1章

1.

薄暗い森の中を、彼らは歩いていた。

辺りには、背の高い針葉樹しか見えない。それらの枝葉が頭上を覆い、太陽の恵みをだいぶ遮っている。

そのせいで草の育ちが悪く、ほぼ剥き出しの土の地面には石や岩も混じり、決して歩きやすいとは言えない。


冬はまだだいぶ先のはずだが、僅かに霜も降りている。

光の乏しいこの環境なら、致し方ないか。


「はぁ、もう駄目だ……僕たち、ここで死ぬのかな……」


彼ら――四人組のうち一人が情けない声を上げてへたりこむ。

髪は長めでフワフワの赤毛。

金色のプレートアーマーを着込み、一部パーツを外して動きやすさを重視している。胸には獅子を象った紋章が刻まれている。

腰にはロングソードを挿している。柄に鎧と同じ獅子の紋章があしらわれており、高級そうな作りだ。

そういえば、彼の髪もどこかしら獅子の鬣を思わせる。

年の頃は成人したばかりの青年といったところ。平均的な年相応の背丈だが、武人として鍛えられているらしく、同い年の青年と比べるとやや筋肉質な体つきをしている。顔立ちも整っていて品がある。

しかし、その表情は精悍さに欠け、体つきや顔立ちの割りに頼りなさげに見えるのが残念なところ。


「もう! 弱音を吐かないでよ! あなたの領地を救うんじゃなかったの? リオン!」


凛とした声が、赤毛の青年を叱咤する。

青年が声の主を見上げると、少女が腰に手を当て仁王立ちで彼を見下ろしている。

亜麻色の長い髪を二本の三つ編みにしていて、頭には水色のエナン(円錐形の魔法使い御用達の帽子)をかぶっている。

帽子と同じ色のローブを羽織り、その下には普通の村娘と同じく、布のシャツとスカートを履いている。

手には木彫りの杖。

歳の頃はまだ成人前の十代後半といったところ。背は赤毛の青年よりも少し低く、華奢な感じで幼さが残るが、彼を見下ろすその表情には気の強さが伺い知れる。


この情けなくへたり込んでいる、鎧姿の青年の名はリオン・シーザー。

パンテーラの地を統治する、由緒ある貴族の家柄。紛れもない騎士だ。


「うう……でも、もうこの森に入ってから五日も迷ってるんだよ、ドロシー……」


三つ編みの少女の名はドロシー。

リオンの屋敷がある村に住む、魔法使いの娘。


「ふん、根性のない騎士様だ。ドラゴンを退治するって息巻いてたのは、ありゃ嘘か?」


長身の男が割って入る。

地肌に黒い革のフード付きジャケットを直接着ていて、目深に被ったフードが表情を隠している。

そこから僅かに覗かせる顔は痩せていて、蛇のように滑らかな白髪を湛えている。

革と布を雑に縫い合わせたダボダボのズボンには、いくつもポケットやホルスターが付いていて、それぞれに手のひら大の筒やナイフを差しこんでいる。

歳はリオンと同じくらいか。


彼らはドラゴンが棲むという『はぐれ山』を目指している。

ある日突然パンテーラの地に現れ、荒らしまわった奴を退治するためだ。

地図によると、はぐれ山に辿り着くには、そこから続く『あぎと谷』の下流に位置する、この森を抜けるのが近道だ。

この森には、古くから物騒な言い伝えがある。彼らも子供の頃に、大人たちから散々聞かされたおとぎ話。


「こんな所にいつまでもいるワケにゃ行かねぇ。ほっといて俺たちだけで先に進もうぜ。」

「何言うのよ、クロウ! そんなこと、できるわけないでしょ!」


ドロシーは黒フードの男に食って掛かる。

クロウと呼ばれた男は、やれやれと肩をすくめながら、薄ら笑いを浮かべる。

彼の名はスケアクロウ。リオン、ドロシーと同じ村に住むシーフだ。


「ひ、酷いよクロウ……いくら、僕のことが嫌いだからって……」

「ああ、大嫌いだね。元罪人で、流れモンの一族出身の俺からしてみりゃ、お前みたいな甘ったれの七光り野郎なんざなぁ!」


リオンに食って掛かるスケアクロウを見て、ドロシーは深くため息をつく。

幼い頃から飽きるほどに見せられてきた、いつもの喧嘩だ。とはいえ、毎回リオンが一方的に詰られるだけなのだが。


「はいはい、二人ともそこまで。喧嘩したって仕方ないでしょ。」


ドロシーは傍らに立つ残りの一人をちらりと見やる。すると、今まで微動だにしなかった彼が動き出し、リオンとスケアクロウの間に割って入る。

全身をフルプレートアーマーで武装した、スケアクロウを超えるほどの大柄な男。いや、頭すらも面頬ですっぽり覆っているため、性別は明確ではないが……

面頬の隙間からはただ闇が垣間見えるだけで、生気を感じられない。


「わわっ!?お、降ろして!」

「何しやがるブリガンド!離せってんだよ!」


ブリガンドと呼ばれた大男は、手甲で硬く武装された、木の幹のような太い腕でそれぞれ二人を摘み上げている。

しかし、彼はスケアクロウの悪態には耳を貸す様子はない。二人を吊るしたまま、再び微動だにしなくなってしまった。


「けっ。相変わらずなんだな、この木偶は。わかったよ、さっさと降ろせドロシー。」


リオンを責める気力も無くしたらしいスケアクロウは不貞腐れる。

ドロシーがよろしい、とでも言わんばかりにニコリと笑顔を向けると、鎧姿の大男は二人を掴んでいた手を離す。

吊り上げられた状態から急に離されたものだから、二人は尻をしこたま地面に打ちつけてしまう。

二人の痛がる声を無視して、ドロシーはブリガンドに薪を集めるよう言いつける。


「さ、余計な体力を消耗しちゃったし、今日はこの辺りで休みましょ。」

「はぁ……いつになったら、この森を抜けられるんだろ……」


リオンは精気のない顔で薪拾いを手伝い始める。スケアクロウもムスッとした表情でいるが、疲れを悟られまいとして強がっているように見える。

この森に迷い込んでから、もう六日になろうとしている。食料は尽き、今宵も空腹に耐えつつ眠ることになる。

こんな状態では、目的のドラゴンのもとに辿り着くどころか、森を抜けられないまま全滅してしまう……ドロシーは何とか解決策を考えるが、最悪の結末ばかりを想像してしまう。


そうこうしているうちに、ドロシーの足元には手頃な量の薪が積み上げられていた。

日の届かぬこの森は、冬の早朝のように底冷えがする。リオンたちも最後の気力を振り絞って薪を集めてくれた。

早く暖を取って休まなければ。ドロシーは杖を眼前に構え、目を軽く閉じ詠唱を始める。


――火を司るサラマンドラよ 汝の加護を願う…… 点火<イグニッション>!――


ドロシーの杖の先端がきらりと赤く光る。すると、薪がひとりでにくすぶり始める。

数瞬もしないうちに白い煙が立ち上ったかと思うと、パチパチと音を立てて燃え上がった。

これもドロシーのお婆ちゃん譲りの技、古代語魔法。その初歩である火を操る魔法だ。これは文字通り対象に火を点けるだけの単純なものだが、冷えて疲れ切った体を温めるには十分だ。


「さっすがドロシー!はぁ、温まる……」


リオンはどっかりと腰を下ろすと、手甲も外さないまま焚火に当たり始めた。

ドロシーもフフッと笑って、リオンの隣に腰を下ろす。


スケアクロウは焚火を挟んで彼らとは離れた場所に座り、背中を地面に預けようとする。

が、ドロシーの背後で待機しているブリガンドの佇まいに、ふと違和感を覚える。上半身を起こしたままそっとナイフに手を添え、彼に注視する。


ドスッ!


「!?」


不意に、ブリガンドが地面に剣を突き立てた。

彼の唐突な行為にリオンとドロシーは驚き振り返る。次の瞬間――


「ギャァアアアアアアアアアアッ!!!!!」


何かが地面を突き破り、鼓膜を劈くような叫び声が響く。

耳を塞いでも響いてくる、魂を抉り取らんばかりの絶叫に耐えながら、それの元凶に目を凝らすと、ブリガンドの持つ剣が醜い塊を貫いているのが見える。

その塊はうねうねと気味悪く痙攣しながら、ひとしきり騒ぎ終えると、ぐったりとして動かなくなった。


「も、もしかして、魔物!? や、やっぱり、『不思議の森』だったんだ、ここは……」


今度はリオンの悲鳴が響く。

と、同時に


――ガン!!


鈍い音とともに面頬が宙を舞い、地面を跳ねた。


「ブリガン!?」


ドロシーが叫ぶ。

ブリガンドが何者かに首を刎ねられてしまったのだ。首を失ったその巨体には何かが巻き付いていて、倒れることを許さない。


「ま、マンドラゴラだっ……!?」


彼らを取り囲むように、地面の至る所が隆起し、先ほどブリガンドが仕留めた塊のようなものが姿を現した。

樹木の表面のような質感でいて、どくどくと生物の臓器のように脈打つ、根のような触手が無数に生えた一抱えもほどある不気味な塊。

それらは、塊を両断するかのように真一文字に刻まれた亀裂――醜悪な口のような器官から、ゲッゲッと嗤いにも似た不快な音を発している。


『マンドラゴラ』

植物に擬態する魔物で、普段は土の中に自ら埋まり、獲物をじっと待つ。

付近を通りがかった哀れな動物や人間を触手で絡め取り、動きを封じた上で丸齧りにしてしまうという、えげつない習性を持っている。


「どうして、こんなところにマンドラゴラが……? だって……」


ドロシーは驚愕する。

敵が彼女の知るマンドラゴラではないからだ。本来であれば、群れで行動するような魔物ではない。

そもそも、この魔物は植物を媒体に、死んだ人間の怨念が籠った血を使って育てられる魔術的な生物なのだ。

負の気が集まるような、相当に穢れた場所でもなければ、自然に大繁殖するはずがない。

村で一番の魔法使いであるお婆ちゃんから教えてもらった知識は、この森に迷い込む前からリオンたち一行の助けになっていた。間違うはずはない。


やはり、ここは悪名高い『不思議の森』――あのおとぎ話にあった魔女の住む森には実在したというのか。

ドロシーの背に振動が伝わって来る。彼女に寄り添いながら剣に手をかけるリオンが震えているのだろう。


リオンは思った。今度こそ死んでしまう、せっかく村をドラゴンの脅威から救うために旅立ったのに。

恐怖と悔しさがない交ぜになっていた彼の脳裏に、これまでのことが走馬灯のように駆け巡った。



2.

――災厄は、突然空からやって来る――



その日、リオンは村の畑で刈り入れを手伝っていた。

毎日の日課である剣術の訓練が嫌で、屋敷を抜け出したのだ。


彼の父・ユリウスは「百獣の王」「ライオンハート」等と呼ばれる、諸国に名だたる大英雄だ。

リオンが生まれる前の戦争では大変な武勲を立てたらしい。その功績を認められ、パンテーラを領土として与えられた。

戦争で受けた傷がもとで騎士は引退したが、息子であるリオンを「百獣の王」を継ぐに相応しい武人に育てるべく、毎日厳しい訓練を課している。

ところが、当のリオン本人は勇猛な父に似ず優しさが過ぎるというか、気弱な性格であった。剣よりも村の民と一緒になって土いじりをしている方が性に合っている、と本人は思っている。

リオンに武の才能が無いわけではない。実際、近頃はユリウスと仕合いをしていても、三・四本に一本は取れるようになってきた。

それでも、訓練中に怯えや遠慮が見える。その気になれば、父をも超える英雄になれるはずなのだが……


リオンは、農家のおじさんから手伝い賃としてもらったパンとチーズ、腸詰の入った籠を持ち、ドロシーの家に向かっていた。

これらを差し入れて、夕食を共にしようという考えだ。きっと喜んでくれるだろう。家に帰れば、貴族というにはそれほど裕福ではないが、もっと豪華な食事にありつけるのだが、リオンは庶民の味が好きだ。何より、幼い頃からずっと一緒にいたドロシーとの食事が楽しい。


ドロシーの家は小さな雑貨屋だ。父と母を早くに亡くした彼女は、祖母と二人暮らしで店を切り盛りしている。

彼女のお婆さんは、若い頃は村一番の古代語魔法の使い手だったらしい。店で出している様々な薬は全てお婆さんの手作りで、村の者たちも怪我や病気の時には重宝している。

そんなお婆さんを尊敬しているドロシーは、店の仕事の合間に独学で魔法を勉強していた。「いつかお婆ちゃんのような、村の役に立つ魔法使いになる」が彼女の口癖だ。

「お婆ちゃんたら、危ないからって全然魔法を教えてくれないのよ」とリオンに愚痴を零すもいつものことだ。


お馴染みとの他愛ないやり取りを思い浮かべ、頬が緩むリオン。

もうしばらく歩き畑を抜けると、民家が集まっているのと、その向こうに屋根一つ高い屋敷が見える。

屋敷はシーザー家の邸宅。リオンの家だ。民家の集まりの一番手前にあるのが、ドロシーの店。

リオンは歩みは自然と早くなる。


ふと、視界の端に留まったものが気になり、足を止める。

そちらへ視線を移すと、畑の一画が無残に踏み荒らされているのが見えた。潰されて乱雑に散らばった作物の破片を踏み、背の高い少年が立ち尽くしている。

その足元には、うずくまり苦しそうに喘いでいる大人たちが数人。

スケアクロウだ。彼の暴力沙汰は今に始まったことではない。


「……クロウ、また喧嘩したのかい……?」


リオンは恐る恐る声をかける。

スケアクロウは振り向きもせず、鼻で嗤う。


「ふん。俺にちょっかい出して来やがるから、こうなるのさ」


スケアクロウは、村の中では厄介者として避けられている。リオンの生まれる前から、彼の家系の者は皆そうだったらしい。

話に聞くと、スケアクロウの家系は罪人の末裔で、父・ユリウスが領主として着任後、まもなくにパンテーラの地へ流れて来て定住したらしい。

生まれる前のことなど、リオンにとってはどうでも良く、幼い頃などは彼とドロシーと三人で一緒に遊んだものだ。

時が経つにつれ、成長とともにスケアクロウは自分のルーツを知り、また村人からの風当たりも強く感じるようになっていく。

今ではスケアクロウと村人たちの間には深い溝ができ、リオンも粗暴な性格になってしまった彼が苦手になっていた。


「さっさと行けよ。ガールフレンドが待ってんだろ。」


スケアクロウは背を向けたまま、鬱陶しそうな声でリオンを促す。


「そうはいかないよ! この人たち、手当しないと……」


リオンは籠を置き、うずくまる大人たちに駆け寄る。

スケアクロウはチッ、と面白くなさそうに舌打ちをする。


その時――


ヒュオッ、と頭上で風を切る音がした。

リオンとスケアクロウが空を見上げると、続けて2、3つの巨大な影が凄まじい速度で通り過ぎていく。


「うわっ……!?」


明らかに鳥の大きさではない。遥かに巨大だ。

物凄い風圧が畑を抉り、土と踏み荒らされた作物が宙に巻き上げられる。

二人は吹き飛ばされないように踏ん張るので精一杯で、体中土まみれになってしまった。

しかし、そんなことを気にしている余裕は二人にはなかった。


「あ……あれは……!?」


リオンは町の一画が急に明るくなり出したのに気づく。間を置かず煙が立ち昇り、青空に黒い筋を描く。

嫌な予感がする。あの方角には自分の生家が、シーザー邸が建っている。


「ぼ、僕の家は……父さん!」


スケアクロウがおい、と静止するのも聞かずにリオンは走り出す。


村の中心に近づくにつれ、だんだんと周囲の温度が上がっていくのを感じる。

額から吹き出る汗をぬぐい、そんなことがあっては堪るものかと否定はするものの、嫌な予感は現実味を帯びてくる。

途中、村の外へ向かって逃げていく何人かとすれ違う。その中でも馴染み深い屋敷に食料を卸している業者の男から、最悪の答えを聞かされてしまう。

坊っちゃん、家に帰ってはいけない。あなたの家は、もう――


「リオン!」


絶望に堕ちかけた時、背後から聴こえたいつもの声に、かろうじてリオンの心は繋ぎとめられた。


「ドロシー! た、大変なんだ、僕の家が……」

「落ち着いて。あれは何なの?」


ドロシーはいつものように店番をしていた。

ちょうど客も掃けてきて、店仕舞いを始めようとした時だった。何か巨大なモノが店先を通り過ぎて行ったかと思うと、凄まじい風圧が襲い店頭の商品を吹き飛ばした。

その矢先、村の中心部――リオンの屋敷の方から、爆発音と共に炎が噴き上がった。

何が起こったのか、リオンは無事なのか……混乱する思考を整理していると、ちょうどリオンが通りがかり、少し安堵したのだった。


「わからない……けど!」

「ちょっと、リオン!」


ドロシーの声には耳も貸さず、リオンはシーザー邸を目指す。



村の中心に、民家に囲まれて鎮座するシーザー邸。

諸国に名を轟かせた大英雄の屋敷だが、貴族の邸宅という割りには少々ささやかに感じる。

パンテーラ領の国力は他の列強国に比べるとそれ程でもないので、領主として着任してきたユリウス・シーザーは多くを望まずこのような形となった。

ユリウスは「百獣の王」という恐ろし気な二つ名とは裏腹に、民に寄り添う政治を心掛ける優しさも持ち合わせていた。

なりは小さいが、屋敷の至る所に掲げられている獅子の紋章――シーザーの家紋は雄々しく王者の風格を漂わせている。

まさにパンテーラの守護神と呼ぶにふさわしい。


その獅子が、見るも無惨に燃え上がっている。


屋敷の門を潜ろうとしたリオンとドロシーは、眼前に広がるその凄惨な光景に愕然とする。

屋敷の敷地を、数体の異形の存在が我が物顔で闊歩している。

それ――見上げる程に巨大な、蜥蜴のような体躯。蛇のように長い首。蝙蝠のような皮膜の翼――全身を鱗に覆われたその化け物たちは、『竜<ドラゴン>』。

竜の群れが、シーザー邸を破壊したのだ。


そのうちの一体、一際大きく、翡翠色に輝く鱗のドラゴンが語りかけてきた。

紛れもなく、人間の言葉で。


「幽き人間どもよ。この地を這う鼠どもよ。我は、はぐれ山の主。偉大なる古代竜<エンシェント・ドラゴン>の末裔たる『翡翠鱗の竜王』とその眷属なり。」


地獄の底から響くような、肉体を内部から蝕むような低い声だった。

リオンは足元に転がっていた剣に、咄嗟に手を伸ばす。父の剣だ。

だが、柄を握った所で思い直す。拾って、それからどうするのだ? こんな途轍もない存在を相手に。


傍らで竜を見上げ立ち尽くしていたドロシーは、はっと我に返り、詠唱を始めた。

それに気づいたリオンは剣を放り出し、慌てて彼女の手を掴み詠唱を止めさせる。


「リオン!? 何するのよ、こいつを倒さなきゃ……」

「無理に決まってるだろ!!」


いつも気弱なリオンの思わぬ気迫に圧され、それ以上の反論を止めるドロシー。だが、珍しく吠えたのが自分の家を滅茶苦茶にした敵に逆らうな、と。

何とも情けなくはあるが、彼女にだって勝てる相手ではないことが分からない訳ではない。消極的ではあるが、リオンは守ってくれているのだ。


翡翠色の竜は、幽き虫けら二匹が立ち向かってくるつもりがないと分かると、嘲笑するように口角を上げて続ける。


「根絶やしにされたくなくば、年に一度、男女100人の生贄と、家畜100頭、作物100束を我らに捧げよ……さもなくば、こうなる。」


翡翠色の竜が咆哮を上げ、皮膜の翼を羽ばたかせる。

ひと扇ぎで竜は空高く跳びあがり、それに続いて他の竜たちも一斉に宙を舞う。


そして――惨劇が始まった。


翡翠色の竜の牙だらけの禍々しい口から、灼熱の吐息が放たれる。それは燃え盛る業火となって、村の家々を、畑を切り裂き、焼き尽くす。

翼膜を張った腕を持つ竜たちが滑空するたび、家々が風圧で吹き飛ばされる。奴らが脚で握りつぶしているのは、村人たちか――


村中を民の悲鳴が、断末魔の叫びが、助けを求める声がこだまする。


リオンは膝を落とし、呆然とする。

今、目の前で起こっていることは現実なのだろうか。思考が追い付かない。

そして、燃え上がる屋敷の残骸の下に、父――ユリウスの変わり果てた姿を認めた時、実感として湧いた。

恐怖。家族を失ったことよりも、ただただ恐ろしい竜への恐怖が、リオンの心を支配した。


父が死んだ――民を助けなきゃ――僕は領主の息子なのだから――でも、怖い――怖い――


…………


…………


…………


永遠に続くかに思えた地獄は、日没を待たずに終わりを告げた。


民の悲鳴は既に止んでいた。村は黒焦げの瓦礫の山と化し、もくもくと黒い煙がそこら中から上がって夕焼け空を汚している。

怪我をして動けなくなった者、絶望からその場に座り込む者、親を亡くしたのか泣き喚く子供。

民の嘆きの声がここまで聴こえてくるが、今のリオンにはどうすることもできない。情けないが、ただただその場に膝をつくしかなかった。


傍らではドロシーもへたり込み、焦点の定まらない虚ろな目で遠くを見つめている。

リオンの手を握る彼女の手は小刻みに震えている。


そうだ、ドロシーの家はどうなっただろう。彼女のお婆さんは?

幼い頃、ドロシーと一緒になって悪戯をした自分たちを叱ってくれたお婆さん。父は死んでしまったが、せめて彼女には無事でいて欲しい。

リオンはドロシーを気遣いながら、彼女の店に向かうことにする。



村の外れに辿り着くと、そこには半壊したドロシーの店が。

まさか、お婆さんまでもが……彼女の手に力が込められる。か弱く細い指だ。リオンも慰めの念を込めて握り返す。


ふと、店の奥からガラガラと何かが崩れる音が聴こえる。

リオンが瓦礫を掻き分けて店の中に入ると、店を支えていたであろう木材の残骸の隙間から、彼女の祖母がひょっこりと顔を出す。

安堵して、思わず目に涙を浮かべるリオンとドロシー。


同時に、リオンは自分に対する怒りと失望の念が湧いて来る。

目の前で父を失った。家を破壊された。民を虐殺された。村を蹂躙された。それなのに、何もできなかった。ただ無力だったわけではない。

竜が怖くて、ただただ恐怖に飲み込まれて何もできなかったのだ。


リオンはドロシーに縋るようにして泣いた。

ドロシーも、何も言わずリオンの肩を抱き続けた。



3.

あの惨劇から数日後。

リオンの村では、既に復興作業が始まっていた。焼けた家々の瓦礫は取り除かれ、その跡に新たな家屋の建設が進められている。

竜の目的が人間の根絶ではなく、食料源の確保であったことが不幸中の幸いだった。惨劇による犠牲者はそれほど多くなく、働き手が極端に不足することはなかった。


早馬の伝令によると、あの後、パンテーラ領の他の村々にも竜が来襲し、同じように破壊されたらしい。

早馬の使者は、各村の代表者たちから手紙を預かって来ていた。内容はもちろん、竜の要求に対し、どう対応するべきか、ということ。

領主であるユリウス・シーザー亡き今、その唯一人の息子であるリオンが決断しなければならない。


シーザー邸跡地にて、生き残った従者たちや村の重鎮たち、そしてドロシーは、リオンの判断を待つ。

正直、考えるまでもない。あんな化け物どもに目を付けられては、人間など抗う術もない。

まだ成人して間もない、肉親を亡くしたばかりの少年の面影残る彼に、残酷な判断を下させなければならないとは。

幼い頃からリオンを知り、実の子供と同じように可愛がっていた村の者たちは、皆悲痛な想いでいた。


「……みんな、少しの間、辛抱していてくれないか。」


しかし、リオンの決断は皆の思いも寄らないものだった。


「ぼ、僕が……はぐれ山に行って、あの竜を退治してくる。みんな、それまで持ちこたえていてくれ。」

「リオン……!」


ドロシーを始め、村の者たちは皆驚いた。

彼女らの記憶にあるリオンは、小心者で臆病で、でも優しくて、村の畑を荒らす害獣の駆除にも躊躇するような子だった。

そんな彼が、誰もが抗うことを諦めていた化け物に挑もうという。しかも、はぐれ山に至るまでには、獰猛な獣や魔物も棲息している厳しい自然が広がっている。

当然、無理だ、やめなさいと、大人たちは止めた。未熟な若者があんな化け物相手に何ができるのかと。


そんな中、唯一人ドロシーのお婆さんだけは違った。

リオンの瞳の奥に、あの「百獣の王」と謳われたユリウスと同じ光を感じ取っていた。

お婆さんは、実の孫の門出を祝うかのような優しい笑顔で、リオンの頭を撫でてやる。「しっかりやんな」と。

リオンは凛とした声でハイ、と答える。彼にとっては、今までで一番強く意志を表明した瞬間だっただろう。


ドロシーは内心、焦っていた。

リオンが一人旅立ってしまう。しかも、生きて帰ることのできないかもしれない、危険な旅だ。

一緒に行きたい。でも、滅茶苦茶になってしまった店に、お婆ちゃんを一人置いて行くわけには……

彼女は俯き、唇を噛む。


そんな様子にお婆さんは気付いていたようで、ドロシーの肩をポン、と叩く。

そして、持っていた彼女に杖を手渡し、懐から一つのタリスマン(お守り)を取り出し、持たせる。


「この杖はワシが若い頃に使っていた杖。魔力を何倍にも増幅してくれる。このタリスマンも、きっとお前の助けになってくれるだろうよ。」


リオンに着いて行ってやれ、ということだ。

ドロシーは感激して、お婆さんの胸に飛び込む。お婆さんはまだまだ甘えん坊だねぇ、と苦笑いしていた。



旅支度を終えたリオンとドロシーは、村の入り口に立つ。

リオンは父の形見となった甲冑を着ている。獅子の紋章が刻まれた、金色のプレートアーマーだ。


村の入り口では、民たちが総出でリオンたちの旅立ちを見送ってくれた。

よく刈り入れを手伝った農家のオットーさん、風車に登ってよく怒られた粉ひきのアランさん、毎朝生みたて卵を差し入れてくれた酪農家のゴットンさん……

そして、雑貨屋のドロシーのお婆さん。

みんな大切な思い出。これ以上、竜どもに食い荒らされるわけにはいかない。


「お二人さん、俺もご一緒させてもらうぜ。」


村を出ていくらか歩いた所で、二人はよく聞いた声に呼び止められた。

スケアクロウだ。彼も旅支度をしている。危険なドラゴン退治の旅に着いて来るつもりなのか。


「クロウ、ありがとう! やっぱり君は、僕の友達だよ!」


スケアクロウの申し出に感激したリオンは、瞳を潤ませて彼の手を握り締めた。

スケアクロウは気持ち悪い、よせとリオンの手を振り払う。


「クロウ。あなた、何か企んでるんじゃないでしょうね?」


村の者たちを嫌っているはずなのに、その村のために死地へ赴こうとする。その行動を訝しく思うドロシー。


「へっ、そう疑うなよ。俺だって、あの村の一員なんでね……助けたい気持ちは一緒さ。」


スケアクロウはもっともらしいことを言うが、彼は腹の底に一物を抱えている……ドロシーは、スケアクロウの目の奥に秘められた怪しい光を見逃さなかった。


二人のやり取りを他所に、リオンは決意を新たにする。

これから一年のうちに、竜の巣へ乗り込み、奴を退治する。愛する故郷の者たちを、これ以上犠牲にしてなるものかと。


その後ろ姿は、かつての英雄「百獣の王」を彷彿とさせるには十分であった。

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