第4話 「浅井薫という女性」

 神奈月さんをコロッケパンで救済してから、2日が経った。


 ――今日はありがとう!

 ――いえいえ、どういたしまして~


 この程度のやり取りはしたものの、それ以降メッセージの進展があるわけでもなく、学校で何か会話をするわけでもなく。

 今までと何も変わらない日常が流れて迎えた土曜日。

 遅い時間に起きて朝食を適当に済ませ、物件サイトを開いたスマホ片手にサブスクで映画を見ていると、来客を知らせるピンポンが鳴った。


「誰だろ」


 特に荷物が来る予定もなかったし、誰かが遊びに来るような約束もしていない。

 のぞき穴から見てみると、ピシッとスーツを着こなしたロングヘアの女性が立っていた。

 顔立ちはものすごくきれいなのだが、凛とした……というより堅苦しそうなオーラを放っている。

 少なくとも何かの営業、押し売りではなさそうだ。

 営業スマイルという言葉が尾を撒いて逃げ出すような、そんな雰囲気がドア越しに伝わってくる。


「何ですか?」


 ドアを開けて尋ねると、彼女はきっちり一礼してから言った。


「初めまして。わたくし浅井あさいかおると申します」

「ああ、どうも、初めまして」


 女性にしては低めで、どこぞの歌劇団を思わせるようなボイス。

 彼女の持つ見た目、雰囲気とことのほかマッチしている。


「これより、隣の部屋に荷物を搬入する作業をさせていただきます。それに伴い、多少の騒音が発生してしまう可能性がございます。大変申し訳ありませんが、なにとぞご了承ください」

「えーっと、引っ越しってことですか?」

「はい。その通りです」

「別に音がするのは構わないんですけど……。ここ、もうすぐ取り壊しになりますよ?」


 このアパートが建物としての体を成せるのも、長くてあと3か月。

 そんな場所に引っ越してくるなど、ありえないことだ。

 普通はオーナーなり不動産会社なりが止めるはず。

 おかしな話だが、浅井と名乗るこの女性は、そんなことを全く意に介さない様子で言った。


「そういった計画があることは、当然のことながら存じ上げております」

「そ、そうですか」


 もの好きな人もいるもんだな。

 まあ、知った上で住むというのなら別に俺から言うこともないだろう。

 そもそも、俺は一住人であって何の権限も持っていないのだから。


「なるべく静かに搬入するようにいたしますので。では、失礼いたします」

「わざわざありがとうございます」


 部屋の中に戻って映画を見ていると、トラックのエンジン音が聞こえてきた。

 続いてガチャガチャと荷物の搬入が始まる。

 俺はイヤホンを手に取ると、そっと耳に差し映画に集中するのだった。




 ※ ※ ※ ※




 休日の時間というものは、恐ろしいほどのスピードで過ぎていく。

 イッシュウカンという名前の競走馬がいたら、きっと脚質は追込だろう。

 平日はのんびりゆっくりとすぎるくせに、終盤に入ったら爆発的な加速を見せ異常な末脚を炸裂させる。

 競馬好きにしか分からない例えはともかく、次々に映画を見ているだけで陽が沈もうとしていた。


 気が付けば、引っ越しの荷物を搬入する作業音も聞こえなくなっている。

 無事に終わったのだろう。何よりだ。

 まあ、数か月もしないうちにまた荷物を運び出すことになるんだろうけど。


「晩飯何にしよ」


 そんなことを考えながら、外干ししていた洗濯物を取り込み、ベッドに転がる。

 すると、本日2回目のインターホンが鳴った。

 搬入を終えた浅井さんが、改めて引っ越しのあいさつにでも来たんだろうか。

 特に覗き穴から様子をうかがうこともなく、玄関ドアを開ける。

 するとそこに立っていたのは、浅井さんに予想外の人物を加えた2人組だった。


「こんにちは」


 わずかに吹く風に、美しい黒髪が揺れている。

 相変わらず堅苦しいオーラの浅井さんとは対照的に、人懐っこくかわいらしい笑顔を浮かべる美少女。

 休日の夕方に俺の家へ唐突にやってきたのは、神奈月楓怜さんその人だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る