普通に私は呪われる

須能 雪羽

第一幕:ぬるま湯のなか

第1話:三者面談

「この子に取り柄なんてないんですから、進学はしません。高校を出て、まだ勉強する必要もないでしょう?」


 母が笑う。緩く波打った外ハネの髪を、指で梳きつつ。

 ピンクのマスクを震わす、くすくすと薄い笑い声。当たり前でしょと自ら言い添えているようだった。


 ポリ袋の衝立越し。学校机を三つも挟んで向かい合う担任の先生は「はあ」と困った感じで、白マスクを摘んで浮かす。


「あんたのことでしょ。自分で言いなさいよ」


 埃と皺の一つも見つけられない、ベージュのスーツが良く似合う母。

 私の通う高校。私の通う教室。学校の椅子にミスマッチのはずが、ファッション誌とは言わないまでも百均のカレンダー写真くらいには見える。


 淀みのない眼が不満の形で私を見上げた。同じ大きさの椅子へ座っているのに。

 さっきまで静かだったセミが、急かすみたいに鳴き始めた。


「う、うん。ええと——先生、進学はしません。大学も専門学校も。なにをするかまだ分からないけど、就職します」

「なにをって、あんたに特別なことできるわけないでしょ。普通に事務とかよ」

「あはは、そうだね」


 さすがお母さん、よく分かってると私も苦笑する。ジワジワとさざめく合唱が、大勢の笑い声に聞こえた。


 今朝、自分でアイロンを当てた制服のスカートに目を落とし、折り目同士を重ねる。

 意味はない。こんなつまらない娘で申しわけないなと、気恥ずかしさをきっとごまかすため。


 ざっくりと刻まれた沈黙の谷へ「そのう、お母さん」と珍しく整髪料の臭いをさす先生が果敢に下りる。


「お子さんの成績は、およそ平均です。少し頑張れば大概の所へ行けます。仰るように意味もなく進学する必要はないのかもしれませんが、今からそうと決めつけなくても」

「決めつけなんて。たった今、この子が自分で言ったじゃないですか」

「まあそれはそうです――ね」


 先生は語尾に〇・五秒の間を空けた。アラフィフの脂ぎった額に愛想笑いの皺を寄せ、切った視線を私へ向ける。


「いいのか? 今日決めたら二度と変更不可、ってことはもちろんないが。あれこれ悩みながら高校生活を送るのと、一つに決めて過ごすのとは違ってくるぞ」

「いいです。それに希望が変わったら、先生に言えばいいんですよね? ちゃんと考えます」


 思ってもない前向きな意見を、ヘタクソな作り笑いに乗せる。私は早く働きたいんだ、という本音は言わなかった。

 経験豊かな大人が、私のためを思ってアドバイスをくれている。無下にせず、聞き入れた答えを返すのが普通だろう。


「……きちんと考えろよ?」


 まだなにか言いたげな先生の手が、それでも机の上の紙を拾う。二つ折りで封筒サイズの厚紙に、通知表と書いてある。


 一瞬ペラッと中身を確認して、差し出されるのは私にでない。

 受け取った母は一瞥もせずにハンドバッグへしまった。「それでは」と見慣れたよそ行きの笑みで席を立つ。

 私と違う、とても上手な創作物だ。


「ああ、畏れ入ります。次の鷹守たかもりさんがいらっしゃってると思うので、入室いただくよう言っていただけませんか」

「ええ、構いません」


 既に出口へ向かっていた母が律儀に振り返り、会釈で応じる。

 ただそれも一、二秒のこと。すぐに硬い靴音が規則正しく鳴った。


「あの、鷹守さん?」


 私が追いつく前に、母は廊下で誰かに声をかけた。「ええ、そうです」と返答もあり、もちろん鷹守さんに違いない。


「まあ由緒のありそうな名前で素敵ですね」

「いえ実際はそんなことないんですよ」


 ちょっとくたびれたブラウス。防虫剤の匂い。小太りのこぢんまりとしたおばさんが、優しげに笑った。

 それは私からすれば、クラスメイトである男子の母親。


 当然にその当人も、廊下へ二つ用意された椅子の一方へ座っていた。クラスの男子で最も低い身長を丸め、窺う目線で私と私の母を見比べる。

 下の名前はなんだったか。いくらか探った記憶の底から、たしか鷹守しゅんだと引き摺り出した。


「いえいえ、うちは高橋たかはしなんて普通の名前で嫌になっちゃう」


 本当に嫌になる。自分への嘲笑を顔に浮かべた。

 どうしてもっと、私は特別でないんだろう。高橋直子なおこという普通の名前だけじゃなく、やることなすことなにもかも。


「そんなこと。娘さん、可愛らしいし」

「まあまあ。ダメですよ、そんなこと言っちゃ。この子、調子に乗っちゃう」


 仮に私が美少女だとしても、そうなんですと応じないのが普通の親に違いない。

 でもやはり耳に聞こえた言葉に、そうだ私は褒められるような顔をしてないと納得してしまう。


「背も高いし。おいくつ?」

「百七十四センチです」

「へえ、モデルさんになれそうね!」


 少し大げさに演技も混じっているのだろうけど、鷹守の母親は心から言ってくれたように見えた。いやモデルになれるかはともかく、たぶん心から褒めてくれた。


「そんな。私なんか」


 なれませんよ。こんなどこにでも居る普通の小娘を、誰も見たいと思いませんよ。

 胸の中の私が、呆れたという表情で首を横に振る。それが実際の顔にも表れそうで、窓の外へ視線を逃がす。


「母さん。時間過ぎてる」

「あら、ほんと」


 視界の外で、鷹守親子が話す。「じゃあ失礼します」と聞こえ、慌てて向き直った。

 おじぎをすると鷹守の母親は「またね」と手を振り、教室へ入っていく。その後ろへ息子も続いた。


「高橋さん、ごめんね」


 入室すると見せかけ、彼は回れ右をした。頭一つ分も低い位置から、まっすぐに私の目を見つめる。


「えっ——ええと、なにが?」

「母さんが。勝手にあれこれ言って」


 本当にすまなそうに眉根を寄せるのに驚いた。

 それに私が勝手に恥ずかしがっただけで、彼の母親は悪くない。


 そう伝えようとしたけど、すぐには言葉が浮かばなかった。

 というか母親のことを、そんな風に言って大丈夫かと。驚きと疑問のほうが先に立つ。


「う、ううん。大丈夫」

「うん、ごめん」


 でもすぐ傍へ私の母が居る、普通に聞けるわけがない。教室へ入る鷹守を、黙って見送るしかなかった。


 思えばこの時。彼と言葉を交わしたのは、これが初めてだった。

 今からすると、およそ五ヶ月前。夏休み直前に行われた、三者面談の日だ。

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