都の最低時給で働いているんだろう。かなしい。当然VTuberの配信も見れなければ動画なんて編集してアップする事も出来ない。金曜の夜と土曜の夜は休みだ。だがしかし、休みの日も何もする気が起きずひたすらに惰眠を貪る。寝て体力を回復させておかないと身体が保たないのだ。三十を超えた男を体力の低下が容赦無く出迎える。かなしい。その間にもV WINDの子達はどんどんと羽ばたいていく。三月までの現場がどれだけ楽だったか。そして何より先月のなんちゃってクリエイティブ月間がどれだけ楽しかったか気付かされる。
腐るほどの金さえあれば、こんな事しなくてもいいのに。本気で編集マンでも目指すか? だが嘗て普通の会社員として働いていた頃の様な社畜に戻るのも嫌だ。働きたく無い。他に仕事に活かせる能力もない。起業するなんてもっての外。だからこうして単純な肉体労働で稼ぐ事しか出来ない。その思考の堂々巡り。かなしい。死ねたら、もういっそラクになれるのに。日本の数多の自殺者の一人となれば良い。年間何千人、何万人と逝く人間の内の一人と成れば良い。俺の様な人間達が自ら死を選ぶのだろうか。分からない。かなしい。
そのまま服を脱いで浴槽に雪崩れ込む。シャワーを浴びながら浴槽の中で膝を抱えて泣いた。声が出なかった。ただただ呼吸が苦しくて息を整えられない。俺はシャワーの落ちる水に溺れて泣いているのか、このクソみたいな人生に溺れて泣いているのか分からなかった。
七月。太陽に焦がされていた紫陽花が再び降る雨たちによって瑞々しさを取り戻し、生き返る。そしてまた枯らされようとしている。今年は梅雨が短かったらしい。例年の二週間も短いらしい。が、去年がどうだったか、一昨年はどうだったかなんて覚えてなんかいない。今日もまた夜勤を終え家を目指していた。が、気付いたら途中にあるセブンイレブンに寄り缶酎ハイを手に取っていた。木陰にあるベンチに座り蝉達の声に押し潰されながら俺は一口飲んだ。強い炭酸と喉にへばりつく甘さを感じる。あぁ、うめぇ。道端でワンカップ酒を飲んでいる老人達もこれを味わっているのだろうか。外で飲むというのも良いもんだ。俺はスニーカーを脱ぎぬるい風に足を晒した。背もたれに身体を任せる。このまま眠ってしまいそうだ。俺はiPhoneを取り出しYouTubeを開いた。そこで『鳩行為にキレる三葉ピース』とサムネイルに描かれた切り抜き動画をタップしてしまう。それはマインクラフトというゲーム内で他のV WINDメンバーへドッキリを仕掛けようとしていたピースが、ドッキリの準備をしている事を他のメンバーに鳩された事について配信内で言及していた箇所の切り抜きだった。
『鳩行為』というのは伝書鳩から文字って取られたネットスラングである。例えばAという配信者がBという配信者について配信内で言及した際に、裏で配信を行っているBの配信内で「AがBの事話してたよ」等と告げ口する行為である。この行為はよく配信者がNGを出していたりするのだが、この行為の厄介なポイントはファンもアンチも加担してしまう点だ。ファンは面白いと思って、良かれと思って鳩をして、アンチは配信を冷めさせようと鳩をする。『伝書鳩は仕事で言葉を運んでいるのに、鳩行為する人間を鳩と呼ぶのは伝書鳩に失礼だろ』という言葉を見た時には膝を叩いたものだ。
ピースちゃんの言っている内容はもっともな事だけで、単純につまらないし、相手、鳩をされた側(今回の場合は荒巻ユイ)はそれを知らされて逆に申し訳なくなるという訳の分からない状況になる。事実今回こうやって彼女が発言していたのも、裏でユイちゃんに謝られてしまったからであった。彼女が後輩思いである一面が見れて少し嬉しくもあるが、いずれにしろ不愉快だ。それをやめろと言っているだけなのに、信者は過剰に反応し鳩行為をする人間を袋叩きにし、アンチの人間達は『じゃあコメント読まなきゃいいじゃん』等と相手を逆撫でする様な事しか言わない。いつものVTuber界隈で見られる光景。クソだ。俺の左手に持たれていた缶は汗をかき、中身の液体は既にぬるく不味い物体へ変貌していた。
雨の染みた茶色の土と乾いた白い土がマーブル模様を描き、それらが熱い日差しを照り返している。暑く湿気も気持ちが悪いのに、たまに吹く風が異常に気持ちよく感じる。普段悪態をついている人間に急に優しく接して来られた時の様な落差。さわさわと揺れる木の漏れ日が音が涼しさを与えてくれる。クーラーの効いた部屋より、今はここに居たいと思えてくる。誰も子供が遊んでいないアザラシを模した黄色い遊具の上に鎮座していたカラスがバタバタと羽音を立てて飛び立った。
「オオガキ、さん……?」
「え?」
右から声を掛けられた。一メートル程離れた隣のベンチに座っている女性からだった。
「お久ぶりです、あの……」
彼女が言葉を続けようとした瞬間。
「あっ……!」
俺の曇っていた心は一瞬にして晴れ渡った。純白のワンピースに涼しげな麦わら帽子。この雨上がりの湿った空気も、熱く苦しい喉を焼く空気も清涼な秋の風の様にさえ感じる。ナガミさんがそこに居た。
「ナガミさん……。お久ぶりです」
「覚えて下さっていたんですね」
彼女の優しく微笑む顔が何故か涙腺を緩ませる。涙がボロボロと落ちる。
「え、どうしたんですか!? 大丈夫ですか!?」
「……いや、ホントすいません。キモい事言いますけど、もう一生会えないと思ってました……。何があったんだろうってナガミさんをお店で見かけなくなってから数週間はその事ばかり気にしていたのに、新しい仕事やら……自分の事ばかりを考えてあなたの事を頭から消してしまっていたんです。ごめんなさい、でも嬉しくて……」
「そんな、大袈裟ですよ! でも、嬉しいです。あの、これどうぞ」
彼女が膝の上に抱えていたメッセンジャーバッグを手に立ち上がり、中からハンカチを取り出し俺に差し出してくれる。つばの広い帽子から覗く彼女の心配する様な儚げな表情が益々俺を泣かせる。女神だ。彼女が好きだ。俺はその事実を漸く分かった。
「ありがとうございます」
ハンカチなんて要らないのに、でもありがたく借りて涙を拭う。彼女はそのまま俺の隣に座る。
「今日は何されてたんですか?」
彼女が話題を変えてくれようとしている。
「ずっと家でPCに向かって作業してました。なので外の空気でも吸おうと……すぐ近所なものですから」
「そうだったんですね〜。こんな暑いのにわざわざ」
彼女が涼しげに笑う。それに釣られて俺も笑ってしまう。
「ナガミさんは?」
「私はこの先のカフェを目指してたんですけど、ちょっと木陰で休憩しようと思って」
パタパタと手のひらで顔を仰ぐ仕草をする。
「そうだったんですね。今日もめっちゃ暑いですから気をつけて下さいね」
「ですね〜。ありがとうございます」
一瞬の間。お互い何も言えずもじもじと間伸びする。
「……あー、すいません。引き止めちゃって、俺帰りますね」
「あ、いえ全然! 私もぶらっと散歩ついでに行こうとしてるだけですんで……。あの、大垣さんもよかったら一緒に行きません?」
「え」
突然の問いにフリーズする。
「すいません、忙しいですよね! すいませんこちらこそ引き止めて……」
「いや、俺は全然良いですけど、その……俺なんかと一緒に行ってもその……」
再び間。
「じゃ、じゃあ! もうちょっと涼んだら行きましょう……か?」
「なんで疑問系なんですか! そうしましょう」
彼女の微笑む顔が俺を見てくれていた。
ふたりとも特に会話を繰り広げる訳でもなく、偶に「こっちです」等と道順を言うくらい。だが沈黙で居ても辛くない、不快に感じない。ずっと隣に居たい歩いていたいと俺は感じていた。公園を抜け住宅街を抜け、環状線と大通りとの間にある隣駅の近所まで十分程歩いた。空は益々晴れ渡り健気に太陽が咲いていたが、何故か汗もそんなに滲まず心地よい気分のまま着いた。
「あ、ここです!」
「お〜……」
緩やかに坂道になっている二車線道路に面したその二階建てのカフェレストランは、一・二階どちらにもベランダ席が設けられたコンクリート造りの東南アジアの風を感じさせる建物だった。
「私初めてなんですよココ。テンション上がりますね!」
「当然、僕も初めてですよ」
さっきの女神の様な表情とは違う、五歳児の様に目をキラキラさせている彼女も素敵だった。
さっそく店内に入るが「折角なので外の席行きたくありません?」という彼女の言葉に乗せられ、店員に申し付け石と木板で構成された落ち着いた雰囲気の店内から再び外へ出た。空いていた時間帯か、皆店内の冷房を望むお陰か、二・三人掛けのソファが向かい合った席に案内して貰えた。とりあえず俺はアイスティーを頼み、彼女はアジアンな店らしくココナッツのチャイを頼んでいた。
「良いですね、この席」
「ですね〜」
運ばれてきた冷たいグラスで乾杯して、周りを見ながら言う。扇風機と、店内からの冷風も少し流れてきて、そして今日は風も少し吹いていてベランダに居ても気持ちが良かった。
「お昼ってもう食べました?」
「いや、まだです」
「私もまだなんですけど、折角なんで何か食べません?」
「あー、いいですね」
二人でパラパラと机の上に広げたフードメニューを一緒に眺める。朝から何も食っていないはずなのに空腹を感じていなかったが、“折角なので”一緒に何か摂ろうと思った。
「ガパオおいしそ〜」
「自分全然こんなオシャレなお店来ないんで、何を選んでいいやら」
俺が苦笑しながら正直に言う。
「いや私も全然わかんないですよ。写真見て美味しそうって思ったモン頼んだらいいんですよこんなの」
「スゲー……!」
彼女のその大雑把で大胆な思考に笑いながらも感嘆するばかりであった。
「じゃあ僕はトムヤムクンにフォー追加で」
「いいですねぇ〜。私はキーマカレー……いや、やっぱりガパオと、生春巻き食べます?」
彼女がメニューを指差しながら言う。
「シェアしましょ、シェア・シェア」
「あ、はい」
彼女に乗せられるがまま同意する。彼女が店員を呼びそのまま注文した。
「いやーこういうお店に来ても麺類選んじゃいますねぇ」
「麺好きなんですか?」
「好きですねぇ〜。近所のラーメン屋には週二、三でお世話になってると思います」
「この辺りにあるんですか?」
「あー、さっき通ってきた道を戻って、もう少し大通りを下っていくと黄道家って家系のラーメン屋があるんですよ」
「え、そうなんですか? 知らなかった〜、今度行ってみます」
「是非是非。ナガミさん一人でラーメン屋にも普通に入れちゃう系の人ですか?」
「全然行きますよ。一人焼肉は流石にまだハードル高いですけど」
「スゲー。女性で一人でそう行動出来るのめっちゃカッコいいすね」
「いやいや、友達が居ないだけですから」
「……俺も同じです」
「同じですね!」
ゆるく笑い合うこの時間がとてつもない幸福に思える。そして良い香りと共に料理が運ばれてきた。
「おぉ〜」と二人して眺める。
「あ、あの、一口貰ってもいいですか……?」
彼女が照れ臭そうに言う。
「え、全然。どうぞどうぞ」
俺はトムヤムクンの入った深皿を彼女の方へ押す。
「あはー。ありがとうございます」
彼女が箸を皿へ突っ込み一口啜る。
「んー! おいしい!」
「よかったです」
別に俺が作った訳でもないのにそんな事を言う。
「私のガパオも食べっちゃってください」
「え、いいんですか」
「そりゃあもちろん」
「あ、じゃあ頂きます……」
カトラリーボックスからスプーンを一つ取り出す。そして彼女から受け取ったガパオライスの皿の端っこの方を掬い取る。
「ん〜! おいしい!」
「この店一押しだけありますねぇ〜」
じゃあ、と彼女もガパオを食べる。
「おいし〜〜〜。今日ここに来れて良かった」
幸せを噛み締める様に彼女が言う。俺もだ、と強く同意する。俺も自分のトムヤムクンへ手を伸ばす。
「ナガミさん、その……一人でここ来たかったんじゃないんですか?」
「あーまぁ一人の方が楽なんで良くこうやってカフェ巡りとかしてますけど」
彼女が口に含んでいた物を呑み込んで話を続ける。
「今日はまぁ……何となくです!」
彼女の微笑みに、俺の何かが赦された様な気さえした。
するとそこへ、一羽のツバメがテーブルへ遊びに来た。可愛いそのツバメと目があった。まるで俺を何かへ誘う様な、つぶらで美しい瞳。そして次にナガミさんの方を見る。彼女がスプーンを口に含んだままにっこりと笑顔を返すと、周りをキョロキョロと少し見渡し、再び空へ旅立って行った。
「かぁわいぃ〜。一口でも啄んで行けばいいのに」
笑いながら言うナガミさん。あなたの方が可愛いですよ、とクサい台詞の一つでも言えれば面白い奴だなくらいには思われるかもしれないのに。
「……ホント、何て喩えたら良いのか分からないですけど、ナガミさんには数千年ぶりに再び会えた友人の様な、そんな感覚を覚えるんです」
独白の様に俺の口から言葉が溢れてくる。
「考え方が似ているというか、俺が一方的に気が合うなって思ってるだけなんですけど……。本当ごめんなさい、どう言い表せば良いか分からなくて」
彼女はポカンとしている。そりゃそうだろう。引かれてしまった。
「んー、深く考えたらそういう事なのかもしれないですね」
予想外に答えが返って来た事に驚く。
「というと……?」
「なんとなく勢いで大垣さんを私の一人で楽しもうとしていた時間に招いた訳ですし、別に義務感とかでもなく。だから多分私も無意識にあなたの事が苦にならないというか、気が合うと思ったんだなぁって今改めて思いまして」
そういう事か、と思うと同時に、彼女が“あなた”と呼んだ事に少し恥ずかしくもなった。
「……何だか不思議な関係ですね、僕ら」
「まぁ、そういうのもアリなんじゃないですかね?」
「アリですね……!」
二人してこの意味不明な会話を笑い合う。素の俺という人間を、初めて他人に受け止めてもらえた様な安らぎを感じ、そんな気持ちと共に摂る食事も最高においしかった。好きな人と一緒に食べるごはんってこんなに美味しいんだ。
赤く染まる空の下を大通りに沿って造られている公園の中を二人歩き帰る。こんなコンクリートだらけの街でもひぐらしは鳴き、涼しげな風と優しい空気の匂いが秋の様な雰囲気を醸し出す。
「あ」
彼女がポツと呟き、数歩大股でスキップする。そして陰から出た彼女は西の空を見る。
丁度ビルと首都高速の高架路の隙間から太陽が覗き、スポットライトの様に彼女を照らす。
「綺麗ー……」
左手を翳しながら太陽をキスしたそうに見上げる。
「あの!」
俺は思わず声を掛けてしまう。
「はい?」
「……よかったら、また一緒にどこかカフェとか行きませんか?」
「……はい!」
こちらを振り向いた彼女の右頬が太陽に照らされる。その眩い笑顔に俺は生かされている気分だった。
彼女と別れ朝居た公園へ戻り、同じベンチに座っていた。靴を履き、そして立ち上がりいつも通りの道順で家を目指す。
玄関を上がり、改めて今日の仕合わせな時間を噛み締める。俺はいつからか、今日一日持ち歩いていたのか、その酎ハイの缶をゴミ箱へ放り投げた。そして急にドッと疲れが押し寄せて来た。あれ、彼女に借りたハンカチはどこに仕舞っただろうか。返しただろうか。分からない。脳味噌は溶け出し、俺はソファでいつもの様にドロドロとした睡魔に呑み込まれ昏睡した。
『飲み疲れて大股開いて寝てるサラリーマンのおっさん。デカい声で話し続ける化粧の濃いおばさん連中。汗臭いデブ男。イヤホンから音を漏れ流している馬鹿みたいな大学生。Fuck you everybody.』
俺は必死に目を閉じた。この通勤時間さえも地獄だ。なんでこんなに生き辛いんだ。ツイートしてそいつらへ文句を言ったつもりになる。
暑苦しい電車内で目につく全てが不愉快で仕方ない。死んでくれ。そう願いながらイヤホンを流れる音に集中するしかなかった。毎日毎日こんな電車に揺られて。数ヶ月前までよく毎朝満員電車に乗って出勤出来ていたものだ。今はもう他人の存在が苦痛でしかない。今の仕事内容もだ。体力的にキツい。それが精神的な辛さにもなってきている。
無理だ。辞めてしまおう。もう三ヶ月程頑張ったじゃないか。この仕事はおれに合っていなかった。それだけだ。また別の仕事でも探そう。そうしよう。俺は丁度停まった駅で電車を降り、向かいのホームから出る電車へ乗り換える。家へ帰る方向へと。
家へ帰ってTwitterを開いてスラスラとタイムラインを遡っていると、『八月二十二日(土)にこちらのライブに参加させて頂きます! もう緊張で吐きそう』とハルちゃんが引用リツイートしていた。そういえば最近全然V WINDの子達の配信見れてなかったな。と思いつつ引用元のツイートを見る。八月二十二、二十三日の二日間に渡り、様々な事務所やグループ、個人勢のVTuberまで合わせて五十名以上の出演者で贈るオンラインライブの告知であった。V WINDからは六聞ミズホ、一ノ瀬マリー、それに七海ハルの三人が二十二日、三葉ピースと涼咲カイ、荒巻ユイが二十三日に出演となっていた。何故この組み合わせなのかは謎だが。出演する日は違えど、V WIND一・二期生揃って全員で同じ舞台に立つのは今回が初だ。何より二期生の子達が遂にステージに立つのだ。彼女達の晴れ舞台を観ておかなければ。俺の心に僅かに残っていたオタク魂がそう言っている。既に販売開始されているネットチケットの購入ページへ迷わず進んでいた。両日通しチケットをチェックし、コンビニ支払いを選択し確認ページまでもう行っていた。こんな事に糸目をつけたくない。今回はネット上でのみの開催だが、
一期生の子達のライブを現地会場で観れなかった悔いが未だ残っている。現地組といえばロックラだ。アイツは未だTwitterのアカウント名にそのライブの現地組だと誇る様に書いている。彼の名前を見る度に俺はその敗北感の様な気持ちを植え付けられる。もうその思いはしたくない。俺はそのまま確定ボタンをクリックした。
仕事をバックれて数日経ったある日、ロックラからメッセージが届いていた。
『お疲れ様です〜 土曜仕事で渋谷行くんですけど、よかったら夜ご飯でも行きません?』
突然のメッセージに少し驚いた。最近はTwitter上で彼のツイートを一瞬見かける事はあっても、特に絡む事も無かったのでこうやって話すのがいやに懐かしく感じた。昔はよくVTuberについて情報交換したり、推しについて語ってオタク話に花を咲かせていたのに。
『この配信めちゃ良かったから見てくれ』
『この○○ちゃんと××ちゃんの絡み尊いですよね……』
少し前の会話を遡ればそんな話題ばかりだ。この頃が一番Twitterをやっていて、VTuberを追っていて楽しかった時期だったのかもしれない。
そして勿論何もする事がない俺は行くと答えた。
わざわざ会うなんて何か理由があるのだろうか。仕事関連の話? 俺の出来る事なんて少し編集とプログラミングが出来る位だし、何か映像でも作ろうとしているのだろうか。それか単純な人手不足でアルバイトでも探そうとしているのだろうか。いずれにせよ何か仕事に繋がれば良いな、と勝手に思ってしまっていた。……いや、普通の人は特に理由が無くてもこうやって気軽にメシに誘ったりするもんなんだろうか。友人、と俺達が呼び合える仲なのかは分からない。Twitter上だけでの関係。
毎日延々とYouTubeを見ながら惰眠を貪ればあっという間に数日数週間なんて過ぎてしまう。
「あ、ジンさんー!」
渋谷駅を出て北西に進めば、奥渋などと呼ばれる俺の様な人間には無縁の大人で洒落た店の並ぶ道へ繋がる。ロックラから指定された店はダイナー風のカフェで、アメリカ様式の店内は人で一杯だった。店に入り周りを見渡していたら彼の声が聞こえてきた。窓際のボックス席から身を乗り出し手を振っていた。
「ロックラさん、お久しぶりです〜」
俺は平静を装い気軽に挨拶を返す。
「お久しぶりです〜」
ニコニコと爽やかな笑顔を振り撒く彼は相変わらずオタクっぽくない。
「とりあえず何か飲みましょ」
彼はメニューを取り俺にも差し出してくれる。どうも、とそれを受け取った。
「ここ来てみたかったんですよ〜」
「めっちゃお洒落な店ですね」
「こういうアメリカンなお店好きなんですよ〜」
「ロックラさん、もっと落ち着いたバーとか好きそうというか、似合いそうな感じですけど」
「いやいやーハードル高いっすよ〜」
こんなどうでも良い話をしながら二人ともジョッキビールを頼み、アメリカンらしくこの店の売りにしている巨大なバーガーも一緒に頼む。すぐにビールがテーブルへ届く。
「かんぱーい!」
「かんぱーい」
マスクを取って気持ち良さげに一口目を飲む彼は、本当に顔の整った良い男だった。何故俺の様なオタク人間に関わってくれるのだろうか。劣等感から疑問が生まれる。
「かァ〜〜〜! この一杯の為に生きてるわー!」
「いやー美味い」
労働をしていなくてもビールは美味かった。
「ジョッキじゃなくて、この店だったら瓶のまま飲むのもおつですねぇ」
「本当にアメリカって感じ好きですね」
「海外かぶれのミーハーなので」
彼が照れ臭そうに笑う。
「そういえば再来週のライブ楽しみですねぇ」
「ですね。V WINDの子全員が同じライブに出るのは初ですもんねぇ」
「いや〜二期生の子達が遂に舞台に立つのほんと嬉しい」
「ほんとソレ」
「アニクラの子達も出てて、そっちも個人的には楽しみです」
「良いですねぇ。自分はアニクラは全然追えてなくて、あんずちゃんとリコちゃんを少し知ってるくらいで」
「あんリコはほんと尊いのでこの前のコラボ見て欲しいっす!」
と、こんなお洒落な店でもこんなオタク話しか出来ない。他に話せる共通の話題も無い。彼が意気揚々とYouTubeを開き、その配信のURLを俺のTwitterのメッセージボックスへ送りつける。
運ばれてきたバーガーに舌鼓を打ちつつ酒は進んでくる。フードメニューは少し高めの値段設定だが、飲み物、酒類は意外に安価で久々の他人と飲みという事もあり既にお互い三杯目へ口をつけ始めていた。追加で頼んだチップスとピクルスもよく合う。
「そういえば、この前言っていたコンビニの人と偶然会ってメシに行ってきたんですよ」
「あ、あのファミマの店員さんですか?」
「そう……クソバイト終わりに公園でだらーっとして居る所を見られてしまって。彼女はカフェに行く途中だったみたいで、そのまま一緒に」
「えーめっちゃいい感じじゃないですか!」
「まさか二回も偶然会うなんて、変なカンジですよね。ストーカーかと思われてそう」
「運命、なんじゃないですか?」
「ロックラさん意外にロマンチストですね」
「いやいや、それはそう思わざるを得ないでしょう。それに自然とデート出来るなんて」
「いや、僕らは多分そういう関係には成れなくて、ただの友達でしか居られないんです」
「えー、ジンさんはその方の事どう思ってるんです?」
「そりゃあ……素敵な人だとは思っていますけど。僕より三、四つは年下だろうし、俺みたいなオタクが接して良いような人じゃないんです」
「恋人みたいな目じゃなくて、推しを見るように思えているんですね」
「それが近いかもしれないですね」
「なるほどなぁ〜」
「そういう意味じゃ、ロックラさんとりっき〜さんはどうなんです?」
「え、どういう脈略ですか!?」
ロックラは慌てた様な顔をする。
「いや、お仕事で一緒した方で、彼女の推しだと言っていましたけど、そういう関係でもあったのかなって」
「いやー、同じ様な事を返しますけど。僕も彼女はすてきな、人としても異性としてもそうだと思います。けど流石に結婚してる人に手を出そうとは思いませんよ」
「え、そうだったんですか」
「あ、すいません……。Twitter上だと私生活は出さない様に彼女しているのに」
「いや、謝るなら彼女にして下さいよ! 『すいません、あなたの個人情報をキモオタに流してしまいました』って!」
「ハハハ! 確かに。でもまぁ、ジンさんになら言ったと言っても許されるでしょう」
「本当ですか」
「多分ですけど」
僕らはお互い落ち着く様にまた一口ビールを煽る。
「はぁ……」と一息つき彼が落ち着ける様な仕草を見せる。
「実は、今日会いたかったのは……GinGinさんの事が最近分からなくなって来たからです」
バーガーの皿に盛られていたフライドポテトを摘みながら急にロックラは切り出す。俺は眉を顰めながらジョッキをまた煽り、続けて、と目で言う。
「最近のジンさん、何か変です。発言が刺々しいし、誰に何を言ってるのか分からない事もある。もしそれが僕の事なら直接言って欲しくて」
「え」
全くの無自覚に言葉が漏れる。
「僕がV WINDにハマり始めた時からよく絡んでくれて、他のVTuberさんを勧めてもらったり色々してくれたのもジンさんなんです」
酒のお陰か彼も饒舌に喋る。
「こうやって直接会って話せば紳士的で穏やかな方だと分かるのに、Twitter上に居るあなたは別人の様で、正直あまり好きになれないです」
「はぁ……」
無自覚、というのは嘘だったかも知れない。俺は性格上思った事をツイートせずには居られない。ネット弁慶、等というスラングもある様に、ネットの上でなら自由に発言して泳ぐ事が出来ると思っていた。それを妨害される様な、ストレスを感じた。
「まぁ……俺の愚痴っている事にロックラさんを含んだ事は一度も無いです。それに俺は思った事を呟かずには居られないタチなので、余り気にしたことも無かったんですが……」
汚い言葉達が脳裏を埋める。勝手に俺のフォローを外すなり、ブロックするなり好きにしたら良いだろ。一気にテンションはマイナス値を振り切り、話す気が失われてくる。何か他人に不快な事を言われたり指図される様な事があった時に表れるいつもの行動だ。その相手に俺から関わる事を断つ。関わられない様に無視する、繋がりを切る。そうでもしないと何かが心の蟠りとなって深く沈澱し続ける気がする。何より相手に構うのすら時間の無駄にしか思えなくなる。俺はこいつに何て言えば良いのだろうか。
「まぁ、そう、ですよね……。ジンさんのスタンスは変わってないんですよね……」
何か自分に言い聞かせる様に彼は言う。コイツは何にそんな深く悩んでいるのだろうか。
「ジンさんは大切な友人と思っているんです。だから僕はどうしたら良いか分からなくなって来たんです。すいませんこんな事言う為にわざわざお呼びたてして」
何なんだコイツは。友人、という言葉がいやに引っ掛かる。こう他人から言われると上辺だけの薄っぺらい言葉にしか聞こえなくて困る。コイツは俺に何を求めているんだ。分からない、面倒臭い、会話を終わらせたい、帰りたい。
「まぁその……俺の事が不快ならブロックするなり、自由にして下さい。ネット上での人付き合いなんてそんなものじゃないですか?」
俺は平坦な言葉を返す。
「そう……ですか」
「ええ、勝手にどうぞ。俺も勝手に呟いているだけなので」
俺は財布を取り出し五円札をテーブルの上に置き席を立ち上がる。深刻そうな顔をして下を向く彼を見下し、俺は店の出口へ足を進めた。
はぁ、電車内の冷房で頭を冷やしながら漸く分かる。彼は俺に出来ない事をやって退けたのだ。相手に直接嫌いな所を言える。そういう男だったのだ。わざわざあんな席まで設けて。会社を経営する人間としてそういうハッキリと自分の意見を示す、芯のある心を常に持っているのかも知れないが、年下の奴にこんな事を言われてしまった。情けない。車内で自分に呆れた様な、自分に諦めを感じる様な苦笑いが流れる。何やってんだ俺。
気持ちよくほろ酔いになっていた所をこうも一気に素面に戻されてしまうと気持ちが悪い。酒に酔いたい。そんな気持ちが早る。先程までの渋谷とは打って変わって土曜の夜だというのになんとも物静かで活気のないいつもの駅に降り立ってしまった。改札を出て家の方へ歩き出す。少し歩くと二階の窓にGIRL'S BARと青とピンクで下品に輝くネオン管が目に入る。その一階、階段の入り口前にはバニーガールのコスプレをしたやる気のなさそうな女の子がスマホをいじりながら立っている。そういえばガールズバーなんてこの駅前にもあったな。看板を見て漸く思い出した。俺はいそいそとその子に近づく。
「こんばんはー」
「あ、こんばんは」
急いで彼女がスマホを仕舞う。
「よかったらどうですかー」と彼女が手に持っていたチラシを渡して来ようとする。
「あ、今空いてます?」
「空いてますよー。初めてですか?」
「はい」
「どうぞ〜」
彼女の表情は既に営業のスマイルを纏っていた。それで良い。バイトなんてそんなもんだ。
「お客様ご案内です〜」
「いらっしゃいませ〜」
とカウンター内に立っている三人の女の子達も息ぴったりに返してくる。好きな席にどうぞと案内されるので俺は先程のネオンが輝く駅前通り沿いの窓側に座った。点滅を繰り返すネオンの灯りが窓を反射し、そして店内にも明暗と色を配っている。
「どうぞ〜」
小柄な童顔の子がおしぼりを広げて渡してくる。ピンクのバニーガールのコスプレをしていた。それを両手で受け取り手を拭った。暖かいおしぼりが電車内で冷やされた指先に気持ちが良い。
「こちら時間制になってまして、四十分で三千円の飲み放題になってます。それでこちらのメニューが飲み放題で、単品メニューはこちらから――」
とシステムについて説明される。とりあえずその飲み放題だけ付け、ビールを頼む。ポケットからiPhoneとセブンスター、Zippoを取り出してカウンターに置いた。
店の中はL字にカウンター席が設けられており、窓側のカウンター席は俺一人で独占していた。中程のカウンターには常連らしい四、五十代の男二人が大声でカウンターの中の子達と話している。
「おまたせしました〜」
グラスに注がれたビールを受け取る。煙草に気付いた彼女が灰皿をカウンター下から取り出し置く。
「はじめまして、ハルと申します〜」
「はじめまして〜」
「お兄さん、お名前は?」
「勇気です」
「ユウキさん、と」
彼女が脳内にインプットする様に復唱する。
「あ、よかったらお姉さんも」と酒を飲む様にジェスチャーする。
「え、ありがとうございます〜!」
なんとも嬉しそうに返事する。彼女がグラスを持ってくるまで待つ。
「あ、すいません〜! かんぱーい!」
「かんぱーい」
俺は何とも気持ちの悪い笑みを浮かべているのだろうと思いながらもニヤついた口のままビールを煽る。
「今日はお休みですか?」
どこの店に行っても聞かれる様な開口一番の言葉を受け取る。
「ええ。さっきまで渋谷で少し飲んでました」
「えーそうなんですかー! いいなぁ〜」
「まぁ……色々あってすぐに帰って来ちゃったんですけど」
「この辺りに住んでるんですか?」
「大通り超えた向こうなんで、区は変わっちゃいますけど」
「そうなんですねー! え、で、渋谷でデートでもしてたんですか?」
俺が口に含んだビールをグラスに吹き出しそうになる。
「あ、ごめんなさい!」
「いや、大丈夫ですよ。なんでデートなんですか」
「え、今の反応は図星なんじゃないんですか〜?」
「いやいや、男の友人、ですから」
友人。そう言った時に少し言い詰まり違和感を覚える。俺も彼のことを友人だと思っていたのだろうか。
「いやいや、今の時代、愛に性別は関係アリませんよぉ〜」
ニヤニヤと彼女が言う。可愛い。
「いやいや違いますから!」
「まぁまぁ、色々あったんですね」
「まぁ、色々です」
俺も笑って返す。彼女の色々訳ありなんですね、私は分かってますよ。と演技する様な笑みが面白くて可愛かった。
「で、ストレス発散の為にここに来たと」
「まぁ……もう少し飲みたいと思っただけです」
「へぇ〜……」
彼女が後ろを振り返り。何かゴソゴソと漁っている。
「はいコレ!」
「え」
と、彼女がカラオケ用のタブレット端末とマイクをカウンターに置く。
「うちカラオケもあるんで、どうぞ叫んじゃって下さいよ」
「えぇ〜」
「ユウキさん、なんか歌うまそうじゃないですか」
「いやいや、全然そんな事ないですから」
カラオケも良いなと思いなんとなくタブレットを弄り始める。
「普段何聴いてるんですか〜?」
「特に好きなアーティストとかジャンルは無くて……。気に入ったらその曲だけ買ったりとか」
「まぁ今はネットで一曲ごとに買えますからねぇ〜。便利!」
「いやいや、いつの時代の人ですか」
「女性に年齢のハナシはNG!」
「ごめんなさい」
「そういう勇気さんこそ幾つなんですかー?」
「えー……ヒミツ」
「なんなんー! じゃあお互い秘密で!」
彼女のトークに乗せられ楽しくなってきてしまう。仕事とはいえ、俺の様な男に付き合わされて大変だろうに。俺は特に理由もなく海外のロックバンドの名前を入れて検索していた。このバンドを知ったのも涼咲カイのお陰だった。オルタナロックというジャンル名すらこの歳になって初めて知ったのだ。推しに感謝するしかない。ページを送りながらこの曲は入ってるのに、あの曲は入ってないのか等と思っていると彼女が覗き込んでいた。
「え、チリペッパーズ聴くんですか!?」
「あ、いや、まぁ」
「いいですよねー! 私去年のサマソニで観ましたよ!」
「えーいいなぁ〜」
「めちゃカッコよかったですよ! はい、じゃあ歌ってくださーい!」
「ええー」
そう声では否定しつつも俺はライブで一曲目によく演奏される定番の曲を送信していた。
チープな打ち込みのベースとドラム音源が響き始め、俺の左上の方のカウンター内に設置されたモニターを見上げる。出だしからスっと入り歌い始める。英語歌詞の上に表示されるカタカナ振仮名を必死に目で追いながら歌う。カウンターでぎゃあぎゃあと騒ぐおっさん達の声がうるさくてカラオケ音源が聞こえない。俺は立ち上がりモニター近くのスピーカーに近付き歌う。舌が絡まり難しい発音の所は適当に誤魔化しながら歌う。ラップ調の歌詞は多少誤魔化しが効くと思う。気付けば彼らのボーカルがステージパフォーマンスする様な身振りをしながら頭を揺らし最高に気分に浸って曲を歌い終えた。
「だァーーー」
俺はカウンターの上で汗をかいていたビールを一気に飲み干す。そしてどかっと席に座り直す。
「えーユウキさんすごーい!」
「お兄さんめっちゃ上手〜!」
他の子からも賞賛を受け俺は益々気分良くなった。
「いやいや、何となく誤魔化しながら歌ってるだけですから」
「いやめっちゃ良かったですよ! おかわりビールで良いですか?」
「あ、お願いしますー」
「はーい!」
彼女が暖簾の奥のキッチンに消え、俺はカウンターの上に置いていたiPhoneを触る。つい何時もの癖でTwitterを一番に開いてしまう。そして、なんとなくロックラのアカウントを検索してみる。が、検索結果の予測アカウントに上がってこない。ダイレクトメッセージのタブを開いて彼とのメッセージ履歴を開く。すると『ブロックされている為今後メッセージのやりとりは出来ません』と表示されてしまった。そこから彼のアカウントに飛んでみると、そこでもブロックされています、という表示。悲しみに近い感情と同時に、何か呪縛を解かれた様な気さえした。俺は俺の言いたい事をネット上に垂れ流す。不快なら見ないでくれ。『嫌なら見るな』というのはインターネット上での常套句だ。俺は清清した気持ちと共に逆上した感情を文字に込める。
『俺は言いたい事を素直に呟いちゃう人種なので、嫌ならブロックするなりフォロー外すなり自由にして下さい』
強がりの開き直りだ。やっぱり悲しい。数少ない気軽にオタク話が出来る人間すら失ってしまった。
「ユウキさーん?」
ハルちゃんの声が暗闇の中で遠くから聞こえた。
「ビールどうぞ?」
「あ、すいません。どうも」
俺はグラスを持ち大きく一口飲む。セブンスターに火を点け一息吐く。ビールと煙草はどうしてここまで合うのだろうか。
「あぁ〜〜、美味い」
「やっぱり今日はデートだったんですか?」
彼女はしつこく訊いてくる。
「うるさい! はいじゃあこれ歌って!」
「なんで〜! これあの映画の奴ですっけ」
「そうそう、分かるでしょ?」
「まぁー少しは」
「はい、ハルちゃんも歌おう!」と俺はその曲を入れ、余っていたもう一本のマイクを彼女に突き付ける。
二時間程歌って飲んで気持ちよく酔っていた。女の子達に酒を進め過ぎて会計すれば既に二万円を超えており多少ビビったが、会社員時代に作って未だ使えているクレジットカードで支払い事なきを得た。
「また来て下さいね〜!」
「あぃ〜」
階段下まで見送ってくれた彼女に軽く手を振りふわふわと浮かぶ身体を家に向ける。彼女の名前もハルちゃんかぁ、とふらふらと思う。
今度のハルちゃん達が出演するライブのタイムテーブルを見たくてGoogleで検索していた。その検索結果の中に何で引っ掛かったのか、VTuberの推定年収や配信の視聴者数について語っていたネット掲示板のスレッドのまとめブログがヒットする。Twitter以上に勝手な邪推やアンチ発言で溢れるそういう類の掲示板は見たくもないので避けていたが、何の気なしに開いてしまっていた。
勝手に集計され格付けされた配信内でのスーパーチャットの総額や同時視聴者数でのランキング。
『○○の裏でこのコラボやってたんだから視聴者少なくても仕方ない』
『○○は完全に××の配信に被せてこの時間にした』
『○○アンチ必死だなw』
『>>116 事実だろ涙拭けよ』
等と予想通りのオタク共の言葉の応酬に吐き気を催す。やはり見なければよかった。だがしかし、そのランキングにV WINDの子が居れば嬉しく思ってしまう自分も居る。それはコイツらと同類だと認めてしまっている様なものなのだろうか。
しかし推定月収の金額を見れば恐ろしい額だ。ランキングトップの連中となれば一回の配信で数百万円分のスーパーチャットが当たり前の様に飛んでいる。YouTubeに、事務所にどれだけ彼らが搾取されるのかは知らないが、いずれにせよ凄まじいし、正直に言えば羨ましい。カラオケしたり、ゲームの配信をするだけでそんな金が稼げたらどれだけラクな人生か。裕福な人生か。
そう考えれば、一般人でも多くの人に見られる機会があれば人気になれるのでは? カリスマ性、芸、技能というのも必要ないのではないか?
大手のアイドル事務所から新しくデビューするグループが発表されれば勝手に注目される様に、無名の新人役者がいきなり映画の主演を務めれば話題になる様に。
VTuberも今となってはそんな芸能界と同じ様な構図に思える。有名な事務所、グループからデビューするから最初に勢いがついてそのままネット上で話題となる。結局それ以外は本当に何かたまたま偶然ネット上でバズりでもしないと軌道に乗れる機会は無くネットの海に沈んでいくのだ。
『あー俺も来世はパパ活しながらVTuberやって適当に彼氏とウハウハしながら暮らしてーわ』
またクソみたいな事をツイートした。
だが来世に託そう、という想いは本物かもしれない。
別に彼らを馬鹿にしている訳では決してない。現に俺は何人ものVTuberの推しを持っているオタクだし、彼女らが裏で歌やダンスの練習もし、ゲームにしたってひたすらに練習をしてから配信している事も分かってはいる。
基本的に自分の家から配信しているであろうから、そういった裏でやっている事も含めて仕事とプライベートの境界も曖昧だろう。
『在宅ワークと一緒で、Vってほんと休みと仕事の境界曖昧だよな』
『それに中の人として別にチャンネル持って配信したりしてる人とか本当すごい』
素直に彼らへ敬意も表する。
俺もVTuber始めてみるか? と阿呆みたいな意見が浮かぶ。結局彼らを馬鹿にしているのではないか? いつか編集をやってみるかと思い立った日の様に。男のVTuberも腐るほど居るし、最近では男が女の子のアバターを使って配信する者も多いし。
無理無理。次の瞬間にはやっぱり自己否定だ。良い声も歌声も無い。トークスキルも無い。ゲームが上手い訳でも無い。ゲームや普通に配信をしようにも高スペックのPCを用意する金も無い。VTuberとして使うアバターを作ってもらう金も勿論。どこか事務所にでも入れればそれらの問題も関係無いが、俺がオーディションやらを受けても雇われる訳が無い。無い無い尽で笑えてくる。それでも俺がもし女だったら、そういうチャンスを掴める可能性はまだゼロより上だったのだろう。オンナというだけで特別扱いされ、持ち上げられるこの国で、羨ましいと思うのは当然なのではないか。
俺はこういう人間だと開き直って、自分に言い聞かせてる良い歳こいた人間なんて腐るほど居る。俺もまた……。
結局俺は自己解決という名の自分の目で測って作っただけの簡単な物差しで他人を見て、内省出来ている様な振りをしているだけのピエロに過ぎない。ああ、本当に俺は何の為に生きているんだ、生かされているんだ。
こうして俺はネットを閉じ、世界と断ち、自分の世界へ閉じ籠った。
そうして待ちに待った、訳でも無い二十二日はあっという間にやって来る。そのイベントは実際の音楽フェスの様に一日を通してずっと様々なVTuberが音楽を奏でていた。朝十時から配信開始され、予定では二十三時までタイムスケジュールが一杯だ。更に二十三時から朝三時頃までDJ系のVTuber達によるクラブミュージックパート。そしてまた翌日も朝から丸一日音楽漬けという訳だ。
今日のハルちゃん達V WINDの子らは十七時から登場予定になっていた。朝からその配信を開いてずっと音楽を流していた。皆上手で、ステージ上で輝いている。名前を聞いたことが無いVTuberも多く、思わず数人のYouTubeのチャンネルを検索しとりあえず登録するという刺激も貰っていた。
『リハ終わりました! みんな待っててね!』
というミズホちゃんのツイートへ『楽しみにしてるよミズリン〜〜〜!!!』と同じステージに上がるハルちゃんがリプライしており久しぶりにミズホオタクぶりを発揮していた。
その二つをリツイートした瞬間、『この子も私と同じステージに出ますから!』とハルのリプライを引用リツイートし、ミズホちゃんがツッコミを入れていた。こういう推し同士のやりとりを見ているだけで楽しい。
『草』『ミズホオタク君さぁ…』とオタク共が送る寒いリプライを見て冷める。他人のどうでも良いリプライを表示出来ないようにしてくれTwitter。
俺はまた流れるVTuberの子の歌声に耳を傾けハイネケンを一口飲む。煙草も一度吸い込み悦に浸る。良い土曜日だ。窓から差し込む日が美しい。最近日の入りが少し早くなった様な気がする。そんなもう日が消えて行くのを予兆させる空。夕方の空気。
画面が切り替わり、次のアーティスト紹介の映像が流れ始める。三人のイラストが表示され最後に『V WIND 六聞ミズホ・一ノ瀬マリー・七海ハル』と画面一杯にその文字が表示されたその瞬間、全身の鳥肌が立ち、涙が眼球を覆う。そして画面は暗転する。そしてギターとドラムの音が乗る。暗いステージにスポットライトの光が射し込み、一気に彼女らの声が爆発する。
「止まらないこの波 世界の一部になる」
「倒されたって 目を覚ませ」
「死ぬんじゃない メッセージを世界に残せ」
一期生の曲だった。その曲を二期生のハルが一緒に、憧れのミズホと共に歌い上げている。俺の愛する人達がステージで歌っている。コメント欄も大いに盛り上がり、高速で流れていく。
圧倒的なパフォーマンスでスタートを切った三人。完全に視聴者達を惹きつけている。その怒涛の勢いのままアップテンポな曲を三曲続けて披露しMCに入る。だが、ハルちゃんの様子が変だった。
「ハルちゃん大丈夫?」
マリーが訊く。
「すいません、先輩達と舞台に立てた事に今更実感が湧いてきて……」
「ハルちゃん」
優しくハルを庇う様にミズホは肩を抱いてやる。その美しい光景を目にして、再び泪は溢れ出て来る。
『ハルちゃん、本当におめでとう』と、その時抱いた本心をツイートした。このフェスのハッシュタグ『#VmusicFES2020』も付けて。そのハッシュタグをクリックすれば様々な感想や告知のツイートが流れていく。関連ユーザーに七海ハルも出て来る。彼女のプロフィールを見れば既に十万人を超えるフォロワー。彼女のYouTubeチャンネル登録者数も既に二十七万人を超え、名実共にトップVTuberの一人と成っていた。V WINDの中でもトップの登録者数を抱える理由としては、六月に行った配信の切り抜きがバズり、海外人気も出てきたお陰だろう。
VTuberになってから始めたというFPSゲームでもメキメキと頭角を現し、かなりの腕前を度々披露している。活動当初に行っていたゲーム配信等を見ていても飲み込みが早い人だとは思っていたが。今ではVTuberに限らず一般のYouTuberやプロゲーマーとも一緒にFPS大会に出場したりとその方面で名を馳せている。例のその配信の中でオンラインで対戦していた他プレイヤーのボイスチャットが入り込み、そのプレイヤーが放った『FUCK!!!』という叫び声に釣られ彼女も『Oh...FUCK!』と呟いた一言が何故か海外ファンの心を掴み、コメディ動画やミーム動画と呼ばれる動画のテンプレートネタとして流行り、動画の途中に挟み込まれたりオチに使われた動画が海外の掲示板やYouTube、TikTok等で大量発生した。まさにミーム的伝染力だった。普段全く英語を話さない彼女が突然その様な汚い言葉を放ったから、というギャップも大きかったのだろう。
それが流行ったお陰か、彼女は最近では何ヵ国語か話す事の出来る他事務所のVTuberと英語の勉強配信コラボや、一人でも英語教材を使った練習配信も行い、海外ファンへ近付こうと努力していた。
改めてもう遠くに行ってしまった存在だと思った。インディーズから推していたバンドがメジャーデビューして心の距離が離れてしまうバンギャもこんな気持ちなのか。俺も当初はV WIND以外のVTuberをあまり知らなかったというのもあり彼女らに熱を上げていたが、今となって多く居る推しの中の数人に過ぎない。今はもうそれこそ毎日の様に多種多様なVTuberが生まれている。勿論彼女らをどこか特別視している自分も居る。『最初の頃のバンドが好きだった』『メジャーに行ってから攻めた事しなくなってつまらない』『ファンサしてくれなくなった』等と云うが、それは事実でもあるかもしれないが言い訳の様にも聞こえてしまう。七海ハルに置き換えて言えば、当初のミズホオタクっぷりはもうあまり見ないし、俗に云う『陰キャ』オタク的キャラも影薄く、普通に話してトークを回して視聴者を楽しませるプロになっている。そんな当初のキャラをずっと持ち続けるのも大事だろうが、それだけで押していくというのもまるで一瞬で消えていく一発屋のお笑い芸人の様で嫌だ。そんな最初期の頃の彼女が好きだったという人はその頃の配信のアーカイブでも延々見ていればいいし、他にも居るであろうそういう同じ様なキャラのVTuberを新たに推していけば良いのだ。そう言うのは簡単だが。
彼女らはしっとりとしたオリジナル楽曲を歌い上げ、美しいハモりと優雅な踊りを我々に魅せつけ、持ち時間の五十分は過ぎようとしていた。
「今日は本当にありがとうございましたー!」
「明日もV WINDから他の子が出るので見て下さいねー!」
そう言い残し、舞台は暗転しあっという間の時間は終わってしまった。再びこのイベント告知や、協賛企業のCMが流れ次のステージまでの待機時間となった。フェス公式アカウントが呟いていたタイムテーブルを見れば、この後二十時からはロックラが楽しみにしていたアニクラというグループだった。彼も見ているだろうか、呟いているだろうか。どうでも良い事を思う。
俺の切り抜きチャンネル用のTwitterアカウントに切り替えれば彼のツイートを覗くことは出来るだろうが、彼が普通にツイートしている様を見たくない。俺という人間一人切り捨てて何も無かったかの様に生きている様を見せつけられたく無い。なんて小さい人間なのだろうか。ほとほと自分という人間にうんざりする。
× × ×
九月、十月、十一月……。光陰矢の如く時は流れ、だが残酷な程正確に流れ。世間は既に年末と新しい年を迎える雰囲気に包まれていた。
そして二〇二〇年十二月初め。涼咲カイの初オリジナル楽曲『The lights are gone』、及び同名のミニアルバムがリリースされ、ネットストリーミング数、CD売上でもランキングトップに躍り出ていた。彼女の大手レーベルからのメジャーデビュー作でもあった。俺の職場の有線放送でも頻繁に流れている。
このアルバムは五曲から構成されている。全曲作詞・ボーカルは彼女。そしてギター、一部ピアノも彼女が演奏したものだ。
私は進み続ける、という激しい意志とパンクを感じるアルバム一曲目に相応しい『Don't Die』。
全編英語歌詞でサーフミュージックをリスペクトした『Wave to us』。
ラップ調の歌唱とオルタナ味全開の音が醸す『Stray cat(s)』。
渋いベースが気持ちいいジャジーなロックナンバー『Swing with the ghost』。
そしてアルバム表題曲の『The lights are gone』。この歌は兎に角暗い。ネガティブなんて一言で片付けて良いモンじゃあない。比喩的で曖昧な表現の多い歌詞だが、彼女の立場に置き換えてみると分かり易い。現実世界では決して認められない自分。それとは反対にどんどんと評価され人気が出て私から離れていく仮初の姿(≒涼咲カイ)。最後に彼女に残るものは何なのか? と自問している風にも、他者へ問い掛けている様にも取れる歌詞。それらは彼女の元から持っている作詞才能と今までのVTuber活動の経験が合わさり生まれた最高の詞達かもしれない。歌詞の一部『You're my sunshine But you wanna kill me』『Darkness are my last piece of mind』と自己否定と反証、肯定。自分の闇の部分へも踏み行り手に入れたパワーのある言葉達だった。さらに深読み、否定的解釈で捉えれば、今のVTuber界隈の陳腐さ、虚無感をディスった様な、警鐘を鳴らす様な歌詞とも取れるかもしれない。そしてその歌詞に合わさり、エモ感の強い歪みまくって泣くギターに冷たいピアノの旋律とが合わさり無条件に涙腺を緩ませる。
彼女の才能と“良さ”を最大限に引き出し、彼女のロックミュージックに対するリスペクトと造詣の深さを体現した、他のVTuberのアイドルっぽさや可愛らしいキャラクターを全面に押し出した楽曲達とは一線を画す名曲、名盤となった。プロデューサーには今まで数々のロックバンドを手掛けて来たクゥイ・ディーンを迎え、その他スタッフ陣も本格的な面子を揃えた力の入れようだった。大袈裟かもしれないがVTuber界の歴史の一部に輝かしく、だが不気味に輝くページの一枚となっただろう。
『Vと現実の乖離というか、Vとして評価されすぎてる事への葛藤が聴いていて辛い…けど最高にエモい』
『社会に対する批判を描いても、俺は違う、俺の子供は違うと勝手に思い込んで自分を顧み無いんだ』
アルバム販売開始と共にYouTubeにアップされたThe lights〜のミュージックビデオのURLと共に俺は呟いていた。俺のTwitterフォロワー数はもう七千人を超えていた。俺のツイートは瞬く間に拡散される。五十リツイート、百リツイート、二百リツイート……。
つらい、殺してあげたい。俺は素直にそう思った。VTuberなんて辞めてしまえばいいのに。鬱になり易い人は、人前ではごく普通に明るく他人に接し、その様な事で悩んでいると周りに知られない。本能的に隠してしまうらしい。歌に乗せられた言葉達が彼女の本音なのだとしたら、本当になんて辛いのだろう。V WINDの人達は、同期は、一期生の子達は分かってあげられているのだろうか。
先日俺は机の上に置いた黄色い袋と一緒にそのアルバムの写真をiPhoneで撮りTwitterに上げていた。タワーレコードで購入したLP盤だ。このアルバムはCDを買いたい、物理的に持っていなければならないと俺の中の何かが囁いた。アナログレコード盤が受注生産で発売されると聞いた時には既に予約してしまっていた。美しい青、青すぎるほど青い海が一杯に広がり、そこにギターを右手に握りしめ赤い大地に立ち尽くしこちらを振り向いて見て悲しげな儚い顔をした彼女の哀愁漂う姿。これもまた何とかという有名な絵師が描いたものだ。普段の3Dキャラクターっぽくない、リアル寄りの彼女の姿が三十センチメートル四方のジャケットを埋めている。美しい。これは今棚の上に置き壁に立て掛けている。目に入る度に溜め息の出る芸術品だった。レコードプレイヤーも安い物は一万円台から販売されているらしい。今月の給料が出れば買いたいものだ。自分へのクリスマスプレゼントか。
俺はiTunesでも購入しiPhoneへダウンロードしていたアルバムを聴きながら一人休憩室で目に涙を浮かべていた。午前三時二十五分。そろそろ休憩も終わりか。
俺はイヤホンとペットボトルの五百ミリリットルの水をロッカーへ放り込み職場へ戻った。
俺はカートに積まれた大量の缶酎ハイの箱を一つ取り、床に置く。箱を開け商品棚に並べていく。なんとも単調な作業だ。ここの仕事にも一週間も掛からず慣れた。ここで働き始めてもう二ヶ月経ってしまった。毎日同じ事の繰り返し。出勤して最初にする事は十トンの大型トラックで届く深夜便の荷卸し。それから俺は主に豆腐やら麺類コーナーを延々と品出しして並べていく作業。そして次はこうやって飲料の補充。時間が余れば菓子の補充……。ロシアの収容所で壁のシミを数えていた方がマシな気がする程時間が進まない単純作業。朝六時の終業時間を待ち望みながらダラダラと身体を動かす人形。世の中のまともな会社で生きている人間というのは、仕事にやりがい等というものを感じているのだろうか。少なくともシステムエンジニアとして働いていた時の俺は全く感じていなかった。そもそも何故エンジニアを目指したのだろうか。IT系と呼ばれる職業に漠然と憧れて、安定した職種と思い込み、他に何の意志もなく勉強していた気がする。
「あッ」
思わず声が出る。そんな事を考え上の空だったか、補充しようと手に取った缶を床に落としてしまった。すぐに拾い上げる。大丈夫、漏れたりはしてない。俺は飲み口が不細工に凹んだその缶をそのまま棚に差し込む。他の従業員も見ていない。この酒コーナーに今は俺一人、孤独だ。俺は深夜のディスカウントショップでバイトをしていた。丁度その時だった。か細いギターの音色が聴こえてくる。店内のスピーカーから流れる『The lights are gone』だ。そのイントロを聴いただけで涙腺が緩む身体にされてしまった。俺は不織布マスクの下でひとつ鼻を啜る。涙が溢れそうだ。彼女の歌が聴こえる。先ほど休憩室で聴いたばかりなのに新鮮に脳裏に響いてくる。
「お疲れ様です、手伝います……」
ポツリと声が聞こえた。一人の男の子が俺の所を手伝いに来た。
「おつかれ〜、こっちのはもう終わってる奴だから」
「はい……」
俺が入ってきて一ヶ月後くらいに来た大学生の子だ。確か二十歳。細身だが一八〇センチメートル程あり、肌も真っ白い。この近辺の大学に通っているそうだ。俺が言うのもなんだが、陰気で元気が無くて、若い子がそんなんで大丈夫なのかと思ってしまう程、彼はか細く、消えかかっている蝋燭の炎の様な男だった。
彼は盲目的に必死に仕事する。今も慌てている様に必死に酒缶を箱から取り出してババババっと棚に詰めていく。ちゃんとしなければいけないという意識からなのだろうか。それとも何かしらの強迫性障害の様な一種の病気なのだろうか……。現代では何か他人と違う所があれば『病』とされてしまう。普通なんて、基準なんて他人が決めただけの事なのに。俺はそんな彼が別に嫌いじゃない。無駄に喋らないし、真面目に働こうとしている。むしろ勤務態度的には俺の方が適当にサボっている。昔会社で働いている時に云われた『Work smarter, Not harder.』。それは俺の一つの行動倫理となっているだろう。彼が俺のやっている麺類のコーナー等でも手伝いに来れば、棚に何十個と並ぶ商品の賞味期限を一つ一つ全てチェックし、日付順に前から丁寧に陳列していく。そこまでしなくても、昼間の人間もチェックするし、何より時間の無駄だ。他にも大量に品出ししないといけない商品があるのに、彼はずっと黙々ときちんとチェックしていく。だがそれで良い。それが彼のやりようなのだ。適当な仕事をする奴よりよほど良い。むしろ彼の方が「大垣の野郎、適当な仕事しやがって」と内心で思っているかもしれない。まぁそんなのお互い様だ、許しておくれ。
その時、バシャアと派手な音がする。
「あああすいません……すいません……」
彼が誰かに言いながら床に転がるビール缶を拾い上げる。そしてすぐに走ろうとする。
「走らなくて良いから。破損品の置き場分かる?」
「あ、ハイ……。分かります」
「じゃあ流しで中身捨てて、そこに置いといて」
「わかりました……」
右手で缶を持ち、左手で皿を作っているがボタボタと床に溢れていくビールを引きながら彼はバックヤードに下がっていく。仕方ない、そう思い俺は空いたダンボールを広げ、その酒が広がっている床に被せる。俺も裏に行き、雑巾を二枚取って売り場に戻る。彼がトイレの流しで缶を洗っているのが分かった。俺は一枚目の雑巾で酒を一通り拭き、二枚目の雑巾で乾拭きする。若干酒臭いが、大丈夫だろう。
「あの、すいません……」
後ろから彼が申し訳なさそうに言う。
「いや大丈夫よ。俺だってたまにやっちゃうし」
「すいません……」
「慌てなくていいから、ゆっくり品出ししよーぜ。俺らなんてバイトなんだし、そんな頑張らなくても良いよ」
「は、はい……」
頑張らなくても良い。そう言われて、彼はどう捉えるのだろうか。逆にプレッシャーになってしまったりするのだろうか。彼の必死さは宮沢賢治の小説の登場人物の様な、痛みを感じさせる。鬱で苦しんでいる人に「頑張れ」と声を掛けてはいけない様に、彼にはもっと別に掛けるべき言葉があったのだろうか。分からない。
翌朝、というか昼。職場から帰りシャワーを浴びて昼過ぎまで寝るのが最近の日常だ。寝ている間にV WIND公式から突如告知ツイートが流れてきた。『THE WIND TO 2021』と題されたそれは、今月末三十一日から翌一日、つまり二〇二一年への年越しカウントダウンライブを開催する告知であった。オンライン配信限定のライブ。八月に見たライブ以来だ。V WIND一期生、二期生全員で行う初のワンマンライブ。楽しみ。……楽しみ?
カイが世に解き放ったあの曲を思い出す。彼女の問い掛けは俺に対しても有効だった。ネット上でしか人に見てもらえない、話す相手もいない。ネット上ではそこそこ人気になったVTuberの切り抜き師、Twitter上で歯に衣着せぬ物言いをするVTuberの御意見番の様な評論家の様な地位を持っていても、現実ではこんな深夜に品出しのバイトをしている敗北者だ。ネット上での活動が何か仕事に繋がる訳でも無いし、金になる訳でも無い。虚構だ。
ダメだ、何もしたくない。四月のほぼ一ヶ月無職で生きてからというもの、本当に働く気が失せてしまって、今のバイトも全く身が入らない。
そういえば、四月頃に大炎上して解雇されていた元大手事務所所属のVTuberの“中の人”が別の事務所から再デビューしていた。ガワと所属を変えても声・喋り方を全く隠すそぶりも無く、あっという間にバレて中の人が別事務所に“転生”したと話題になっていたのだ。軽い炎上を巻き起こして注目を集める炎上商法しか出来ない道化だ。惨めだ。元々彼女のファンだった人間達がまたその転生した姿を喜び出迎え推している理由が分からない。彼女を本気で好きだと思い込んでいるガチ恋勢等という気味の悪い奴らだ。そんな気色悪いニュースも目から食べてしまい益々気分が悪くなった。
その晩。俺は冷たい空気の中、気怠く自転車のペダルを漕ぎいつもの職場へ到着した。タイムカードを押し、前掛けを着け客も殆ど居ない店に出る。俺は零時出勤、いつもの大学生の子、たしか名はイワタニ君……だったか。彼は一時出勤だ。だがその日、一時になっても彼は現れなかった。他のおじさんおばさん従業員連中は黙々と自分の仕事をしている。俺もたらたらと仕事する。寝坊だろうか。病欠だろうか。ぼうと考える。
三時過ぎ。一通り麺類コーナーの品出しを終え俺は休憩に入った。この職場では休憩時間は特に決められておらず、各々で好きなタイミングに入って良い。そこだけは好きなポイントだった。俺は裏口の外にある灰皿へ向かった。
「あ、お疲れ様でーす」
「おつかれ〜」
スキンヘッドの五十超えた位のバイトリーダーのおじさんと一緒になる。俺は一人で冷たい空気の下煙草を吸いたかったのに。セブンスターに火を点けて一息吐く。男二人きりで会話が無いのも気持ちが悪い。俺は適当に会話を考える。
「そういえば、今日イワタニ君休みなんですか?」
「あ〜彼ね、なんか昨日急に辞めたらしいよ」
「え」
「理由は特に言わなかったらしいんだけど、ほぼバックれだよね〜。ホント最近の若い子は分からんわ」
彼が煙草を吸い終え、また新しい一本に火を点ける。まだ立ち去らないのか。
「あーそうだったんですね……。店長も大変っすね」
「いや、店長も店長よ。もっとちゃんと引き止めたり叱るなりせんとナメられるよそりゃァ」
「まぁそうっすねぇ」
「ほんとこの店は新米店長ばっか回してくるからダメになんだよなぁ。俺が六年前に来た時からよォ……」
彼の愚痴は止まる事を知らない。俺は一本を早々に吸い終え、シレっと休憩室へ逃れた。そして二十分程机でうつ伏せとなり仮眠を取る。また彼女の歌を流しながら。
「あーーーー」
また吐き出る声と共にソファに飛び込んだ。無理だ。彼が辞めてしまったのもきっと俺の所為だ。昔ナガミさんが消えた時の事を思う。ロックラにブロックされた時の事を思う。もう嫌われ者で居るのは嫌なんだ。俺の様な社会の最底辺に存在しているだけで迷惑になる人間。何故こうも人を傷付けてしまうんだ。最低だ。やっぱり死んでしまおう。俺が生きている理由も特に無い。俺が死んでもバイトには新しい人間が補充されるだろうし、この部屋にも別の入居者が現れるだろうし、V WINDの切り抜き動画なんて何人も上げているし、俺が呟かなく成っても誰も気付きはしないだろうし。
どうせ死ぬなら。誰かと一緒に死にたい。独りはもう嫌だ。最後くらい。好きな人と逝きたい。
俺は仰向けに身体をなんとか転がし、ポケットの中で潰れたセブンスターを取り出す。一本咥える。指先が震えている。死。今自ら死を迎え入れようとしている。ソファを飛び起き、火を点ける。
すぅ、はぁー。……七海ハルを殺したい。一緒に死にたい。殺してあげたい。アイツを殺すにはどうしたら良いか? 考えろ。知恵を振り絞れ。空となったセブンスターの箱紙をゴミ箱へ投げる。入らない。クソが。
思考回路が無茶苦茶だ。落ち着こう。俺はイヤホンで耳を塞ぎ、七海ハルの配信アーカイブを流しながら近所のローソンを目指した。
再生して三分程で動画の途中に挟み込まれたCMが流れ始める。クソが。うるせーな。俺はポケットから取り出したiPhoneの画面を見て、右下のスキップボタンを押そうとした。「クリスマスイベント開催中! 一周年記念ガチャも実施中!」萌え声の気持ち悪い声優の声が流れる。不快だ。よくあるユーザーに課金させる事が主目的なアプリゲーム。気持ち悪い。このCMは十五秒間スキップが出来ない部類のものだった。クソが。クソクソクソ。俺はイヤホンを引き抜きiPhoneを閉じる。そしてポケットに乱雑に突っ込みまた歩き出す。真黒な雲が朝の空を覆う。眠気は無い。ただ無性にかなしい、心に巨大な穴が開いたまま俺は歩く。
ローソンに入り適当に五百ミリの酒缶を三本取る。アルコール度数の高い酎ハイ達だった。
「袋にお入れしま……」
「お願いします」
レジで店員の声を遮る様に言う。
「あと、セブンスターを一つ」
「ソフトとボックスが……」
「ソフトで」
俺の苛立ちに同化し二十代後半位の天然パーマの丸眼鏡の店員も少し不貞腐れた顔をして煙草を棚から取る。
「お会計八百六十四円に」
「あ、あとLチキ二つ」
「レギュラーでよろしかったで……」
「レギュラーで」
「……かしこまりました。お会計千百八十四円になります」
俺は丁度の金をトレーに置く。レジに置かれたセブンスターをポケットへ仕舞う。
袋を受け取りすぐ立ち去ろうとする。
「あ、お客様! お金が不足しています……」
言い辛そうに、表情だけ申し訳なさそうに言う。トレーの金を見れば十円玉と思って置いた一枚が五円玉だった。たった五円くらい……。俺は大きく舌打ちし、溜息を吐き出して財布から出した十円玉をトレーに投げ捨て店を後にした。余った五円玉を受け渡しに俺を引き留めようものなら、殴り殺してやろうと本気で思った。
家に着くなり、俺はチキンに齧りつき酎ハイで流し込んだ。YouTubeを開き、適当に七海ハルが昨日やっていたゲームの実況配信のアーカイブを再生する。相変わらず可愛い。落ち着いた声が好きだ。初見のゲームでも論理的な思考を以て着実にゴールを目指す、そのプレイスタイルが好きだ。サバサバとした考え方も話し方も好きだった。それなのにリスナーには優しく、思い遣れる心が好きだった。高速で流れて行くコメントも律儀に拾って繰り広げるリスナーとのプロレスも好きだった。Twitter上でもリプライやファンアートに反応してあげる所も好きだった。ただ、俺の作る動画には触れてくれなかった。そこだけが嫌いだ。どうして、他の奴らの作品は見るのに、俺のは見てくれないんだ。何故俺を見てくれないんだ。俺が作った動画より下手くそな編集をしている奴のを見てあげるのに、リツイートまでしてあげているのは何故なんだ。初めてあなたに送ったリプライに返してくれたのは、何だったのか。
調理されてから時間が経っていたであろうチキン達はパサパサとしてなんとも言えない不味さだった。もう一瞬で空き缶が二つ出来上がっていた。
「んぁ……」
惚けた声をあげ、目が覚める。突っ伏していたソファ横の床に落ちていたiPhoneは二十時五十五分を映していた。寒い。いつもの様に泥の様に眠っていた。もう二時間もすれば出勤しないといけない。はぁ……。今朝買った開けてない酎ハイの一本がちゃぶ台の上に置きっぱなしだった。缶のかいた汗が水溜まりとなっている。とりあえずシャワーを浴びよう。押入れの引き出しから一枚タオルを持って浴室へ入る。
さっと身体を洗い終え出る。ドライヤーで適当に髪を乾かし仕事用の服に着替えようとする。何故かサーっと落ちる水の、シャワーの様な音がする。玄関を開けて外を見れば雨が降り始めていた。華の金曜日に雨か。はぁ……。また溜息を出してしまう。もう自分のやりたい事、やらないといけない事全てが上手くいかない様な錯覚に陥る。俺は湯を沸かし急いでカップ麺を作る準備をした。
雨なので自転車ではなく歩いて行かないといけない。当然少し早く家を出ないとならない。溜息を我慢する。玄関の鍵を閉め、イヤホンで耳を塞ぎ、傘で雨を遮りながら歩き出す。だが家を出て五分と経たない内に腹が悲鳴を上げ始める。最悪だ。何でこんな時に限って。溜息を吐く。ヤバい。あのファミリーマートに行くか。毎日の様に通っていたあの店へ。足を早める。
傘立てに傘を投げ入れ、店に入りすぐに左折し奥のトイレへ駆ける。そこで絶望する。ああそうだった、クソコロナの所為でトイレは閉鎖されていたのだ。……ナガミさん。あの時もこの腹痛の所為でトイレを借りる羽目になり、だがそのお陰で出会えた、俺の天使の様な人。俺はトボトボと店の出口へ向かう。もう嫌だ。帰る。
雨の中ひたすら泣く。ボロボロと涙と雨が混ざったモノが頬を伝い顎の先から落ちる。漏れる嗚咽も気にせず俺は住宅街を一人歩く。ずっと一人で暗い路を。
零時を回り、三回職場から電話が来ていた。うるさいので着信拒否して、iPhoneの電源を切った。
雨で濡れたまま廊下に膝を抱えて座り込み、真っ暗な部屋の中でぼけと思考を放棄していた。二階からギシギシと軋む音と女の喘ぎ声が漏れ響く。ナガミさん……七海ハル……。俺は夏のあの日、何故ナガミさんの連絡先を手に入れていなかったんだ? いや、俺は確かにカフェの帰り際LINEを交換したはずだ。メッセージのやり取りはしてなかったが。相手にブロックされたりしたらこちらの連絡先からも消えるのか? 分からない。ここ数ヶ月彼女の存在をまた忘れていた。彼女とまるで話した事が無い様な程、俺の記憶の中に彼女の像が無い。そういえば彼女の下の名前も知らないや。もういい、もういいよ。忘れてしまおう……。
寒い。もう一度シャワーを浴びよう。そう思ってはいるのに身体が動かない。悲しい。部屋の暗闇に身心を呑み込まれた様な感覚に陥る。無重力の中なのに何か足枷でも繋がれているかの様な、ふわふわと、だが自由ではない痛み。
今は何時だろうか。帰って来てから何時間経ったのだろう。傘ファミマに置いたままだ。今日はどれくらい商品入荷したのだろう。どうでも良い思考が働き始める。それから漸く身体が動いたと思えば、する事は窓から差し込む街灯の灯りを頼りにポケットから煙草を取り出す事。取り出した一本は暗闇の中で触れると、雨に濡れしけておりボロボロと崩れた。それを床に放りもう一本取り出す。こちらは乾いている。Zippoで火を点ければ暗闇の中に赤い点が浮かぶ。いつの間にか部屋は静けさに包まれていた。暗闇。俺は暗闇が好きだった。心が落ち着く。無駄な情報が目から入って来ない安らぎ。暗闇の中では全ての人間が平等だ。見るという重要な感覚器官を失い、人は平等になる。中学生に上がった頃、視力が低下し始め親に眼鏡を買わされた。
「すごい、全部がはっきり見える」
そう素直に感想を母に呟いた。
「家が汚いのバレちゃうなぁ」
と母は呟いた。何故かそんな会話を突然思い出し、また涙が溢れた。
冷たい部屋の空気と合わさり煙草の甘い香りに目が覚めていく。そうだ、俺は死のうとしていたんだった。漸く思考が現在地点に戻ってきた。そうだ、七海ハルと一緒に死のうとしていたんだった。中の人と呼ばれる、七海ハルの演者と。彼女の正体は売れない声優だろうか、役者志望か。それともバズらなかったYouTuberか。どうだって良い。彼女に一目会いたい。そして最期を与えてあげたい。彼女に会う為にはどうしたら良い? 何かライブでもやる時に、スタッフ用の入り口に張り付いておくか? いや、相手の顔が分からないのだ、通りすがる人間にいちいち「七海ハルの中の人ですか?」と訊く訳にもいかない。ネットを調べれば、阿呆臭いまとめサイトやらで七海ハルの中の人を調べた結果みたいなページがヒットする。結果はよく分かりませんでした、やら、この地下アイドルに、あのYouTuberに声が似ている、位の何の価値も無い情報。こんな駄文を書いて広告収入を得られるんだから本当に良い身分だこいつらは。つまり今のところはっきりとは中の人が特定されていない。本当に素人の、芸能活動やらネット上での活動経験も無い人間なのかも知れない。そうなると中の人と会っている人間から経由して探すしかない。ぱっと思い付くのは運営しているV WIND、ウィンド株式会社の人間達。撮影、録音スタッフ。彼女達の歌や踊りを教えている人間。あとは……。
その時、ロックラと会った時の事を思い出す。アイツは有名な絵師と、推しと一緒に仕事をしていた。仕事経由でなら繋がる事が出来る。そうだ。仕事だ。俺は直ぐに立ち上がりちゃぶ台の前に座り煙草を灰皿で揉み消し、PCを立ち上げる。暗い部屋いっぱいにモニターの映し出す白い光が溢れる。
今VTuberがよく企業案件で関わっているもの。……ゲームだ。家庭用ゲームにしろ、スマホ向けゲームにしろ様々なゲームとコラボレーションし、ゲーム内に登場したりしてそれを宣伝する配信をしている。そうとなれば、今話題で既にVTuberがコラボした実績のあるゲームを探す。『VTuber ゲーム コラボ』等と検索すれば大量にヒットする。ご丁寧に検索結果に基づいたそのゲームの広告も一緒に表示される。その中で特に人気のゲームに絞る。オメガジェネシス、グランドスラム・レジェンズ、シング・エスペランザ……等、サービス開始から数年経った今でも人気で且つ既にVTuberとコラボ経験のあるゲームをピックアップする。その中のオメガジェネシスというゲームについて調べ始める。YouTube等で見かけるウェブ広告で見て名前くらいは聞いた事があった。
運営している会社は株式会社リリエンコム。ゲームの開発も自ら行なっている大手企業だ。オメガジェネシスとはリリエンコムが運営するオンラインRPGの一つで、サービス開始から三年以上経っているが未だ人気の衰えない長寿コンテンツだ。過去に一ノ瀬マリーが視聴者参加型でプレイする様子を配信していたのを思い出す。
リリエンコムのウェブページを見ていく。部門のページを開けば、ご丁寧に部署ごとのリーダーの人間達の名前が羅列されている。その中で営業担当の人間の名前で再びネットを検索すれば、三年前にオメガジェネシスのサービス開始時に開発担当、プロデューサー達へ行われたインタビューの記事も出てきた。コイツだ。俺は直感的にそう思った。
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初めまして。私、株式会社リリエンコム営業の木下大輔と申します。
いきなりで不躾なのですが、現在弊社で運営しております『オメガジェネシス リヴァレーションストーリーズ』とV WINDさん所属キャストの『七海ハル』様にゲーム内キャラクターとして登場して頂くコラボレーション企画を考えておりまして、一度お話だけでもと思い筆を取らせて頂きました。
是非一度ご連絡をいただけないでしょうか。
ご多用の折恐れ入りますが、ご検討くださいますよう何卒お願い申し上げます。
株式会社リリエンコム
営業一部
木下大輔(キノシタ ダイスケ)
〒108-XXXX
東京都港区港南X-XX-XX
TEL(携帯):
TEL:03-****-**** / FAX:03-****-****
URL:http://www.***.co.jp
Mail:
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ビジネスメール等というクソ程回りくどい日本語を打ち込み、下書きに保存した。
何とも言えぬ満足感と高揚感が身体を満たす。シャワーを浴び、冷蔵庫に残っていた缶酎ハイを取り出す。ごくごくと喉を鳴らしながら一気に飲む。キンキンに冷えた液体が高揚した身体を冷ますが、俺は笑みを溢さずにいられなかった。
そしてもう一つウェブページを開き、とある予約を一件入れた。
翌朝。四時間も寝ていない筈なのに晴れやかな気持ちで起き上がる。俺の気持ちに呼応するかの様に昨日の雨空は晴れ渡っていた。さぁ、今日から忙しいぞ。俺は顔を洗い、カミソリで髭を綺麗に落とす。髪も綺麗に寝癖を直し、額が出る様に左右に流して軽くワックスで固める。白いワイシャツに紫の細めのネクタイ。ライトグレーのスーツと黒のコートを羽織る。SEIKOの小さな腕時計を着け、ビジネスバッグを持つ。革靴を久々に磨いてやれば未だ美しく輝いている。足取り軽く俺は家を後にした。
昼前に予定通り品川駅に着いた。そういえばロックラも品川の人間だったな。とふと思う。今更どうでも良い。俺は鼻で自分を笑いiPhoneを取り出す。目的地へのルートをもう一度Googleマップで確認し歩く。向かう途中、雑貨屋が目に入る。今日は土曜日だ、人に溢れ活気がある。その店頭に並んでいた安い伊達メガネが目に入ったので、べっ甲柄の物を一つとり試しに着けてみる。うんうん、こういうヤツだ。インタビューの記事で彼が着けていたのもこういうタイプだった。そうしてレジへ運んだ。
「いらっしゃいませ〜」
初老の男が出迎える。
「あ、すいません予約していた吉岡と申します」
「ああ、リリエンコムさんのね。いつもどーも」
俺は一瞬硬直する。いつも? 怪しまれない様に会社の近くのこの店を選んだが、まさかいつも本当にここで頼んでいたのか。怪しまれるか、止めるか。
「お世話になってます〜……。あの、それで名刺の方なんですけど」
「はいはい、営業の木下……さんのね。百枚。出来たらまた会社宛に送っといたら良い?」
「あ、えーっと……」
「ああ、会社のロゴの素材くれてはったね。デザイン変わった訳ね」
「いや、そうではなくて……。なるべく早く欲しいんですが、今日直接受け取りとか可能ですか?」
「ああ、そういう。部署とかも変わってないですかね?」
「ああはい。急な打ち合わせで追加が欲しいらしくて」
「ちょっと待って、前のデータが〜……残ってるね。今からだったら二十分位で出来ますよ。じゃあ直接受け取りで」
「すいません、お願いします」
「領収書もいつも通り書いとくね」
「ありがとうございます」
なんとか会話を合わせられたと安堵する。
「お兄さん、いつもの人じゃないね?」
何気ないそのおじさんの言葉が不安にさせる。
「ああ、ええと……僕先月から中途で入った者で、まだ色々覚えてる途中でして」
「ああ、それでわざわざあんな時間にメールしてくれてたのね。お兄さんも大変や」
「いえいえ……。これからよろしくお願いします」
「うん、よろしく〜。じゃあ急いで作るからちょっと待ってね」
「はい、お願いします!」
俺は気持ち良い返事をなんとか絞り出しその名刺屋を後にした。何とか切り抜けられた。咄嗟にあんな嘘がベラベラと出るもんだと笑う。そして次の目的地へ向かう。
用事を一通り済ませ、近場にあったマクドナルドへ入る。注文を受け取り二階のテーブル席に座る。氷抜きで頼んでいたスプライトを一口啜り、渇いていた喉を潤す。
俺は鞄から出来立ての名刺を取り出す。綺麗な物だ。名前と右下に会社のロゴが入ったシンプルな名刺。だが白い紙は薄らと模様が入り、厚手の紙で高級感が漂う。それは再び仕舞い、次にiPhoneの横の蓋を開け、SIMカードを抜き出す。そして先程買った使い捨てのカードを入れ直す。設定画面を開き、新しい電話番号に変わった事を確認した。下書きのメールを開き、携帯番号の欄にこの取得した番号を入力する。
そして偽のドメインも取得し、それを使用してメールアドレスも作成する。こちらも下書きのメールに書き足す。マクドナルドのフリーWi-Fiに接続し、遂にウィンド株式会社宛にメールを送信した。さぁ、これでどう出る。
俺はビッグマックを貪りながら画面を眺める。ウキウキして久々に感じている高揚感に笑顔が溢れてしまうのを抑えられない。
マクドナルドを後にし、もう一度駅方面へ歩く。長い遊歩道を渡り、一つの巨大なビルを前に立つ。リリエンコムの入っている巨大なタワービル。本当にデカいビルだ。田舎人の様にビルを阿呆みたいに見上げて「おお……」と声を上げてしまっていた。
エントランスを抜けると、中は三階まで吹き抜けとなっており、カフェやコンビニ、企業が出店しているブース等が並びショッピングモールに来たのかと錯覚する様な光景が広がっていた。だが土曜だというのにスーツやオフィスカジュアルな格好を纏った人間ばかりで、ビジネスの地であることを認識させた。右手にあったエレベーターに近づく。一から三十階まで用のものと、三十一階以上の階にしか行かないものがそれぞれ四台ずつ並び、それらに向かって人々が吸い込まれて行く。横の金地のパネルには各階に入っている企業名が羅列されている。リリエンコムは四十五から四十九階までを使っていた。俺は空いたエレベーターに乗り、四十五階を押す。
静かに不気味な程速く登るエレベーターを降り、エレベーターホールを抜ければリリエンコムの巨大な屋号の掲げられた受付カウンターに直面した。二人の女が座り待っている。
「いらっしゃいませ。どちらへご入用でしょうか?」
一人の四十代位に見える女が云う。俺は後ろにガラス越しに広がる事務所をすっと盗み見た。
「あ、あれ? すいません、階間違えました! 失礼しました」
と俺は大根演技をかまし、再び乗ってきたエレベーターに駆け込んだ。
なんとも気恥ずかしい思いだけした。少しでも会社を、事務所の中でも覗きたいと思ったがそう簡単には行かなかった。まぁ良い。雰囲気くらいは分かった。再び一階で降り、周りを歩く。
先程入ってきた北側のエントランスとは別に、中央にこれまた巨大なメインエントランスがあった。こちらにもカフェとコンビニが並び、更にレストランまでもが並んでいた。そのメインエントランスを入ってすぐ左側のカフェが気になった。如何にもこういう場所にありそうなオーソドックスで簡単な打ち合わせ等にも使われていそうな店。何気なしに入ってみればやはり端の方の東側の窓に面したテーブル席では数人で打ち合わせらしき事をしていた。
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
「あーはい」
「こちらへどうぞ」
案内された席へ座る。空いている時間だからか、四人座れるテーブル席へ招かれた。先程の打ち合わせしているグループとは反対端の窓側の席だった。
「紅茶をホットで」
「砂糖とミルクはお付けしますか?」
「いえ、ストレートで」
「かしこまりました」
店員が下り、俺は周りを見渡す。ざっと数えて十六程のテーブル。全て黒のテーブルと椅子に統一され、隣の席との間にあるすりガラスの白がアクセントとなっている。今俺が座っているボックス席のソファも黒だ。通路を挟んで向かいにあるテーブル上には『RESERVE』と書かれたプレートが置かれている。予約も出来るのか。もし七海ハルをこちらへ招くなら、このカフェが良いかもしれない。当日席を予約しておいて先にこの席に居る。そして奴を出迎える。……いや、初対面の人間相手に端からカフェで打ち合わせをするというのは失礼に当たるのだろうか? 面倒臭いビジネスマナーなんて知った事じゃないが、怪しまれるだろうか? 隣のレストランの個室でも予約した方が良いのか? ……いや、逆に考えるんだ。打ち合わせをした後うちのビルにあるレストランで食事をしませんか。食事を奢らせて下さい……と言うのは下手に出過ぎな感はあるが、つまりはそういう風に運べば自然とこちらへ誘導させる事が出来るだろう。ウィンドの入っているビルで打ち合わせをしようと言われればそれに従うしか無いが。何せこちらが企画を持ち掛けている側なのだからして、普通ならこちらが相手に出向くのが礼儀である。が、こちらは超が付く大企業だ。むしろ恰幅の良さを見せても良いだろう。こういう人気が多くて、相手に隙の生まれる空間。何より俺が相手のペースに乗らないで居られる環境が大事だ。人目のつかない場所で静かに完全犯行に及ぼうなどとは思ってもいない。彼女を殺した後、俺は自らの首も切るか、その場で取り押さえられるか、その後の事なんて知ったこっちゃない。
夜になっても特にウィンドから連絡が来ることはなかった。電話もメールも。家に帰り待ち続けて既に二十時を回っていた。もうこの時間に連絡が来る事は無いだろう。フッと緊張の糸の様な、何か期待していた線が切れた。はぁ。一息つき煙草に火を点ける。キッチンの棚の扉を開ければ中にはレトルトの味噌汁しかなかった。コンビニにでも行くか。煙草を咥えたまま財布とiPhoneを持ち鍵も掛けずに家を後にした。
大通り沿いのファミリーマートへ足を向かわす。煙草は道の側溝に投げ捨てた。落ちた瞬間、火花が辺りに散る。こっちのファミマはナガミさんが居た店ではない。別にそっちの店に行っても良いのだが。
その時、脇道から自転車が突っ込んで来る。「おわっ」と間抜けな声を漏らしてしまうが、その自転車は何事も無かったかの様に大通りへ向け突っ走って行く。クソ野郎が。あのデカいバッグを背負ったメシの配達バイトが。『自転車も一旦停止!』とデカデカと書かれているこの標識が見えないのか。あいつらはどうせハンドルに括り付けられてナビを表示しているスマホにしか目が行っていないのだ。クソ野郎が。ハァ、と大きく溜息を吐きまた道を歩く。
数分歩いていると後ろに気配がする。ヘッドライトに照らされ、真後ろにピッタリ着けられているのが分かる。俺は少し振り向くと、ハザードを上げながら『早く退け』と言わんばかりに気怠そうにこちらを見遣っているドライバーと目が合った様な気がした。軽自動車のよくいる宅配業者の車だろう。歩行者相手に煽って幅寄せして恥ずかしくないのか。俺は一旦立ち止まってみる。轢けるものなら轢いてみろ。するとそいつはクラクションを鳴らしてきやがった。クソが。俺はそいつの車の目の前に痰を吐いて大通りへやっと出た。
角を曲がり店内へ入る。物色し適当にチキンステーキ弁当と缶酎ハイを取る。レジへ行くと、『隣のレジをご利用下さい』と書かれたプレートがあり二つあるレジの一つが塞がっていた。俺はそのもう一つのレジへ運ぶ。「いらっしゃせ〜」と気怠そうにダサい色の抜けかけた金髪の若い長身の男が云う。少しレジを操作した後、「こちらのレジでも大丈夫ですか?」と、何故か隣のレジへ移動させられる。
隣に移動し、何故かその店員と目が合う。商品を隣のレジの置いたまま移動させない店員。「あ?」と思わず声が出てしまう。怪訝な目を向けるとまたも怠そうに隣のレジから俺の弁当と酎ハイをやっとこさ移動させレジを打つ。そっちの都合で移動させたんだろ? 何故俺は今そんな態度を取られたのか理解ができなかった。俺が現金を出しレシートを受け取ろうと手を出す。受け取ろうとした瞬間、そいつはレシートを小銭受けに置きやがった。本当に何なんだコイツ。ぶっ殺すぞ。俺はレシートをそこに置いたままに舌打ちして睨みながら店を後にした。
小道に戻ると、先程の宅配の車がまだ停まっていた。盗もうと思えば今盗めるな、等と思いながらそいつのナンバープレートをiPhoneのカメラで収める。そしてその配送業者のWebページを開きメール問い合わせフォームを開く。
『杉並 ○ □ XX-XX 歩行者を煽るんじゃねぇカス 今日の二十時台のドラレコきちんと上に提出しろよ』
その一文だけ書き殴り送信した。
あ〜〜、たったこの十数分の間でどれだけ俺にこの世界はストレスを与え給うのか。「温めますか?」と当然の様に訊かれなかったので俺の弁当は冷たいまま袋の中に眠っている。俺は歩きながら殺意に満ち溢れていた。あのクソ店員を殺す。阿呆な大学生かフリーターか知らねーが、お前も死んでも特に誰にも迷惑掛けないし、必要ともされてない俺と同類の人間だろ? 俺が殺してやるよ感謝しろよ。
家に帰り弁当を温めながら酎ハイをひと啜りする。そして考える。あの野郎の出勤スケジュール、殺せる場所、それに殺す方法も考えなくちゃあなぁ。
俺はチキンステーキを平らげ、少し残った酎ハイ缶を手に再び外へ出た。そしてまた八分程歩き先程のファミマへ行く。窓から店を覗けば、まだあのクソ店員は居た。怠そうにレジで接客している。俺はそれを確認すると、この店が入っているビルをぐると一周する。
マンションの一階に入っているその店は、東側の大通りに向かって入口があり、北側の細道沿いにゴミ置き場と、スタッフの出入り口と思われるドアがある。西側は住人の駐車場へと繋がっており入れない。今はまだ二十一時。奴は何時上がりだろうか。コンビニで働いた事なんて無いから分からないが、アイツが夕方から出ているのだとすれば零時上がりか? とりあえず零時まで待つ覚悟をしよう。奴は店のどちらの出口から出てくるかも分からない……。その時、店の前に停めてあった自転車に気付く。しまった、アイツのか? 自転車であれば都合が悪い。アイツの家付近に先回りし待ち伏せなければ。かと思えば店から出て来た客の男が乗って去って行った。よかった。いやバスや電車に乗るというのも当然あり得る。まぁ良い。とりあえずアイツが上がるのを待とう。そう思い酎ハイをまた啜り、店の反対側へ大通りを渡った。
空いた酎ハイの缶に煙草の吸い殻を落としつつ歩道橋下の暗闇で息を潜め俺は店を見つめていた。眠い。酒と満腹、それにただただ暇というのが身体に眠気を齎す。もし俺が一瞬目を離した瞬間に消えていたら。奴が朝までのシフトだったら。そんな思いが生まれては消え、殺意の波を穏やかにしていく。もはやこれは衝動的な殺意ではなく計画的な殺し。七海ハルを殺す前の予行演習。俺は何をやっているんだろう。暗闇が俺を呑み込み、心の闇の部分と融合し共鳴し始める。
だが零時二十分過ぎ頃、奴が出て来た。やはり北側の裏口からだった。遠くから見ても分かるあの金髪に間延びした背の高さ。遠くから見ただけで不快に思える。奴は歩いてそのまま住宅街の方へ繋がる北側の道へ姿を消そうとした。俺は慌てて歩道橋を渡り奴の背中を追う。
ファミリーマートの前を通り過ぎ、俺も細道へ足を踏み込もうとする。一旦角で止まり、そっと道を覗き込む。奴はのらりくらりと歩いていた。俺はそのまま静かに後をつける。
「いや今日はムリだって! 今バイト終わったんやって! いや、そうだけどさぁ〜」
馬鹿みたいにでかい声で夜中の住宅街を通話しながら歩いていた。さっきまでの気怠そうな職務態度とは真反対のテンションの高さ。本当に存在するだけで苛つかせる男だ。男は俺の家のある方角と全く同じ方へ歩みを進み続けていた。まさか近所の野郎だったのか。この辺りには二校大学があり、学生も多い。その為住宅街に混ざり安アパートも乱立しており、俺もその恩恵を受けている一人だ。ソイツは途中にある公園に入った。細道二本に挟まれた道路に沿って設けられている公園。そしてそいつは木製のベンチに座り延々と話を続けている。俺は細道の自販機の陰に隠れ監視を続ける。ああ、思い出した。そのベンチ。俺が夏に死にかけていた時、ナガミさんが話しかけてくれた聖域だった。この野郎。俺の思い出までも穢しやがって。数時間で眠っていた殺意がメラメラと再び火を起こす。
十分程続いた何の内容も無い下ネタと飲みに行く約束を取り付けただけらしい会話が終わった。男はまた怠そうに立ち上がり歩みを進める。公園を出て益々俺の家と同じ方角へ歩いて行く。一時前で静まり返った道。他に誰も居ない道。男の後ろ二十メートル程離れ、街灯が作り出す電柱の陰に身を潜めながら静かにつける。そして男は家へ上がっていく。なんという事だ、俺の家、の向かいにある建物に入って行った。俺の住んでいるアパートは二棟あり、そのもう一棟の方の住人だったのだ。たまに夜中下品な大声を上げながら女を連れ込んでいる声が聞こえて居たが、コイツだったのか。いいぜこの数年の恨みも込めてお前に死をくれてやろう。
俺は自分の部屋に入る。考えろ。あいつの部屋に入るには。あのアパートは、俺の部屋と同じ構造であるならばインターホンが付いている。チャイムを鳴らせば姿を見られ怪しまれて出てこないかもしれない。昼間、何か配達員の格好でもして行くか? いや、今だ。今やるのだ。アイツが寝る前に。ノックを執拗にすればアイツでも出てくるだろう。そうだ、そうしよう。それで玄関まで誘き寄せる。ドアが開く。次はどうする。何も言わずすぐに何かで殺す。大声でも上げられたら困る。開いた瞬間、顔にタオルを押し付け、そのまま押し倒す。そして殺す。手頃な武器は……。バイトで使っているカッターナイフ位しか思いつかない。よしそれだ。忘れるな、ナイフは切る為の武器ではなく刺し殺す為の武器だ。短く刃を出し、それで思い切り、何度も刺す。あの部屋でアイツが死んでいても誰も気付かないだろう。……フッ。俺が死ぬと想像した時と一緒だ。お前も家まで誰か来てくれる奴がいるか? いつも連れ込んでる女か? お下品な会話が出来るお友達か? ファミマの店長が来てくれるか? お前はそこで腐乱死体となって数ヶ月、数年後に見つかるんだ。いい最期じゃあないか。だが万一を考えろ。俺が行ったという証拠を極力残してはいけない。七海ハルを殺すまでは。指紋はバイトで使っていた手袋を付けて行けば良い。足跡は……そうだ、靴の裏にガムテープでも貼ろう。あ、刑事ドラマとかで見た様な、靴を覆う様な袋。ビニール袋でも履いて行くか。いや、それだと薄いビニールを貫通して靴底の模様、サイズが分かってしまうかもしれない。二重に履いたとしても破れるかもしれない。やはりガムテープを二重にでも貼っておこう。踏ん張りが効かないかもしれないのを念頭に置いておく必要がある。忘れるな。
俺はすぐに準備に掛かる。黒いシャツとパンツに着替える。Adidasの黒いキャップも被る。マスクもすればもし誰かに見られたとしても印象に残らないだろう。黒なら返り血も少しは目立たないと思った。そしてガムテープを棚から取り出し、スニーカーの裏に貼る。バイトにいつも持って行っているバッグを開き、グローブとナイフを取り出す。行こう。やれる。ヤレ。
俺は静かに玄関のドアを開け外へ出る。改めて冷たく澄んだ綺麗な空気だ。肺一杯にそれを吸い込み、そして吐く。緊張も動揺もしていない。恐ろしいほど冷静だ。
足音を忍ばせ、そいつの部屋の前へ着く。大丈夫。誰にも見られていない。ドアに耳を近づけると音楽と、水の音がする。爆音で音楽を流しながらシャワーを浴びているらしい。クソ、この状況じゃアイツを呼び出せない。少し時間を置いて出直すか。俺は一応ドアノブへ手を掛ける。カチャ、と静かにドアノブは降り、手前にドアが開く。運命だ。神よ。俺はマスクの下で破顔せずにはいられなかった。俺は静かに慎重にドアを開け玄関に上がる。
乱雑に脱ぎ捨てられた服や靴が廊下に転がっている。奥に見える部屋には、グレーの布製ソファが左に見え明るいベージュのフロアマットも見切れている。俺は浴室の前に立ち、ドアノブを回す。そしてそっと開け覗き見る。トイレとバスユニット一体の部屋。俺の部屋と全く同じ構造だ。まるで俺の部屋に別人が居るかの様な錯覚を覚えさせる。そしてモザイク柄のシャワーカーテンがトイレとを仕切っている。鏡の前にカミソリや歯ブラシが並び、そこにiPhoneも置かれ音楽を垂れ流している。男は上機嫌に鼻歌を歌いながら身体を洗っている。気持ち悪い。俺はそう思った時には勢い良くドアを開け侵入していた。男も違和感に気づいたのか、カーテンをバッと開ける。俺と目が合う。男の目が見開き、あッっと男が声を上げそうになった瞬間、俺は左手に持っていたタオルを男の顔面に押し付けそのまま壁へ頭を激しく叩きつける。そして、右手に握られていたカッターナイフがソイツの左胸に突き刺さる。が、男は未だマスクの下で呻き声を上げジタバタと抵抗してくる。浴槽に足を掛けもう一度ナイフを突き立てる。その衝動で濡れていた足元が掬われソイツへ倒れ込んでしまう。そいつの左拳が一度俺の顔面にヒットする。俺も必死になってそいつの胸へ何度もナイフを突き刺す。大量の血液が溢れ出、浴槽を染めていく。落ちてくるシャワーの湯に流され、どろどろといっぱいに。次第にソイツの抗う力が弱まっていく。力なく手は上がらなくなり、足はだらと浴槽いっぱいに伸ばされる。
iPhoneから流れる音楽と、シャワーの音と夜の静寂。俺は漸く筋肉の緊張を緩め、左手の力を抜きそいつの顔を覆っていたタオルを取る。男は白目を向き、だらと口を開けたまま果てていた。右手を見れば、延々と血を出し続ける胸部と一体と成ったかの様に赤く染まっていた。震える右手をカッターナイフごとそいつの身体から引き剥がす。フー、フー、と荒く、頑張って深呼吸し息を整え、思考を整える。そのまま浴槽で右腕全体に付いた返り血を洗い流す。スニーカーの裏も流し、持って来ていたタオルで丁寧に拭く。クソが、俺までずぶ濡れになっちまったじゃねーか。まぁ良い。むしろ音をかき消してくれただろう。俺は慎重に浴槽から出る。色白く細長いそいつの四肢を見る。汚い金髪に今の阿呆面がよく似合ってるぜ。少しだけ筋肉質で腹筋も綺麗だ。少し羨ましい。更に下を見遣れば粗末なモノが付いている。俺のより小さくないか? ヤリチンの癖によ。それとも恐怖で縮み上がってんのか? 心の中で嘲笑が止まらない。男の裸体をこうまじまじと視るのなんて初めてだ。この殺し終わった後の爽快感と脳内で分泌されている快楽物質の所為で完全にハイになっていた。俺のモノも何故か勃起してしまっていた。何だ、ヒトを殺すのって簡単じゃん。
俺はシャワーと音楽を止め、浴室を後にする。俺は浴室の電気と、いつか腐臭が外に漏れるかもしれないとも思い換気扇のスイッチも切った。そして改めて奴の部屋を見る。ベランダの濃紺のカーテンが開いていたので閉める。そして俺の欲しかった物を見つける。部屋の鍵だ。俺と同じ様に玄関横の靴棚の一つを小物置きにしており、そこに財布と鍵。香水の瓶やブレスレット等も一緒に雑に置かれていた。まぁ金は興味ない。そんな蛮族みたいな事はしないよ。それにゴミ袋もそこに置いてあったので一枚拝借し、濡れてしまったシャツとタオルを入れる。よし、帰ろう。切り替え良く俺はそう思う。まるでバイトに行く時に自分の部屋を出る時の様に部屋の電気を消し、外へ出る。鍵を閉める。
翌朝。この日もよく晴れた冬の空だった。窓から差し込む日差しが気持ちがいい。ああ、洗濯でもするか。寝ぼけたまま歯ブラシを咥え、洗濯物を洗濯機へ放り込む。洗剤も放り込み回す。ケトルを沸かせこの前近所のスーパーマーケットで買った安い紅茶を淹れる。暖かい紅茶を一口飲み、セブンスターを燻らす。ぼーっとしていればあっという間に洗濯が終わったサインの音が流れ、ハンガーに通しベランダの物干し竿へ掛けていく。冷たい空気と煙草。これまたどうしてこうも美味い組み合わせなのだろうか。俺は洗濯を干し終え、歩いて近所のマクドナルドへ向かった。
朝のメニューを注文し二階のテーブル席を陣取る。フリーWi-Fiに繋ぎ、借りているサーバーへログインする。するとウィンド株式会社からメールへ返信が来ていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
木下様
お世話になっております。ウィンド営業の高杉と申します。
この度はこの様な提案を頂き誠に有難うございます。
現在弊社でもタレントの露出を増やして行こうと考えており、是非参加させて頂ければと思います。
つきまして――……
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ハハ! 奴ら食い付きやがったぞ! 俺はiPhoneを眺めたまま、口元を抑え笑う。こうも簡単に引っ掛かるものか? あいつら、ウィルスが仕込まれてるメールでも簡単に開いてしまいそうな程容易いぞ! それでも大手のIT企業かよ! クハハ、この店内で笑い叫びたい気分だ!
「お待たせいたしました」
拒食症なのかと疑ってしまいそうな程痩せ細った無愛想な初老の女の店員がトレーを持ってきた。俺は真顔に戻る。そしてテーブルの上に置いていた番号のプレートをさっと取り下がって行った。ハッシュドポテトに齧り付き、もう一度メールを読み返す。笑える。バーガーも貪りながら返すメールを考える。何と返すべきだろうか。とりあえず七海ハルに会って企画を説明したい、と言いたい所だが。何か企画書みたいな物でも作るべきか。スプライトのストローを噛みながら考える。まぁ、たまにはそういう事もするか。とりあえず返信する内容を考えビジネスメールの書き方なんてクソみたいな事をググりキーボードをタップしていく。
俺は気分良く家に帰った。ベランダを覗けば優しい日差しのお陰でタオルくらいならもう乾いていた。嗅げば太陽の香りがする。良い匂い。はぁ。俺は小便をしようと浴室のドアを開ける。
浴槽に血まみれの男が白目を剥き倒れていた。俺は思わず腰を抜かし、そのまま便器にゲロを吐き出す。食ったばかりのバーガーと僅かな胃液たちが出て行ってしまう。灼ける様な喉の痛みを感じながら涙目で再び浴槽を見る。そこには何もない。昨日シャワーで浴びた時に落ちたであろう二、三本の俺の髪の抜け毛がへばり付いているだけ。随分伸びたな、とどうでも良い感想を思う。アイツの部屋の鍵、上手く処分しなければ。
その夜、何の気無しにYouTubeを開くと七海ハルが雑談配信していた。久々にリアルタイムで見た気がする。いつの間にか衣装がアップデートされていた彼女は、可愛らしいふわふわとした青を基調とした冬服に変わっていた。髪型もロングヘアに変わり、それもまた似合っていた。
俺は取り込むのを忘れこの時間まで放置されていた洗濯物を仕舞い終え、冷蔵庫からハイネケンのロングネックを取り出し、煙草も一本咥える。
「あ、そういえば今日のサムネイル、元ネタ分かった人居ます? 開始前のコメント見てても分かってる人居なさそうだったんですけど〜?」
彼女がどこか不満げに笑いながら言う。彼女が結構な映画知識を持っていて、毎回配信のサムネイルを映画のポスターやDVDのジャケットをパロディーして設定しているのは周知の事だった。今日のサムネは背景が白と黒で中央で区切られ、真ん中にハルが佇んでいる。俺も当然分からない。
『わからんー!』『オセロ?』『The Hives?』
「正解は〜スカーフェイスのポスターでした! わかる人?」
『まさかのアル・パチーノw』『南米からヤク仕入なきゃ…』『わかんねーよ!』とコメントも続いていく。
「まぁ今日の配信タイトル『12月』ですけど、もうハロウィン終わってからずっとクリスマスみたいな雰囲気ですよね、ほんと、気が早いというか何というか」
『わかる』『クリスマスが今年もやってくる(絶望)』『メリークルシミマス』
「今年もクリスマス・年末商戦に気軽に流されて生きましょうね。とりあえずどうせボッチのクリスマスに観る映画でもリストアップしときますか。『天使のくれた時間』? 『ホーム・アローン』? 『ダイ・ハード』?」
『チョイスの癖が強いんじゃあ』『ハルちゃん何歳?w』『ハルちゃん、俺達とクリボッチを過ごそうぜ』
「ん〜、クリスマス映画同時視聴とかいう傷の舐め合いでもやりますかね」
淡々と言葉を続けていく彼女のトークは軽快で相変わらず面白い。
「え、結局なんでスカーフェイスだったのかって? そんな理由なんて無いですよ。カッコいいからですよ」
この飄々とした態度。黙らせてやりたい。驚く声も上げる暇も無いほどあっという間に、抵抗する隙も無いほど瞬殺で。いつものこの喋り、中の人はどんな奴なんだろう。根暗そうなオタクっぽい女だろうか。見た目だけは一般人っぽいガワをしている女か。声質的に太っている様な感じはしない。いや、オンナの作る声なんて分からない。マイクの設定、配信ツールの設定を弄れば声質なんて幾らでもどうとでもなる。もし中の人が男だったら笑える。俺は笑いながらお前を刺し殺す。
「あ、ギンギンさんありがとうございます〜〜。何その無言の赤スパ? クリスマス傷の舐め合い同時視聴しろっていう圧ですか〜?」
俺はYouTubeのスーパーチャットの上限である五万円分のチャットを投げる。これはそんなモンじゃない。好きなあなたに対する餞別だ。もっとも、旅立たせるのは俺の役目であるが。
『ナイスパ〜』『無言の圧w』と俺のスパチャに対してオタク共も反応する。気持ち悪い。
翌日。近所の床屋に向かった。駅通りにある小さなカットショップだ。
「すいません、予約してないんですけど今から出来ます?」
「大丈夫ですよ〜」
可愛らしい俺より少し年上に感じる少しふくよかなお姉さんが応じてくれる。椅子に案内されカットクロスを被せられる。
「今日はどうします?」
「横と後ろを刈り上げて貰って、全体的にボリュームを減らして下さい」
「分かりました! 先にシャンプーしますね〜」
数ヶ月ぶりに髪を切った。カットだけなら千円でやってくれる、俺にはそんなもんで十分だ。髪を切るだけに六、七千円も掛けたくは無い。頭が随分軽く感じる。スッキリとした気分だ。俺はそのまま電車に乗り込む。特に行く宛は無い。目的はある。
渋谷駅から代々木公園方面へ北上して行く。山手線沿いに神宮通りを歩く。タワーレコード、そういえば最近来たな。そうだ、涼咲カイのレコードを受け取りに。アルバムが出た当初はあんなに没頭して聴いていたのに、今は……。更に歩き進み、原宿のもうすぐ手前の所まで来る。人通りの少ないこの辺りで良いか。俺はポケットから一つの鍵を取り出す。アイツの部屋の鍵だ。俺は徐にしゃがみ込み道路脇の用水路の蓋の隙間からその鍵をポトリと落とす。まぁ、これで暫く見つかる事も無いだろう。はぁ、今日も汚い街だ。平日でも人で溢れかえる汚い街。適当に街でもブラブラして帰るか。
少し駅の方へ戻りつつ神南のアパレルショップの並ぶエリアへ足を運ぶ。人で溢れると言っても、土日に比べればマシな量だ。逆に、全く客の居ない店に足を踏み入る程の勇気はオタクに無い。なんとなく一つのショップへ入る。割とカジュアルでリーズナブルな俺でも着れそうな服が並ぶ。無駄に店員が鬱陶しく絡んで来ないのも良い。俺がそんな服を買いそうな人間に見えないから最初から諦めてるだけかもしれないが。一階をふらっと一周見た後、店の中心にある二階へ繋がる階段を昇った。二階はもう少し大人向けで、少し値段の張るブランド品を展開している様だった。階段を昇って左手のマネキンに着せられていたコートに目が止まる。ダブルのコートで、大きめの八個のボタンが可愛らしくも格好良い。膝上ではなく膝下くらいまであるクラシックなタイプ。綺麗なウールの黒で、裏生地の手触りの気持ち良い。横にこのマネキンが着ている服達の商品名と値段がプレートにまとめて書いてある。コート、十二万か……。いつの間にやらそのコートが気になっていた。良いな。ファッションに疎い俺でも良いと思った服がそれなりの値段のする物だと、一応物を視る目はあるのだなと思わせてくれる。俺は物惜しくそのコートの袖ももう一度撫で、静かに階段を降りた。
ぶらぶらとショーウィンドウを眺めながら目的もなく歩く。革のジャケット一着くらい欲しいな。ミリタリーっぽいジャケットも良いな。綺麗なスニーカーも欲しいな。靴底が厚い今時っぽい、歩きやすそうなやつ。見れば見る程物欲は刺激される。
そして一軒の店の前でまた足が止まる。黒い木で造られた入り口が印象的なテーラーショップだった。美しい濃い青のスーツが飾られていた。ボーダーが入り、オフィスでもカジュアルでも着れそうな素敵なデザインだった。俺は一目惚れしてしまっていた。店のドアを開ける。
「いらっしゃいませ」
短髪でグレーに染められた髪に、小さな黒縁眼鏡が似合う俺と同い年くらいの男が出迎える。彼の着るスーツパンツも脚をすらりと見せて格好良い。小綺麗な白のシャツに深い青のベストも似合っている。
「すいません、表に飾ってあったブルーのスーツを見させて貰いたいんですが」
俺は素直に言う。店内は狭い店内に大量のスーツがハンガーに掛けられており、壁にも隙間なく並んでいる。他の客もおらず、店内のBGMも無い。街の喧騒がこの店の音楽だった。
「かしこまりました」
男は店内に所狭しと並べられたスーツ達から一瞬でショーウィンドウと同じ青いジャケットを見つけ出し、テーブルの上へ広げる。そして次にパンツも見つけ出し俺に見せる。
「こちらでお間違いないでしょうか?」
「はい」
「では、こちらへ」
俺は何も言っていないのに、店の奥のフィッティングルームへ案内される。そしてそのスーツに袖を通す。
「少し絞りますね」
そう彼は言いながら背に針を通し少し胴を絞る。
「こんなイメージですが、如何でしょう」
ジャケットの下は俺のダサいTシャツだが、上下の美しいブルーに身を包まれ引き締まった気持ちになる。袖を少し引っ張り、肘を曲げながら身体を翻らせ鏡で背後も見てみる。丈も尻の上まである由緒正しいスタイル。良い。これを俺の死装束としてしまおう。
「これが欲しいです。仕立てに何日くらい掛かりますか?」
「三、四日以内にはご準備出来ます」
「では、お願いします」
「ありがとうございます。では、採寸していきますね」
若々しい見た目に反して丁寧で紳士的な接客はとても気持ちが良く、俺はすんなり購入へ踏み切っていた。
「ありがとうございました。出来上がり次第ご連絡させて頂きます」
「よろしくお願いします」
「またお待ちしております」
店の出口まで見送られ、彼が綺麗なお辞儀をする。俺も引換用の紙を貰い軽く頭を下げ店を後にした。さっき見たコート、スーツと一緒に着たいな。俺は先ほど見たショップへ戻り、あのコートも買ってしまった。全てクレジットカード払いだ。支払いの請求が来る頃には、俺はもう居ないだろう。そう考えれば無限に金がある様な気さえしてきた。
俺はそのまま駅方面へ戻った。そして駅を通り過ぎ、北東側のビジネス街に行く。ウィンド株式会社。それが入っているビルも一度見ておきたかった。ウィンドの会社のWebページから住所を調べた。歩くと意外にも暑い。俺はジャケットの襟を人差し指で引っ掛けパタパタと冷たい空気を送ってやる。左手に持つコートの入った紙袋がいやに重く感じる。
そして漸くビルの前に立つ。目の前の広い歩道には時間制の駐輪場が広がっていた。七海ハルの中の人もこのビルに、ここから、この入り口から出入りしたりしているのだろうか。そんな事を思う。リリエンコムが入っていたビルに比べれば小さめのビルだ。入って真正面に受付があり、その奥にエレベーター。ベーター前には初老の警備員が立ち、部外者がふらと入れる雰囲気では無かった。俺は近くの立ち食い蕎麦屋で軽く腹を満たし帰路についた。
引き続きリリエンコムの人間として、ウィンドとも連絡を取り続ける。ネットで集めた資料を元にゲームの企画書をでっち上げ、コラボレーション企画内でどういう風に七海ハルを登場させたいのか、どういうキャラクターにしたいのかという様な事まで考え伝えてきた。そして直接彼女と会い、プレゼン出来る機会を勝ち取った。
暫くして出来上がった青のスーツを羽織り、部屋の姿見の前でニヤける。格好良い。服に着られているのかもしれないが、とても良い。新たに下ろしたシャツに、ネクタイも一緒に纏う。更に上からコートも羽織る。良いじゃないか良いじゃないか。
最期の衣装へ袖を通し心が浮つく。新品のおもちゃを買い与えられた子供の様に。だがする事と言えばまた近所のガールズバーに行って遊ぶ位しか思いつかなかった。
「ユウキさん、来るのめっちゃお久しぶりじゃないですか〜!」
「え、ハルちゃん名前覚えてくれたの?」
「そういうユウキさんこそ〜」
可愛らしいハルちゃんの笑顔に酒が進む。彼女にも酒を勧める。
「私自慢じゃないですけど、人の名前覚えるの得意なんですよ」
「えーすご。この仕事で身についたスキル?」
「いや、元々何か覚えるのは得意なんですよ。覚えるコツがあるんです」
「はぇ。どんな?」
「セットで覚えるんです。条件を付けるというか。私だったら人の顔と名前をセットで覚えます」
「へぇ〜。そんなん普通の事の様に思えるけど、違うんや」
「なんていうんですかねぇ……。私が昔読んだ暗記する方法みたいな本にあった例えなんですけど。ランダムに配られたトランプの絵柄・数字をその順番通りに覚えるとするじゃないですか。そしたらイメージするんです。例えば自分の部屋。玄関を上がり、右手にある玄関の照明ボタンの横にスペードの十。その先、棚の上の小物置き場にハートの二。次にキッチンのカウンターにダイヤのキングが置いてある。その情景セットで覚えて、後で思い出そうとした時に、そのイメージした部屋の中を歩けば部屋の中に置いてあるカードが自ずと見えてくるんです」
「えーすご。全然俺には出来そうに思えない」
「ユウキさんだったら、黒い艶のある髪。太めの眉。少し高い鼻。小さめの唇。少し頬骨の浮く輪郭。そういうのをセットで覚えるんです」
「すげー観察眼」
「ただ見た情報をそのまま頭に入れるんです。無駄な推察やらを挟まないで。少し練習すれば出来る様になると思いますよ。では何でユウキさんは私の名前を覚えていたんですか?」
「それは……」
俺は言葉に詰まる。それを察したかの様に彼女が言う。
「フフ、分かりますよ。元カレと同じ名前だったとか、好きだった子と同じ名前だったから、みたいな情報があったからでしょ?」
「まぁ……近いかな」と俺は誤魔化す様に笑う。
「そういう条件があるから私の名前も覚えておけたんですよ。だから物を覚えるのなんて簡単なんです。学校のテストとかだってこの方法をみんな知ってれば必要無いんですよ」
彼女があっけらかんと言う。
「なるほど〜」
「ま、そんな事より、はい!」
そう言って彼女はカラオケ用のタブレットとマイクを取り出しゴトリとカウンターへ置く。俺も数杯ビールを平らげ既に身体が熱くなっている。ジャケットを脱ぎ、壁に掛けているコートの隣のハンガーも使いそこへ掛ける。ジャケットの下に着ていた黒いワイシャツの袖を三度折り捲る。
「今日のユウキさん、めっちゃオシャレですね」
「え、そう?」
「うん、前に会った時は別人みたいに、素敵」
肘をついて彼女がぽうと言ってくる。
「何それ。ほら、歌おうよ」
俺はマイクの一本を彼女にも渡した。
翌朝。頭痛と共に目が覚める。店で朝まで飲み散らかした後、俺の部屋に俺はちゃんと辿り着いていた様だった。酔って何をやっていたのか、ロフトに放置されていたマットレスを下ろし一階の床に敷いて寝ていた。あれ。なんだこの布団の塊。俺はそっと布団を捲る。ヒトが、寝ていた。え。俺に背を向けて寝ている人の顔をそっと覗き見る。ハルちゃんだった。ブルと震える。寒い。俺ハダカじゃないか。彼女もまた……。
周りを見ると、店帰りに通りのコンビニで買ったのであろう酒の缶やコンドーム、レジ袋が床に散らばっていた。何かの酒が溢れているのだろう、甘ったるい匂いがどこからか漂っている。うわぁ……と俺の脳みそは理解を拒否し始めた。そして俺は布団にもう一度潜り、ハルちゃんの上に覆い被さる。
「えぇ……なにぃ……」
ハルちゃんがガサガサの声で言う。
「おはよ」
俺は短く言う。彼女は身体の向きを変えこちらを向く。化粧が落ち、多少不細工に見えて笑えた。「おはよ……」と彼女も返してきた。何か愛しくて唇を近付けた。そして首へ、肩へ、乳房へ顔を埋め、身体も重ね合わせる。温かい。そして布団の中から顔を出しもう一度接吻する。
床に転がっていたセブンスターに火を点け、一息吐く。ハハ、嘘だろ。俺は諦めた様な笑い声を出してしまう。
「もう、何わろてんの〜?」
彼女が俺の煙草を指の隙間から盗み取り一口吸う。壁を見れば、青のスーツは綺麗にハンガーに掛けられ壁に静止していた。もう一度笑う。
「何でも無いよ」
灰を空き缶に落とす。
「紅茶飲む?」
俺は布団を抜け出し、ソファに脱ぎ捨てていたスウェットのパンツだけ履く。
「うん」
「分かった」
俺はケトルに水道水を入れて沸かし始めた。
「人生最期の一杯に」
「どういう乾杯のあいさつなん」
「メメントモリだよ」
コツとマグカップを彼女のカップへくっ付ける。実際そうなんだ。君にもう会う事も無いだろう。
「冷たい朝の空気と煙草と紅茶。どうしてこんなに美味しく感じるんだろう」
「わかる〜」
「こんなどうでも良い感想を誰かと共有出来るのが嬉しいよ」
「ユウキ、何かキャラ変わった?」
「まぁ、多分。でも本質は変わってないと思うよ」
「そっか、じゃあ良いけど」
「ねぇ、ハルって本名?」
リリエンコムの入っている港区のビル。その一階に入っているカフェで打ち合わせを行う事となった。V WINDを運営しているウィンド株式会社の営業担当、そして七海ハルの中の人、そして彼女のマネージャーの三者と顔合わせという事となった。流石に全て俺一人では疑われると思い、打ち合わせには企画担当の“オオキ”も同行すると伝え説得力を持たせた。勿論この名前も会社のWebページに律儀に載せてくれてあった名前を頂戴した。
俺は明日遂にやってしまう。二度と俺の名前を呼ぶことは無いだろう。さようなら皆んなの友達、さようなら俺の愛した人。いや、でもまた名前を呼んで貰えたら俺は喜んで尻尾を振ってしまうかもしれないけれど。
あなたは俺に息をし、生きる理由をくれた。生きていたいと思わせてくれる唯一の光だった。俺は愛憎入り混じる心を落ち着かせる事に精一杯だった。
「どうも、初めまして。メールやお電話ではいつもお世話になっております、木下です〜」
流暢に口上を言ってのけ、今のご時世の営業マンらしくマスクを一瞬だけ下にずらし笑顔を彼らへ向けた。
「お世話になっております。ウィンド営業の高杉です」
「タレントマネージャーの奥山です」
二人と名刺を交換する。
「すいません、オオキが出席している別件の打ち合わせが長引いているみたいで……」
「いえいえ大丈夫ですよ!」
「あ、そしてこちらがウチの七海ハルです」
奥山が横に立っていた女を紹介する。
「はじめまして、七海ハルです。よろしくお願いします」
いつもの配信の時とは違う、落ち着いた声。外向けな態度に興奮する。マスクの下で酷いニヤけ顔を出してしまう。漸く会えた。お前を俺は今から一思いに天国まで送ってやるからな。そう思った。すると、俺の先ほどの挨拶に倣ったのか彼女もマスクを顎下まで下げ挨拶する。
“あの子”だ。全身が凍りつく。紛れもない、五月までファミリーマートに毎朝居た俺の天使『ナガミ』さんだった。運命だ。前から薄々感じてはいたんだ。何か、何かが俺と君を結んでいる。縁と云うヤツか。俺は神に感謝した。この様な素敵な出会いを、運命を作り結びつけさせてくれて。彼女は俺に気付いていないのだろうか? 眼鏡を掛け、髪型が変わっただけだというのに気付いてもらえないのは逆に寂しいぞ? まぁ、そんな事どうでも良い。
俺は名刺ケースを青のスーツの胸ポケットへ仕舞う。スルスルと生地同士が擦れる音すら心地良い。それと同時に、同じポケットに入っていたカッターナイフを親指、人差し指、中指で確かに握り、力を込める。カチカチカチッと静かに刃が伸びるのを感じる。
身体に爆弾を巻きつけた自爆テロリストが、スイッチを押す間際に見せる達観の様な目。無我の境地。だが恍惚とした何かが溢れ出て俺を浮き上がらせる。朗らかな表情のままナガミさんを見遣る。
『現場から中継です。こちらのビル内にあるカフェで打ち合わせ中だった二十代の女性が突如男に襲われ、数カ所をカッターナイフの様な物で刺され重傷を負い、搬送先の病院で死亡が確認されました。死因は出血とショックに依るものだと先程発表がありました。現場は未だ大量の血痕を拭き取ったであろう跡が生々しく遺っています……。被害者の女性はこのビルに入っている会社の社員で、事件時にはミーティングの為このカフェに来ていたそうです。現行犯逮捕された男は杉並区在住、無職の大垣勇気、三十一歳。犯人の男と死亡した女性との接点は今のところ見つかっておらず、同席していた二人も犯人との接点は無かったそうです。ですが男は犯行時『何故俺を見ないんだ』『こんなに愛していたのに』等と叫びながら――……』
大垣の脳裏に浮かぶ映像達。一人でカフェのカウンター席に座りフィナンシェを貪りながら紅茶を飲んでいる俺。一人レストランのベランダ席で飯を食っている俺。毎日通うファミリーマートの店員、ナガミさんは無表情でレジを打っている。次の瞬間、別の店員の顔に変わる。公園のベンチで一人酒に溺れて眠ってしまっている俺。
目の前に横たわっている血まみれの女の顔。知らない女の顔。……ハハ、嘘だろ。
「アアアア!? アアアギャアアアアアアア!!?」
男は叫び、慟哭の様な音を吐き続ける。再び真赤に染まった右手と綺麗な左手。両手で頭を抱え髪を掻き毟り、膝から崩れ落ちる。
「ナガミさん!? ナガミさァん!!! どうして、どうして……ああぁ」
ここに来て男は、自分を殺す意志も勇気も無くしてしまっていた。床に蹲る男の横腹に鋭い痛みが走り、男達に押さえ付けられているプレッシャーだけが身体の感覚に残った。
× × ×
二〇二一年三月二十六日。某県、某刑務所内。薄汚れた灰色の壁に囲まれ、長机が乱雑に並べられた食堂のテレビ前に座っていた一人の囚人の男が笑みを浮かべながらフォークで皿の食事を啄み居た。
『グランドスラム・レジェンズ、V WINDコラボ実施中! 毎日十連ガチャ無料!』
テレビCMで流れる彼女らの姿に笑みを零さずには居られなかった。だがおかしい。何故そこに七海ハルの姿があるのだ? アイツは確かに俺が殺したはず。中の人を変えて再デビューでもさせたのか? 最近のVTuber事務所のやり方らしい、姑息な手だ。気持ち悪い。俺はフッと溜息に似た笑いを漏らしてしまう。
「何笑ってんだオメー」
男の前で飯を食っていた体躯の良い男が云う。
「笑いたくもなるさ。カラスを喰った後味を思い出して……」
体躯の良い男は、虚な目で笑い続ける男を気味悪がり席を立った。男は再び笑いながら目の前に置かれた味のしない食事を見下す。
「ヒハハ……。俺はやってやったんだ。俺を見ないアイツを……俺を見ろ! 俺を見ろォォ!! フォオオハハーッ!」
刑務所の外界とを隔てる五メートル程の壁の上。そこに大きな黒い翼を持つ鳥が一羽止まっていた。鷲か、鳶か? それは男を見放す様に首を振り、目の前に広がる海原の方を見やった。そしてどこへともなく飛び立っていく。一瞬脚が三本ある様にも見えたが、それが脚だったのか尾だったのか。誰にも分からない。ただその烏は男を導かなかった。それだけだった。
レイヴン・ネット・スウィム @Trap_Heinz
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