Endless Memory

いちはじめ

Endless Memory

 博士に何が起こったのか。車いすに座っている博士の丸まった背中を眺めながら、私はそのことに思いを馳せていた。

 博士の長年の研究――認知症治療薬の開発――が実を結ぼうとしていた矢先だった。博士は自分の研究室で倒れていたところを発見されたのだ。すぐさま病院に運ばれたが、命に別状はなかったものの記憶喪失、それも全ての記憶を失った状態になっていた。今や博士はしゃべることはおろか、我々の言うことを理解することさえできない。それと博士自身の研究――中身は極秘扱いで、博士以外は誰も知らない――に関する全てのデータ、資料が消失していた。

 世間は大騒ぎになった。何しろ博士はノーベル生理学賞を、一度もらったので十分、と人を喰ったような声明で辞退した人騒がせな人物であったのでなおさらだった。

 いろいろな憶測が世間を飛び交った。何かの陰謀に巻き込まれた説、手柄を横取りされた元研究員による怨恨説、巨大資産をめぐる親族の争い説――もっともこれは博士には妻子もなく、親戚筋は博士が所有する世界的な投資会社の役員に就いているので、全くのお門違い――などなど、数々の噂がまことしやかに囁かれた。

 だがこの件の真相は闇の中だ。そもそも事故なのか、事件なのかさえ判明していない。

 思い出の中の博士は、いつもどこか物悲しそうな表情をしている。またその表情は、何かこの世を達観しているというか、何事も見通しているかのようでもある。

 そして博士は時折、意味不明で頓珍漢なことを口走ることがあった。

 数十年前に私を助手に迎えた時の博士の言葉を今もよく覚えている。

「これまで何人も助手を変えてきたが、やっぱり君が一番優秀だ。しっかりやってくれたまえ」

 はて? 初対面のはずなのにと私は訝ったが、こんなことはちょくちょく起こった。私が四十歳を迎えた日に「八木君は四十歳の誕生日に彼女と入籍するんだったな。休暇届が出てないが大丈夫か?」と聞かれ、腰を抜かしそうになったことがある。当時付き合っていた彼女とはそんな約束もしていたのだが、その願いは残念ながら叶わなかったのだ。しかしそのことは、博士はおろか同僚にも話していなかったので、何故博士がそのことを知っていたのかと驚いたものだ。

 ただ博士の口走った意味不明な戯言が、そののち予言や予知の類だったのかと驚くほど当たることがあった。

 博士の立案した研究計画にしてもそうだ。発生が予想される問題とその解決方策が細かに練り込まれているのだが、そのほとんどがまるで予言していたかのように現実のものとなったのだ。

 その洞察力は研究だけではなく、投資にも発揮されていた。博士が立ち上げた投資会社――巨額の研究資金のほとんどはそこから出ている――や投資ファンドは世界経済の波を先読みし、何度か訪れた世界的な恐慌をことごとく回避している。これらは博士の類まれなる洞察力として称賛されてきたが、果たして本当にそうなのだろうか。いくら洞察力がすぐれているとはいえ、一生理学者にそんな判断ができるのだろうか。しかし単なる偶然とも思えない。博士のことを振り返れば振り返るほど謎が深まっていく。

 ――あなたはいったい何者なのですか。

 そう呼びかけてみても、博士が答えることはもうない。博士の脳の記憶野は完全に機能を停止しているのだ。


 博士が研究から離れた一年後、研究は薬の量産化の段階で壁に当たり、完全に停滞していた。そんな時、驚くことに博士から資料が届いたのだ。博士が廃人になる前に、弁護士に託したもので、博士の身に何か起こった場合、その一年後に届けることになっていたという。それは現状の問題点に対する示唆に富むもので、研究員達は量産化の前途に光が射したと喜び、改めて博士の先見に感謝した。

 そして私は博士からの私信を受け取った。

 そこにはこう記されていた。


『八木君へ。

 すまない。突然君に後を託すようなことになって。今頃は量産化の件で悩んでいることだろう。それに関するヒントを資料にまとめてある。それを使えば壁は越えられるだろう。

 君は何故そんなことが分かったのかと、また私が何者なのかと思っているだろうね。

 君はこの研究を通して理解していると思うが、人は人生の全てを記憶することはない。人は忘却するのだ、いや忘却が必要なのだ。特に忘れてしまいたい記憶に苦しむ人にとっては。

 実は私がそうなのだ。何故だか分からないが、私の意識は死ぬと記憶はそのままに、五歳の時の私に戻ってしまう。所謂タイムリープというやつさ。これは一回で終わるわけではない。私が死を迎えるたびに起こるのだ。他殺であろうが自殺であろうが事故死であろうがどんな死であろうとその時点から五歳に戻るのだ。

 一回目は訳が分からず、自分の人生を最初の人生と同じようになぞった。二度目はいくつかの改善をした。それは人生をやり直すという素晴らしい体験だった。それ以降はループを繰り返すたびに私は自分の人生を高みに上げることに専念した。

 この先何が起こるか記憶しているのだから、それは雑作ないことだった。(まあそのことにより歴史の流れが変わることもあったが)

 だがそれもすぐに飽きた。それよりも私を悩ませる問題が起こったのだ。それは記憶の蓄積だ。

 私の頭の中には何百回という人生の記憶が蓄積され、もうどれがいつの記憶なのかさえ分からなくなっている。想像できないと思うが、これほど苦しいものはない。

 それで私は認知症の研究と称して、全記憶を忘却するための薬を何十回の人生を掛けて開発してきたのだ。

 それが今回ようやく完成したので、こういう結果になったという訳だ。

 

 しかし安心はできない。このループがこの先も続く限り同じ問題が起きるのだろう。そして、またいつの日か私は同じ研究をする羽目になるのだろうね。

 その時はまた助手をお願いするよ、八木君。

 では、またいつかどこかで。

                           頓珍漢な博士より


 あ、それから忘却の薬は悪用されると厄介なので、データのすべてを完全消去した。悪く思わないでくれ。』

                                  (了)

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