樹木たち

富永夏海

樹木たち

 レオナはまず樹のことを話してくれた。この国の果てに樹がたくさん生えている、この国で樹が生えるのはそこだけだ、と。

 いろんな樹が生えてるんだ、と彼は続けた。くぬぎとかけやきとか松とか杉とか、まあおれは庭師じゃないからよく分からないけどさ、とにかく春夏秋冬、東西南北のありとあらゆる樹がそこに生えてるわけ。ずいぶん土地はわるくてね、彼らが生き長らえるぎりぎりの養分しか残されてない。でもそれだけで十分さ。彼らには欲がないんだもの。ただすこしでも眠りたいだけなんだ。彼らはそこに芽吹いたときからずっと眠ってるのさ。

 死とは違うよ、とレオナは言った。死んでいるのとはぜんぜん違う。彼らはずっと眠ってる。生まれたときからずっと眠って、夢をみてるのさ。

 わたしには信じられなかった。樹が夢をみる? 樹に眠るも起きるもないでしょう? 立ち止まってそう言うと、レオナは一瞬さみしそうに眉をひそめたが、やがて小さな声で「ほんとさ」とだけ言った。


 まずは簡単なところから始めよう、ともレオナは言った。話というのはそういうものだ、だんだんに込み入ってきて細かなものがまわりに溢れてくる、そういうものたちにいつの間にか取り込まれてって、唐突に終わりがやってくる、それが話というものさ。

 だからわたしも簡単に始めねばならないと思う。たとえばこの国は小さいとか大きいとか、治安がよいとか悪いとか。まずは大まかな輪郭からなぞっていかねばならないと思う。たとえばそう、美しいとか醜いとか。

 この国は美しかった。少なくともわたしの目にはそうみえた。あらゆるものがないこの国にも一日という区切りだけは一応あり、そのおしまいには空はいつも薄紫から群青のグラデーションに燃えあがる。時折、空の隅でばら色の煙のようなものが立ちのぼることもある。空が血を吐いてるよ、とレオナはよく言い、皮肉っぽい笑みを浮かべることもしばしばだった。あの空もまがいものだよ、ほんものの空に嫉妬してあんな風に血を吐いてるのさ。

 この国に完全なものはひとつとしてないということを、時間をかけてわたしは知ることとなった。石は拾ったそばからぼろぼろと崩れるもの、水は粘って飲めないもの、砂は撫でているうちに泥になるもの、鳥ですらまともに飛べるものはないのだと。わたしは可哀想な小鳥をいくつか知っている。どれも卵のころから飼っている愛すべき小鳥たちだがそのどれもが畸形だ。ひとつ目のもの、羽根のないもの、三本足のもの、足が一本もないもの。くわえて彼らはひどく醜い声で、そんな小さな体のどこから出てくるのかと思えるほど大きな声で鳴いた。それはひとの声、それも生まれたての赤ん坊の断末魔にも思える叫びに似ていた。朝も昼も夜も、鳥たちは何かあるとわたしを探して鳴いた。わたしは我が子を憎んでしまう母親の気持ちがわかるような気さえした。

 それでも、殺してしまおうとは思わなかった。そこまでわたしは冷酷でも勇敢でも、そして親切でもなかった。そしてあとから知ったことだが彼らは死ぬことができなかった。この国の考え方からすれば、生がそもそも与えられていなかったのだ。

 早朝は、とくに気に入っている時間だった。空はいつも焼いた鉄のような青からつめたい水色に透きとおった。わたしは自分の小屋を出てやわらかな草地を歩き、その色合いを眺めた。歩くのに飽きると草の上に足を投げ出して空を見上げた。一時間もそうしていると、丸い太陽がのぼってきて―たぶんあれも偽物なんだろうが―すべてのものに光を投げかける。丘や森や家屋に、まるで励ますように柔らかい光を投げ淡い影を引き延ばす。わたしは立ち上がり、国境まで歩いていく。国境といっても塀や柵があるわけでなく、石灰のような白い砂で線が引かれているだけだ。ぼんやりとしたグレイッシュグリーンの草原の中に走るその白線だけが奇妙に浮いている。その白線を見るたび、かつて住んでいた国のことを思い出す。学校の庭に引かれていた白線。すこし意識を集中すれば、まるで古い映画のフィルムが回るように思い描くことができる。まぬけな教師がぴっちりしたジャージの太腿を一生懸命動かし、車つきの赤い石灰タンクを引きずってラインを描く。子どもたちが無邪気にその上を横切って線を消す。かわいそうな教師は、でたらめな場所に線を引かないようにそっとタンクを持ち上げて欠けた線を描き足しにいく。また子どもが横切って消す。これが何度か、まるで反復音楽ミニマルのように規則的に繰り返される。

 国境に着くと、わたしは線に触れないように腰を下ろす。そして遠くに見える足のわるい山羊や、生まれたそばからつぶれていく蛙たちや、そよぐ草花を観察した。視界を遮るものは何もなかった。誰かの家や納屋が見えるには見えたが、どれも何かを遮るには小さすぎる。


 太陽が順調に昇ってしかるべき位置におさまるのを見届けると、わたしは家へ帰った。そして可哀想な鳥たちにふやかした穀物を与えてまわった。小指の先ほどしかない匙に穀物を乗せて嘴の先まで持っていくと、鳥たちはみな不気味な鳴き声を立てて必死にむさぼる。嘴のないものが一匹だけいて、わたしはその子にだけは特別な器具を用いなければならなかった。ヘアピンのように細い金属チューブ、レオナが技師に頼みこんで作ってもらった特製品だ。わたしはそのチューブをがらんどうの鳥の口に差し込み、液状になるまですり潰した穀物をゆっくりと注ぐ。傷口のように見える真っ赤な鳥の口は顔いっぱいに開いて、いまにも内臓が見えてしまいそうで、目を背けたくなるが、見なくてはいけなかった。少しでも目を離せば細いチューブが小さな内臓をほんとうに貫いてしまうだろうし、貫かれたまま鳥はずっと死ねないだろうからだ。

 鳥たちの食事が終われば、今度は自分の食事に取りかかる。ここでは黄金と呼ばれている丸い果実を保存棚から出してきて、それを半分に割って食べる。ナイフをそっと当てるだけで自然にきれいな裂け目が生じ、まるで仕掛け絵本のように内部のきれいな果肉がさらけ出される。

 果実は毎日さまざまな味がした。しょっぱい日もあれば甘い日もあったし、ねっとりと粘る日もあれば、舌に触れた瞬間に崩れて埃のようになってしまう日もあった。もちろん最初は慣れなかったが、何事もそうであるように、だんだんとわたしはそれを日常として受け入れた。次第にわたしは朝の果実の味をその日のお告げのようなものとしてとらえるようになった。つまり果実がおいしければその日はいい日。まずければ悪い日。

 この占いを採用しているのはわたしだけではなかった。ネリという毛編み職人の子も果実占いを信じているひとりだった。昼食どき、つまりネリの仕事が暇になる時間、わたしは彼女の家へ出かけていって今日の果実の味を報告した。そしてその味からさまざまな啓示を読み取って好き勝手に話を膨らませて面白がった。川へ出かけ、上から流れてくる短冊形の葉のようなものを拾いに行くこともあった。じつをいえば、それもネリの教育、、のひとつだった。わたしはネリからさまざまなことを教わったがこのときも例外でなかった。つまりこの短冊形の葉は、ほんとうには葉ではなくてネリたちのことばで言う〈魚〉だったのだ。「これをスープにして食べるのが好き」、ネリはそんな風に言って、実践を通してこの国の生活というものをわたしに少しずつ教え込んだ。魚はとても柔らかく、少し火を通すだけですぐにゆるゆるとほどけ、最後にはほとんど原形をとどめずとろみのある銀色のスープになった。わたしたちは熱いスープ鉢を庭のテーブルに置き、鉄の椅子に座ってゆっくりと食べた。雨の日は織り機のとなりに座って食べた。

 ネリは可愛らしい女の子だった。小さな目と小さな鼻を持ち、ふっくらと丸い頬があり、黙っていても微笑んでいるように見える口角の上がったきれいな唇があった。ネリの印象はいつも変わらなかった。何万年もまえからずっと同じであるかのような感じがあった。ネリは髪をいつも丁寧にみつあみにしていて、前髪は丸い帽子のなかに押し込んでいた。きなり色の服と紅色の靴下をつけ、植物を編んで作ったらしい簡素なサンダルを履いていた。もちろんどれもネリが作ったものだ。

 わたしはネリのためにちいさな看板を作ってあげたことがある。川のそばに大きなきのこが生えているのを見つけて、その傘の裏に、果実をすり潰した簡易染料でTシャツマークを描いてあげたのだ。しかしネリは喜ばなかった。いや、喜ぶ振りはしていたが、それは彼女がお人好しだからで、すぐにその笑顔も引っ込んでしまった。困るよ、とネリは小さな声で言ったものだ。とても嬉しいけど、これは受け取れない、だってこれはやっちゃいけないことだから。

 なんでやっちゃいけないの? とわたしは尋ねた。こんなにすてきな才能があるんだから、みんなに示せばいいのに。そう言うとネリは笑って首を振った。そんな必要はないんだよ、だってこの国で服を作れるのはわたしだけだもの、だから看板はいらないの、ごめんなさい、それはあなたの仕事じゃないの、あなたは看板なんて作ってはいけないんだよ。

 それでわたしはこの国のことをすこし理解できた。すべてはネリのおかげだった。ネリがいなければもっとひどい目に遭っていたかもしれない。そもそも、わたしがこの国に入ってきたとき、つまり身につけているものを何もかも失わなければならなかったとき、代わりの服を提供してくれたのはほかでもないネリだった。いまではわたしはネリと同じ編みサンダルを履いている。

 きのこの看板は結局川に捨ててしまった。半分すり潰された果実は、その日のうちに一口で食べた。それで何もかもおしまいだった。ネリはなにごともなかったように日常に戻り―つまり狩人から獣毛を受け取り、それを地道に選り分け、糸を紡ぎ、服を作った。

 何の取り柄もないわたしはとにかく鳥の世話だけはすることにした。穀物を与え、チューブを使い、糞を片付けた。眠るまえにはケージに毛布をかけてやりもした。夜になれば鳥たちは大人しく、ケージに敷き詰めた藁をこそりとも言わせないほどじっと固まっていた。まさか夜のうちだけ石になっているのではないか? そんな風に疑って毛布をめくってみたこともあったが、彼らは醜い姿のままで、息をしているのも分からないほど静かに、きっちり身を寄せ合っているのだった。わたしは毛布をそっと元に戻しながら、少なくともこの国では鳥は石にならないのだと、そう思った。



 国境について語るべきことは少ない、とレオナは言った。ただの白線があるだけだ、でもまあ大したもんだよ、技師は国境を間違うことはない、間違えたら大変だからな。たまに消えることもあるが引き直せばいい話だ、それでおしまいさ。

 たしかに国境についての話は短かったが、わたしとしても国境について何から質問をしていいか分からなかったから、ただうなずくだけだった。いろいろ疑問があるだろうけど、と、レオナは先回りするような口調で補足した。でもまあじきに慣れるさ。おれもここの暮らしは気に入ってる。ちょっと不便なこともあるかもしれないけれどなかなか悪くない。まあ信じててごらんよ。

 レオナは草色の風変わりな服を身につけていた。頭には紺色のフェルトの帽子を乗せ、先のとがった美しい靴を履いていた。これもネリが作ったの? とわたしは訊いた。そうだよ、とレオナはうなずいた。でもいまのネリじゃない。まえのネリだ。その意味についてわたしは尋ねなかった。じきに慣れるさ、とレオナは言ったのだ。

 レオナはわたしをさまざまな場所へ連れていってくれた。狩人の家や技師の家に行っていっしょに挨拶をしてくれもした。広々とした草地を歩いているときは目印になるような建造物や岩のでっぱりを指さして教えてくれた。わたしの質問に答えてくれることもあった。たとえば青い服に身を包んだひとびとが遠くのほうで何か奇妙な動きをしているのを指差せば、彼は「魚獲りたちさ」と言った。黄色いチュニックを着た何人かが草地に座り込んでいるのを見つければ、彼は「木の実拾いたちだ」とつぶやいた。どれも簡潔な説明で、そんなこと言うまでもない、というような感じだった。ただし森に入るときには比較的長い説明がついた。ここに生えてるのは樹に見えるけどほんものの樹じゃない、という出だしだった。まえに言ったかもしれないがこの国で樹が生えるのは一箇所しかない、だからこれは樹じゃないんだ。でも、おれたちはここを森と呼んでいる。べつにほかの呼び方だっていいんだ、崖とか海とか砂地とか、ほかのところで使われてない名前であるならべつに問題はないさ。でも、みんな《、、、》が森って呼んでるからあんたもそう呼んだほうがいいでしょう?

 そりゃそうだ、とわたしは思った。たとえば森をキャンディと呼ぶことだってできるかもしれないが、そうすることの利点はあまりなさそうだった。わたしは、わたしには樹にしか見えないそれに近寄って肌を撫でてみた。たしかにすこしつるつるし過ぎていたしへんにまっすぐ過ぎてもいたが、何も言われなければ樹だと思い込んだだろう。

 どう、とレオナが背後で訊いた。どうって? とわたしは振り向いた。

 どうってって、この森についてさ。

 しばらく考えたが何もおもしろい答えは思いつけず、ありのままを答えることにした。―まっすぐの棒がたくさんの葉と枝を生やして集まってたら、誰しもが森だと思うんじゃないの?

 分かってほしいのは、とレオナは言った。この国のほとんどのものは偽物なんだ。少なくともあんたの言葉で言えばね。たとえば水は水じゃないし樹は樹じゃない。あんたが飼ってる鳥なんかを見たらよく分かるでしょう、鳥は鳥じゃないんだ。もちろん魚も。きのこも。空も砂も果実もね。

 わたしたちは森のなかを進んだ。レオナはいちいち立ち止まって、歩きやすい道や入ってはいけない道を教えてくれた。森を抜けるとまた同じような草地が続いた。そこからの説明は再び簡素だった。あれが見晴らしのいい丘で、あっちは貯蔵に向いた涼しい洞穴、妖精のトイレみたいな小さな泉もある、それからあとはこれだけ、とレオナは両手を大きく広げた。この荒涼たる草原だよ。

 案内してないところはもうあとひとつしかない、とレオナは言った。それはたぶん国の片隅、ほんものの樹が生えているところだろうとわたしは思ったが何も尋ねなかった。「じきに慣れるさ」と自分に言い聞かせるだけだった。

 わたしたちは森を戻ってもといた草地に出た。すこし休もうとレオナが言い、わたしたちは庇のようにでっぱった岩のそばに腰を下ろした。この国は狭い、とレオナは言った。高い鼻が頬に三角形の影を作っていた。この国はとても狭い、でもこれで充分なんだ。この国のほとんどのひとたちはこれだけのもので満足してる。いや、満足というか、少なくとも不満には思ってない。ここのひとたちは素朴だ。なにも望まないし、望む自分を想像しもしない。淡々としたものさ。おれは思うんだけどさ、向上心なんてものは醜い、文字通り貪欲ってやつだ、いまあるもので充足できるなら幸せだとおれは思う、ほかの国ではどうだか知らないがね。

 レオナの声は弦楽器のような響きを持っていて、ごく小さな声で話していてもはっきりと聴き取れたし、ほんの少し抑揚をつけるだけでまるでメロディーのように繊細にうねった。わたしはレオナの話をもっと聴いていたいと思った。だがレオナはもう何も話さなかった。空を睨み、膝に回した手を鍵のようにしっかり組んで、じっと動かずにいた。


 この国においてわたしは孤独だったが、それは以前いた国の孤独とはまた種類の違うものだった。以前いた国でわたしは孤独をむしろ欲していたが、それはあまりにもまわりに物が溢れていたためで、決して進んで選んでいたわけではなかったのだ。この国に来てからというもの、乾いたバターに似た鳥の体臭が立ちこめる小屋のなかで、時々わたしは誰かに何かを話したくなった。その衝動は凄まじく、一度意識すると抑えることは難しかった。それでわたしは自分の考えを誰にともなくつぶやくことにしたが、ひとりでぶつぶつやっていると言葉はいつしか言語未満のでたらめな歌のようになった。そうなるといよいよ狂人じみてくるので、わたしは自尊心の傷つくまえに枕に突っ伏して沈黙を守ることにした。

 孤独なわたしにとってネリの存在はとてもありがたかった。彼女はわたしの話を黙って聴いてくれたからだ。わたしはかつて自分がいた国についていろいろと語った。それからこの国についても意見をいくつか言った。たとえばこの国の水や鳥や空や樹が自分にとってどれほど驚くべきものかということを話すと、ネリは興味深そうに相槌を打ちながら聞き入り、話が切れたところでこんなふうに言った。

「あなたってレオナみたいだね」 

 わたしは首をひねった。「そう?」

「レオナもそういう話をするよ。いろんな話をする」

「そういう話って?」

 たとえばね、とネリはどこかに視線をさまよわせた。「だから、たとえばいまあなたが話したみたいなことだよ。なんていうのかな、それって」

 わたしは黙っていた。

「なんていうんだろう、そういう話って……」

 ネリは目を閉じて言葉を探していた。できればいっしょに探してあげたかったが、ネリの頭に入ってゆくことはできない。ネリはしばらく瞑想でもするようにじっとしていたが、ふいに目を開いた。

「そう。考え《、、》よ」

「考え?」

「そう、考えのこと。自分の考えをレオナもよく話すんだよ」

 わたしはふとさみしくなった。自分の考えを話すことはこの国では変わったことなんだろうか。

 わたしはレオナとの〈散歩〉のことも話した。彼女はまた熱心に聞いていたが、最後に首をひねって「おかしいな」と言った。

「レオナは、案内してないところはあとひとつだけって言ったの?」

 そう、とうなずくとネリは毛糸を放り出して腕を組み、またしても首をひねった。「ひとつじゃないと思う。ふたつかみっつあると思うよ」

 しかしわたしは鳥の世話で忙しかったから、そのことをレオナに問いただすのを忘れてしまっていた。十二匹の小鳥は毎日さまざまな問題を起こした。なかでも、まぶたのない鳥にはいちばん手を焼いた。生まれてからずっと外気に触れ続けた彼の目玉はすっかり乾き切り、いまにも取れてしまいそうだった。わたしは湿らせた綿で目のあたりを拭いてやろうと試みたが、そういうちょっかいが彼の神経を参らせたらしく、ついに自分の羽根を引き毟るという自傷行為まで始めた。

 わたしは疲れ果てていた。自分以外のほかの誰かに頼りたい気持ちでいっぱいだった。それで、以前嘴のない鳥のためにチューブを作ってもらった技師の家を訪ねることにした。ほかに頼れる人間を思いつけなかったのだ。

 技師は森のそばに住んでいた。ほかの家屋と同じく灰色の岩を積み上げただけの簡素な家だった。ほかと違うのはいつも煙突から奇妙な煙が吐き出されているところだ。どう奇妙なのかというと、ある日は桃色がかっていたり、また別の日は紫がかっていたりするのだ。この家の近くに住んでいるもののなかでは、果実占いではなくこの煙で一日を占っているものもいた。たとえば赤色であれば情熱的な日、ピンク色であれば好奇心のくすぐられる日。しかしこの国に情熱も好奇心もありはしなかった。

 その日の煙は水色だった。わたしはしばらくその煙を見上げ、自分なりの解釈を考えてみた。鎮静、誠実、精神、知性。でも、だからなんだというのだろう? ドアをノックすると、十数秒の間のあと親指分ほどの幅が開き、その隙間から風変わりなゴーグルのようなものをかけた目がのぞいた。レンズに無数の亀裂が入っており、そのどれもがさまざまな色合いに光っている。こんにちは、とわたしは言ってみることにした。それ以外に適切な挨拶を思いつけなかった。技師は疑わしげに、七色の光が乱舞するレンズごしにわたしを観察していたが、何か手がかりを得たかのように首を振って、ようやくドアを半分ほど開いた。わたしは粘り強く続けた。この間挨拶にうかがったものです、レオナといっしょに。すると技師は七色のゴーグルをひょいと額へ上げ、それこそほんもののレンズのような透き通った目でわたしを睨んで「ああ」と言った。いかにも無関心そうな口調だった。

「新人か。何の用だ」

 わたしは鳥のことを説明した。目玉が千切れかかっている哀れな小鳥のことを。すると技師は「鳥飼いか」と言った。鳥飼い? と首を捻ると、技師も同じように首を捻った。

「鳥飼いじゃないのか?」

「鳥は飼ってますが」とわたしは言った。「それを鳥飼いというのかはよく分かりません」

 鳥を飼ってるんなら鳥飼いだろう、と技師は言って部屋の奥へ消えた。わたしはすこし迷ったが中へ入った。

 彼の家はそれ自体が一つの機械のようだった。壁には天井ぎりぎりまで棚が打ち付けられており、黒ずんだ小さなはしごがあちこちに掛かっている。棚からはみでたさまざまな器具で埋め尽くされた床には、おそらく彼なりの配慮だろうが布が一筋敷かれていて、それが通路の目印、つまり足を傷つけずに歩くことのできる道となっていた。おそるおそる布の上を歩きつつ、床に散乱した器具を眺めた。たとえば柄の極端に長いとんかちのようなもの。たとえば刺付きの鉄棒。ひん曲がって絡まり合った針金たち。さまざまな形のフラスコのようなものはほとんど底が抜けている。地図のようなものもあったがこの国の地形とはまるで違っている。壷からこぼれたインクは腐り、ペンはどれも折れている。唯一便利そうな鍋やフライパンのようなものは一列になって壁からぶら下がっていたが、どれもびっしり錆を浮かせており、調理器具というよりは打楽器にならぎりぎり利用できそうだった。しかしそうであっても、わたしはそこに何か文化的な匂いを嗅ぎ取って奇妙な安堵をおぼえた。出来損ないであってもペンやインクはあるのだ、鉄もあるし、多少風変わりではあるがガラスのようなものもあるのだ、と思ったために。

 布の道の果てには黴臭い絨毯のようなものが放られていた。まあ座りなさい、と技師はその絨毯を指し示した。わたしはおとなしく腰を下ろした。なにげなく天井を見やると、割れた鏡の破片がモザイク画のように敷き詰められていて、何百ものわたしの眼がわたしを見返した。技師は部屋の奥に掛かっている泥水で煮染めたような色合いのカーテンを引いて中に消えた。わたしはしばらく天井を見上げて自分の分身たちを観察していた。それにしてもなんて悪趣味なんだろう、どういう考えでこんな天井にしたんだろうか、わたしは割れた鏡を天井に貼り付けたくなる心理を考えようとしたが、もちろん何の結論も出はしない。

 技師はふたつのコップを持って再び現れ、ひとつをわたしにくれた。コップには黒く粘る液体が満たされていた。これなんですか、と尋ねたが、技師は一気に飲んでげっぷをしただけで何も言わなかった。わたしは仕方なくコップに口をつけて飲むふりをした。腐った魚のようなひどい臭いが鼻先をついた。

「鳥のことを詳しく聞こうか」

 と技師は言った。

「目玉が取れそうだって? よくそんな不気味なもんを飼ってるね」

 よく分からないんです、とわたしは言った。

「生まれたときからそうなんです。わたしの飼ってる鳥はみんな畸形です。十二匹いますが、十二匹とも体のどこかに不自由を持ってます」

「その鳥はどこから来た。あんたが持ち込んだのか、ここに入るときに」

「とんでもない」とわたしは言った。何も持ち込めるはずはなかった。この国に入るときに持ち物はすべて没収されてしまったのだ。衣服から鞄から靴、もちろん下着にいたるまでのすべて。

「この国に入ったとき、すべてのものと引き換えにわたしは家をもらいました」とわたしは言った。

「いま住んでる家がそうです。毛織り職人の家からすぐの、ほんの小屋みたいな家です。わたしは小屋に入って、なかをぐるりと見回しました。すると、テーブルの上に十二個の卵がきれいに円形に並んでたんです。まるでホテルのアメニティーみたいに。その卵から孵ったのが彼らです。その畸形の鳥たちです」

 技師は黙っていた。わたしは「最初は楽観視してました」と続けた。

「なぜなら、目がそもそもないものがほかにいたからです。でも今じゃ目のないやつのほうがましみたいに思えます。だって乾いた目玉がほとんどはみでて、いまにも千切れそうなんです。そりゃそうでしょう、まぶたがないんですから。眠るときですらずっと開きっぱなしなんですから」

「だろうね。よく分かったよ」

 と技師は重々しい口調で言い、額に引っかけていた七色のゴーグルを取って手の中で弄んだ。

「でもわたしは獣医じゃない。そしてこの国に獣医はいない。鳥の目が乾燥してるだなんて言われても、専門外すぎて何も教えられないね」

「でもあなたはチューブを作ってくださいましたよ。嘴のない鳥のために」

「それはレオナがそう説明してくれたからさ。いまの説明じゃ何を作ったらいいのか分からんよ。こう言っちゃなんだが分かりたくもないね。わたしはほかの依頼で忙しい。そうでなくても自分の研究に充てる時間がなくて苛々してるのに」

 技師は床に散らばった器具のなかから細長い鉄の棒をつまみ上げ、顔の前で振った。「これがなんだか分かるかね」

「分かりません」

「わたしにも分からない。たぶん刃物の柄だと思うが、確信は持てない」

 だがね、と技師は言って鉄の棒をつまらなそうに放った。棒は床に落ちていた鉄板のようなものに当たって乾いた音を立てた。

「わたしは辛抱強い男だ。こういったちいさな部品を集めて、あるものを作りたいと思っている。長い時間が掛かるだろうし、いろいろと面倒も起きるだろうが、それでもなんとかやりとげたい」

「あるものってなんです?」

「溶鉱炉さ」と技師は言った。「溶鉱炉を作りたい。もしあんたが溶鉱炉の設計図を書けるんだったらなんだってしてやれるが、書けないだろうね」

「書けないと思います」とわたしは言った。「書きたいのはやまやまなんですが」

「そりゃ残念だ」

「でもどうしても助けてあげたいんです」とわたしは言った。「何か、たとえば目薬みたいにさしてあげたいんです」

「ほう。あんたが何を必要としてるか分かるよ」

 と技師は言った。

「どういうものを作ってやればあんたが助かるか、わたしにはそういうのがぱっと分かる」

「じゃあ作ってくださいますか?」

「国境に近寄るのを辞めてくれるかな」

 と技師は言って、またげっぷをした。「あんまり近付きすぎて線を消されると面倒なんだ。いちいちあそこまで出かけて、引き直さないとならないからな」

 わたしはうなずいた。技師はしばらくわたしの目を試すように見ていたが、不意に興味を失ったように目を逸らして「帰りな」とだけ言った。

 数日たっても、技師からは何の連絡もなかった。わたしは再びネリの家に出かけていって、技師とのやりとりについて語った。ネリは作りかけの帽子を弄びながら黙って聞いていたが、最後になって「あのひとは忙しいんだよ」と言った。

「とても忙しいの。たぶんこの国でいちばん忙しいんじゃないかな。それに、あのひとは自由なひとなんだよ。誰もあのひとを縛れないし、強制もできないし」

「自由?」

 わたしは思わず訊き返した。ネリはうなずいた。

「あのひとだけだよ、しょっちゅうこの国を出たり入ったりしてるのは。出たり入ったりして、そこらへんでおかしな道具を集めてきて、少しずつ少しずつ家のなかに溜めてる。それを分解したり組み直したり、そういうことが芯から好きなの」

「どうして彼だけなの?」とわたしは訊いた。「どうして彼だけ自由を許されているの?」

「許されている?」ネリは首を傾げた。「誰に?」

 それでわたしは訳が分からなくなり、さあ、と肩をすくめた。そして「誰か分からないけれど、その自由を許してるひとがいるわけでしょ」と、もごもごと言った。

 するとネリは首を振って、そんなひとはいないよと言った。誰も許さないし、許されないよ。ただ彼が自由な生き方を選んでるだけだよ。ほかのひとはね、誰も想像しないの、この国を出たり入ったりするなんて、そんなこと誰も想像しないし、できないの。わたしだってそうだもの。

 なぜ? とわたしは訊いた。さあ、とネリは首を振った。分かんない、でも出る気になんてならないんだよ、ここだけでわたしは充分だし外は危険だもの、だから線があるんだよ、この国はここまでですよって分かるように、線が引かれてあるんだよ。


 国境の線について考えるとき、わたしはいつも人間の皮膚を思った。そして皮膚を思うとき、わたしはものの輪郭というものについて考えさせられた。輪郭というものは不思議なものだ、それ自体とその他を隔てるものであると同時に、それがなければその他のものに触れることができない。わたしには皮膚があり、だからわたしの中身が外へ溢れずにはりつめていられるが、その代わりにわたしは世界と自分を永遠に隔てている。わたしの輪郭はこの皮膚であり、それがあるからわたし以外のものに触れられる。―ということは〈隔てる〉と〈触れる〉は同義だろうか?

 わたしに考え《、、》というものがあるとしても、それは結局同じところをぐるぐると回るただの環だった。つまり、輪郭がそれをそれたらしめている―だがそれゆえにそれは世界と切り離されている―だがそれゆえそれはそれである―だがそれゆえそれは孤独である―以下繰り返し。

 そういう話をぽつぽつとすると、レオナは「退屈な話だな」と言って川に石を投げた。石は沈まなかった。この川の水も見せかけに過ぎず、ほんとうは柔らかいゼリーのようなものだからだ。そのゼリーの表面を細い光線がすばやく駆け巡っているので、水が流れているように見えるだけなのだった。

 石は水面から人差し指分ほど沈んだところにしばらく留まっていた。永遠にそのままであるように思えたころ、やっと石は唐突に、まるで角砂糖が溶ける様子そっくりに砕けた。そして細かな粒になってゼリーのなかへ溶けてしまった。

「外の世界について話そうか」

 とレオナは言い、やや自嘲的な笑みを浮かべた。「それとも、あんたのほうが詳しいかな?」

 よく分からない、とわたしは言っておなじように石を投げた。やはり沈まず、さっきと同じように突然ほころびる。

「外の世界も悪くなかった。でもここも悪くない。多少不便だけれど」

「そろそろ慣れてきたろ?」

「すこしはね」

 レオナは笑い、また石を投げた。短冊のような形の魚がまたしても上流からやってきたが、わたしたちはそれを拾わなかった。まだ昼ではない。魚は昼に食べるものだ。

 外について話そう、とレオナは言った。外の世界についてね。外の世界はとにかく危険だ。少なくともこの国のひとたちはそう思ってる。だから線を引いたんだ。ここから先は危険だって示すためにね。大昔の話だよ。技師が引いた。もちろんいまの技師じゃない。まえのまえのまえ、そのもっともっとずっとまえの技師さ。

 非常に器用な男でね、とレオナは顎をつまみながら吟味するようにゆっくりと語った。もちろんいまの技師もそうだけど、昔のそいつもものすごく器用だった。石みたいに無骨な手をしてやがるのに、よくもまあこの手で、繊細で緻密なものが作れるもんだってみんな驚いたものだよ。まあそういうことだ。その技師は何も使わなくてもまっすぐな線を引ける手を持ってた。おれは思うんだけどさ、線ってのはまったく不思議なものだよ。直線はただの線だが、両端がぶつかると枠になる。枠になった途端に線は線じゃなくて空間になる。そういうことだ。端と端が結ばれてしまえばもうただの白線じゃない。あれは国境になったんだ。それはどんな柵より門より堅固なんだ。なぜならあれは定義だからさ。決まりってことだ。この国にはいろんな決まりがあるが、目に見える決まりはあの国境しかない。あれにはなんというか、ひとの精神を縛るような強さがある。強さっていうのは結局そういうものだろ?

 だからその線より先には誰も行かないんだ、とレオナは言った。なぜならあの線までがこの国で、あの線からはそうでないからさ。ただそれだけのことだ。まあそもそも行く必要もない。ここには生きていくのに必要なものはひととおり揃っている。果物に魚に毛皮。あんたはまだ見たことがないかもしれないが種なんてもんもあるのさ。季節が変わればみんなが一直線に並んでね、一斉に種をまくのが見られる。ちょっとした光景だよ。それから、ほんのすこしだが文化的資源もある―技師のところへ行ったんだろ? あそこにはなかなか面白いものがあるよな。鉄もどき、ガラスもどき、インクもどき。ぜんぶまがいものだけどここでは充分だ。彼はなかなかいい腕をしてる。難しい注文もなんとかやってのける。おれは随分あのひとに助けてもらった、おれだけじゃなく何人も彼に助けられているだろうね。彼は努力家だよ、探究心もある、ひとことで言うと執念深いんだな。だからこそ彼だけは線の外まで出かけていくんだ。たとえ危険であろうともね。

「誰も出たことはないの?」

 とわたしは尋ねた。つまり、技師以外のひとでってことだけど。するとレオナは首を振った。

「そんなことはない。出た人間はいるよ。何人かね」

「でも、帰ってこなかった?」

「どういう理由かは知らない」

 レオナはまた石を投げた。

「でも悪いこととは限らないさ。もしかしたら外の暮らしのほうが良かったのかもしれない」

「わたしは外の世界がいやだった」

「ふうん?」

「だからここに来たよ。もちろん、ここがどういうところか全然知らないで来たわけだけど」

「それでどうなの? 前とくらべて」

 いいとおもう、とわたしは答えた。そう答えるほかに何も思いつけなかった。

 風が吹いた。生ぬるく、多分に湿気を含んだ風だった。背後でまがいものの樹々がざわつき、ゼリーの表面を撫でる光線もかすかに揺らいだ。その揺らぎに合わせ、短冊のような魚も進行方向を微妙に変えた。レオナは足元の草をぶちぶちと引き抜き、それも川に投げ入れた。草たちは石と同じく突然ほぐれて、ゼリーのなかに溶けて同化した。

「行こうか」

 とレオナは立ち上がって首をさすった。「ここは寒いな」

 わたしたちは草地を歩いた。さっきまで寒かったのに急に暖かくなり、首筋を汗が何度も何度も洗った。一方レオナは少しも汗をかいていなかった。靴まで新品のようにつやつやしていた。もちろんわたしのサンダルは泥にまみれている。

「そりゃあ、おれは歩きに慣れてるからさ」

 とレオナは言って、かかとで地面をとんとんと叩いてみせた。

「歩きまわることがおれの仕事のようなもんだもの。どんな靴を履いてたって、たとえ裸足だって、おれは疲れないだろうね。自信あるよ」

「なんの仕事なの?」

 レオナは笑って、答えてはくれなかった。「仕事ってのは自己紹介とは違うのさ」と言うだけだった。

 わたしは途中で技師の家に寄ることにした。煙突からは何の煙も出ていなかった。ドアをノックすると、あきらかに技師のものではない細い手首がにょっきりと出てきて、奇妙な器具をわたしの手に押し付けた。それはハチドリのような形をした半透明の物体だった。ミニチュアの水差しのようにも見えた。

「スポイトだ」とレオナが言った。「そんなものを注文したのか?」

 分からない、とわたしは肩をすくめたが、満足な気持ちだった。これに粘る水をつめて目にさしてあげられる、と思ったのだ。わたしはそのハチドリのような小さなスポイトをポケットに入れて、技師の家を後にした。それにしてもあの細い手首の持ち主はいったい誰だったのだろう? レオナに訊くと彼はつまらなそうに「魔女さ」と言った。

 わたしは笑った。魔女? そんなひとがいるんだね、この国にも。そう言うと彼は「あんたの国にもいたのか」と驚いた。実在はしなかったけど、とわたしは説明した。

「創作のなかにはたくさんいた。ほんとうは魔女じゃないのに魔女って決めつけられて火あぶりにされたひとも、いっぱいいっぱいいたよ。昔の話だけどね」

「この国の魔女は火あぶりになんかされない」とレオナは言った。すこし不機嫌な口調だった。

「とてもいい人なんだ。火あぶりなんてとんでもない」

「もちろんね。わたしだってそう思ったよ、その件については」

「この国じゃ誰も火あぶりになんてされないんだよ」

 分かったよ、とわたしは言った。なぜそこまで火あぶりにこだわるのかわたしにはよく分からなかった。何かいやなことでもあったんだろうか?

 すこしの沈黙があった。レオナは足を止めて草むらに座り込んだ。わたしも同じように座り込み、よく手入れされた犬の毛のように手触りのいい草を撫でた。草はすこしの穴もなくどこまでも均一に生えていた。巨大な絨毯だ、とわたしは思った。あるいは、この国はじつは国なんかじゃないのではないか、わたしたちがそう思っているだけで、なにか巨大な獣の背に乗っかっているだけなのではないか。

 レオナがぽつりと「技師は魔女と仲がいい」と言った。

「魔女はめったに姿を見せない。でも、たまに技師の家に遊びにくるのさ。最近はめっきりそれも減ってたと思ってたけどね」

 わたしは肩をすくめた。「シャイなんだ」

「あんたの国ではそういう風に言うのかもしれない」

「魔女はどこに住んでるの?」

「丘の向こう」

 とレオナは人差し指を伸ばしたが、その先を見てもだだっ広い草原が続いているだけだった。

「つまらないさびれたところさ」

「なんで魔女なの? 何をしてるひと?」

「何をしてる《、、、、、》?」

 レオナは首をひねった。

「何もしてないよ。彼女は魔女なんだ。そしてそれよりも前に、あらゆる男性にとっての母なのさ」

 ふうん、とわたしは相槌を打ったが、何も分かってはいなかった。母と言われてわたしが思い描いたのはなぜかネリだった。この国に来てからしょっちゅう世話になっているせいでそう思ったのかもしれない。あるいはネリ自身の佇まいや雰囲気からそう思ったのかもしれない。いつ遊びに行ってもゆったりと微笑み、変わらずに編み物をしている。何度会いに行ったとしてもネリは変わらずにそうなのではないか、とわたしは思った。何千年、何万年経ってもそうなのではないか。

「……ネリは」

 と、わたしはふと思い出して言った。

「わたしが案内されてないところはひとつじゃなく、ふたつかみっつあるって言ってたけど」

 すると今度はレオナが肩をすくめる番だった。

「たしかにね。いま思えばそうかもしれない。でもおれだって完璧じゃない。ほとんど善意で案内人を買ってるんだ。おれの仕事じゃないのにさ」

「自分の仕事じゃない仕事はやっちゃいけないって、そうネリが言ってたけど」

「ネリの言葉は間違ってない。正しすぎるんだ。それが間違いといえば間違いだね」

 わたしは黙った。レオナはフェルトの帽子をとって頭をぽりぽりと掻き、いや、悪い意味じゃなくてね、とつぶやいた。わたしはしばらく黙っていたが、黙っているのにも飽きてきて仕方なく口を開いた。

「あなたの仕事はいったい何なの?」

 レオナは帽子を戻し、ため息をついた。

「国のあちこちを回ることだよ」

「ただそれだけ?」

「ただそれだけってわけじゃない」とレオナは言った。

「でも、まあいろいろだよ。仕事なんてひとくちに言えるもんじゃないさ。まあほんとに分かりやすく言えば、基本的にはこの国をぐるぐるぐるぐる回ってるよ。飽きもせずに。端から端まで、東西南北を堂々めぐりさ。まあだから、そのついでに案内もしてやろうって思ったんだよ。言っとくけどおれはこの国の地理に関してはちょっとしたもんだぜ。技師はこの国の外にすこし詳しいだけだが、おれはこの国の中についてすこぶる詳しいのさ。隅から隅まで見たからね、もう何度も何度も」

「樹の生えているところも?」

「もちろん。樹の生えているところも」

 風が遠くからやってきて、草は波のようにうねった。わたしはサンダルにこびりついた泥を取り、紐をきちんと結び直した。レオナの靴はとても華奢で、足に布を巻き付けただけのように見える。しかし絶対に破れたりしないのだろうな、と思う。

「そこへは案内してくれないの?」

 そう言うとレオナは足を伸ばしてあくびをした。

「残念だけどね。そこへ行けるのはこの国でおれだけだ」

「服を作れるのがネリだけであるように?」

「そう。外へ出られるのが技師だけであるように」

 言いながら、レオナはこちらを見てにやっと笑った。「分かってきたじゃないか」


 まぶたのない鳥はあらゆることに敏感になっていた。自傷行為も過激になりつつあり、ケージに敷き詰めた綿には点々と不気味な血痕が散った。結果的にハチドリのような形をしたスポイトはうまく機能したが、もちろん最初はそうではなかった。摑もうとしても騒ぎ立ててあちこち走り回る鳥を、わたしは部屋の隅まで追いつめて脳震盪まで起こさせなければならなかった。気絶した鳥を抱き上げ、半ばむりやり目玉に水を垂らさねばならなかった。鳥は昏い目をこちらに向けたまましばらくひくひくと痙攣した。わたしは鳥を別の小さいケージに隔離し、扉に針金を巻いてかんぬきを掛けた。

 何日かそのような療法を試みた。もちろん鳥は何度も前の日と同じことを繰り返したが、わたしは辛抱強く水を与え続けた。おかげで目玉は段々と輝きを取り戻し、ぶよぶよとした目玉らしさを復活させていった。自傷は悪癖となりつつあったが、それが始まるとわたしは手を叩き、口笛を吹いて鳥の気を反らせることに努めた。

 ほかの鳥も段々と知恵を付けてきていた。金網を食いちぎろうとしたり、ほかの鳥の上に乗っかったり、狭いケージのなかで好き勝手に暴れ回ったりした。幸いだったのは、鳥たちはみんな温厚だということだった。寒いときは寄り集まって眠った。ある一匹がご機嫌な様子で鳴き始めれば、ほかのものも呼応して合唱しはじめた。彼らはお互いに傷つけ合うというようなことはなかった。いつも呑気に寄り集まってうごめいているだけだ。だが代わりに交わるということもなかった。彼らを観察し続けるうちに、この鳥たちは殖えないのだ、とわたしは悟った。

 わたしは鳥たちのために小さな水飲みと餌箱を作ってやった。そろそろ手から餌をあげることは卒業したいと思ったのだ。鳥たちは狂ったように餌箱に突進してがつがつと貪った。餌は床じゅうに散らばり、水飲みはすぐにひっくり返った。ケージが狭すぎることにわたしは気付いていた。わたしは再び技師のところへ出かけていって、今度こそは簡潔な注文を取り付けることにした。もっと大きなケージを作って欲しい。それから巣箱やはしごや止まり木があるとなおいい。しかし技師はやはり黒い液体を飲みながら《今回はわたしはそれを断った)、唇を歪ませて獣のように唸り、低い声で言った。

「作ってやれないことはない。そういう分かりやすい注文は好きだ。だがひとつ問題がある。ひとつだけだがきわめて重大な問題だ。いったいなんだと思うね?」

 わたしは答えなかった。それについては前々から感づいていた。しかしここはわたしの常識の及ばない土地だ。なにか不思議な仕組みがあって、それに則り、この技師もほとんど無償とも言うべき形でひとびとに力を与えているのかと思っていた。その考えを読み取ったのか、技師はため息めいた熱い息を吐いて再び不気味な液体を啜り「あんたは新入りだからな」と言った。

「知らないからできないというのと、知っているのにやらないというのは違う。おおめに見てやれないこともない。だがそれはあくまで貸しだ。あんたに借りが返せるか?」

 分かりません、とわたしは言った。「どうやって返せばいいか。具体的にどんな方法があるのか、わたしにはぜんぜん分かりません」

「たとえば毛織り職人は服を作ってくれる」

 と彼は言った。

「レオナにしても、奴のやり方で力を貸してくれる。種まき人たちも狩人も、魔女と呼ばれる女も庭師も、みんなそうだ。種まき人たちの種が芽吹けばいい年を過ごせる。狩人が持ってきた牙や頭蓋骨で、ナイフや器を作ってやれんこともない。魔女の力と引き換えに腐ったインクを分けてやらんでもない」

「じゃあどうすればいいんでしょう、わたしの場合は?」

「知らん。わたしは技師であって鳥飼いじゃない。まえも言ったがわたしは忙しい。ほかの仕事のことまで把握していないし、そうする必要もない。ただ、あんたは新人だからな。わたしは頑固な男だが、それは非情とは違う」

 わたしはうなずいた。技師は冷たい目をこちらに向けたままで続けた。だがね新人、もっとよく考えろ。いや、考えるというのでは足らない。ほとんど思い出すというのに近い。何かを思い出すくらいに考えろ。体が裏返るくらいに考えてみろ。新人にできるのなんてそのくらいだからな。

 家に帰り、わたしは考えてみた。だが何をどう考えればいいのか分からなかった。思い出すくらいに考えろ、という技師の提言についてはまったくの意味不明で、それについて考えることは放棄した。多分、技師のなかではその言葉が真理だったのだろう。少なくとも何かの比喩だということは分かる。しかしわたしは何も思い出せなかったし、思い出せたとしても役立たずなことばかりだった。たとえばこの国にはない海のことや、この国にはないパンケーキやスモークサーモンのこと。この国にはなく、もしあったとしたらちょっとした物議をかもしそうな科学技術のこと―人工知能やICチップやデジタル義眼や惑星探査機のこと―そんなもののことを思い出して、ひとりでため息をつき、奇妙な疲労感に襲われた。

 なにか仕事を始めなければいけないということは分かっていた。だが、この国に必要な仕事は揃っていたし、どこも人手は充分足りていた。そして技師はわたしを〈鳥飼い〉と呼んだ。その呼び方は何か不思議な響きを持った。何となく心が明るくなるような感じがあった。だがそれ以上でもそれ以下でもない。それは単なる言葉で、それも単なるわたしの現状を示したものに過ぎない。わたしは十二匹の不具の鳥を抱えて、一日の大半を彼らのために費やしている。それを仕事と言えるのか、自信を持とうとするにはあまりにも曖昧すぎる。

 モモという人物に会ったのは、技師の家を訪れた三日後のことだった。すらりとした姿で、色が白く、まるで女性のような手をしていた。そしてレオナに負けずこの国の地理に詳しかった。わたしが彼を初めて見たとき、彼はネリの庭に生えている果実の樹の枝を器用に間引いていた。彼は牡鹿の角のように複雑に折れ曲がった大ばさみを、まるで長年連れ添った義手のようにごく自然に扱うことができた。

 ネリはいつものように庭に椅子を出し、オリーブ色とカナリヤ色の毛糸を使って編み物をしていた。種まき人たちのために指無し手袋を作っているらしかった。

 種まきは過酷なの、とネリは教えてくれた。

「一日じゅう引っきりなしに種をまくの。それもとても寒い時期だから、すぐに手が凍えちゃうんだもの。種まきって、ただ種をばらばら落とせばいいってものじゃないんだよ。いろんな技術と、なにより器用な手が必要なの」

 器用な手、とネリは繰り返した。「それはこの人のことを言うんだよ」、そう付け足して枝間引きをしている男を指差した。

 わたしは黙って彼の動きを見ていた。彼は枝と幹の合間にしっかりと足を乗せて、素早くはさみを動かしていた。何か特別なテクニックのせいかそれとも刃の切れ味がよすぎるのか、彼がはさみで枝をざっと撫でるだけで地面に小枝がばらばらと落ちた。彼は神妙な顔つきではさみを動かし、水色の靴をしっかりと踏ん張っていた。彼の靴の底には猫の肉球めいた不思議なクッションがついていて、そのせいで枝から落ちないでいられるようだった。

 枝間引きが終わったあとは三人で夜の食事をとった。夜の食事は三度の食事のなかで特に奇妙なものだった。食べるものは紙のように薄い葉野菜で、噛むとすぐさま水になった。そのくせ、それを食べたほうが喉が渇く気がするので、癒えるまで大量に食べなくてはいけなかった。ネリの話によれば、この野菜も、それから朝に食べるあの不可思議な果実も、この〈器用な手〉が生み出しているらしい。ネリの無意識的な教育は依然として続いていた。わたしはそれらの言葉を飲み込み、頭に刻みこむようにしていた。

 一方〈器用な手〉は食事の間ひとことも口をきかなかった。皿にいっぱいに持った野菜がなくなり、わたしがぼんやりとふきんで口を拭っているときに彼は「ぼくは庭師なんです」とだけ言った。あまりにも不器用な自己紹介だ。庭師、とわたしは繰り返してつぶやいた。またしてもレオナが教え忘れたことばだった。

 空の一隅にばら色の煙が上がるころ、わたしはネリの家をおいとまし、技師の家へ向かった。ケージの進み具合がどんなものだか見に行きたかったのだ。〈器用な手〉の家は技師の家の近く、森のなかにあるらしく、わたしたちは途中まで一緒に歩くことになった。〈器用な手〉は相変わらずとても無口だった。話したとしても非常に億劫そうに、しかも息苦しそうに、ほとんど無声音と言ってもいいほどのささやき声でぽつりぽつりと話した。だがそれは前兆に過ぎなかった。彼は複雑に絡み合った感情をうちに秘めていた。その壮大な織物の最初の一針を何かの拍子に摑んでしまうと、声が痛々しくかすれてしまうまでずっと話し続けた。その話の中で、わたしはこの男がモモという名前を持っているということ、それから庭師という仕事の難しさのことを知った。

 庭師はとにかく歩きます、とモモは始めにそう言った。

「いろんなところを歩きます。いろんな土地のいろんな草花のことを知らなきゃいけませんから。この国は狭いですが、植物は無数にあります。たとえばこの草原。これはぼくが手入れした草原です。きれいに整えて、まるで大地の産毛みたいに仕上げたんです」

「仕上げた?」わたしは呆然として足元の草を見た。「これを?」

 そうです、とモモはうなずいた。

「放っておけば草はぼうぼうに生え、枝は絡まりますからね。それから、レオナがどう説明したかは知りませんが、ぼくは植物というものをとても簡単に定義しています。ぼくはレオナとは気が合わないんです」

 ふむ、とわたしは曖昧に相槌を打った。わたしもレオナととくに気が合うというわけではない。

「庭師は大変な仕事です」

 とモモは続けた。「たとえば種まき人をよく教育して、統率しなきゃいけません。秋の種まきの前までに、いろんなことを仕込まないといけないんです。種が芽吹かなかったら野菜が育ちません。果実もみのりません。まく種を間違えてもいけないし、まく場所を間違えてもいけません」

 でもぼくはもっと奔放に生きてみたかったのです、とモモは言った。その意味が分からずわたしは黙っていた。空は段々と重たい色に変わりつつあった。鉄の色だ。

 ぼくはもっと自由に歩きたかったのです、とモモは続けた。

「もっと自由にいろんなところへ行ってみたかった。でもぼくは庭師ですから、そうできないのです。レオナはとても特別な人物です。彼もこの国を歩き回っていますが、ぼくのそれとは全然べつのものなんです。べつの歩き方なんです。レオナはこの国を歩き回るだけでなく、この国のことを疑ってさえいます。それはレオナにだけできることです。なぜならレオナは樹のところへ行けるからです。庭師のぼくでさえ行けない、樹のところへ行けるんです」

「この国を疑う?」

 わたしは空から視線を引き剥がした。「それってどういうこと?」

「とても難しいことです。とても複雑なことです」

 モモは足を止め、何かを確かめるように人差し指をこめかみに当てた。

「彼には何かがあるんです。それは独自のものなんです。誰にも盗めない彼だけのものなんです。どう言えばいいか分からないんです。でもここに」

 モモはこめかみをとんとんと叩いた。「ここにそれがあるんです。レオナのなかにです。でもぼくにはそれがない」

「それって一体なに? 考え《、、》のこと?」

 モモはうなずき、再び歩き出した。わたしは黙ってその華奢な背を追った。それがレオナなんです、とモモは繰り返した。それがレオナなんです、それがあのレオナという人物なんですよ、ぼくはそれがくやしいんです。

「ぼくはどうしてレオナじゃなくて、ただの〈器用な手〉だったんだろうと思うことがあるんです。ぼくがレオナで、レオナがぼくであったって、何も変わらないはずです。でも、そんなこと言ったって仕方ないんです。仕方ないというのがこの国の本質のようにも思えます。だってね、レオナにしたって、ほんとうに自由なわけではないんです。彼なりに束縛されてるってのはぼくにもよく分かります。レオナなりの役目があってその役目のために歩き回っているってことはよく分かるんです。ね、レオナはレオナであることを選べたわけではないんですよね? ぼくが〈器用な手〉であることを選べなかったように。そうですよね?」

 モモは振り向いてすがるような目を向けた。わたしは黙っていた。何を言えばいいというんだろう? わたしだってわたしであることを選べたわけではないのだ。

 わたしがずっと何も言わないでいると、モモは諦めたようにうなだれてまたゆっくりと歩き出した。

「だからといって、ぼくは自分の感情を押し殺すことはしません。感情を押し殺せばきっと報いが来ます。黒いものが溢れて、この国を覆い尽くすんです」

 風が出てきた。つめたい風だった。技師の家の煙突が見えてきていた。血の色をして煙がのぼって暗い空に染み込んでいった。モモは不思議な靴を履いた足を揃えると、両手を胸の上に当てて頭を下げて「話を聴いてくれてありがとう」と言った。

「ぼくはレオナじゃないけれど、ぼくにだって語ることはできるんです。庭師にも語るべきことはたくさんあるんです」

 何と言っていいか分からず、わたしは「そうなんでしょうね」と言った。モモはもう一度きちんとした礼をして、薄暗い森のなかへ消えていった。


 ある人物について考えるとき、わたしはその人物について語ることについても考えた。ある人物について語ることは楽しい。ことのほか、この国の住人について語ることは。彼らはみんな個性的で魅力にあふれている。しかし彼らの魅力を語ろうとすればするほど、その言葉は本人そのものからどんどん遠のき、まったくの別人物を編み上げる。それはほかでもないわたし自身が、本質とはすこしずつ違ったことばを選び、すこしずつ違ったやり方で組み合わせてしまうからだった。きれいな正円をわざとばらばらにし、改めて組み合わせ直しているようなものなのだ。それはわたしの見たもののコラージュ、似ているがどこか違う、ぎくしゃくとした複製に過ぎず、それそのものではない……。

 考えれば考えるほど、わたしはそもそも何を考えていたのかを忘れた。わたしの考えはまたしても同じところをぐるぐると回るひとつの大きな環となりつつあった。そうなるまえにわたしは考えることを放棄しなくてはならなかった。もっと具体的な事柄に向き合おうと努力しなければならなかった。たとえば鳥の世話は、いっさいの考えを放棄して打ち込める至極現実的な問題だった。餌やり、ケージの掃除、点眼薬、ヘアピンのようなチューブ、水の取り替え。

 技師の作った大きなケージを家まで運ぶことを、レオナは手伝いたがった。ひとりでも運べないことはなかったが、たしかにケージは大きかったし、内部にさまざまな仕掛けを持っているためになかなか重かった。わたしたちはケージを横倒しにし、両側をそれぞれ持った。そしてモモが〈手入れした〉草地をのんびりと歩いた。道々、わたしは語ることについて語った。語ることについて、その難しさについて、レオナは「仕方ないよ」と簡素に結論づけた。語ることは難しいよ、編み物や種まきや魚釣りや草刈りなんかがそれぞれ難しいようにね。

「でも、挑戦してみる価値はある」

 わたしは力なく笑った。「そう?」

「うん。難しければ難しいほどやりがいがあるしね」

 それでわたしはモモのことを話してみた。レオナはわたしの話をしばらく黙って聴いていたが、やがて乾いた笑い声を上げた。

「簡単にいえば、彼は情緒不安定なんだよ」

 情緒不安定? あまりにも簡単すぎる物言いにわたしは笑った。それでレオナは口をきゅっとすぼめて考え込んだ。しばらくの沈黙のあと、どう言えばいいかな、とレオナは言った。

「すごく複雑なんだ。もっと認められたいと思っているくせに自信がまるでない。他人に興味のないふりをしているくせに、じつは大ありだしね。彼は反対のものをいくつもいくつも同時に持っている。そしてそれらは彼のなかで絡み合っている。みんなのことを見下していると同時に、羨んでいない人間なんて誰ひとりとしていない。いつも怯えてるくせに、時々ものすごく攻撃的だ」

 そこまで言って、レオナはこちらを見た。「そういうのって何て言うのかな?」

 わたしはすこし考えたが、うまい言葉は思いつかなかった。それで「複雑なんだろうね」と短く言った。

「そう、複雑なんだ」レオナは肩をすくめた。「そしてちょっと変わってるんだ」

「庭師ってそういうものなの?」

 いや、とレオナが首を振ると、わたしの手の中でケージが揺れた。

「庭師の傾向じゃなくて、彼自身の問題じゃない? まえの庭師はああじゃなかった。まあ無口なのは似てたけど、もっと単純だったよ。仕事に没頭するタイプだった。もっと職人的なやつだった。いや、べつにいまの庭師が不真面目だって言ってるわけじゃないよ。モモは〈器用な手〉だ、仕事だけはちゃんとする。この国のあちこちを整えて回ってくれてるし、種まきの指揮も大したもんだ。よくやってるよ」

 他人を羨まなければぐっと幸せだろうな、とレオナは言った。「まあ幸せってのはよく分からないものだけど、少なくともおれは他人を羨んだことなんてないよ」

 歩いていくと、まばらに生えた樹の合間にわたしの家の屋根が見え、その手前に金箔を枝に散らしたような果樹が見えた。その樹になにかがまとわりついていた。レオナが指を上げた。「噂をすれば、ってやつだな」

 目を凝らすとそれがモモだと分かった。わたしは名前を呼び、手を振った。モモは臆病な動物のように身を固まらせたが、わたしをわたしだと知ると、ひどく重たげに片手を上げ、ただ風になぶられているだけというような具合に弱々しく振った。

「こんにちは」とわたしは挨拶した。モモは樹から降りてくるとレオナのほうを見た。冷たい目だった。

「散歩かい?」

 まさか、とレオナは肩をすくめた。

「最近は兼業が多くてね。こんどは運搬業だ。なんでもやるのさ」

 りっぱな鳥籠だね、とモモは言った。わたしはケージを地面に下ろした。腕がしびれていて、てのひらには赤い縞ができていた。レオナは頑丈なケージに肘をつき、フェルトの帽子を取って頭を掻きながら「そうだろ?」と言った。

「技師によるものさ。頑丈だし、いろいろと遊びの仕掛けもある。二度と出て行きたくなくなるような鳥籠だよ。ここに十二匹のかわいそうな鳥を閉じ込めるんだ」

「閉じ込めたほうがいいだろうね」とモモは言った。「へたに外の世界を知るよりは、小さな籠で育ったほうがいい。飼われてる鳥はね」

「〈器用な手〉さん」言葉を遮るようにレオナが言った。「寝付きのほうはどう?」

 そこから先はわたしにはまったく理解できない会話が続いた。彼らが話している間、わたしは取り残された気持ちになって、地面に落ちた小枝をつま先でいじっていなければならなかった―おかげさまでまあまあだよ、黒い夢はずいぶん少なくなった―でも、まだたまに見る?―そりゃあね、長年付き合ってる問題だからすぐになくなるはずがない、この間の黒い夢はとくにすごかった、ついに抜け出せなくなったんじゃないかと思うくらい巨大で、長くて、頭がぐらぐらしたよ。耳から黒い煙が出るくらい、濃い黒い夢だった―そりゃお気の毒に。

 レオナはわたしをちらりと見、帽子を被り直した。

「ねえモモ、こんどまた新しい話をしてあげるよ。とびきり明るくて気が狂うくらいばかばかしい話。きっと気に入ると思うよ」

「そうだろうね」とモモは言い、枝切りばさみをかちかちと鳴らした。「仕事があるんだ。きみらもはやく籠を運ぶといいよ。鳥が待ってるんだろうからね」

 レオナはうなずき、こちらを振り返った。わたしが無言でケージを持ち上げようとすると、レオナが慌ててもう一方の端を持った。

 我が家に入ると鳥たちが一斉に鳴いた。わたしはレオナにケージを預けて、ひとまず鳥たちに食事を与えてやることにした。別のケージに隔離しているまぶたのない鳥にはいつものようにスポイトで水を垂らしてやった。レオナは部屋の隅に座って膝を抱え、口をとがらせて鳥の鳴き真似をしていた。鳥たちはいちいち反応し、でたらめに鳴き返し、声の主をきょろきょろと探した。レオナはそれを面白がった。

「鳥飼いなんて仕事はいままでなかった」

 と、背後でレオナが言った。「この国であんたが初めてだ」

 だろうね、とわたしは言った。「わたしの国にもあんまりなかったよ」

「いい仕事じゃないか。毎日こうだと楽しいだろうね」

 冗談じゃない、とわたしは思った。こんな生活が楽しくなるとしたら、それは鳥が一匹残らずこの家から飛び立って行った日だ。そうしたらどんなに晴れ晴れするだろう? じっと黙っていると、レオナは「そんな顔するなよ」と笑った。

「ひとは誰でも、他人のことがよく見えるものさ」

「誰かを羨んだことなんてない、って言ってた気がするけどね」

「羨んではいないよ。よく見えるだけだ。夕陽に感動はしても嫉妬はしない」

「ほんとに嫉妬したことはないの? 何にも?」

「ないよ」

 レオナはふと笑みを消し、まじめな顔つきで言った。

「何にも。おれは自分の人生をとても気に入ってるもの」

「自分の仕事も?」

「多少面倒なこともあるけれどね、あんたの鳥たちみたいに。でもそういうのが仕事だ」

「あなたの仕事は精神科医なの?」

 とわたしは尋ねた。

「誰かの不眠もあなたの仕事のうちなの? 国じゅうをぶらぶら歩き回ることとそれと、どういう関係があるの?」

「直接関係はないよ。ただおれはぶらぶら歩き回ってみんなの様子を観察するのが好きなんだ。これは個人的興味からさ。いくら仕事だと言って、完全に個人を押し殺す必要はない。すこしくらい個性を持ち出したって罸は当たらない」

「じゃあ、あなたの仕事はいったい何なのよ?」

 わたしは眉をしかめた。レオナはケージに手を置いて冷たい網を撫でていた。外はもう暗くなってきていた。

 わたしは技師に譲ってもらった針金を使って、餌箱と水飲みを巨大なケージにくくり付けた。そして鳥たちに色々と声をかけて、新居に誘導しようとした。「こっちが新しい家なのよ」とか「餌があるよ」とか「こっちのほうが楽しいよ」などと。だが、やはり鳥たちはまた喚き始めただけで、わたしの求める行動を何ひとつ取ってくれなかった。わたしは諦め、抵抗する鳥たちを一匹ずつ苦労して摑み、新しいケージに移していった。最後の十一匹目を移すころには、わたしの手には無数の引っ掻き傷が出来ていた。

 まぶたのない鳥は空虚な瞳を向けて、仲間たちが恐怖の叫び声を上げながら見知らぬ場所へ搬送されるのをじっと見つめていた。レオナは慰めるように口笛を吹き、まぶたのない鳥をあやした。

「もう少しよくなったら、おまえもこっちへ入ればいいよ」

 部屋のなかは随分暗くなってきていた。わたしは保存壜にしまってある野菜を取り出してきて、レオナと一緒に食べた。何の味もしない葉野菜を静かに噛みながら、レオナは「仕事の話をしようか」と言った。わたしは黙って促した。

「仕事の話は難しい」

 とレオナは言った。「つまり難しく話すこともできるってことさ。だから簡単に話すことだってできる」

「簡単に話してみて」とわたしは言った。「まず最初はそうじゃなきゃ」

 そうだな、とレオナは言い、歌手が出番のまえにそうするように大きく息を吸った。

「まず最初は簡単に。妥当な手法だ。悪くない。簡単に言えば、おれは詩人フィラだ。いろんなところをふらふらして、いろんなものを見て、それを吹聴して回るのさ」

 わたしは黙って聴いていた。まず最初は口を挟まずに黙って聴いているものだ。

「だが、話は段々込み入ってくるんだ」

 とレオナは言った。

「話というのはそういうものだ。はじめは簡単だが段々と複雑になっていく。そうやって始めなければならない。気付いたらいつの間にか細々としたものが周りにいっぱいあって、その中に取り込まれていくんだ」

 わたしはうなずき、ベッドから毛布を二枚持ってきて一枚をレオナに放った。レオナは毛布にくるまり、野菜の乗った皿を脇にどけた。

「この国に毛編み職人がひとりしかいないように」

 とレオナは言った。

「何かを吹聴して回る人間もひとりしかいない。何か物を見て、それについて延々と語れる人間はおれしかいない」

「でも、モモはいろいろと語るべきものを持ってた」とわたしは言った。

「いろいろ悩みを持ってたし、情熱みたいなものもあった。彼は無口だけど、話し始めるとすごく長い。うんざりするくらい」

「あれはまた別のものさ」

 とレオナは言った。

「でもこの線引きは難しい。どう説明すれば分かってもらえるか分からない。とにかく、重要なのはこの国の住人は夢を見ないってことだ。この国の夜はとても静かなんだ。何も訪れない。何も動かず、働かない。真の夜だ。世界でたったひとつだけ、ほんとうに眠ることのできる国」

 そう言ってレオナは床を指差した。「それはこの国だ」


 ごくたまに、白昼夢のような感覚の起きることがあった。鳥に餌を与えているとき、果実をもいでいるとき、ネリとおしゃべりをしているとき、小屋でひとりじっとしているときに―それは突如やってくるのだった。視界は水のヴェールがかかったようにぼやけているのに、顕微鏡を覗き込んだときの鮮明さも持ち合わせる。遠くにあるものが近くに感じられ、自分のてのひらはひどく遠くに、しかも巨大に見える。その感覚の到来とともに、わたしの意識はここではないべつの場所へ飛び、いままで思い出しもしなかった光景と再会した。過去に属していた国、過去に暮らしていた街。さまざまな戦争。朽ち果てた建物や、裂けて中身が飛び散ったホールトマトの缶や粉々になったレコード。

 鼓膜の近くで蜂のぶんぶん言うような音が響き、隣で真摯に話しているはずのレオナの声をかき消した。何度もまばたきをしたが、視界の歪みは一向に直らなかった。鳥たちが喚くとわずかに視界が揺らぎ、ぴしりと亀裂を生じさせるかのようで、わたしは一瞬だけ覚醒した。だがすぐに、コールタールのような感覚の底に沈んでいき、そこで再び記憶を取り戻すのだった。スパゲティーを作るはずだったホールトマトの缶。外壁が飴のように溶けて緑色の内臓をさらけ出した機械たち。現実に起こったことだが、夢のような光景だった。時間は粘ってなかなか進まず、それどころか何度も最初に戻って同じことを繰り返した。

 これが夢であるなら、とわたしは思ったものだ。現実というのはいったいどれほどひどいものなのだろう? 我が国において現実と夢の区別はなかった。もともとはあったかもしれないが、少なくともわたしの時代にはその境界はきわめて曖昧なものになっていた。

〈昔は良かった〉

 という誰かの声がふいに蘇る。昔はもっと単純で、こんなにまどろっこしくはなかった―だがそれがどれほど昔のことなのか、わたしには思い出せなかった。さまざまな声があった。最初はひとつだった声がふたつになり、次第に寄り集まって声の柱になった。そこには怒りや悲しみや困惑といったさまざまな感情が込められていて、時々小さな爆発を起こした。なんでこんなことになったんだ? いつからこうなった? 過去を羨む声はたくさん囁かれた。わたしは何も言わなかった。言ったとしてもほかの多くの声に飲み込まれて消えてしまうことを知っていた。

〈夢がない〉という声もした。ごく小さく囁かれただけのその声は、不思議と耳にまっすぐ届いてきた。わたしは注意深く耳を澄ました―〈この国には夢がない〉

 わたしは目を強く閉じ、ゆっくりと開いた。レオナがこちらを見ていた。耳元のノイズははるか彼方に過ぎ去っていた。わたしは自分の手を見た。それを開いたり閉じたりしてみた。もう遠くには見えなかった。普段通りの実際的な大きさを取り戻していた。わたしはわたしの感覚があるべきところに戻ってきたことを知った。

「この国の住人は夢を見ない」

 とレオナはたしかめるように繰り返した。わたしはゆっくりとうなずき、その言葉が自分の頭に沈み込んでいくのを感じた。思い出してもみなよ、とレオナは続けた。わたしは吐き気のようなものを感じたが毛布を口に押し当てて堪えた。

「あんたはこの国にきてから夢を見たか? いつもいつも夜に見ていたあの夢だよ。あれを見なくなったのは、ちょっとの風にもがたがた言う貧弱な壁や、粗末なベッドのせいだけじゃない」

 それでわたしは夢のことについて考えた。つまり夜眠るときに見る純粋な意味においての夢のことを。たとえばちいさい頃に見た夢のなかでいくつか鮮明に覚えているものがあった。脳裏に深く刻み込まれているのは大概恐ろしい夢だ。地獄に行く夢やどこまでも落ちて行く夢、死んでいながら生前の自分をぼんやり観察している夢、両親を自分の手で殺してしまう夢、永遠の命を手に入れてしまう夢。だが、そう尋ねられてみれば、最近そういった夢を見ることはなくなった。

 それはこの国の風土だ、とレオナは言った。

「この国に夢なんて存在しないのさ。夜になればみんな石ころと同じだ。文字通り眠るだけ、泥のようにね。鳥も水も風も土も、みんな夜には止まってしまう。あんたたちの国の言葉で言うなら死だ。ネリもモモも技師もそう。夜にはみんな死ぬんだよ。だがこの国でそれは眠りと言うのさ。もちろん昼は精一杯仕事をする。だがどんなに忙しくても夜には必ず眠るんだ。例外は魔女だな。彼女は夜に仕事をする。だから彼女は夢を唯一与えられている。彼女は昼間に夢を見るんだ。ただしいつだって同じ夢だ。彼女ですら与えられている夢はたったひとつだけなんだ」

 夢の効用について、とレオナは言った。

「おれもすこしなら知っている。夢はいろいろな力を持ってるよ。昼間に見たことや体験したこと、感じたことをまとめあげてくれる。何より夢は傷を癒してくれる。果てしない悩みに解決の糸口を示してくれることもある。でもこの国にはそれがない。いつもいつもあるのは現実だ。広大な草地とすこしの作物とまがいものの水、出来損ないの動物。そういった現実が毎日毎日、永遠に続くのさ」

 永遠、とわたしはつぶやいた。レオナは「永遠ってのは」と掬い取るように言って微笑んだ。

「つまり自分が生きて死ぬまでってことだ。そうじゃないか? 人間は、自分が生きて死ぬまでのたかだか数十年のことを永遠なんて呼んでるんだよ。そんな大層なもんじゃないのにね」

 そう言ってレオナはくつくつと笑った。そして鍋の表面がぼこぼこと沸騰するように、ほとんど発作のように体を曲げて、床を叩いて大笑いした。鳥の一匹が驚いてはばたくと、驚きが連鎖してケージの中がまたやかましくなった。レオナは息を切らして肩を上下させていたが、急に静かになった。まるで炎が最後の炭を燃やし尽くしたかのように。

「それでも永遠だ。人間にとってはね。蚤であろうが樹であろうが、自分が生まれてから死ぬまでの時間は等しく永遠なのさ。でも、そんな長い時間、つまらない現実がずっと続くわけだよ」

 とレオナは言い、少し咳き込んだ。

「何の救いも突破口もない。そりゃあ退屈になってくる。この国自体にもいい加減いやけが差してくる。たとえばこの国の外に出てみたいって思ったとしたってそうできるのは技師だけだし、相変わらずこの国は白線に囲まれている。延々と種まきをしなきゃいけない季節があって、何の面白みもない風景と、同じく無味乾燥とした仕事がある。そういう現実が続いて、ほとんど倦んで、そこで初めて夢を見る」

 それが黒い夢だ、とレオナは言った。長い話のはじまりだった。


 モモについて話そう、とレオナは言った。ただしあんたとはまったく違う方法でね。語る人間が変われば語られる対象も変わる。ものの見方ってのはつまり世界のことさ。ひとつの国のようなものといってもいい。そこでは言語が違う。文化も違えば気候も違うし、信仰も違う。

 モモは黒い夢に取り憑かれたんだ、とレオナは言った。ある日突然、何の前触れもなしに夢はやってきた。黒い夢というのはそういうものだ。予想のつかないものなんだ。簡単に話そうか。黒い夢を見ると、夜なのに眠れなくなってしまう。言ったでしょう、この国の人間は夜には必ず眠る、どんなに忙しくてもね。だが黒い夢が来れば夜は意味を失うのさ。体はつめたく動かないのに、意識だけが生きている。まぶたも開かないし、指一本振ることはできないが、頭のなかだけが起きている。いろんなことを考えることはできるが、考えたそばから暗闇に吸い込まれていってしまう。見えるものは闇、聞こえるのは無音だ。宇宙というものがあるなら、それは黒い夢のことさ。くわえて宇宙よりひどいのは、星なんてひとつも見えないってことだ。永遠に続くような暗闇を毎晩味合わなきゃならないのが、この国のいちばんひどい病気だ。

 モモは真面目な男だ、とレオナは続けた。この国の人間は概ねみんな真面目だが、彼はとりわけ真面目だ。庭師は大変な仕事だけど、彼は弱音を吐かずこつこつと続けてる。粘り強いし、妥協もしないし、だからこの国はまがいもののわりに美しいなりを保っている。そうだろ? でも、モモはあるとき技師のことを羨んだ。この国の外に出るという物語に憧れた。退屈な人間が思いつくいちばん簡単な物語さ。でもそんなことはモモにはできない。彼は臆病な男だ。もちろん仕事の上では、こうと決めればちゃんと貫き通して最後までやり切る、そういう強さを持ってるよ。そうじゃなきゃ庭師なんて面倒な仕事はつとまらない。ただ、彼は何かを突破したりねじ曲げたりしようとは考えない。古い伝統や昔ながらの方法を彼なりのやり方で洗練させていくことはできても、それ自体を変化させようとは思わない。技師とはタイプが違う。流儀もね。

 外国についておれは詳しくない、とレオナは言った。なぜならおれはこの国で生まれて育ったからだ。でもおれは詩人だから、なるべくいろんな話を知ろうと努力している。だから夢についても知っていることはある。夢は―とレオナは言い、天井を眺めてしばらく考え込んだ―実現できなかったことを代わりにやってのける。つまりは自分の子どもみたいなものさ。自分にできなかったことを子どもに押し付ける傲慢な親がいるが、夢ってのも要はそういうものだ。そういうものだろ? あんたのほうがそれについてはよく知ってるはずだ。でもこの国には夢がない。眠るときはみんな死ぬのさ。だから現実で鬱屈が溜まり過ぎた人間はどうしようもない。黒い夢に囚われるだけだ。

 だがね、おれはたくさんの物語を知っている。いろんな物語を知ってるよ。たとえばある人間がこんな話を書いた。不思議な庭の話だ。そこにはさまざまな花が咲き乱れている。あらゆる季節のあらゆる花だ。花たちはみんなおしゃべりでね、一輪一輪それぞれ違った話を持っている。その花しか知らない特別な話だ。しゃべることしか能のないお気楽な連中なのさ。

 おれはそういう花だ。ただし一話じゃない。何話も何話も知っている。記憶力がすこぶるいいのさ。誰かから聞いた話をいつまでも覚えてて、どんなときでもすっと取り出せる準備が整ってるんだ。

「それが詩人というものだ」

 とレオナは言って、言葉を切った。わたしは黙ってランプの光を眺めていた。光は曇りガラスのなかで伸びたり縮んだりした。まるでほんものの炎を真似ているように。この国で本当のものなど何ひとつないのだ、とわたしは思った。ランプの灯も、野菜も、果実も。しかし目の前にいる、風変わりな衣服をまとった男がまがいものであるというふうにはわたしには思えなかった。彼は現実だった。ネリも技師も〈器用な手〉もわたしにとっては本物の人間だった。

「モモは言ってたよ」

 とわたしは言った。「自分の感情を押し殺すことはしないって。もしそうしたら黒いものが溢れてくるだろうって。報いがくるって」

「モモの言ってることは正しい」

 とレオナは言った。

「感情を押し殺すことはよくない。それが暗いものでも明るいものでも。感情というのは執念深いやつだ。どんなに些細なことでもずっと根に持っている。ひどい仕打ちだったらなおさらだよ。いつも復讐の機会をうかがってる」

「復讐?」

 レオナはうなずいた。

「感情はやられたことを絶対に忘れない。詩人なんて話にもならない、恐ろしくすぐれた記憶力を持っている」

「でも、自分がむかしどんなことを感じてたかなんて、思い出せないけどね」

「あんたはね」レオナは人差し指をこちらに向けた。

「そりゃあんたはそうだろうさ。でもあんたの感情はちがう。あんたの感情は忘れてないよ。ずっと覚えている。どんなにあんたが鈍感で忘れっぽかろうとも、それはあんたの感情には関係ないことだ」

 わたしはモモの言葉を思い出していた。感情を押し殺せば黒いものが溢れてこの国を覆い尽くしてしまう、という言葉を。そのことを言うと、レオナは肩を震わせた。また笑ったのだった。ランプの灯も呼応するようにちらちらと揺れた。ケージに閉じ込められた鳥たちも、風よけの毛布の下で小さい歯ぎしりのような音を立てた。それもある意味では正しいよ、とレオナは言ってこめかみを掻いた。

「だって自分の感覚がすべて黒く塗りつぶされちまうことと、この国が暗闇に閉ざされてしまうことのどこに違いがあるっていうんだ? モモが死ねばこの国も終わる。この国が終わればモモも死ぬんだ。なにもモモだけじゃない、この国の住人すべてがそう思ってるだろうね。きわめて素朴なひとたちなのさ」

「あなたはどう思ってるのよ?」

「おれ?」

 レオナは肩をすくめ、毛布を体に巻き付けた。「おれは死なない」

「そんなことあるわけないでしょう」

「おれは自分が大好きなんだ」

 レオナはわたしの目をまっすぐに見た。

「だから自分の死のことなんて想像もしない。しようとも思わない。おれは永遠に生きて、無駄話をし続けるだろうよ。そうできないひとたちのためにね」

 おれはそう信じてるのさ、とレオナは言った。おれがそう信じ続けてる限りそれはずっと真実だよ、モモにとってこの国がすべてであるように。


 新しいケージが来てから、生活はほんの少し楽になった。鳥たちは、ごくゆっくりとではあるが餌箱からついばむことに慣れていった。嘴のないものとまぶたのないものには手で与えていたが、それ以外のものは放っておいても平気になった。

 彼らは大きなケージのなかに、それぞれお気に入りの場所を見つけていった。三本足のものはゆりかごを特等席にし、足のないものと目の見えないもの、羽毛のないものは仲良く巣箱に入ってうとうとした。翼のないものと喉がつぶれているものは止まり木でじっとし、一つ目と三つ目は元気に床を駆け回った。見た目にはなんの不具もないが決して動かないものがいて、彼はケージの隅で影のようにじっとしていた。

 それぞれ奇妙ではあったが、彼らなりにたのしみを見つけているようでわたしは安堵した。たまに手を貸してやらなければならないときもあったが、以前に比べればずっと楽だった。朝の果実を食べながら、早起きの鳥たちの騒がしい様子を見るのが日課になった。彼らは醜かったが純粋だった。何の希望もない分生きることに真摯だった。

 鳥を眺めるのに飽きると、わたしは窓の外を眺めた。青い服を着た人たちや黄色い服を着たひとたちが、めいめい自分の仕事道具を持って柔らかい草の上を駈けているのが見えることもあった。狩人たちが弓矢や長い槍をぶらぶら持って、油断ならない様子で歩いて行くのが見えるときもあった。そういう人々を見ながらとりとめもないことを考え、その考えがぐるぐると廻り始めるとまたべつの考えに移ろった。

 ある日、わたしがそうやってうるわしいひとときを過ごしているとき、ドアが二度叩かれた。突然の物音に驚いて喚き出す鳥たちに適当な言葉をかけてやりながらわたしはドアを開けた。レオナが立っていた。やあ、と彼は片手を上げ、半端な笑みを浮かべた。

「別れの挨拶にきたよ」

「別れ?」

「そう。でもちょっとの間だ。丘を越えて遠くまで行ってくるんだ」

「何のために?」とわたしは言った。「ここの外に出られるのは技師だけだって聞いたけど」

「その通り。おれは国の外には出ない。ただ白線に沿ってぐるっと一周してくるんだよ。丘を越え、魔女の家を過ぎ、石と枯れ木ばかりの荒れ地を横切ってね。つまんないところだが、夕陽がきれいに見える。熱したガラスみたいにめらめら燃えるんだ」

「ここでだって夕陽は見れるけど」

「まあそうだね」とレオナは言った。「でも夕陽を見るのはあくまでおまけだ。ほんとの目的はもっとべつのことさ。詩人にもいろいろあるんだよ」

 わたしはため息をついた。「詩人は秘密主義なの?」

「とんでもない。べらべらしゃべるよ。ただし自分の話以外だ。自分の話なんてしたって何の役にも立たないからな」

 そう言って、レオナはもう一度片手を上げた。わたしも仕方なく同じようにした。彼の姿が見えなくなるまでわたしは戸口に立っていた。彼の足取りはゆっくりだったが、目の錯覚に思えるほどどんどん遠のいて行った。やがてその背中が見えなくなってしまうと、わたしはドアをゆっくりと閉めた。

 レオナが旅に出たからと言って、わたしの生活は変わらなかった。わたしは鳥の世話をし、狩人や魚拾いたちの姿を眺め、たまにネリの家まで遊びに行き、それでも夕方ごろには帰ってきて糞を片付け、餌と水を新しいものに替えた。そしてベッドに横になり、天井の木目を見つめながらさまざまなことを考えた。今日一日のことを頭から終わりまで回想してみることもあり、この国に来る以前のことを思い出してみることもあった。かつてわたしの国であった国―つまりここの住人からしてみれば外国、未知の場所、白線の外―その国についていろいろと考えを巡らせた。たとえば争いのこと、争いによる新たな争いのこと、なかなか決着のつかない長い長い争いのこと。

 まず始めに、さまざまな争いがあったのだ。この争いがわたしの国の主な雰囲気を決定していた。争いは最初は小さな火花でしかなかったが、やがてすべてを飲み込んで大きく燃えあがり、国は少しずつすり減った。

 さまざまなルールもあった。もちろんさまざまな仕事も。それから、いまわたしが置かれている状況に比べるともう少し込み入った状況があった。だが蓋を開けてみれば至極単純なものなのだ。わたしの国には、単純なものをわざわざ歪ませて複雑に見せるというようなところがあった。つまり価値観の問題だ。複雑であればあるほどいいという価値観があったのだ。その価値観に合わせて、もともとは単純でよかったわたしの仕事も次第に複雑になっていった。たとえば、ほんとうは一本の線を引けばいいだけなのにわざわざ途中で歪ませる。そうするとその歪みを取る仕事というものが生じる。すしてその歪みを取るために必要な道具というものが、それからその道具を作る仕事というものが生じる。

 もちろん、そのことについて誰も抗議しなかったわけではない。手順をむりやり複雑にすることに何の意味があるのかと、当時は誰もがそう思っていた。誰もがそう思っていたはずなのに、いつの間にかその手法は〈進化〉と呼ばれてそのままになってしまった。誰の声も拾い上げられなかった。やがてひとびとはその小さな声を出すことすら億劫に感じていった。自分たちの生活とは程遠いところですべては決定され実行された。そういった〈進化〉を遂げた結果、我が国では一本のきれいな線を引くことではなく、一本のきれいな線を引くまでにどれだけの工程を必要とするか、というところに重点が置かれることになってしまった。

 なぜそのようなことになったのか誰にも分からなかった。ましてやわたしのような末端の人間に分かるはずもなかった。指示はいつも突然変わり、その理由が明かされることはなかった。昨日までのルールやこつやテクニックはいつも価値を失い、また始めからやり直しになった。どんなに精魂込めて作ったものもいつも粉々にされ、またべつのやり方で組み直さなければならなかった。そのうちにわたしは自分が何を作ろうとしていたのかを忘れた。そもそもなぜこんなものを作らなければならなかったのかという根本的な理由も忘れた。

〈なぜこんなことをしなくてはいけないのか〉という雰囲気は、わたしの周りではごく一般的なものだった。〈なぜこんなことをしているのだろう〉と思いながら、ひとびとは街を亡霊のように歩いたものだ―この国に比べればとてもよく整備された街―さまざまな工程を踏んで極限にまで平行に垂直に整えられた街。そこには看板があり、電灯があり、ほんものの水が注ぐ水道があり、それからこの国にあるものよりもはるかに精度の高いガラスがあった。たとえばぴかぴかに磨き上げられたショーウィンドウ。その奥に立った赤いツイードコートを着たマネキン。あるとき、わたしはそのマネキンをぼんやりと眺めていたのだが、やがてマネキンではなく、ガラスに映り込んだ自分を眺めていることに気付いた。彼女、、はひどく疲れていた。顔は青ざめ、唇は渇いて、眉はしかめられていた。昔は良かった、という声がどこかから聞こえた。昔はもっと単純だった、こんなにまどろっこしくなかった―と。しかしそれがどれほど〈昔〉のことを言っているのか、わたしには分からなかった。声の主を探して振り向くと、哀れむようなまなざしに出会った。そのころわたしは自分の大半を失っていたのだ。それはあの国における病だった。自分が誰かも分からなくなる病だった。

 昔は良かった、と彼が繰り返す。わたしはもう一度ショーウィンドウに向き直って赤いツイードコートを見る。こういうものをまだ自分が欲しいと思うのか確かめたいがために。だがやはりわたしの眼はコートの手前、ガラスに映った自分を捉えてしまう。ガラスのなかの自分は眉間に無様な皺を刻み、十歳も老けたような厳しい表情でこちらを見つめ返している。背後の優しい誰かがわたしの肩を掴む。

 つまり昼であるにも関わらず自分は死んでいたのだと、天井の木目を無意識のうちに数えながらわたしは思った。それから、この国にとってはそれがどれほど信じがたいことだろうと思って呆然とした。夜以外の時間にひとが死ぬということがどれほど信じがたいことか? それから、一本の線を引くためにどれほどばかばかしい回り道を必要とするかということを、つまり毛糸を編むというたったそれだけのために百人もの人間が躍起になるなんてことが、この国の人間に理解できるのだろうか? この国は確かに不便かもしれないがあの国よりはぜんぜんましだ、とわたしは思った。あの国でわたしは昼も夜も死んでいたが、いまでは死ぬのは夜だけで、昼は可哀想な鳥を世話するだけでいい。なんて牧歌的で安寧で、単純なんだろう?

 しかし、話は段々と込み入ってくるものだとレオナは言った。わたしはただ鳥を観察し、糞を取ったり餌を交換したりしているだけでは済まなくなった。なんと鳥は卵を産んだのだ。最初にそれを発見したとき、わたしは卵とは思わなかった。技師が作ってくれた遊具かなんかだろうと思って放っておいた。だがそのガラス玉じみた物体は日に日に増えた。最初はゆりかごの中にひとつだけだったのに、気付けば床に四つも五つも転がっていた。

 わたしはおそるおそるケージのなかに指を入れてみた。鳥たちは突然の闖入者を恐れてケージのあちこちにぶつかった。わたしは素早くガラス玉のひとつをつまんでケージから手を出した。そのとき、驚いたからなのかちょうどそういう頃合いだったからなのか分からないが、目のない鳥の下腹部からたったいまわたしがつまみ上げたのと同じガラス玉が、するりとすべり出した。わたしは目を見張った。目のない鳥は怯えたように震えるだけで、いま自分のなかから出てきた玉には何の興味も示していないようだった。ほかの鳥たちもケージの網に足を引っかけ、バッタのように貼り付いてわたしを見つめるだけだった。わたしは卵をふきんに包み、机の上に置いた。

 その後もわたしは観察を続けた。驚くべきことに鳥たちはいっせいに産卵期を迎えているようだった。目のない鳥も三本足のものも羽毛のないものも、時間も場所も問わず糞をするような素っ気なさで立て続けに産んだ。わたしは技師のところからピンセットをもらってくることにした。今回は理由は明かせなかった。どう説明していいか分からなかったからだ。何の理由もなく、ただ「ピンセットが欲しいんです」と不気味に繰り返すわたしを、技師は七色のゴーグルの下からさも疑わしげに睨んで「これも貸しだぞ」とだけつぶやいた。だからわたしは慌てて「借りが返せそうなんです」と言わねばならなかった。技師はいまにも吐きそうだというような表情でわたしを眺めた。

「それも近いうちに」とわたしは続けた。「きっといいものを持ってきますから」

「畸形の鳥はいらんよ」と技師は唸った。

「それでなくともわたしは動物がきらいだ。生物全般がだめなんだ。人間でぎりぎりだな」

 もっといいものです、とだけ言ってわたしは足早に去った。急いで家に帰り、ケージのなかに散らばった卵らしき物体をピンセットで残らず拾った。そして机に広げたふきんの上に丁寧に並べた。そういえばこの家にはじめて来たときも、机の上に十二個の卵が乗っかっていたということをわたしは思い出した。ただし、そのときの卵はガラス玉ではなく、わたしの国にあったものでいえばうずらの卵に酷似していた。だがいまこうして机の上に並んでいる卵はわたしが見たどの卵にも似ていなかった。それらは完全な球だった。

 わたしは卵のうちのひとつを指でつまみ、目の高さに持ち上げた。卵は透明だった。窓から入ってくる日の光に透かすと、内部で複雑な反射が起きて虹のような色彩が宿った。わたしは卵を振ってみたが、何も揺れなかった。ただ光の反射がわずかに変わってちらちらと輝くだけだった。何もこの卵から孵らないように思えた。そりゃそうだ、とわたしは思った。鳥たちは交わらない。鳥たちは生きておらず死ぬこともない。だから殖えるはずもないのだ。

 卵たちがふきんから溢れるほどになったころ、わたしは堪らなくなってネリの家に行った。ネリは種まき人たちの手袋を編み終え、今度はマフラーを作っているところだった。こんにちは、とネリは言った。最近あまり来なかったね。レオナも行っちゃったからさみしく思ってたところだった。

「忙しかったんだ」とわたしは言った。「鳥の世話がたいへんで。彼ら、すごく手間がかかるから」

「そうみたいだね。レオナから聞いたよ」

 とネリは言って、編み棒を脇にどけた。

「技師から新しい籠も作ってもらったんだってね。まるで鳥の遊園地みたいだってレオナは言ってたけど」

「みたいじゃなくて、ほんとに遊園地だよ。毎日大騒ぎだし」とわたしは言い、すこし迷ってから、ポケットから卵を出した。

「おまけに卵を産んだよ。殖えないはずなのに」

 意外にもネリは喜んだ。見せて見せてとせがみ、てのひらに卵を乗せてさまざまな角度から眺めた。

「すごくきれい」

「あげようか?」

 ネリはぱっと顔を上げて、目を丸く見開いた。「ほんと?」

「いいよ。そんなものでも引き取ってくれるんならね」

「嬉しい。ありがとう」

 わたしも内心とても喜んだ。ネリをこんなにも喜ばせてあげられる卵のこと、そしてその卵を産んでくれた鳥に感謝したくなった。

「もしよかったら、もっとたくさん持ってきてあげる」

 とわたしは付け加えた。

「鳥たち、それをぽこぽこ産むんだもの。そんなに欲しいんだったら、毎日だって届けてあげる。鳥たちがそれを産まなくなるまで」

「ほんとにいいの?」

「もちろん」

「もしいっぱいこれをくれたら、セーターのボタンにしたい。帽子にブローチみたいに縫い付けてもいいし」

「きっと素敵な帽子になるよ。みんなが欲しがるだろうね」

 ネリはもうわたしの話を聴いていなかった。卵を指先でくるくると回し、内部に生じた光の変化にこころを奪われていた。宝石みたい、とネリはひとりごとのようにつぶやいた。

「宝石なんて見たことないけど。でもきっとこういうものだと思う」

 宝石? とわたしは笑った。ビー玉みたいに見えるけどね。するとネリはわたしの顔をじっと見て「ビー玉って何?」と尋ねた。

 家に帰るとまた卵は増えていた。わたしはまたしてもひとつ残らず拾い上げ、保存壜のひとつに卵を詰めて、棚にしまいこんだ。孵らない卵を産み続ける鳥たちは不気味だったが、孵ったほうが事態はいっそうややこしくなるだろうと思った。いまいる十二匹でさえ手一杯なのに、これ以上殖えられたらもうどうなるか分からない、とうとう発狂するかもしれない。夜になり鳥たちが寝静まるころ、わたしは気が気ではなかった。いまにも保存壜がかたかたと鳴り始めるのではないかと怯えた。ガラス玉を詰めていたはずの壜のなかが、ねとねとした液体をまとった鳥の赤ん坊でひしめき合う。卵の殻を破るように壜も破り、彼らはもつれ合いながら床に散らばって、凄まじい産声を上げながらそこらじゅうを這い回る。床にはにちゃにちゃした訳の分からない液体が滴り、血のような臭いがいつまでも取れないのだ。そんな妄想をしつつ、わたしはこの国に夢が存在しないことを初めてありがたく思った。そんな悪夢を見なくて済むのであれば、夢の恩恵なんて最初からなくて結構だと思った。


 レオナが魔女について語ってくれたのは、ずっと後になってからだった。言ったでしょう、彼女はすべての男性にとっての母なんだ。そしてこの国のすべての住人にとっての魔女なのさ。毛編み職人や技師や〈器用な手〉や狩人や、種まき人たちがそうであるようにね。でも魔女が魔女であり続けることは難しい。何より彼女はとても孤独なんだ。彼女は黒い夢の病魔に冒されることはないが、孤独に蝕まれ続けている。だからこそ彼女には唯一夢が与えられている。ひどい話だけど、まあ夢は夢さ。おれたちにはないものを彼女は持ってるんだ。

 魔女に会うすこし前、わたしは技師のところへ卵を十個ほど持って行った。技師は驚愕し、言葉を失ったまま、ふきんに包まれた卵を両手で抱え呆然と眺めていた。これはなんだ、と技師は言った。卵です、とわたしは言った。少なくとも鳥の内部から出てきたものです。

 技師は七色のゴーグルを引き千切るように外して、仕事机に卵を並べてじっくり観察していた。指先でこつこつ叩いたり、転がしたりした。床に叩き付けたりもした。だが卵は割れないどころか、傷ひとつ付かなかった。

「こんなものは見たことがない」

 と技師は言った。「レオナには見せたか? 何と言ってた?」

「まだ見せてません」

 とわたしは首を振った。「レオナは出かけたんです。丘の向こうまで行って、線に沿って国を一周してくるって」

 そうだった、と技師はつぶやいた。そろそろ種まきの季節だものな、とも。

「じゃあ、ほかの誰かに見せたか? レオナ以外の誰かに?」

「ネリには見せました。セーターの飾りボタンにするって喜んでたけど」

「いいだろうね。可愛らしいセーターになるだろう。だがわたしはセーターが編めないし、セーターにそこまで興味がない。ひどい言い方かもしれないが、動物の次に興味がない」

「べつにいいと思いますよ」とわたしは言った。

「だってあなたは技師であって、服を作るひとじゃないですもん」

「そうだ。分かってきたじゃないか」

 と技師は言って、にやにや笑いながら手の中で卵を転がした。

「わたしは毛織り職人ではない。だからセーターに興味がなくたって何ら問題はないさ。でもこの卵には興味があるね。技師としての立場からして大いに興味がある。できれば譲ってくれると嬉しいがね」

「もちろん」とわたしは言った。「もしよければ、それで貸しを返せたらと思ってるんですが」

 いいよ、と技師はあっさりうなずいた。でも、まさかこんな形で支払ってくれるとは思わなかったがね。

 それで技師に対する気まずい思いは解消された。わたしは気分が良かった。いままで精魂こめて育ててきた鳥たちが、こんなものを与えてくれるとは思わなかった。鳥を世話することは、死人の体を洗い続けるようなものだと思っていた。何かを得られる種類の行為だとは思ってもみなかったのだ。

 モモはと言うと、わたしの家の近くに生えている果樹のそばでまるで待ち伏せのように立ち尽くしていて、わたしが通りかかると真っ先に卵のことを訊いてきた。わたしはポケットに入れていた卵をひとつ譲った。モモは熱意のこもったまなざしで卵をじっと見つめたあと、胸ポケットにそっと落とし込み、かすれた声で「ありがとう」と言った。

 白金色の太陽が昇りつつあった。わたしはモモと並んで座り、朝の果実をもいで食べた。今日はビスケットに似た甘い味がした。

「レオナは出かけたんですね」

 とモモが言い、わたしはうなずいた。

「うん。国境に沿ってぐるっと廻ってくるって言ってたけど」

「何の変哲もない白線ですよ」とモモは言った。「でもぼくはあんなつまらない線を越えることすらできないんです」

「行ってみる?」

「どこへ?」

「国境まで」

 モモは黙っていたが、わたしは構わず歩き出した。わずかに振り向くとモモがうなだれたままついてくるのが見えた。

 白線は相変わらず無表情に地面に貼り付いていた。わたしはそのそばに腰を下ろし、ふと好奇心にかられて白線をそっと指でなぞってみた。一瞬、指先に静電気のような刺激がきて、驚いて引っ込めた。血は出なかったが、口に含むとわずかにひりひりした。だめですよ、とモモが後ろからたしなめた。あなたひとの仕事を増やす気ですか、線が消えたら技師が困りますよ、あなたそういうこと分かってるんですか? わたしは謝った。たしかに馬鹿げたことをしたと思った。そもそも国境には近付くなと以前言われていたことを思い出した。モモの呪詛はしばらく続いた。わたしは今度こそ線をこすったり消したりしないように注意しながら座り、線の向こうを眺めた。一見この国と同じように見える草地がずっと続いていた。だがそれは刈り込まれていなかった。ひとの手から離れ、ぼうぼうに伸び放題になった荒れ地だった。

「線の外は危険なんですよ」

 わたしの隣に座りながらモモは言った。幾分怒りは収まっているようだった。

「とても危険なんです。終わらない争いが続いています」

 そうだね、とわたしはうなずいてため息をついた。争いのことならよく知っている。いやというほど知っている。

 白線はただ地面に貼り付いているだけのひよわなものだった。これを越えることが危険だって? わたしは唇に笑みがのぼるのを感じた。そんなのは馬鹿げている、現にわたしはこの線の外からここへやってきたのに。

 ちょっと足を伸ばせば容易に線をまたげそうだった。もしそうしたらどうなるのだろうとわたしは考え、馬鹿馬鹿しくなってひとりで笑った。どうなるもこうなるもない、これはただの線なのだ。ひとりで笑っているわたしをモモは不気味そうに見つめて何かぶつぶつと言ったが、何と言っているかまでは聞こえない。わたしはなぜかひどく残酷な気持ちになった。

「外に出てみたいと思ったことはある?」

 モモは下唇を突き出してうつむいた。わたしは微笑んだ。

「この国のひとは外に出たがらないみたいだけど」

「出ようなんてことは、もとから考えないんですよ」

 モモはまるで地面に話しかけているようだった。

「外は危険だし。何があるか分かったものじゃないから」

「でも、わたしは外から来たけど」

「外国から来たひとは、ふたつの人生を送れます」とモモは言った。「外国の人生と、この国の人生と。でもこの国に生まれたひとにはひとつの人生しかありません」

「出ればいいんだよ。ほら、こうやって」

 とわたしは足首を伸ばして線の上に浮かべてみせた。モモはうつむいたままだったが、苛立たしげな声で言った。

「外は危険なんですよ。争いが続いてるんです。ここにいれば安全なんです」

 それでわたしは足を元に戻した。またヒステリーを起こされるのはごめんだった。

「そもそも争いってのは終わらないものなんだよ」

 と、ため息の代わりにわたしは言った。

「そうなんですか?」

「うん。いったんは終わっても、すぐにまた始まる。そんなことをずっと繰り返してる。昼と夜みたいなもんだよ。少なくともわたしの国ではそうだった」

「どんな国でしたか?」

 モモは熱のこもった目を向けた。

「どんなものがありましたか? きっとこの国にはないものがいっぱいあったでしょうね」

「そうだね。いろいろあった。たとえばわたしの国には夢ってものがあった。この国にはないものでしょう? わたしの国では、夜にひとは死なないで、閉じたまぶたの裏にいろいろな映像を見るんだよ。その映像が、わたしの国では夢と呼ばれてた」

「夢」

 とモモはつぶやき、立てた膝を抱えこんだ。

「夢はいりません。夢は恐ろしい。自分が極限にまで薄っぺらになって、透明になってしまうような感じです。だから夢はいりません」

「でもわたしの国にあった夢はもっと違ったものだったよ。怖い夢のときもあったけど、幸せな夢のときもある。それは、そのときそのときで違う」

「毎日違うんですか?」

「そうだね。毎日違う」

「じゃあ果実に似てますね。この国で言うと」

 わたしはすこし考えて、そうだね、とうなずいた。たしかにこの国で毎日変わるものといえば果実くらいしかない。あとはすべて、鳥も水も空も毎日おなじだ。

 白線のそばに小さな虫が忍び寄っていた。指を近づけると、警戒しているのか虫は体全体を明滅させた。へんな虫、とわたしは思った。

「でも想像できませんね」

 とモモは言い、腕組みをした。

「夢が幸せなものだなんて。はっきり言って信じられません。夢は死と同じです。いや、死よりもひどいです。完全な孤独といったらいいんでしょうか。どう言い表したらいいか分かりませんが、少なくともこの国の夢はそういうものです。極めてひどいものです」

「黒い夢は」

 とわたしは言った。

「どんな感じ? すこしは収まった?」

 モモは小さくうなずいた。

「まえに比べれば、ずっとよくなりました。レオナが、旅立つまえに物語をくれたからです」

 物語、とわたしは繰り返した。「どんな?」

「それは秘密ですよ。だってぼくがもらった物語ですから。レオナがぼくだけにくれたんですから」

 モモは眉をひそめ、亀が甲羅にこもるように固く膝を抱いて縮こまった。何かの予兆のように。

「ぼくの物語を取る気なんですか?」

 モモはほとんど喚くようにして言った。やっぱり、とわたしは思った。

「ぼくだけの物語なのに。盗む気なんでしょう、ぼくの物語を」

「そんなこと思うわけないでしょう」とわたしは言った。「盗むだなんて思ってないよ。ちょっと知りたかっただけで」

「知りたかっただけ? それは盗むってことと同じ意味ですよ。あなたは物語ってものをぜんぜん分かってないみたいですね」

「分かったよ。いま分かった」

 わたしは降参するように両手を広げた。

「でもさっきは分からなかったんだよ。知りたいってことと盗むっていうのが、同じ意味だってこと」

 モモは唇を引き結び、怒りを堪えているようだった。わたしはため息をついた。たしかに情緒不安定だ、と心の中で言った。

「悪かったよ。ごめんなさい。大事なものなんだね。心ないことを言ってごめん」

 モモはしばらく黙って足元の草をぶちぶち引き抜いていたが、やがて何かを理解したかのように肩を落とし、ゆっくりと息を吐いた。そして「いいえ、ぼくの方こそごめんなさい」と小さな声で言った。

「すぐ興奮してしまうんです。ちょっとしたことで波立ってしまうんです」

 どう言っていいか分からず、わたしは「分かるよ」と言った。

「多分、あなただけじゃないと思う。わたしもそういうふうになることがあるもん。疲れてるときなんかはとくに」

「そうならないように気をつけてるんですけど」

 モモは弁解めいた弱々しい声で言って、草を握った拳を地面に降ろした。

「どうしても我慢できないときがあるんです。いろんな意味で未熟なんだと思います。分かってるんだけれど、どうしようもないんです。ぼくは不安です。ぼくはちゃんとやっていけるのかとても不安なんです」

「わたしも不安だよ。毎日不安だもの」

「そうなんですか?」

「うん。毎日毎日鳥の世話ばかりで、気が滅入るよ」

「仕事は好きなんです」

 とモモは言った。

「庭師の仕事は好きなんです。でもふとしたときに、ぼくはただのモモになるんです。〈器用な手〉じゃないただのぼくに。そういうとき、ぼくはとても不安になる。どう言ったらいいか分からないけど、自分の中が空っぽになって、いままで作ってきたいろんな思いや感情が、根こそぎ奪われて行くような感じになります。だからぼくはいつも焦ってて不安なんだと思います。だから黒い夢なんかに襲われるんだと思います」

「でも、物語をもらったんでしょう?」

 モモはうなずいた。

「ええ。とてもたのしくて、カラフルな物語です。ぼくは悲しくなったときにその物語を思い出します。そして勇気づけられます。ぼくはレオナとは気が合わないですが、レオナのくれる物語は好きです。レオナのことが憎らしくて仕方ないですが、レオナのくれる物語は愛しいです」

 それはよかった、とわたしは言った。

 空は不気味なほどゆっくりと動いていた。灰色の塊がこちらに近づきつつあった。この国では雨は降るのだろうか、とわたしは思った。まだわたしはこの国の雨を知らなかった。だが、雨が降らなければ種も芽吹かないだろう。

「あなたもレオナに物語をもらえばいいんですよ」

 とモモは言い、地面に尻を付けて足を伸ばした。

「そしたら外に出たいなんて思わなくて済みます」

「べつに外に出たいわけじゃないんだけどね」

 わたしは首を振った。「べつにいいの。わたしには夢があるもの」

 まさか、とモモは肩を震わせて笑った。

「この国の住人は夢を見ません。夜にはみんな死にます」

「夜じゃない。昼に見るんだもの」とわたしは反論した。「まるで目眩みたいにあたりがぐらぐらして、大きいものが小さく見えて、速いものが遅く見える。そしていろんなことを思い出す。まるで今さっき体験してたことみたいに、すごく鮮明に」

 モモは口をとがらせて「それは夢じゃありません」と言った。

「そう? でも夢のようなものだよ」

「昼に夢を見るのは魔女だけです」

「そうらしいね」わたしは自分の夢の話を諦めることにした。「まだ会ったことないけど、すごく興味があるよ」

「会いに行けばいいですよ」

 とモモは言った。

「素敵なひとです。でもとても孤独なひとです。その卵を持って行ったらきっと喜びますよ。魔女はこの卵みたいな瞳をしてます。何の色もなく、何の感情もないような瞳です。彼女の目は何も見てないんです。何も映らない。がらんどうの虚空なんです」

 魔女のところへ行ってみるのはそう難しい話ではなかった。鳥の世話さえなんとかなれば予定など何もなかったからだ。わたしは鳥の世話を数日ネリに頼むことに決めた。

「ほかの仕事をすることはよくないことなんだけど」

 とネリは言った。

「でも、すこしの間代わってあげるのは、悪いことじゃないの。ここではよくあることだよ」

 わたしが教えるさまざまな注意点をネリはよく理解した。嘴なしの鳥に細いチューブで餌をあげることも、元々細かい作業に向いた手を持ったネリは難なくこなした。ひどい鳴き声にも不服ひとつ漏らさなかった。普段が静かすぎるの、とネリは言った。

 わたしは鳥を世話してくれる代わりに卵を好きなだけ持ってっていい、という約束をした。するとネリは申し訳なく思ったのか、小さなナップザックを譲ってくれた。わたしはその中に葉野菜を詰めた保存壜や果実や毛布を入れた。そしてサンダルの紐をきゅっと結んで我が家をあとにしたのだ。出立はそのように素っ気ないものだった。草地を抜け、技師の家に挨拶に寄った。森に入って短冊のような魚を食べ、まばらに生えたきのこたちを観察し、崩れやすい道や石の多い道を避けて、安全な道を進んだ。

 森を抜けると再び草地が続いた。空にばら色の煙が上がるころ、わたしはレオナが教えてくれた洞穴に入ってひとまず休むことにした。そこはかつて貯蔵庫に使われていた洞穴だったが、過去に何が貯蔵されていたのかも誰も知らなかった。いまでは何も貯蔵するものがないので誰に対しても開かれている空間となっていた。わたしは洞穴の入り口に立って臭いを嗅いでみたが、黴の臭いや土の臭い以外には何も感じられなかった。中はひんやりとしていた。岩壁はしっとりと濡れ、暗闇の中でも不可思議な色合いに輝き、手で撫でるといっそうきらめいた。わたしはあたりの壁をてのひらでこすって光らせ、ランプの代わりとした。つめたい岩肌に身を寄せて毛布にくるまって目を閉じると、家のベッドと何ら変わらないように思えた。いつも数えている天井の木目がないだけだ。わたしは考えごとに耽ることにした。魔女はいったいどんな人物だろう、とまずわたしは考えた。魔女というその呼称が余計に想像をかきたてた。きっと美人だろう、とわたしは思った。背が高くて、黒い服を着ているだろう。なにせ魔女だもの、黒い服以外ありえないだろう。わたしは魔女の姿をもっと想像しようとしたが、うまくいかなかった。代わりに、大理石の大広間が思い浮かんだ。なぜかは分からないが、頭の片隅に小さな船のようにその空想がぽっと浮かび上がったのだ。曇りひとつない鏡のような床で、蔓草の模様の入った天井を鏡のように映し出している。その広間の片隅に黄金色の点が見える。近寄ってみるとそれは玉座だと分かる。そこには小さな人影が、やはりごまつぶのようにくっついている。さらに近寄ってみると、その人物こそが魔女なのだと分かった。ぎらぎらと光る肘掛けを握り、広間の一点を呆然と見つめている。いばらを象った黒い冠を被って顔をしかめている。

 そこまで考えて、わたしは夜がやってきたことを知った。思考の途切れるぷつりという音を最後に、わたしの意識は眠りに飲み込まれた。


 早朝の日光が洞穴に差し込み、わたしは目を覚ました。空は透きとおっていた。わたしは横たわったまましばらくぼんやりしていたが、腕を伸ばしてナップザックを引き寄せ、果実を出して食べた。まるでけしごむを食べているような曰く言いがたい味がした。あまりよくない傾向だった。

 わたしは洞穴のなかでしばらく横になっていた。足を伸ばし、肩や手を揉み、体を温めた。ようやく全身に血が巡り始めたころ、わたしは立ち上がって洞穴を出た。

 柔らかな草地は足腰を痛めはしなかったが、時折剃刀のように鋭くなる葉が皮膚を裂いた。長歩きには向かないサンダルの中で足が膨れ上がった。それでもわたしは歩き続けた。幸い、疲労を癒してくれるような風景がそこには広がっていた。この国の住人にとっては退屈なものだろうが、わたしにとっては充分たのしい風景だった。垂れ込める雲はオパールのような七色に輝き、雲の向こうにある水色の空の肌はただの石ころに潜んだ結晶のように時折鮮やかに姿を覗かせた。やがてずんぐりとした獣の背のような小高い丘が現れ、太陽がごく淡い光線を励ますように投げかけているのが見えた。わたしは丘をのぼった。最初はしっかりと踏みしめ、顔を上げてどんどん歩いたが、やがて疲れてきて、両手両足を土にまみれさせながら這いつくばってのぼった。頂上につくと、わたしは手を払って腰を下ろした。

 そこからはこの国がよく見えた。草原はほんとうに獣の柔毛のように見えた。風が吹けばまさに生き物が身じろぎしているかのようにうねった。森はフェルト細工のような牧歌的な立体感を持ち、そのそばでピンク色の煙が上がっているのも見えた。そこからすこし離れたところに我が家も、ネリの家もかろうじて見えた。そしてずっとずっと遠くに、ミミズのように頼りなく伸びる国境の白線が見えた。わたしは呼吸が整うまでそういった風景を眺めていた。首筋に冷えた汗が貼り付き、風がそこをくすぐって通り過ぎていった。わたしは爪の間に入り込んだ土をいじったり、足首を揉んだりしていた。サンダルを脱ぎ、足の傷を確かめてみもした。かかとに水ぶくれができていたし、指先が真っ赤に腫れ上がっていた。だが、いくら痛いとはいえ裸足で歩くわけにはいかない。わたしは仕方なくサンダルを履き直し、しっかりと紐を結んだ。

 再び両手両足を使って丘を降りると、色彩は失われた。草木は無骨な固いものになり、地面はざらざらとした灰色の砂土になった。あたりには霧がかかり、少し歩いただけで髪がしっとりと濡れた。空を見上げても何も見えなかった。はっとするような鮮やかな空も姿を消し、ぼんやりとした色合いの雲ばかりになった。最初、わたしはそれでも果てしない灰色の霧を見つめながら歩いていたが、あまりにも興味を殺がれるので自分のつま先を見ながら歩くことにした。

 驚くべきことに、どれほど歩いても夜は来なかった。かといって、太陽の光が見えないので昼という感じもしなかった。ここには昼も夜もないのだと思った。わたしは時折固い地面に腰を下ろして休憩したが、眠ろうとは思わなかった。夜が来ていないのに眠ることは恐ろしい。そのままほんとうの死が来て、二度と醒めないのではないかという不吉な直感が胸にひらめいたのだ。レオナはこんな話はしてくれなかった。丘を越えたこちら側の話はしてくれなかった。この国にはたしかにあらゆるものがないが、まさか昼と夜もないなんて考えてもみなかった。

 固い地面の上にじっと座って、眠気を少しでも紛らすために太腿の内側をつねりながら、わたしは我が家に置いてきた十二匹の鳥たちのことを思った。ネリのことを思い、技師のことを思い、技師の七色のゴーグルのことを思った。わたしはナップザックを探ってふきんにくるんで持ってきた六つの卵を取り出した。それをてのひらの上で転がし感触をたしかめてから、またふきんにくるんでナップザックに戻した。腹が減っているような気がしたが、朝の果実を食べればいいのか、それとも夜の野菜を食べればいいのかまるで分からないので、結局何も食べないことに決めた。

 食べることを気にしなくなると、意外にもぐっと楽な気持ちになった。歩くことにだけ神経を注いでいればいいのだ。素っ気ない景色に囲まれていると精神まで味気なくなっていくのかとわたしは思った。だがいまそれは好都合なことだ。灰色の固い地面を踏みしめ、時々は足を止めて休みながらわたしは歩いた。時間はガムのように粘り際限なく伸びた。家を出てからどれほどの時間が経っているのかまったく分からなかった。一週間のようでもあり、一日のようでもあり、一瞬のようでもある。あまりにも単調、あまりにも色彩に乏しいせいでわたしは現実感を失い、それこそ夢を見ているのかもしれないと思うほどだった。だがその心配はなかった。この国のものは夢を見ないし、昼に夢を見るのは魔女だけなのだ。そしてわたしは魔女ではなく、ただの鳥飼いなのだ―そんなことを考えていたとき、ふいに目の前に何かが現れた。そこで霧は割れ、左右にうずまきながら散っていた。灰色のなかにひときわ濃い白があった。それは生っ白いドーム型の物体だった。

 わたしはそのドームに近づき表面を撫でてみた。ほんのわずかにざらざらする不思議な材質でできていた。わたしが真っ先に思い描いたのは骨だったが、その建造物には継ぎ目ひとつない。これが骨だとしたら相当巨大な生き物の骨だということになる。

 わたしは左手を壁にぴたりと付けたままドームの周囲を廻ってみた。すると、ちょうど半周したところでわずかな切れ目のようなものを見つけた。切れ目はわたしの身長よりすこし高い長方形を描いていた。たぶんドアだろう、とわたしは思った。そして手を握り、ドアを前にした人間なら誰しもそうするようにノックしてみた。反応はない。もう一度ノックしたが、やはり何の返答もない。もう一度、と思ってやや自棄ぎみに腕を振り上げたときドアが開いた。その瞬間、わたしは再び頭のなかでぷつりという音がするのを聴いた。


 あとから聞いた話によれば、わたしが魔女の家に到着した三日ほどまえに、レオナも同じ道を辿って魔女の家のドアを叩いた。そしてわたしと同じように昏睡状態に陥り、同じく二日間起きなかった。そしてレオナの証言を含むいろいろなことを計算してみると、わたしは丘を越えたあたりから約四日間、寝ずに歩き続けたことになるらしかった。

 魔女はわたしの思い描いた人物とは似ても似つかなかった。彼女は黒い服を着ていなかった。何度も縫い直したらしい簡素な長衣に身を包んでいた。子どものような乳白色の肌をしていて、短い栗色の髪は耳たぶのあたりでくるくるとうずまいている。だがそんなことはどうでもいいことだ。何よりも驚いたのは、その顔がネリに酷似しているということだった。目を覚ました直後、ベッドを独占していたことに気付いたわたしは無礼を恥じて気まずくなりつつも、その顔を横目でちらちらと窺わずにはいられなかった。それはまさしくネリだった。衣装や髪型は違うが、まるでただカムフラージュするためにそうしているのではないかと思えるほど、目鼻立ちや肌の質感や表情のひとつひとつがネリに似ていた。ただ目だけが決定的に異なっていた。〈器用な手〉が言ったようにたしかに彼女はガラスの卵のような目をしていた。正面から見つめる限りごく淡いブラウンだったが、光の射す具合によっては完全な透明になった。

「ほかの国に住んでいたこともあるの」

 と魔女は語った。

「でもつまらなかったわ。何もかもがつまらなかった。当時わたしは不眠症に悩まされていてね、夜が来るのがとてもいやだった。それから、いまとは違う―違い過ぎるといってもいいけど―込み入った仕事がたくさんあった。だから、そもそも寝る暇もなかったけれどね。でも、寝る暇がないというのと眠れないというのは、ぜんぜん違うことなのよ」

 ゆっくりと話しながら、魔女は白いカップをふたつ持ってきて、ひとつをわたしにくれた。紅茶のようなものを予想しながらカップを覗き込んだが、それは白湯にしか見えなかった。

「でも、ずっと昔の話よ」

 と魔女は言ってカップのなかのものを啜った。

「ずっとずっと前の話。もうほとんど忘れちゃったようなものだわ。ここに来てから、わたしはたっぷり眠れるようになった。この国のひとが決して見ない夢も与えられた。その代わり、わたしは夜には眠らない。みんなが死んでいる夜の間は、ひとりでずっと起きているのよ。空が澄み渡るころにやっと眠り始めるの。そして夢を見る。何回も、何万回も見た夢を、最初からおわりまで、きちんと見るのよ」

 魔女のふるまいは穏やかであどけなかったが、ある瞬間には大変な年寄りにも見えた。魔女の印象は瞬間ごとに移ろった。地味だが優雅でもあり、けだるげだがひどく神経質そうでもある。まるで体全体がいくつもの騙し絵でできているかのようで、わたしはひとつの印象をその絵に読み取ろうとするのだが、どんな風にも読み取れてしまうのでいちいち混乱した。だが混乱しつつも、あるいは混乱するがゆえに、再び見つめずにはいられないのだった。

 魔女は白湯を啜りながら、揺り椅子のようなものに腰を下ろしてこちらを見た。

「どこの国にいたんですか」

 とわたしは尋ねた。まさかこの国で自分以外に外から来たものがいるとは思ってもみなかったので。魔女はじっとこちらを見たまま「遠くの国」と言った。

「すごく遠くの国。ほとんど覚えていないけれどね、カラフルなところだったわ。少なくともここと比べればね。あまり眠っていないとね、日の光が駄目なのよ。脳みそに直接突き刺さってくるような感じがして、目を開けていられないの。あまりにぎらぎらして、吐き気がしてたわ、毎日」

「わたしの国では争いがありました。それから病気もありました。あなたのところとはすこし違うかもしれないけれど」

「あら、あなたも外国からいらしたのね」

 と魔女は微笑んだ。「じゃあ苦労したでしょう。わたしはもう大昔のことだから忘れちゃったけれど」

 わたしは黙っていたが、魔女の目にはきっとわたしの姿など映っていないのだろうな、と思った。じつは、その目を見ながらわたしはべつの国にいたときの自分のことを思い出していたのだ。ツイードコートを着たマネキンを見るふりをしながら、ガラスに映った自分の顔を見ていた自分のことを。

「この国から出ようとは思わないですか」

 そう尋ねると魔女は微笑んだままゆっくりと首を傾げた。「なぜ?」

「みんな出たがらないようだから」とわたしは言った。「国境の線の先は危険だって。ここにいれば安全だと」

 魔女は声を上げて笑った。

「そう。でもわたしにはよく分からないわ。もう随分、この家からも出てないくらいだもの。たしかにここにいれば安全だと思うわよ。たとえ安全じゃなくてもここにいるわ。わたしには何もないのよ。この家とこの体と、ひとつきりの夢しか」

 どんな夢なんですか、とわたしは尋ねた。すると魔女はゆっくりと二度まばたきをして「長い夢なのよ」と言った。すごく長い夢―正確には「すごおおおく」と発音された―でも始まりはいつも同じ。まず耳元で音がするの。ひどい音でね。どう表現していいか分からないけど、とにかくひとの声であることには間違いないの。ごめんなさい、と言っているようにも聴こえるし、許さない、と言っているようにも聴こえる。そういう音がずっと耳元で鳴ってて、わたしは〈夢が始まったんだな〉って思うの。そして目を開く。でもほんとうに開いてるわけじゃないわ。夢の中で開いたのよ。始まりはいつもそう。いままでいちども変わったことはないわ。

 夢って不思議なのよ、と魔女は言った。何度も何度も見ているくせにそのことに決して気付かないの。だってわたしはいつも〈なんて不思議な夢なんだろう〉っていちいち思ってるんだもの、何度も見た夢のなかで。いい加減学習すればいいのにと思うけどね。とにかく、わたしは夢のなかで目を開くの。最初は何も見えないけど、段々と見えてくる。とてもとても広い空間よ。たぶんこの国ぜんぶと比べたとしても、もっと広いわね。そのずっと向こうに高い高い窓が見える。そこから金色の光が差し込んで床を照らしている。床は油でもこぼしたみたいにつやつやと光って、天井の模様をそっくりそのままに映している。気が狂いそうなほど緻密な蔓草模様でまるでひとの血管の標本みたいなのよ。そんなものを眺めながら、わたしは堅い椅子に座っていることに気付くんだわ。

 わたしは何も言わずにその話を聴いていた。その堅い椅子はきっと黄金の玉座なんだろうと思ったが、そんなことは言わないでおいた。


 夢のことについて考えたことはないわ、と魔女は言った。レオナはそうじゃないみたいだけど。あの子はいろんなことについて考えるの。たぶん人一倍ね。すこし変わってるのよ。とにかくレオナは言ったの、夢はいらないってね。でもそんなこと言われても、わたしは夢を与えられているのよ。たったひとつの夢を毎日かならず見ることになっているの。わたしはレオナとは違うわ。レオナのようにこの国のあちこちを歩き回ったりはしない。たまに気が向いたときだけ、昼に頑張って起きて、ひとの家にお邪魔することはあるけれどね。それも頻繁じゃない。だってわたしは昼にしか眠ることができないし、夜にはみんな眠ってしまうんだものね。

 夢のことを話しましょう、と魔女は言った。わたしにできる話は夢の話しかないからね。だから夢のことを話すわ。夢のなかで、わたしは気の遠くなるほど広い空間にいて、堅い椅子に座って、まるでライオンの腕みたいな金の肘掛けをぎゅっとつかんでいる。頭がとても痛いのよ。なぜかといえば、いばらの形をした冠を填めているからよ。いまこうやって考えると笑えるわ。夢のなかで、わたしはまるで作ったような魔女の格好をさせられているんだからね。あなたは不思議に思ったでしょうけど―わたしがこんな子どもみたいな格好をして、裸足で床をぺたぺた歩いていて―でもそんなのわたしの勝手でしょう? 黒いローブにひん曲がった長い鼻、ヒキガエルみたいな声でしゃべる、そんな古典的な魔女はわたしはいやなの。ごめんなのよ。

 冠の話に戻りましょう。わたしの話は飛び飛びかもしれないけど我慢してちょうだいね。レオナみたいにうまく話せればいいんだけれど。そう、冠の話よ。その冠は決して取れないの。刺が頭に突き刺さって絶対に抜けないようになっているの。無理に取ろうとしたらきっとわたしの頭はばらばらになってしまう。だからわたしは肘掛けをぎゅっとつかんで堪えている。気を紛らわすために、いろんなことを思い出そうとしたりもする。昔住んでいた国のことなんかをね。いろんな仕事があったことや、いろんな争いがあったことを。でもあまりに昔すぎて何も思い出せないのよ。いろんな出来事がたくさんあったはずなのに。そこにはわたしの大事なものもきちんと含まれてたはずなのにね。愛していたひともいたかもしれないし、愛していた仕事もあったかもしれない。でも結局、わたしはその大事なものたちをぜんぶ捨てて、新しい人間になるみたいな気持ちでこの国に来たわ。何もかも封じ込めて、一回死んだようになってこの国に住み始めたわ。そして過去の自分の思惑どおり、いまのわたしは何も思い出せなくなった。ひとは自分の望んだとおりの人間になれるのよ。

 だからわたしは絶望するのよ、といまにも消え入りそうな声で魔女は言った。夢のなかで、わたしは〈何も思い出せない〉と思って絶望するの。それも毎回毎回おなじあたりで、おなじことを思う。それで仕方なく、遠くに見える高い高い窓をじっと見つめるのよ。見るものといったらそれしかないんだもの。油を塗ったみたいにてらてらした床はどこまでも続いて、天井の模様を果てしなく映してるだけ。だから窓を見るしかないのよ。窓は剣みたいな形をして床から天井までをまっすぐに結び、まるで壁の裂け目みたいに見えるわ。窓から注ぐ光はとても眩しくて、ただでさえ痛い頭がますます張り裂けそうになる。でもそれを見るしかないのよ。窓いっぱいに、金色の粒がぎっしり敷き詰められているような光り方なの。砂粒のそのひとつひとつが自ら輝いているような、圧倒的な光り方で、わたしはまるで病気になったみたいに見つめているの。するとまた耳元で声がするんだわ。ごめんなさい、ごめんなさいって、例によって繰り返しているの。わたしは目をすこしだけ動かして自分の足元を見る。すごく窮屈な靴を履いてるのよ。つま先が豆粒みたいに縮こまってるの。その足元に誰かがいるのよ。神でも崇めてるみたいに頭を垂れて、床に両手をついていて、その手は油にまみれてるの。やっぱり床に油がこぼれてるんだわ、ってわたしは思って、豆粒みたいになったつま先を上げようとするんだけれど、足は少しも動かない。ぞっとする瞬間よ。もうわたしはここから一歩も動けないんだって、そこで初めて気付くのよ。毎回毎回おなじあたりでね。

 足元に誰かがいるのよ、と魔女は小声で繰り返した。真っ黒い服を着ているの。そして床の上で爪を立てて、泣きじゃくっているような声で〈ごめんなさい〉と言うの。何度も何度も。でもわたしは、謝られるような覚えはないから何も言わないでいる。でもすごく悲しい気持ちにはなるわ。足元にいるこのひとがすごく可哀想に思えてきてね。励ましてやりたくなるし、抱きしめてあげたくなる。でも何もできないの。体が動かないし、頭がとても痛いんだもの。だから黙ってるんだけれど、それでそのひとは、わたしが怒ってるんだと勘違いするんでしょうね、やっぱり〈ごめんなさい〉って繰り返すの。何千回も、何万回も繰り返すの。わたしは段々うんざりしてくるわ。何度も何度も謝られると、うんざりしてくるものなのよ。夢のなかであってもね。そしてそのうんざりを通り越して、ほとんど怖くなってくる。何千回を越えたあたりからね。その〈ごめんなさい〉の繋がりがまるで音楽みたいに聴こえてくる。だからそのひとを殺してやりたくなってくるのよ。こんな不愉快な気持ちにさせるそのひとがとてつもなく憎らしくなるのよ。すると、とうとうそのひとが顔を上げるの。顔は涙にまみれて光っていて、その顔がレオナそっくりなのよ。

 わたしはそこで初めて声を上げるの。〈あっ!〉てね。正確に言えば自分の声を聞くのよ、〈あっ!〉という声をね。でもそこで夢はおしまい。わたしは目を覚まして、自分が泣いているのを知る。そしてこの国が夜に包まれていることを知って、みんなが寝静まっていることを知る。夢もおなじなら現実もおなじなのよ。いつもいつもね。

 そこまで言って、魔女は口を閉ざした。わたしは手の中のつめたいカップを弄び、続きを待ったが、何も語られなかった。わたしは諦めて、自分から何か話すことにした。

「その話はレオナにしたんですか?」

 魔女はガラスのような目を向けてうなずいた。「ええ。したわ」

「彼は何て?」

「笑ってたわ」と魔女は言った。「夢に出演させていただいて光栄です、とかなんとか言ってたわ」

 わたしは苦笑した。魔女も同じように笑った。しばらくのどかな沈黙が続いた。わたしはすこし迷ったが、結局言うことにした。

「ここに来る前に、小さな洞穴の中で眠ったんです」

 魔女はうなずき、口に手を当ててあくびをした。

「そのとき、わたしはあなたのことを想像しようとしました。みんなが言う魔女っていったいどんなひとなんだろうって。でも、うまく想像できませんでした。代わりに、あなたが今話してくれたような大広間のことを想像しました。黄金の玉座のことも、蔓草模様の天井のことも」

「それはわたしの夢だわ」と魔女は言った。すこし怒っているような口調だった。

「それはあなたの夢じゃないわ。わたしの夢を取ったりしないでよ」

 それでわたしは何も言えなくなってしまった。すみません、と短く言うしかなかった。それから自分のナップザックから鳥の卵を出し、「うちの鳥が産んだものです」と説明した。

「〈器用な手〉という男をご存じですか? 彼にこの卵を見せたら、この卵はあなたの瞳にとても似てると言ってました」

 そう、と魔女は言い、何の感動も読み取られない目でその卵を見つめ、てのひらの上で転がした。

「わたしこんな瞳をしているのね」

 よく似てます、とわたしは言った。魔女は「自分の目は自分では見られないから」と言った。だからよく分からないわ、でも嬉しい、わざわざこれを届けにきてくれたんでしょう? 嬉しいわ。宝物にするわ。もしわたしの目が見えなくなったら、技師に頼んで、この卵を義眼にしてもらうわ。

 夜が終わろうとしていた。この地に昼も夜もなかったが、魔女は椅子の上で眠り始めたのでそうだと分かった。わたしはベッドから這い出て、魔女の両脇に腕を入れて、ベッドまで運んだ。そして毛布をかけてあげ、すこし迷ったあとで「いい夢を」とつぶやいた。


 技師が外から持ってくるのは珍しい道具や材料だけではなかった。情報というものもそのなかに含まれた。技師が今回持ち帰ってきたニュースはこの国の住人をおののかせた。技師はまるで自分で見てきたかのような荒々しい口調で語った。ひどい戦争だ。多くのひとが死んだ。生きながらにして焼かれ、内臓をえぐり出された。凄まじい混乱が起き、秩序という秩序は根絶やしにされた。何もかもがもうとにかくめちゃくちゃだ。煮立ったスープのようにごった返してて、収拾がつかないんだ。もっともっと殺されるだろうし、もっともっと破壊されるだろう。墨のような雨が降り、疫病が蔓延し、男たちは家畜のようになり、女たちは片っ端から犯されるだろう。もう取り返しのつかないところまで来ているんだ。

 その話は具体性を欠いていたが、たしかに鬼気迫るものがあった。わたしを含むこの国のすべての住人は、外の国についての漠然とした恐怖感をよりいっそう強固にした。わたしは自分の家にこもり、鳥の世話をしながら外の国についていろいろと想像をめぐらせた。かつてわたしの国だった国。だがそれはここからはるか遠くにあった。どれほど離れているのかもう思い出せないほどだった。あれからもっとわるい状況になったんだ、とわたしはひとりごちた。あのころも随分ひどかったけどもっとひどくなってしまったんだ。秩序という秩序は根絶やしにされたと技師は言ったが、わたしが暮らしていたときもわたしの国に秩序はなかった。ただひとつ混乱だけがつねに連続してあった。

 わたしは白く曇る窓に近寄って外の風景を眺めた。種まきの季節がやってきていた。種まき人たちは一直線に並び、腕を上下に振って光る種をまいていた。その先頭にはもちろん〈器用な手〉がいて同じく腕を振るっていたが、まるで指揮者のような、複雑に流れる弧を描いていた。それは種まき人たちにだけ分かる合図であるらしかった。〈器用な手〉の指揮に従い、彼らは腕の動きを強めたり素早くしたりと、微妙に変化させた。あるいは一列に並んでいたのをジグザグにしてみたり円にしてみたりと、隊列を変えたりもした。

 種まきは何日も続いた。一列に並んで種をまくと、一歩下がってまた種をまく。そんな風に遅々と行進しながら、この国のほとんどを縦断する気らしい。彼らはみな揃って不思議な靴を履いており、足跡を決して残さなかった。彼らのまく銀粉のように輝く種がその代わりを為していた。銀色の筋がやがて帯になり、面になるころ、わたしは両手いっぱいに卵を抱えてネリの家に出かけた。ネリはガラスの卵を縫い付けたチュニックや帽子や手袋をいくつも完成させ、家の壁に掛けていたが、やがて掛けるところがなくなったので床にそれを敷き詰めていた。

「種まきを見た?」

 と、布や毛糸に半ば埋もれながらネリは訊いてきた。

「見たよ。まさかあんな大胆なやり方だとは知らなかったけどね」

「〈器用な手〉を見た?」とネリは言って微笑んだ。「すごいでしょう。あんなに大勢のひとたちをたったひとりでまとめてるんだよ」

 そうだね、とわたしはうなずいた。たしかにとてもすごいことだ。自分だったらとてもできないだろう。

「戦争のことは訊いた?」

「訊いたよ。ずいぶんひどい状況みたいだけど」

「でも白線の中にいれば安全だよ」

 とネリは言った。「どんなことにも脅かされないよ。だってあれは技師が引いたものだもの。ほんの少し消えたとしてもすぐに引き直してくれるの」

 そのことについてわたしはすこし考えたが、やはりよく分からなかった。ただの石灰の白線だけで、世界規模の戦争から永遠に安全を約束されることなどありえないのだ。だがそれは、長年よその国で暮らしてきたわたしの感覚からした話だ。たしかに争いはここからずっと遠くの地で繰り広げられていた。情報の乏しさも、考えてみれば事態の遠さや関わりのなさをそのまま現しているような気もした。そしてわたしは、この牧歌的な国が争いに巻き込まれるなど想像もできなかった。たとえばこのネリの石造りの家が破壊され、こころを込めて作った衣服が蹂躙されることについて、現実的に考えてみることは困難だった。

「ほんとうに安全なの?」とわたしは訊いた。「ほんとうに線のなかにいれば安全なの?」

「うん、安全だよ。もちろん」

「でもあれはただの線だよ。地面に引かれたただの白線だよ」そう、体育の時間にトラックに引かれていた線と同じだった。

 ネリはわたしの顔をじっと見ていた。わたしは繰り返した。

「あれはただの線なんだよ」

「変わらないってことがいちばん大切なの」

 とネリはゆっくりと言った。

「この国がきちんと線で囲まれてることが大切なの。この国の形をきちんと守っていることが大切なの。それ以上に大切なことはないの」

「あの線を越えようと思ったことはほんとうにないの?」

「ない」

「どうして?」

「忙しいもの。わたしにはたくさん仕事があるもの。ここでやらなきゃならないことがたくさんたくさんあって、外のことなんて考えられないもの」

 沈黙が満ちた。わたしは壁にかけられたたくさんの服を見つめた。そのどれもに小さな卵が縫い付けられていて、ときどきチカリと光った。

「魔女のところへ行ったよ」

 とわたしは言った。話を変えなければ、と思った。

「行くまでにすごく苦労した。そして魔女はネリに似てた」

「そうなの?」

「うん。最初はほんとにネリかと思ったよ」

 へえ、とネリは言って首を傾げた。「でも、自分では自分の顔を見られないからね」

 種まき人たちの隊列が見えなくなってしまうと、今度は次の部隊がじょうろのようなものを捧げ持って現れた。彼らは種まき人たちの残していった光る種の上に丁寧に水をまいていった。それを見て、やはりこの国では雨が降らないのだ、とわたしは思った。

 鳥は順調に卵を産み続けた。わたしは卵を拾い、嘴のないものとまぶたのないものに気を払い、ほかの鳥もそれなりに構った。だがわたしは疲れていた。魔女の家に行ってからというもの、体のなかに大きなしこりが出来たかのようだった。そのしこりがわたしの筋肉や血液を少しずつ啜りながら膨らんでいっているような気がした。昼過ぎまで長々と眠っても疲れはとれなかった。頭のなかは常に靄が掛かったようだった。手首がどんどん細くなり、あばらのくぼみが深くなった。わたしはこころのどこかで黒い夢を恐れた。黒い夢を避けるために、夜になってもベッドに入らずずっと起きていたこともあった。それは奇妙な体験だった。魔女の気持ちがすこしだけ分かるような気がした。この国の夜が鉄のように冷たく静かだということをわたしはほんとうの意味で理解した。真夜中、ひとり窓ににじり寄ってそっと辺りを窺ってみたときは、なにか重大な禁忌を侵しているような罪悪感と恐怖で胸が潰れそうになったが、何も見えなかったし、何も聴こえなかった。窓は黒い紙でもべったり貼られているかのようだった。昼にはあれだけ光り輝いていた種たちですらも夜にはその仕事を休むらしかった。息をしているのはわたしだけだったし、そわそわと動いているのもわたしだけだった。何も見えず、何も聴こえなかった。わたしは諦めてベッドに戻り、天井の木目を数えて焦るような気持ちで眠りがやってくるのを待った。

 結局のところ、黒い夢は訪れなかった。わたしは毎晩、きちんきちんと死んだ。そして清々しい気持ちで朝を迎え、おなじような一日を過ごし、また夜になって死んだ。レオナはなかなか帰ってこなかった。

 わたしは段々と弱っていった。自分でもそうだと自覚しつつ、しかしどう対処していいか分からないので弱るままにしていた。朝の果実は半分しか食べられなくなり、それが三分の一になり、四分の一になった。昼食は食べないこともあった。それでもわたしは鳥の世話だけはぬかりなく行った。わたしが弱ろうが病もうが、それは鳥たちには関係ないことだった。彼らは毎日規則正しく空腹になったし、規則正しく似通った量の糞をした。いつも餌を与えてくれ、ケージの中を清潔にしてくれる優しい手を求めて彼らは喚いた。わたしは鳥たちの鳴き声に脳が裂けそうになりながら、レオナの帰りを待った。レオナが帰ってきてくれさえすれば、この体調不良や憂鬱や黒い夢に対する夜ごとの不安が魔法のように消え去ると思った。しかしレオナは帰ってこなかった。永遠に帰ってこないのではと思われた。永遠というのはつまり死ぬまで続くってことだ、レオナはそう言ったはずだった。

 しかしこの国に死があるのだろうか? わたしはこの国における死を知らなかった。毎晩訪れる死をべつにして。朝の復活を約束されている夜の死は、わたしからしてみればほんとうの死ではなかった。ほんとうの死とは、その人物が根こそぎ損なわれるものだ。少なくともわたしの国における死はそういうものだった。だがこの国に墓地はなかった。そしてどんなちいさな生物の死体も、どんなちいさな枯れ葉も、この国ではわたしはまだ見たことがなかった。


 何も心配はなかった。ほどなくして、わたしはこの国における死というものをいやというほど知る羽目になった。だがこの国のすべてのものは不完全であり、まやかしだった。それは不具の鳥たちを見れば明らかなように生死ですらも例外ではないはずだった。この国にわたしの知っている果実がないように、わたしの知っている死もまたなかった。

 だが〈それ〉はこの国においてはまったき死だった。少なくともこの国の住人はそれを死と呼んだ。もちろんもっとほかの呼び名、たとえば死をコーンフレークと呼んでもよかったのだろうが、死とみんなが呼ぶのならわたしもそう呼んだほうがいいに決まっている。

 種まきが終わった日、遠征から帰ってきた種まき人たちの幾人かが立て続けに死んだ。彼らは歩いているときに突如地面にくずおれた。すると後ろを歩いていた種まき人がさっと彼らを抱え、あらかじめ用意していたとしか思えない白い布を彼らの体にぴったりと巻き付けた。わたしはそれを窓から見ていた。布を巻き付けられた人物は芋虫のようにもぞもぞとうごめいていた。わたしは小屋を出てそばまで歩いて行った。ほかにもこの興味深い事件を見物しに何人かが出てきていたが、誰も一言もしゃべらなかった。

 白い布に覆われたものたちは、めいめいの小屋まで運ばれた。技師がやってきて、彼は重たげなとんかちのようなもので釘を打ち、ドアを完全に封印してしまった。わたしは金属の打ち合うその不気味な音をいつまでも聞いていた。見物人たちが去ってひとりぼっちになってもその音を聞くために残った。技師は何も言わなかった。とんかちを肩に引き上げて、つまらなそうにこちらを横目で見ただけだった。

 それがこの国における葬儀だと分かったのはもっと後になってからのことだった。遺体は埋められず、花も手向けられなかった。わたしは鳥の世話をしつつそのことについて考えていたが、やがて我慢ならなくなってモモの家に出かけた。森の中にモモは木造の小さな小屋を持っていた。モモは長い遠征を終えて疲れ切っているに違いなかったが、ひどく落ち着き払っていた。

「庭師にとって種まきはいちばん重要な仕事です」

 とモモは言って、わたしに紅茶のようなものをくれた。それは白湯でもなく、技師がいつも飲んでいるような黒い液体でもなく、かつてわたしが飲んでいた紅茶に限りなく近いものだった。

「ぼくはこの仕事を終えられてほっとしています。ぼくはこの国じゅうに、庭師の仕事を知らしめることができたんです」

「すごいことだと思うよ」とわたしは言った。「大変な仕事だと思う。尊敬するよ」

「ありがとう。でもそのことを言いに来たわけじゃないんでしょう?」

 モモはこちらをじっと見つめた。背後の壁に、乾燥させた様々な植物が吊るされているのが見えた。

「死のことについて教えてほしい」とわたしは言った。「種まき人たちが何人か死んだでしょう?」

 モモはうなずいた。

「種まきの終わりには、何人か死ぬひとが出てくるんです。でも、そのことについて話すのは難しいです」

「どうして?」

 モモはテーブルの上に細い指を揃えて、ピアノを弾くようにぱたぱたと動かした。

「死について話すのは不吉だからです。それにまた会えるじゃないですか」

 わたしは眉をひそめた。「また会える?」

「ええ。すこしの辛抱です。繭の中の学習が終われば、すぐに戻ってきます」

 彼が何を言っているのかまったく分からなかった。あまりの支離滅裂さに、わたしはほとんど恐怖すら感じた。

「ねえモモ」とわたしは言った。「じゃあ、わたしが前にいた国で、死がどんなものだったか聞いてくれる?」

 モモは微笑んだ。「とても興味あります。ぼくは外国の話は好きです」

「わたしの国では、死ぬと心臓が止まるんだ。もう目覚めないし話すこともない。動くこともない。ただの人形みたいになってしまう。ちょうどこの国の眠りみたいな感じにね。でも眠りとは違う。朝が来てももう絶対に起きないんだ。放っておくと体は少しずつ腐り始める。だから体を焼いてしまうんだ」

「体を焼く?」モモは眉をひそめた。「どういうことですか? 人間の体を焼くんですか?」

「そうだよ。だって腐ってしまうから」

「腐りませんよ、人間は。腐るのは果実だけです」モモはくすくすと笑った。「人間は腐りませんよ、鳥飼いさん。そんな話はレオナだって持ってきません。この国では誰も焼かれません」

 この国では誰も焼かれない。その言葉を以前にも聞いたような気がした。〈焼かれない〉ではなくて〈火あぶりにされない〉だったかもしれない。だがどちらでもいいことだ。わたしの国において死んだ人間は腐るのだ。わたしは腐った人間をまだ見たことはなかったが、実際に見なくてもそんなことは分かる。簡単なことだ。釘を打って封をされた小屋の中でじりじり腐敗していく死体の幻影が脳裏に浮かびあがった。

 季節性の死はあらゆるところで起きているようだった。わたしは一日に何度も技師のとんかちの音を聞いた。その音を聞くたびに心臓を冷たい手でつかまれた。わたしは一日のほとんどを窓辺で過ごした。技師がとんかちをぶらぶらと持って草むらを横切って行くのが見えたとき、わたしは急いで追い掛けてその肩をつかんだ。技師は驚いて振り向き、わたしの手をもぎ離したが、わたしをわたしだと知るとため息をついた。

「鳥飼いか」

「死人はどうなるんです?」とわたしは尋ねた。「あの小屋のなかで死人はどうなってるんですか?」

 技師はとんかちをくるくると回した。「見てれば分かるさ。この時期は死人が多く出る。いろいろ交替しないとならない時期なんだ」

「モモは、また会えるって言ってました」

 とわたしは続けた。

「どういう意味なんですか? どうしてまた会えるんですか?」

「わたしが教えられることではない」

 技師はあくまで単調な声音で言った。「レオナもそう言うだろうよ。あんたの大好きなレオナも、それからあんたの大事な友達もな」

「彼らも死ぬんですか?」

 わたしはそっと技師の腕をつかんだ。「レオナもネリも死ぬんですか?」

 わたしが教えられることではない、と技師は繰り返しひどく冷たい目をこちらに向けた。

「でも誰かは教えてくれるだろうよ。たとえばあんたの大事な友達がね。いままでにもいろんなことを教わったはずだ」

「また誰か死ぬんですか?」

「死ぬさ。誰だって死ぬよ」

「種まき人以外の人間も死ぬんですか? たとえばあなたや毛織り職人や庭師も?」

「わたしは死神じゃない」

 技師は細く長く息を吐いた。「誰が死ぬかなんてことは分からない。だが誰だって死ぬんだよ。あんたのところでも、そうじゃなかったのか?」

 夕暮れがやってきていた。空の片隅でばら色の煙が何度か上がった。技師はわたしの腕を離し、つまらなそうにぶらぶらと歩み去った。わたしはその背中をしばらく見ていた。彼の言葉について考えようと試みた。だがうまくいかなかった。どんなことも考えられそうになかった。

 わたしは家に帰って、二度目のケージの掃除をした。丹念に糞や羽毛をかき集め、卵を拾って机に並べた。ひんやりとした無色透明の卵はそれ自体が死のようなものだった。鳥はいくつ卵を産もうと何も孵らないのだ。どこへも行かない命を矢継ぎ早に生む鳥を、わたしははじめて可哀想だと思った。

 家のなかは既に暗くなっていた。わたしは卵をひとつひとつ丁寧に磨き、布にくるんで再び家を出た。ネリに死のことを話してみるつもりだった。だがネリの家には鍵がかけられていた。今までいちどもなかったことだ。

 ドアをノックするとしばしの沈黙があり、すこしだけ開かれたドアの隙間からネリの顔がのぞいた。いつものネリの顔だった。可愛らしいちいさな目とちいさな鼻を持った子どものような顔だった。だが何か様子がおかしかった。ネリはわたしの顔をじっと見て首を傾げた。そして唖になってしまったかのように口をぱくぱくさせて空気を噛んだ。ネリ? とわたしは訊いた。そしてその肩をつかんだ。ネリはきゃっと悲鳴を上げ、そのまま後ろに転んだ。

 ネリ、とわたしは繰り返したがその声は叫び声に近かった。ネリは座り込んだまま首を振った。いまにも泣き出しそうに口を歪め、錆び付いた蝶番が軋むような声で「ネリ」と言った。頭の中が真っ白になった。全身が冷たくなり、どっと汗が噴き出した。わたしはもう一度名前を呼び、肩をつかんで揺さぶったが何の手応えもなかった。彼女は空気の抜けた浮き袋のように無抵抗で、苛立つほど何の反応も示さなかった。わたしはネリの頬を両手で挟み込み、目を覗き込んだ。彼女はわたしの顔を呆然と見つめていた。そして何度かまばたきしたあと、やはりかすれた声で「ネリ」と繰り返した。

 何かが変わってしまった、とわたしは思った。ガラスの卵を縫い付けた服が絨毯のように折り重なった部屋の入り口で、わたしは何度もネリを揺さぶった。だがわたしにはその行為になんの意味もないということが分かっていて、分かっている自分にぞっとした。わたしは自分で思っている以上にこの国に慣れ始めていたのだ。この国で起こる決まりきった事柄、避けることのない出来事を、獣が誰に教えられるわけでもなく肉を食べたり子どもを産んだりするように、自然と理解できるようになっていたのだ。そうであっても諦められるはずはなかった。ほとんど自棄になりながらわたしはネリの名を呼んだ。そうすればいつものネリを取り戻せると思った。どこかへ行きかけているネリを呼び止め、もう一度この体の中に閉じ込められると思った。

 だがそんなことは起こらなかった。この国にはこの国のルールがあり、それに抗うことはできなかった。わたしの国でも死が免れられない絶対的な別れであったように。抗えないものであったように。どんなに言葉をかけてもネリはぽかんと口を開けて「ネリ」とほとんど機械的に繰り返すだけだった。これからネリとしてやっていくための、いちばん大切な言葉を脳みそに刻み込もうとしているような、そういう言い方だった。こんな人間がネリであるはずがない、とわたしは思った。こんなただの浮き袋のようなものがネリであるはずはない。めちゃくちゃにネリの体を揺さぶって叫びながら、わたしはかつてレオナが口走った言葉を思い出していた。〈でもいまのネリじゃない。まえのネリだ〉。わたしはわたしの知っているネリが完全に損なわれてしまったことを知った。

 わたしはネリを引きずりながら技師の家に向かった。小石やちいさな起伏を乗り越えるたびに、ネリの首は頼りなくがくがくと揺れた。技師はわたしを見ても何も言わなかったが、静かな怒りが表情の奥に燃えていた。馬鹿なことをするんじゃない、と彼は言った。そして部屋の奥から白い布、あの種まき人を覆ったものと同じ白い布を持ってきて、ネリの上に被せた。ネリは抵抗するようにもがいた。わたしは自分でもわけの分からないことを喚きながら技師の腕につかみかかったが、どうにもならなかった。技師はわたしの後頭部を、あの釘を打つような冷静さで正確に殴った。わたしはこの国に来て初めて、夜でない時間に意識を失った。

 わたしが昏倒している間に、ネリの死はゆるやかに広まった。だが誰ひとりとして悲しむものはなかった。少なくとも大っぴらに涙を流しているような人物はひとりも見当たらなかった。ネリの家にはやはり釘が打ち付けられ、汚いものを隠しでもするかのように閉ざされた。ほかの死者と同様、儀式めいたことはたったそれだけだった。無事種まきを終えられたことを祝うささやかな祭りも何食わぬ顔つきで予定通り行われた。種まき人たちは色とりどりの服、この日のためにまえのネリ《、、、、、》が用意してくれていた服を着て輪になり、〈器用な手〉がさらに難解な指揮を執ってマスゲームのようなものを披露した。狩人であるひとたち、木の実拾いであるひとたち、それからわたしの知らない仕事を持ったさまざまなひとたちが集って種まきの終わりを祝った。

 わたしはそういった空気からはぐれ、膝を抱えて遠巻きに見ていた。もちろんネリはそこにいなかった。閉ざされた家のなかで、まえのネリが残した作りかけの服や帽子などを眺めて、これから自分がすべきことを学んでいるはずだった。そのことについて技師はあまり多く語らなかった。「ネリは新しく生まれたんだ」とだけ言った。だから悲しむべきことではないとも。この国に葬儀はなかった。なぜなら肉体は変わらずに存在しているからだ。同じ理由で墓地もなかった。埋めるべきものは何もなかったからだ。よって故人を悼むという習慣もあるはずがなかった。死はごくありふれたもの、果実が枝から離れて落ちるのと同じようなことだと、この国の住人は思っているらしかった。

 わたしは憤った。何の抵抗もなく馴染む努力をするには、文化の違いがありすぎた。技師は彼なりの無骨なやり方で励ましてくれたが、それは聞き覚えのあるせりふでしかなかった、〈じきに慣れるよ〉。慣れるわけがない、とわたしは思った。同時に、技師を責められるはずもないとも思ったが、どうしても納得ができなかった。祝いの席から遠く離れた場所にうずくまっていたわたしはかつてのネリのことを思い出していた。ひとつひとつ思い出していくうちに、怒りが体のなかで熱を持ってうずまいた。こんなことに慣れるはずがない、とわたしは思った。わたしだけじゃない、誰も慣れるはずがない。わたしはとうとう技師に向かって「悲しくないんですか」と尋ねた。

 技師は七色のゴーグルの向こうからじっとわたしを見つめた。諭すような、哀れむような表情だった。そして「悲しいというのとはすこし違う」と言った。

「なぜならネリは存在しているからだ。あんたの知ってるネリは死んだかもしれんが、この国のネリはずっと生き続ける。実際、そうやってネリはずっと存在し続けてきた。わたしはまえのネリのことも、まえのまえのネリのことも知っている。もちろん、どのネリも毛編み職人だった。だが編み方がすこしずつ違う。服の作り方がほんのわずかだが違う。でもたしかにネリなのさ。百年前のネリも百年後のネリも、変わることなくネリなんだ。わたしの言う意味が分かるかな」

 分かるはずがなかった。わたしは涙をこぶしで拭い、遠くに見える色とりどりの人影を睨み、指揮を執る〈器用な手〉を睨んだ。

「あんたは知らなすぎるんだ」

 と技師は言った。新人という意味じゃなく―この国について知らないというのではなく。自分のことについても知らなすぎるんだ。あんたは自分がどれほどわがままか、考えてみたことがあるのか? たしかにあんたの知ってるネリは死んだかもしれない。だが、ネリはまたひとつ新しい死を迎えたんだ。ただそれだけに過ぎないさ。これから新しいネリは、まえのネリと同じように服をたくさん作るだろうし帽子を編むだろう。また来年の種まきの季節がくれば新しい手袋をいっぱいこさえなきゃならなくなるだろう。そして、新しいネリは絶対にそうするだろうよ。すこしも間違えずにそうするだろう。なぜなら彼女はネリだからだ。そうやってこの国は保たれてきたんだ。服がなければ寒さで生きていけないだろう? だからネリが必要だ。いつでも、どんなときであってもな。庭師にしても狩人にしても、このわたしにしてもそうさ。どの仕事ひとつとっても、この国になくてはならない仕事なんだ。

 この国ぜんたいのことを考えろ、と技師は言った。あんたは自分の知ってるネリがいなくなったというだけで馬鹿みたいに大騒ぎしている。この国ぜんたいに比べたら、あんたひとりの気持ちなんてどうでもいいことだ。あんたの知ってるネリがいなくなったのはたしかに残念だ。まったくお気の毒さまだよ。でもそんなのはあんただけの問題だ。ほかのみんなには関係ない。あんたのなかであんたの知ってるネリがいなくなっただけさ。ただそれだけのことだ。

 そう言われても、わたしには何も分からなかった。わたしのなかでわたしの知っているネリがいなくなったことは、癒すことのできない穴となってつめたい風を通した。わたしは何も食べなくなった。家からほとんど出なくなり、鳥にだけ真摯に向き合った。鳥がいなければわたしはとっくに現実感を失い、狂ってしまい、あの白線を越えて危険な外界に飛び出して行っただろう。どうしてそうできないのだろう、と思いながら国境のそばに立ち尽くすこともあった。はっきりしていることは、わたしには鳥がいるということだった。放っておいても死ぬことはないが生きることもできない鳥たちがいるということだった。

 救いの言葉はレオナの名だった。夜になるとわたしは何度も彼の名前を思い描いた。実際に口に出してみることもあった。レオナ、とわたしはつぶやいて涙さえこぼした。レオナ、ネリが死んでしまったよ。だからはやく帰っておいで。ネリが死んでしまった。種まきは無事に終わったけれど、ネリは死んでしまった。


 死人たちは、雛が卵の殻を破るようにドアを内側からどんどんと叩いた。技師はその音を聞き分ける能力でも持っているらしく、今度はとんかちではなく釘抜きを持って死人たちの家を回った。ネリも例外ではなかった。わたしはネリのドアの釘が抜かれるところを見たがったが技師に止められた。この国で釘抜きを見るのは腐乱死体を見るのと同じくらいにおぞましいことらしかった。

 新しいネリは、まえのネリが作ったようにきなり色のチュニックや毛糸の帽子を作った。それからまえのネリが作りはしなかったネックレスやバングルをよく作った。だからわたしも鳥飼いとしての仕事を全うしなくてはならなかった。いままで通り卵を定期的に毛織り職人のもとへ届けなくてはならないと思った。卵をあげると新しいネリは小さな目を輝かせて喜び「ありがとう」と言った。まえのネリと同じ声色だった。その声を聞くとわたしはいつも悲しくなった。

 それでも、わたしは少しずつ新しいネリに慣れていった。慣れたいと思ったし、慣れるしかないと思った。わたしはネリに果実占いのことを教え、短冊形の魚で作る銀色のスープのことも教えた。新しいネリはまえのネリと同じく、控えめで好意的な女の子だった。そして驚くべきことには、あたかもこの国にずっとまえから住んでいるもののようにこの国について様々なことを知っていた。まえのネリのようにそれを丁寧にわたしに教えてくれもした。新しいネリは、まえのネリが果たしていた役割を見事に引き継いでいたのだ。

 だが今しがた生まれたはずの人間に何かを教わるというのは奇妙なものだった。ネリからこの国のルールや習慣や仕組みについて聞かされるとき、わたしはいつも混乱した。なぜおまえにそんなこと教わらなきゃならないんだという怒りでいっぱいになった。だが、そんなときは技師の言葉がわたしを抑圧した。〈あんたは自分がどれほどわがままか、考えてみたことがあるのか?〉

 わたしは辛抱強く新しいネリと付き合った。まえのネリほどに今のネリを好きになりたいと思ったのだ。そしてこころのどこかでは、この新しいネリをまえのネリだと思えはしないだろうかとも考えていた。姿、声、そして持っている知識に至るまで、まえのネリに酷似しているいまのネリは、考えようによってはまえのネリと何ら変わらない人物であるように思えた。だがそこには隠しようのない隔たりがあった。それがいったい何であるか―それを表現しうる言葉をわたしは持っていなかったが、どれだけまえのネリと今のネリが似ていたとしても、二人は決して同じではなかった。たとえばふとしたときの表情に、わたしはべつのネリを見た。あるいはなにげない仕草のなかに、まえのネリではない別の人間を見た。わたしが呆然とその様子を観察しているとネリは振り向きざまに首を傾げて、いかにも無邪気そうな声で言った。「どうしたの?」

 卵を届けてつまらない会話をいくつかし、家に帰ってわたしは泣いた。涙はひとりでに沸き上がり油のようにつるつるとこぼれた。暗い部屋のなか、鳥たちは珍しく大人しくしてこちらを窺っていた。鳥でもひとが泣いていることが分かるのだろうか、とわたしは思った。そんなはずはない。この鳥たちは何もかもが不完全なのだから。

 わたしはテーブルに腕を置き、その上に顎を乗せて何かを考えようとした。だがそうすればするほど何も考えられなくなった。頭全体が痺れていてただの重たい塊になったみたいだった。わたしは諦めて立ち上がり、ふとケージを持ち上げてみた。鳥たちは怯えたが、騒ぎはしなかった。ケージは重かった。だがどうしても運べないというわけではない。持ち手を布でくるめばだいぶ持ちやすくなりそうだ。それから水飲みと餌箱をしっかり括り付けさえすれば。

 わたしはケージを下ろし、まえのネリがくれたナップザックを拾い上げて入るだけものを詰め込んだ。鳥たちの餌、それから自分の食料、毛布や上着、それから保存壜や枕やそこらへんに落ちている木くずまで、何でも詰め込んだ。それから針金を使って水飲みと餌箱をしっかり網に固定し、もう一度ケージを持ってみた。やはり重い。ふたつ持つのは無理そうだった。わたしはまぶたのない鳥を小さなケージから出して、大きなケージに入れた。彼は最初呆然と床にうずくまり真っ赤に乾いた目をこちらに向けていたが、やがてほかの鳥に寄り添ってぴたりと動かなくなった。

 眠れ、とわたしは思った。そして上から寒さよけの布をかけてやり、再びケージを持ち上げた。何羽かが低くうめいた。眠れ、とわたしは今度は声に出して言った。眠れば何も恐くない。石のように眠れば何も恐いことなんかない。ナップザックを背負い、ケージを左手に持って、わたしは家を出た。

 空はビロードのように冷たく、何も浮かべていなかった。この国の夜に月がないことをわたしは初めて知った。月のない空というのはひどく間が抜けていて、妙なものだった。わたしは何となく忍び足で歩いた。わたしのほかに音を立てるものが何もなかったからだ。少しの足音でも大きく響いて、誰かを起こしてしまうのではないかと思った。風は少しもそよがなかった。いつもは羽毛のように柔らかな草も足元でプラスティックになってしまったみたいだった。わたしはなるべくケージを揺らさないように慎重に歩いた。

 自分がどこへ行こうとしているのかもよく分からなかった。だが歩きながら、わたしは国境を越えることについて考えていた。国境を越えてどのくらい歩けば元の国に戻れるのか、あるいはべつの国にたどり着けるのか、ということについても考えてみた。どのくらいではない、そもそもどこかにたどり着く《、、、、、》ということがほんとうにありえるのか、そのどこかとは一体どこなのか? 考えれば考えるほどわたしは混乱し、いずれもさっぱり分からなかった。実際ちゃんと通ってきたはずなのに、そこの記憶にだけビニールでも覆い被さっているみたいで思い出せなかった。しかしとにかく前に歩いてここまで来たのだ、とわたしは自分を励ました。いまでは自分でも信じられないが、歩いてこの国までやってきたのだ。たったひとりで。

 国境の線はいつものように地面につめたく貼り付いており、暗闇の中でもいやに白くはっきりと見えた。線のそばにケージを下ろし大きく息をついて初めて、わたしは自分が息も殺していたことを知った。

「夜はおうちにお帰り」

 ぎょっとして振り向くとレオナが立っていた。

「そして早くおやすみ」

 レオナは探るような足取りでゆっくり歩いてくると、ケージのそばにしゃがみ込んだ。そして掛け布をめくって鳥の様子を窺っていた。わたしは無言でその背中を見下ろした。服ごしに彼の背骨がきれいな弧を描いているのが分かった。

 眠ってる、とレオナはつぶやいた。「鳥は偉いよ。ちゃんと眠る時間が分かるんだから」

 おかえり、と言うべきなのかわたしは迷っていた。レオナはからかうような目でこちらを見ていたが、やがて呆れたように「大丈夫?」と言った。

 何が、とわたしはそっけなく言った。

「何がって、あんた真っ白だよ。それにえらく痩せた」

「そっちはすこし灼けたね」

「そりゃあね。ずっと外を歩き続けてたら灼けもするさ。病的に真っ白よりかはましだよ。つまりあんたのことだけど」

 わたしは肩をすくめた。

「いつ帰って来たの?」

「ついさっきだよ」レオナは言った。

「これでも急いだんだ。夜になるまえに帰ってきたかったからね。分かってると思うけど、この時間はもうみんな眠るんだ。ひとも草も空も水も。どんなに忙しくても仕事を休むことになってる。ただし何事にも例外ってものはあるよ。まずは魔女。彼女は昼に眠るからね。あとは血迷って何か企ててるやつだ」

 わたしは笑った。「血迷って何か企ててるやつが馬鹿なことをやらかさないように、見張ってるやつも?」

「そうだ。忘れるところだった」

 とレオナは言って人差し指を立てた。

「そしてそれはおれのことだ。で? 血迷ってるのはあんた?」

 分からない、とわたしは答えた。

「分からないか。でもどこかへ行くつもりだ。少なくともここじゃないところに?」

 わたしは黙っていた。レオナは掛け布を元に戻して草むらに座り込んだ。

「なぜ? ネリが死んだから?」

 分からない、とわたしは言った。

「でもいろいろあったんだよ。あなたもいろんなところに行ったんだろうけど、わたしもわたしなりに冒険した。魔女のところへ行ってみたりね」

「魔女のところへ?」とレオナは言った。「ひとりで?」

「うん。そして鳥の卵をあげた。鳥が急に卵を産んだものだからね。お陰で色々と混乱があった。でもそんなことはべつにどうでもいいんだ。わたしは鳥飼いだから鳥のことは自分でなんとかできる。魔女の家は遠かったけれどそれもべつにどうでもいい。ちゃんと辿り着いたし、ちゃんと帰ってきた。帰ってきてあの種まきを見たよ。たしかにちょっとした見物だった。そしてネリが死んだ」

「聞いたよ」

「ネリが死んだんだよ」

「悲しんでる?」

 わたしは黙っていた。レオナはため息をつき、フェルトの帽子を脱いだ。

「悲しいのは分かるよ。おれだって悲しい。でもネリはいなくなったわけじゃない。たとえ話をしてみようか。新しい草が芽吹いたんだ。ネリという鉢のなかにね。そう考えてみれば、ちょっと気持ちも変わらない?」

 よく分からない、とわたしは首を振った。新しく芽吹いただって? わたしにはちっとも分からなかった。何も芽吹かなくていいと思った。

「なら、いままで生えてた草はどこへ行ったの?」

「どこかへ」

 レオナはケージに目を向けたまま小さく言った。

「でも、そんなことがそこまで問題かな。ネリはネリさ。ネリはずっとまえからネリで、変わることがない」

「たしかにネリは変わってない。性格も物言いも記憶も、まえのネリとすっかり同じに思えるよ。でも、やっぱりぜんぜん違う。そうでしょ? 何かが変わってしまった。何か大事なものが抜け落ちてしまった」

「抜け落ちた」

 とレオナは言い、口の中で何度か繰り返した。

「抜け落ちた《、、、、、》ね。いい表現だ。間違ってない。そうだ。たしかに抜け落ちたよ。でもそれは大事なものじゃない。いちばん大事なのは変わらないことだ。ネリがネリであり続けることだ。そのために、ちょっとした死が必要なんだ。刃を研ぐのと一緒さ。それがこの国の死なんだ」

「でもあなたは教えてくれなかった」

「でもネリが教えた」

 レオナは両手を広げた。

「おれだって、何もかも手取り足取り教えるわけにはいかない。前も言ったかもしれないがね、あんたの案内役は好意でやってるんだ。感謝のひとつでもしてほしいくらいだね、そもそもこれはおれの仕事じゃないんだからさ。でも何も見放そうってんじゃない、おれは基本的にあんたの味方だ。おれだけじゃなくこの国のほとんどはあんたの味方だよ。両手を広げて歓迎し、すべてを与えている」

 そこまで言ってレオナは首を傾げ、両手をばさりと降ろした。

「でもそれだけだ。それだけで充分じゃないか。それ以上どんなおせっかいを焼く義務があるんだ? あんたは自分から動いていいし、見たり聞いたりしていい。そうやってすこしずつこの国のことを知っていい。逆に言えばそうやって知るしかない。現にすこしずつ知っただろ? 魚のこと、果実のこと、鳥のこと、魔女のこと」

 そして死のことも、とレオナは言った。

「魚のことは魚から学ぶんだ。果実のことも果実から学ぶ。そして死のことも死から学ぶしかないんだよ。分かり切ったことだ。あんたの国のことを考えてみろ。死について教わったことがどれだけある? 誰かが懇切丁寧に説明してくれたか? そんなことは不可能だ。死はいつも向こう側にある。崖を転がり落ちた小石にしか分からない。崖の上に取り残されたおれたちは、あとからゆっくり届いてくるくぐもった音を聞いて漠然と想像するのさ。死がどんなものかってことを」

 そうだった。わたしの国でも死はそういうものだった。あの国でわたしはくぐもった音をいくつも聞いた。いくつも聞いたが、死がいったいどういうものであるかはさっぱり分からなかった。あまりにも聞きすぎてその音は日常的なものになりすぎていた。そしてわたしは昼も夜も関係なくずっと死に続けていた。

 わたしは国境のそばに腰を下ろしてつま先をぴたりと白線にそろえた。レオナも同じように隣に座った。どうするの、と彼は言った。分からない、とわたしは言った。

「でもたぶん、ネリのことは関係ないんだとおもう」

 わたしは組んだ腕の上に顔を伏せた。「もしかしたら、悲しんでるふりをしてるだけなのかもしれない」

 レオナはため息をついた。「そうなの?」

「あるいは単純に怖がってるのかもしれない」

「何を?」

「何かを」

 わたしは腕の中の暗闇を見つめた。そこには何もなかった。

 レオナがまたため息をついた。

「あんたは変わってるよ」

「そう?」

「うん。変わってる。そんなこと考えてるやつはこの国にはあまりいないよ」

 よく分からない、と言ってわたしは首を振った。でもわたしは恐い。

「この国が?」

「……」

「それとも自分のことが?」

「……」

「戻りたくなった? 自分の国に」

 分からない、とわたしは言った。

「戻りたいような気もするし、戻りたくない気もする。自分の国なんてものがほんとにあったのかどうかも最近は分からなくなった。何も思い出したくないし、考えたくもない」

「でも、あんたは自分の国を出てここにきたんだ」

 とレオナは言った。「あんたは自分の国がいやになってここにきたんだろ?」

 レオナの靴は相変わらず新品のようにきれいだった。わたしはなぜか自分の汚れたサンダルが恥ずかしく思えてきて、つま先をじりじりと縮めた。

「おれも分からないよ」

 レオナは独り言のようにぽつりと言った。

「でもおれはここで生まれて育ったから、ここのやり方でやってくしかないさ」

「出たいと思ったことはないの?」

 レオナは笑った。「出たって何にもならない」

「でも、そう思ったことは?」

 彼は黙っていた。わたしも黙って自分のつま先を見ていた。そしてそこにぴったり接した、幅五センチほどのひよわな白線を見ていた。分からない、とレオナはつぶやいた。

「思ったことがあるような気もするし、思ってもみなかったような気もする。でもおれはこの国が好きだよ」

 とても好きなんだよ、とレオナは繰り返した。

「だからおれはこの国を出られない。おれはずっとこの国にいて、いろんなひとにいろんな話をしてあげないといけない。たくさん仕事が残ってるんだ。おれは最後までその仕事をしなくちゃいけない」

 物音は何ひとつしなかった。鳥たちも石のように押し黙っていた。なぜならいまは夜なのだ。起きているものはひとつもないのだ。肩がひどくつめたくなってきていたので、わたしは顔を上げて肩を抱いた。何度見ても空に月はなかった。

「外は危険だ」

 とレオナがまたぽつりとつぶやいた。「ましてやそんな鳥籠を持って行くなんてふつうじゃないね」

「でもわたしは鳥飼いだもの」

「馬鹿だな」

 レオナは立ち上がり、つま先をとんとんと地面に叩き付けた。わたしは彼を見上げた。彼はつめたいと言ってもいいようなまなざしでわたしを眺めていた。その唇に笑みがのぼった。鳥飼い、とレオナは言った。

「樹を見せてやろう。ついてこれたらの話だがね」

 そう言うと、彼はくるりと後ろを向いてそのまま歩き始めた。

 わたしはケージを持ち上げ、国境に背を向けて後を追った。

 レオナはとても速かった。起伏があってほんのすこし足元に目をやっただけで彼の頭はすぐに見えなくなった。彼の歩調はきわめて軽やかだったが、そうとは思えないほどすぐに遠ざかった。柔らかい黒土であっても足跡はひとつもつかず、ほんの体重もその靴にはかかっていないようだった。だから、わたしは小走りになりながらもレオナの背中をしっかり見定めていなければならなかった。いままでこの国を案内しながら隣を歩いていたのは、わたしに合わせてくれていただけだったのだと知った。ほんとうのレオナはもっと速く歩けたのだ。こんなにも速く軽く。まるで風のように。

 以前に魔女の家まで行っていたことは幸いだった。わたしは両手両足を使わねば上られない丘も、丘を降りてからの無味乾燥とした風景にもほんのすこしは馴染みがあった。が、そうであってもレオナは速すぎた。丘を上り切ってもすこしも休まなかったし、歩調も乱れることはなく、後ろから見ている限りまったく疲れていないように思えた。霧が頬を湿らす地に降り立っても、その歩みはまったく緩まなかった。わたしはほとんど汗だくで、髪も衣服もぐっしょりと重たくなった。おまけにケージはひどく重く、腕は鉄のように凍り付いた。汗で手がぬめり何度もケージを落としそうになり、その都度鳥が不服そうに鳴いた。

 以前と同じく、昼と夜のない時間が続いた。朦朧とした意識のなかで、ずっと遠くにレオナのフェルトの帽子だけが明滅するように見え隠れし、わたしの神経を小さく揺らした。まぶたは重く、わたしは何度も眠り込みそうになったが、遠くに見える小さな帽子に励まされてまた次の一歩を踏み出し、一歩ごとにケージが立てるかしゃんという乾いた音を聞いた。

 おそらく二日ほどが過ぎたころだった。灰色の霧が折り重なるはるか前方で、目印にしていたレオナのフェルト帽子がふと止まり、こちらをくるりと向いた。わたしは何が起きたのか分からなかったが、とにかく義務的に足を運んでそこまで歩いた。霧が割れて、レオナの顔をさらけ出した。レオナはまじめな顔つきでこちらを見ていた。

「根性あるね」

 レオナは帽子のつばを親指で撫でた。「いつ断念して座り込むかと思ってたけど」

 わたしは笑った。断念するはずがない。わたしは以前にここまでひとりでちゃんと来たのだ。何も食べずに、一睡もせずに。わたしは笑ったまま歩き始めた。レオナを追い越し、固い砂土を踏みしめて、以前と同じように、睡魔に負けないように時々太腿をつねり、目の前の灰色をしっかり見つめた。後ろからレオナの口笛が聴こえた。風変わりなメロディーだった。あとから考えてみると、それもレオナのひとつの助けだった。わたしはレオナの口笛のおかげで眠らずに済んだし、はぐれずに済んだ。

 やがて魔女の家が見えてきた。霧が割れて、まっさらなドームの肌をさらけ出した。だがレオナはドアを叩かなかった。いまは昼だ、とレオナは言った。わたしはもうまぶたがくっついてしまいそうで、ひっきりなしに目をこすりながら適当にうなずいた。

「でも、もう少し歩けば夕暮れがやってくる。そしたらすこし眠ったっていい」

「夕暮れ?」

「言ったでしょう。ガラスがめらめら燃えるような夕焼けが見えるって」

 わたしはうなずいた。そんなようなことを以前聞いたような気もした。

 レオナとわたしは今度は横並びになって歩いた。腕がすっかり疲れてしまったのでケージを引きずっていると、レオナは軽々とそれを持った。急に重みを失った腕は、羽でも生えたかのように中空に浮かんだ。霧はだんだんと晴れつつあった。地面はほとんど石ともいうべき固いものになり、左右には切り立った岩壁がそそり立つようになった。相変わらず色彩はなかった。あらゆる濃淡の灰色が続いているだけだった。頭上のよどんだ鼠色、左右の青灰色、地表の骨のような白、それから岩壁のぎざぎざやどこからか転がってきた小石が長い長い影を作った。眠りはとうに過ぎ去っていた。頭はみょうに冴えて空腹も消えた。レオナは何の重さもないような様子でケージを持ち、相変わらずおかしな口笛を吹いていた。わたしはときどき太腿に手を打ち付けてリズムを取った。それを面白く思ったのか、レオナはべつのメロディーを口ずさんだ。もっと明るい、気分の晴れるようなメジャーコードのメロディーだった。わたしは笑った。

「詩人は音楽も知ってるのね」

 レオナは口笛を途切れさせて微笑み、「もちろん」と言った。

「物語と音楽は近しいところにある。水のように流れて、砂に染み込み、種を潤す」

 岩壁はやがて微妙なグラデーションに彩られた。青灰色にすこしの橙が混じり始め、やがて赤褐色のぼろぼろとした土が多くなった。頭上の曇天にも、淡いばら色の潤みが生じ始めた。もういいだろう、とレオナはつぶやき、庇のように飛び出た岩の下に身を寄せて、そこに座り込んだ。わたしはケージを抱きかかえてレオナの隣に座った。レオナはうつむいてしばらくじっとしていたが、顔を上げて「何か話をしてあげようか」と言った。「助かる」とわたしは言ったが、何かに集中するほど体力は残っていなかった。

「じっとしてればいいんだ」とレオナは言った。「物語は空気のようなものさ。勝手に耳に入り、体のなかに残る。そしてあんたの感情は、あんたの意志に関係なく、未来永劫記憶し続ける」

 そうだといい、とわたしは言った。「とても眠くて、わたしの意志ではとても覚えてられそうにないよ」

 レオナはすこし咳払いしたあと、静かに語り始めた。ネリのことだ、とまずはじめに彼は言った。彼女は優しい女の子だったよ。毛織り職人はみんなそうなんだ。こころ濃やかですぐ人に同情する。でも流されやすいというんじゃなくてね。仕事はちゃんとする。この国の人間はみんなそうだよ。みんな自分のやるべきことをやる。ネリも例外じゃなかった。多少きまじめすぎだったがね。でも厳しいというんじゃない。あんたも随分助けられたはずだ。ネリの心遣いがなかったら、あんたは当分のあいだ国から見放されて、裸んぼうでそこらへんを彷徨ってたはずだ。でもネリはあんたに服を作ってくれただろ?

 最初はネリはああじゃなかったよ、とレオナは言った。もっと繊細で、苦悩の多い女の子だった。誰だってはじめはそうだ。この国のルールに慣れるまで膨大な時間がかかるのさ。ネリだってほんの少しずついまのネリになっていったんだ。樹がゆっくりと年輪を刻むようにね。あんたはあの子に看板を作ってあげたことがあるな。ネリはおれに相談しにきたことがある。新しい子がわたしに看板を作ってくれた。でもそれはあの子の仕事じゃないから、わたしは断ったんだけれど、とても悪いことをした、親切から作ってくれたのにってね。でも、看板なんて必要ないんだ。あんたもいまなら分かるだろうね。この国の人間はみんな知ってるんだ、技師のことや種まき人のことや庭師のこと、狩人のこと。どの仕事もみんな尊い、代えがたいものだってね。みんな知っている。新しく生まれてきたやつも、本能的にそのことを知っている。だから誰も挙手する必要はない。黙って仕事に取り組んでれば何もかもうまくいく。

 おやすみ、とレオナが言ってわたしの肩を叩いた。わたしはもう既に半分ほど意識を呑まれており、小さくうなずくことで精一杯だった。


 この国に来て夢を見たのは、それが最初で最後だった。わたしは大きな樹の夢を見た。枝は空を覆い尽くすように広がり、その合間の大きな葉が日光を緑に透かせ、まるで天然のステンドグラスのように見える。そしてその葉のひとつひとつ、枝のひとつひとつが、頭の中に直接響いてくるような声でさまざまな物語を同時に語る。枝にはガラスの塊が粘土のようにへばりついている。じっと眺めているうちに、それが鳥だということが分かる。

 目が覚めて赤褐色の土をまずはじめに見た。そしてここが自分の家でないことを知った。傍らに座っていたレオナが「起きたな」とつぶやいた。わたしは夢のことを話した。レオナはその話を黙って聞いていたが、やがて腕組みしながら「それは夢じゃない」と言った。「それは樹の夢だ。あんたの夢じゃない」と。もちろん意味が分からなかったが、わたしはこの国の持つ意味の分からなさにとっくに慣れてしまっていた。だから何も言わずにうなずくだけだった。ケージを摑むと金属の冷たさにはっとし、目が覚めた。鳥は少しも鳴かず、動かなかった。

 またしてもわたしたちは歩き続けた。空はもう灰色ではなく鮮やかな赤に燃えていた。はるか遠くに、わたしは背の高い人影のようなものを見つけた。最初ひとつきりだったそれは、近づくにつれていくつもいくつも見えてきた。何かの集会かもしれない、とわたしは思った。こんなところにもひとがいるんだ、と不思議にも思った。レオナは何も言わなかった。人影はすこしも揺れず、動かなかった。地表はパンケーキのように丸く、赤い空に染め上げられていた。

「ねえ、誰かいる」

 とわたしは言ったが、レオナは笑った。

「ひとじゃない」

 近づくにつれてそのひとつひとつがきちんと見分けられた。それらは樹だった。か細く、いまにも倒れそうな樹たちが、互いを励まし合うように寄り添って生えているのだった。杉やくぬぎや松やけやき―もちろん、わたしは庭師ではないから詳しくは分からなかったが―さまざまな樹が夕映えに照らされて、黒い槍のように天を突き刺しているのだった。その樹を見ていると、わたしはいままで樹だと思っていたものがいかに薄っぺらいものであるかを知らされることになった。かつて住んでいた国で見た樹を思い出してみても、その樹の存在の生々しさや鮮やかさには劣った。

 樹たちは黒々とした幹の中にさまざまな光をぼんやりと宿していた。樹というよりは樹の形をした鉱物のようにも見え、また樹の形をした深海生物のようにも見えた。葉は薄い緑で、ごくわずかな風が吹いただけで炎のように揺らいだ。レオナは樹のひとつに近寄って、幹の肌を愛おしそうに撫でた。わたしは触れなかった。触れることは恐ろしかった。触れた瞬間に手が溶けるか焼けるかするのではないかと思った。

「これがこの国の樹だ」

 とレオナは言った。「誰も見たことがないほんものの樹だ」

「でもあなたは見たんでしょう?」

 とわたしは尋ねた。唇が震えていた。「そしてわたしも見た。詩人じゃないのに」

「でも見たいと思ってただろ?」

 レオナは樹に手を当てたままこちらを向いた。

「樹は眠ってる。夢を見てるんだ」

「どんな夢?」

「いろんな夢さ」

 葉が炎のように揺らめきながらレオナの足元に落ちてきた。彼がそれを拾い上げると、葉は薄いガラスのように透明になって音もなく粉々になった。あとにはかけらも残らなかった。

 たとえばこんな夢だ、とレオナは言った。ある少女が三日間も荒野を歩き通しだった。硬くて重いスカートは暖かかったが、長老たちの言いつけでどんな険しい岩場でも裸足で歩かなくてはいけなかった。少女はパンを齧り、わずかな水を啜りながら少しずつ少しずつ歩を進めたけれど、五日目にとうとう力尽き、大地の生け贄となったのさ。

「ひどい話」とわたしは顔をしかめた。レオナは笑った。

「ひどいと思えばひどいだろうね。でもこれはただの話だ」

「もっとほかにないの?」

 あるよ、とレオナは言った。そりゃあるよ、無限にね。たとえば遠い外国の夢だ。この国では考えられないほどの人間がひしめいている。まるで蟻の巣みたいに忙しい国でね。この国では仕事は数えられるほどしかないが、その国には星の数ほども仕事がある。どれも込み入ったもので、どれも難しい。

 ある機械を作る仕事の話さ、とレオナは言った。とても重要な機械だ。国の存続に関わる品物だ。でも作ってる本人には、何のために作らされてるのか知らされてなかった。ただ重要だということだけはっきりしていてね。生半可な仕事じゃないってことはそのひとにも分かった。実際、すこしの間違いも許されなかったんだ。だからそのひとは真剣に取り組んだよ。慎重に、丁寧に作った。さまざまな部品、さまざまな材料、さまざまな技術を用いてね。もちろんそのひとだけじゃない、ほかの多くの人間も関わった。この国とは違って、その国ではひとつの仕事をひとりだけでやるってことは滅多になかった。ひとつの仕事に多くの人間が関わらないといけなかった。じゃないと大勢の人間を賄えないんだ。そう、この国とは違う。人間が多すぎるんだ。だからひとつの仕事をいくつにも切り分けて、それをひとびとに配って回るというわけだ。当然、そのせいでいろんな混乱も起きたよ。起きないはずがない。ひとりでやればいいようなことを大勢でやってるんだからね。きれいな円だったものをわざわざ複雑な形に切り分けて、最終的にそれをぴたりと合わせないといけない。もちろん円は少しずつ歪んだ。最初のきれいな円に戻ることは決してなかった。

 そのひとはそういう何もかもが嫌になったのさ。端的に言えばね。そのひとは真面目なひとだった。この国の人間と同じく、仕事に関してはいつも本気で取り組んだ。それがどんなに馬鹿げた仕事であっても関係ない。それどころか、この世に馬鹿げた仕事なんてひとつもないと信じてさえいたよ。でも、どれだけ一生懸命やってもうまくいかなかったんだ。理想はいつもきれいな円を描いていたが、そううまく行くことなんてもちろんなかった。その国ではあらゆることがうまくいってなかったが、とりわけ情報伝達がうまくいってなかったね。上からの命令も、末端にいくまでにはひどく形が変わっていた。末端まで届く間に、もうべつの変更命令が出ていることもあった。だからいつも仕事は混乱したよ。あっちが上がればこっちが下がって、こっちが合ったらそっちがずれる。上も下もつねに苛々する。そうなると、いままで絶対に失敗しなかったことも簡単に失敗してしまうんだ。血が滞ればいずれ全体が腐って停止する。すべては時間の問題だった。たとえば、いままでのやり方をぜんぶ破棄しなきゃならないことがあった。もう少しで完成というときも、いつもやり直しになった。そんな毎日だったら、どんな人間だっていつか壊れるとおれは思うね。ましてや真面目な人間だったらなおさらだ。

 この国で言ったら黒い夢だ、とレオナは言った。そのひとは昼も夜も関係なしに黒い夢に囚われた。何もやる気が起きなかったし、自分が何者であるかも忘れてしまった。そしてあるとき、こころない同僚がふとこんな風に言ったんだ、〈昔は良かった〉とね。でもそのひとは、それがどれだけ昔のことなのかもう思い出せなかった。なにしろ自分が何歳なのか、女と男のどちらなのか、なんという名前だったのか、そんな簡単なことも思い出せなかったんだからね。

 それでそのひとは旅に出た。混乱しきって、追いつめられた人間が取る一番まっとうな方法さ。そのひとは荷物をまとめて、すべての責任を放棄してその国を出た。いろんな苦労があったよ。そのひとの意志とは関係なしに仕事は続いてたし、いきなり辞めるなんてことは迷惑甚だしかった。おまけに外では争いが続いていた。誰もが反対したし、怒ったよ。でもそのひとは聞かなかった。聞いても意味が分からなかった。もうそのひとの中身は空っぽだった。完全な透明だったのさ。何を言っても無駄だった。どんなことばも、そのひとの耳に入った瞬間に虚無に吸い込まれていった。だからそのひとはただひたすら歩いた。歩かないと進めないということだけはかろうじて分かっていたんだ。本能的にね。長い旅だったよ。ちょうどおれたちが辿ってきたみたいに、いや、もっともっと長い道のりをひとりぼっちで歩いたんだ。

 そして辿り着いた、とレオナは言った。「すべてを用意し、すべてを受け入れてくれるところにね」

「それはわたしの物語よ」

 わたしは喚いた。

「あなたのじゃない。わたしの話よ」

「あんたの物語かもしれない」

 とレオナは言い、樹の肌を叩いた。

「でもこの樹が見ているのはそういう夢なんだ。そしてこれからもずっと夢を見続けるだろう。永遠にだ。樹は死なない。この国で唯一死ぬことがない」

「あなたはどうなのよ?」とわたしは言った。「あなたはどうなの。あなたも死なないの?」

「死なない。でもある意味では死ぬ。少なくともあんたの言葉で言えばね」

 とレオナは言い、樹のそばに座り込んだ。葉がまたひとつ枝を離れて落ちてきた。

 詩人はみんなそうだ、とレオナは言った。

「詩人は昔からこういうあり方をしている。まえのレオナもまえのまえのレオナもそうだった。樹の声を聞くのが詩人の仕事だ。そうすることによって詩人はさまざまな物語を知るのさ。樹は突拍子もない夢を、次々に見るもんだからね」

 物語にはふたつの仕事がある―水のようにひとからひとへ流れていくこと。それからもうひとつは、岩のようにしっかりと残り続けることだ。詩人にできる仕事はひとつしかない。ネリも言ってただろう、自分の仕事以外の仕事をするのはいけないことだとね。だから詩人にできる仕事はここまでだ。ここから先は詩人の仕事じゃないのさ。


 最後の話をしよう、とレオナは言った。この国に辿り着いた人間の話さ。外から来た人間は、この国で生まれた人間よりもすこし厄介な道を辿る。なにが厄介かというと、引き継ぎがないってことだ。つまり最初から仕事が用意されてないってことさ。だから自分で考えないといけない。ネリや〈器用な手〉のように、始めから仕事を知っているわけじゃないんだからね。だからそのひとも、自分で自分の仕事を見つけた。ヒントはあったんだ。小さな鳥の卵とかね。だからそのひとは鳥の世話をすることにした。そうする以外思いつけなかったんだ。おれがその立場だったとしてもそうしたと思うよ。だから概ねそのひとは正しかった。

 鳥の世話は思いのほか大変だったよ。技師や庭師の仕事がそれぞれ大変なように、鳥の世話だって生半可ではない。くわえて引き継ぎがなかったからね。何もかも前例のないことだったから、またべつの難しさがあったんだ。そしてとうとう、鳥は卵を産んだ。きれいなガラスみたいな、割れることのない卵だったけれど、少なくとも何か変化が起きたんだ。鳥飼いは少しずつその卵を周りに配ることにした。そうする以外に考えられなかったんだ。卵は次から次へと増えたもんだからね。まああまり役に立つものじゃないが、何か幸せな気持ちになるような、そういう感じはあったよ。もちろん、一部の人間にとっては重大な発見でもあった。たとえば技師だ。彼は人間よりもむしろそういう材料とか、道具に愛着を示す人種だからね。もしかしたらこの先、溶鉱炉かなんかを使ってその卵を溶かして、ぜんぜん違うものに生まれ変わらせるかもしれない。

 鳥飼いは新しい仕事だ、とレオナは続けた。ほかの誰も知らない生まれたての仕事だ。詩人は鳥飼いを連れてこの国のさまざまなところに案内し、さまざまなことを教えた。引き継ぎのない人間にはそうするしかないのさ。何しろこの国の何もかもが初めてなわけだからね。でも鳥飼いはよく覚えたよ。いろいろ悩むこともあったが最終的には理解した。だが詩人はその分迷っていた。樹のことを教えるかどうか判断に困っていた。だが結局、教えることを選んだ。

 そのことについて鳥飼いは尋ねるんだ。〈どうして?〉とね。当然だ。だってそこには詩人にしか行けないはずなんだからね。でも詩人はこう言うんだ。それはいままでの話だってね。これからは、樹のところに行けるのは詩人と鳥飼いのふたりになるのさ、ただそれだけのことだ。

「それで? 鳥飼いはこれからどうなるの?」

 とわたしは言った。

「鳥飼いがこれからどんな仕事をするか、あなたはまだ語ってないでしょう? 鳥飼いはまだまだいろんな仕事をする。鳥がこの先どうなるか分かったもんじゃないし。もしかしたら卵じゃなくて全然ちがうものを産むかもしれないし」

「かもね。でも、それはまたべつの話だ」

 とレオナは言った。

「おれの話せることじゃない。それはまたべつの話で、つぎの話さ。つぎのレオナが話すことだし、つぎの樹が見る夢だ」

「鳥飼いの話をするわ」

 とわたしは言った。「わたしがするわ。鳥飼いにだって話はできるもの。鳥飼いは家に帰って、技師からナイフをもらって心臓を突く。痛みにもがきながら血の泡を吹いて、白目になって死ぬ。それで鳥飼いの話はおしまいよ」

 それも悪くない、とレオナは言った。この国はあんたに対して完全に開かれてる、どうしようとあんたの自由だよ。でも少なくともおれはそんなこと望んじゃいない。この国では死は与えられるものであって、自分から取りに行くものじゃない。いいか、覚えておきな、死は与えられるものだ。生と同じにね。あんたは自分から死ぬことなんてできないだろうよ。

 レオナの背後で、燃える葉がさかんに落ち始めた。

「なぜわたしに教えたの?」

 それについてレオナはすこし考え込んでいた。固い地面の上にあぐらを掻き、頬杖をついて黙りこくっていたが、やがて口を開き「まあ、個人的興味だろうね」と他人ごとのように言った。

「詩人の話をしてよ」とわたしは言った。「詩人の話をまだ聞いてないもの。樹は、詩人の夢は見ないの?」

 レオナは黙っていた。そして「そんな話、あんたがすればいいだろ?」とつぶやいた。それが彼の最後の言葉だった。その言葉が尽きると、レオナは地面に座ったまま動かなくなった。体がどんどん透明になり、その表情も、着ている衣服の色やその皺の陰影も、白く輝いて判別できなくなった。それがあまりにもまぶしいので、わたしは目を閉じた。それはほんの一瞬だったが、わたしはそのことをいつまでも後悔することとなった。目を開けるとレオナはもういなくなっていた。代わりに、さっきにはなかった新しい樹がそこに伸びているだけだった。わたしはその樹に近寄っておそるおそる肌を撫でてみた。だが何も感じられなかった。ただひんやりとした感触が伝わってくるだけだった。生命の気配などひとつも感じ取れなかった。樹は眠っているのだ。何よりも深く。

 わたしはかがみ込んで、ケージのなかを確かめた。鳥たちはわたしの顔を見ると草花が芽吹くように次々に鳴いた。わたしは扉を開けて、一匹ずつ外に出してやった。鳥たちははじめて触れる土の上でもがいていたが、ふと思い立ったように小さな翼を広げた。最初の一匹がはばたくと、ほかのものも真似をした。そしてかなり不格好ではあったが、彼らは地面を蹴って飛んだ。さっきまでレオナだった樹の枝まで昇って行って、しっかりと足を絡み付けると、彫刻のように固まって動かなくなってしまった。あとには空っぽのケージだけが残った。


 語るべきことはもう少ない。終わりはいつも唐突に訪れる、とレオナは言った。話というものはそういうものだと。丘を越えて戻ってきても、わたしは誰にも何も言わなかった。技師に何の報告もしなかったし、ましてやモモには会いたいとすら思わなかった。ふとした拍子に起こるヒステリーに巻き込まれて、へんに傷つきたくなかったのだ。ネリの家にも近寄らなかった。わたしは空のケージを机に置いてずっと眺めていた。鳥もいなくなってしまったいま、わたしはいったい何者なのだろうか? 鳥飼いではない。鳥がいないのだから鳥飼いであるはずはない。わたしは一日の大半を寝台に横たわって過ごした。何度も何度も天井の木目を数え、とりとめもないことを考えた。燃える葉のことを思い出すこともあった。レオナが話してくれたことを丁寧に最初から思い返してみることもあった。それはいつもこの言葉でおしまいだった。〈そんな話、あんたがすればいいだろ?〉

 それでわたしは詩人について語ることを試みた。頭の中で詩人に関する記憶を寄り集めてみた。だがいつもうまくはいかなかった。記憶はどれも断片的で、かき集めてひとつのものにするのはとても難しかった。たとえばレオナについて真っ先に思い出すことはそのきれいな靴のことだった。それから奇妙な服装、そして耳に心地よい声。そういった断片的な彼の要素が頭のなかで浮遊したまま、その先はなかった。彼の要素はわたしの頭のなかでただの灰色の塊になり、崩れて落ちていった。わたしには何かを語ることもできないのだ。そう、それはわたしの仕事ではない。

 わたしはいくつもの日々を死人のように過ごした。いや、ほんとうに死んでいたのかもしれない。何十回目、何百回目かの天井の木目を数えていたとき、わたしは自分の手足の感覚が凍っていることに気付いた。深呼吸をしようとしても体が細かく引きつるだけだった。舌は石のように固くなり、苦い唾が沸いて喉を埋めた。視界の際に真っ赤な脈のようなものが見え、やがて目の前全体を覆い尽くした。耳の奥で滝の落ちるようなざわざわとした音が響いた。〈恐い〉と思い、恐いと思った自分をまた〈恐い〉と思った。真っ赤な視界は鎮火するようにゆっくりと暗くなり、やがてべったりとした闇になった。闇は凝固し、質量を持ち、わたしを押しつぶし、閉じ込めた。そして闇はわたしを閉じ込めたまま小さく小さく折り畳まれていった。半分になり、そのまた半分になって、わたしの体は急速に縮こまっていった。ねずみのようになり、蟻のようになり、埃のひと欠片のようなものになってもなお、どんどん小さくなった。完全な無になるまで縮小は果てしなく続いた。そして完全な無になることなどないと知ったとき、わたしは再び恐怖した。これが死なのか、と愕然とし、いや死ではない、わたしは死ねないのだと思った。そしてこの死ねない状態のまま、この国が果てるまで、この世界が終わるまで、いや終わったとしても、ずっと存在し続けるのだと思った。

 それは死ではなかった。黒い夢だった。わたしは恐怖していたが、ひどく冷静でもあった。黒い夢の感覚はなぜか懐かしい、なじみのあるもののように思えたからだった。それはかつてわたしがいた国のことをごく自然に思い起こさせた。ぬるま湯が肌をぬくもらせるように、水が土に染み込むように、ごく自然に。裂けたホールトマトの缶。潰れた機械の内臓たち。懐かしい声、喚く声、泣き叫ぶ声、気遣うような囁き声。自分が誰かも分からなくなってしまった者たちの悲痛な問い、それから相手に向けられる問い。〈あんたは誰なんだ?〉答えられるわけがない。わたしは一体誰なのだ?

 耳の奥でさまざまな音がうずまいた。まぶたの裏にあらゆる色が次々に塗りたくられ、最後にはただの黒になった。わたしの意識はその黒にまもなく飲まれて、遠いかなたへ過ぎ去った。

 これで鳥飼いの話はおしまいだ。ただ、すべての物語がそうであるようにほんのすこしだけ続きはある。永遠よりもずっと長い時間が過ぎたあと、鳥飼いはきっと懐かしい声を聞く。何よりも待ち望んだ声、何よりも聞きたかった声を聞く。そしてその声はきっとこんなふうに言う、「まずは樹の話をしてあげようか?」と。

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樹木たち 富永夏海 @missremiss

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