二八章 血の繋がった妹vs.血の繋がらない妹

 静岡県富士宮市。

 富士山を望む高級アパート。

 そこに、藍条あいじょう森也しんやはやってきた。妹のさくらを引き連れて。

 「ここがトウノさんの家?」

 高いアパートを見上げながらさくらが尋ねた。

 「ああ。ここの最上階だ。それがどうかしたか?」

 森也がそう尋ねたのは、さくらの言葉に意外そうな響きがあったからだ。

 「どうって言うわけじゃないけど……マンガ家の人ってお金いっぱい稼いでるイメージだから。もっとこう、お屋敷みたいな家に住んでるのかなって思ってたから」

 それなのに、あきらといい、トウノといい、アパート住まいなので違和感を感じた、と言うわけだ。

 「ああ」と、森也はうなずいた。

 「たしかに、屋敷みたいな豪邸、建てるマンガ家もいるな。けど、皆がみんなそうだと言うわけじゃない。デカすぎる家を建ててももてあますだけだし、この手の高級アパートの方がセキュリティがしっかりしている分、自分でアレコレ対策を立てる必要がないからな」

 「なるほど」

 さくらは納得した。

 たしかに、大金を稼いでいるマンガ家にとって『セキュリティ』というのは住居を選ぶ際の重要な要素だろう。

 「それに」と、森也は付け加えた。

 「それに?」

 「『高いところからの方が富士山がよく見える』だそうだ」

 「……納得」

 さくらは重々しくうなずき、その一言を口にした。

 あきらとの熾烈な富士山論争を見ているだけに、他のどんな理由よりも納得出来る。

 森也はドアに近づくと脇にあるパネルに指を押しつけた。さすが、高級アパートだけあって、指紋認証の最新式のセキュリティが完備されているそうだ。

 「登録されていない人間が侵入しようとすれば、専門の機器を使って二時間はかかる、と言うのが売りだそうだ」

 森也はそう解説したが、指紋登録している森也ならパネルに指を押しつけるだけでドアは自動で開く。

 ドアと言うより、もはやゲートと言ったほがいい物々しい玄関が音もなく開き、来客を招き入れる。入ってすぐそこにあるエレベーターに乗って最上階に向かう。表札も何もないドアの前で立ち止まる。

 ドアをノックするでもなく、チャイムを鳴らすでもない。その前にバッグのなかからひとつのサングラスを取りだした。さくらに手渡す。

 「これを付けろ」

 「サングラス? なんで?」

 炎天下の屋外とでも言うならともかく、室内のこの場所でサングラスなど付ける必要はないはずだった。森也の答えはやや抽象的だった。

 「いきなり見ると、目の潰れるやつがいる」

 ――目の潰れるやつって……ツルツル頭で光をものすごく反射するとか?

 と、さくらはマンガ的な光景を想像した。

 そんな人物がいるというのも不思議な気がしたが、とにかく兄に言われたことなのでおとなしく従った。サングラスをかけ、森也がチャイムを鳴らし、返事がくるのをまつ。

 返事はなかった。そのかわり、即座にドアが開いた。まるで、すぐそこにいてチャイムが鳴らされるのをまっていたかのように。

 「いらっしゃい、お兄ちゃん!」

 喜びのはじけるような声をあげたのはまだ小学生とおぼしき女の子。その子を見た途端――。

 ――ちょ! まっ、なにこれ……!

 さくらは森也からサングラスを渡された意味を心から理解した。

 ドアを開けて出てきたのはそれほどの美少女だった。サングラスをかけていてさえ思わず顔をそらし、腕で目を覆ってしまうほどの異次元の輝き。

 アイドル並、などという表現ではとうてい、追いつかない。現実を超越した完璧な造作。浮かぶ笑顔はそれ自身、太陽のように光り輝いているとしか思えない。

 たしかに、この笑顔をいきなり見ていたらまぶしさのあまり目が潰れていたにちがいない。それほどの美少女。

 ――神話級美少女。

 もはや、そうとでも呼ぶしかないレベルの非常識な美少女だったのだ。

 サングラスを渡しておいてよかった、と言いたげな表情で森也はさくらに言った。

 「紫条しじょうひかる。トウノねえさんのひとり娘だ」

 森也はそう女の子を紹介したが、さくらにそれを聞くだけの余裕があったかどうか。

 一方、紹介された神話級美少女の方は戸惑った表情で森也とさくらを見比べている。

 「お兄ちゃん……? この人、誰?」

 戸惑いと、不審と、ほのかな嫉妬の混じり合った口調と表情。そんな表情がまた思わず抱きついてキスの雨を降らしたくなるほどかわいらしい。神話級美少女の特権だ。

 「妹のさくらだ」

 「妹⁉ お兄ちゃん、妹なんていたの?」

 「ああ。言ったことはなかったけどな。何しろ、家を出てから五年間、会ったこともなかったからな」

 「ちょ、ちょっとまってよ。さっきから『お兄ちゃん、お兄ちゃん』ってやけに馴れ馴れしいけど、どういう関係?」

 ようやくひかるの輝きに慣れたさくらがサングラスの位置を直しながら訪ねた。と言うより、問い質した。それでも、ひかるをまっすぐ見ることは出来ない。顔を斜め方向にそらしたままだ。ひかるの輝きは五分や一〇分で慣れることができるような、そんな生温いものではなかった。

 「だから、トウノ姐さんの娘。つまり、雇い主の娘だ」

 「……とても、それだけの関係とは思えないけど」

 いかにも不審そうにさくらは呟く。

 そんなさくらを見てひかるはムッとした表情になった。だからと言ってもちろん、ひかるの魅力が損なわれるわけではない。それどころか『ご褒美です!』と狂喜乱舞する人間が続出しそうなほど、かわいらしい。

 「わたしはお兄ちゃんの妹よ。決まっているでしょう」

 「兄さんの妹はあたしよ!」

 「五年間、会ってなかったんでしょ。わたしはその間、お兄ちゃんとずっと一緒だった。一緒のベッドで寝たこともあるし、一緒にお風呂に入ったりしてたんだから」

 「兄さん!」

 「『入った』じゃなくて『入れた』だ!」

 性犯罪者を詰問する口調になった妹に向かって、森也はあわてて声を張りあげた。

 「出会った頃はまだ五、六歳だぞ。ひとりじゃ頭を洗えないと言うんでおれが洗ってやってただけだ。母親の許可は取ったし、おれは服を着ていた」

 「一緒に寝たって言うのは?」

 「表現に気をつけろ。『同じベッドで寝た』だ。どうということじゃない。『怖い夢を見たから一緒に寝て』という、子供にはよくある理由だ」

 ――それなら、母親と寝ればいいじゃない。

 そうぶちぶち言うさくらであった。

 「とにかく! こんなところで言い合ってられないだろう。なかに入れ。ひかるも、ほら」

 森也は羊の群れを追い立てる牧羊犬さながらの仕種でふたりの『妹』を部屋のなかに入れた。しかし、ふたりの態度がかわることはない。ひかるは森也にベッタリ抱きついて離れようとしないし、さくらのことを警戒する目で見ている。さくらもさくらもでそんなひかると森也を睨み付けている。

 「あ~、その、何だ……」

 想像もしなかった修羅場を招いてしまったことを知った森也は何とか場を取り繕おうと声をあげた。たちまちふたりの『妹』に睨まれてしまう。

 「お兄ちゃん! どうして、この人を連れてきたの⁉」

 「兄さん! どうして、あたしをわざわざ連れてきたの⁉」

 「いや、だから、せっかくだからお互いに紹介しようと思ってだな……」

 「お兄ちゃんの『妹』はわたしだけでいいの!」

 「兄さんのたったひとりの妹はあたしよ!」

 ふたりはたちまちにらみ合う。

 何でこんなことになったんだ、と思いつつ、森也は口にした。

 「ま、まあ、とにかくだ。今日は仕事で来たわけだし、家主やぬしが帰ってくるまでに仕事を片付けておかないと……」

 森也はそう言ってどうにか家事仕事に持ち込んだ。

 さくらも手伝おうとした。と言うより、手伝いにかこつけて森也とひかるの間に割って入ろうとした。それは、ひかるが断固として拒否した。

 「ここは、わたしの家よ。赤の他人に勝手な真似はさせられないわ」

 そうはっきり拒絶したのだ。

 さくらとしてはなんとも腹立たしい。とは言え、言い分としてはまっとうなものだったので何も言えない。森也にしてもひかるの母親に雇われている身。ひかるが拒否しているのに無理強いは出来ない。

 結局、さくらは森也とひかるが家事を片付けているのを指をくわえて見ているしかなかったのだが……。

 ――なに、この子。あたしより家事がうまい。

 そう認めるしかなかった。

 さくらも優等生を演じる必要上、家では家事の手伝いをしていた。だから、掃除でも、洗濯でも、料理でも、家事は一通りこなせるという自信はある。しかし――。

 ひかるの腕前はそんなものとは次元がちがった。まだ小学生五年生、一一歳でしかないというのに手際といい、技術といい、まるでプロはだし。これでは、たとえ拒絶されていなくても、さくらに出来ることは何もなかった。むしろ邪魔になっただけだ。

 ――なによ、あの子。まだ小学生なのになんであんなになんでも上手にできるの? これじゃあたしの出る幕、ないじゃない。って言うか、兄さんがわざわざ家事しに来る必要ないでしょ

 そんなさくらの内心の声を感じ取ったのか、ひかるは勝ち誇ったように言った。

 「わたしはずっとお兄ちゃんのお手伝いしてきたものね。お兄ちゃんがなんでも教えてくれたもの。ね?」

 と、ちょっと甘えた様子で言う。

 「……まあ、そうだな」

 森也はやや曖昧な様子でうなずいた。

 「トウノ姐さんのアシスタントとして来るようになった頃はひかるはまだ五、六歳だったからな。家事だけではなくて、ひかるの世話役も頼まれた。つまりは、紫条家の執事として雇われたわけだ。だからまあ、ひかるともいろいろあったわけだ」

 森也のその言葉は説明と言うよりも言い訳がましいものに聞こえた。それはさくらの気のせいではなかっただろう。

 「ただいまあー」

 脳天気な声がして家主である紫条トウノが帰ってきた。

 ――これで雰囲気がかわる。

 森也がそう思い、ホッとしたのは言うまでもない。

 そして、夜。

 未成年であるさくらと、まだ子供のひかるを寝かしつけ、おとなふたりはリビングで酒盛り……と言いたいところだが、酒を飲んでいるのはトウノひとり。酒を飲まない森也はお気に入りの紅茶を飲んでいる。

 「いやあ、それにしてもすごかったわねえ。あーくんの『妹』ふたり、ずっと角突き合わせっぱなし」

 酒が入っているせいもあるのだろう。やたら陽気な口調でトウノはそう言った。

 森也はと言えば苦虫を十億匹もまとめて噛み潰している。

 「……何で、あのふたりがあんなに張り合うんだ? そんなキャラじゃないはずだろう。とくに、ひかるは誰にでも人当たりよく接するのに。なんでさくらに対して、ああなる?」

 そう言って頭を抱える森也に対し、トウノは溜め息をついて見せた。

 「あのねえ、あーくん」

 「なんだ?」

 「あーくん、少しは自分のしていること自覚した方がいいよ」

 「どういう意味だ?」

 「そう言うところなのよねえ」と、トウノは思わせぶりに言いながら酒をあおった。

 「でも、ま、あーくんには感謝してるのよ。母ひとり子ひとり、しかも、あたしは仕事しごとであの子には寂しい思いさせてきたから。あの子の相手はいつも担当の編集者とかアシスタントに任せっきり。そのせいであの子、すっかり他人に気を使って生きるようになっちゃって。まだ小学生にもなっていないような子供がまわりに気を使っているのを見るのは正直、辛かったわ。あーくんがはじめてだものね。ひかるが甘えたり、ワガママ言ったりした相手は」

 「気にしているなら結婚する気はないのか? 父親が出来れば甘えることも出来るんじゃないのか?」

 「それは! 『相手がいないならおれが立候補する』と受け取ったよろしいか⁉」

 「全力で否定」

 ――即答するなよ、この野郎。

 ――正直に勝る美徳なし。

 と、しばしの間、ほうきをもったトウノが森也を追い回す一幕が展開されたのだった。

 「まあ、冗談はともかくとして」と、冗談とは思えない追いかけっこを演じたあと、トウノが言った。

 「結婚するにしても正直、ひかるの身が心配なのよ。なにしろ、ほら、父親ができると……ねえ?」

 トウノは言いずらそうに言葉を濁した。さすがに母親として、娘が『そんな目』に遭うことを口には出せないらしい。

 森也はうなずいた。

「たしかに。性犯罪の加害者で一番、多いのは義理の父親だからな」

 そうなのよ。

 そう言いたげにトウノはうなずいた。

 「それでなくてもあのひかるだ。実の父親だって分別がつくかどうか」

 「それなのよねえ。結局、安心できるのは、あーくんしかいないのよね」

 「それも、ひかるが中学にあがるまでの契約だ」

 森也は真剣な表情で紅茶のカップを置いた。

 「中学生になれば肉体的にはもう『女』と言っていい。心理的にもどんどん女になっていく。そうなれば、男のおれでは世話しきれない。ひかるには女の先輩が必要だ。そう思ったから、さくらと引き合わせたんだが……」

 はあああ、と、森也は深いふかい溜め息をついた。

 「……まさか、あんなに衝突するとは思わなかった」

 「だから、あーくん。いい加減、自分のしていること自覚しなさいって」

 トウノはそう言って一口、酒をあおった。

 「どう? いっそ、本気で結婚してみない?」

 「断ると言ったろうが」

 「やあねえ、あたしとじゃないわよ、ひかるとよ。あーくんにあれだけ懐いていたら他の男と恋愛なんて出来ないだろうし。もちろん、親子丼したいって言うなら考えないでもないけど?」と、トウノは流し目を送ってくる。

 自堕落じだらく不摂生ふせっせいなマンガ家生活のせいで埋もれているとはいえ、そこはひかるの母。きちんと節制してエステに通い、身だしなみを整えれば相当な美女となる。そんな相手からの流し目をしかし、森也は素っ気なく無視した。

 「それが母親の言うことか。エロ漫画の描きすぎだ」

 「失礼ねえ! 『よろてん』はエロ漫画なんかじゃないわよ! れっきとした冒険ファンタジーなんだから!」

 「コミックスを規制されたくせに何を言ってる」

 「あれは頭が固いのよ!」

 「ファンもみんな、納得してたろ」

 「それは禁句!」

 マンガ家ふたりの言い合いは結局、明け方までつづいたのだった。

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