第11話 初陣
全く、普段は冷静で温厚な私でも、流石にこれにはイラッと来たぞ。
お前は森の住民ではない。既に終わっている命だ。仮称としてコイツのことは"
何故そんな状態で動くことが出来るかは分からないが、どうでもいい。この森の住民でない者が、この森の住民を害することを私は良しとしない。今のお前に意思や知能があるかは分からないが、覚悟してもらおうか。
"死猪"が激しく首を振って右牙を私にぶつけてくる。私は左手を牙にあてがい受け止める。多少の衝撃は感じたが、私の体は微動だにしない。
私は後ろを振り向いて小さい方の猪を見る。その体は"死猪"に傷つけられたであろう真新しい傷の他にも、所々古い傷痕が見受けられ、数多くの戦いを制してきた彼の過去を彷彿とさせる。
彼の瞳からは私の介入による少しの戸惑いと、"死猪"に対する闘志が窺え、この状況でも生存を諦めているようには見えない。冷静に反撃の機会を虎視眈々と狙うように見えるその様からは、熟練の老兵を連想させる。"角熊"くんが絶頂期のエリート兵ならば、彼("老猪"と仮称しよう)は歴戦の老兵、といったところか。
こんな時でもなければ、その凛々しい顔を撫でてみたいところだが、私の戦闘に巻き込むわけにはいかない。
そう。戦闘だ。私は意識を覚醒させてから初めて戦闘を行おうとしている。これまでの経験から、私が戦闘行為を行えば、周囲に少なくない被害を与えるのは間違いないのだ。私は顎を動かして"老猪"にこの場を離れるように促す。左手からはチリチリとした刺激が伝わってくる。
"老猪"は抗議の視線を向けるが、私は彼がこの場に残ることを良しとしない。私は尻尾を彼の右頬に優しくあてがうと、軽く後ろへ押しやる。
「今は、ここから離れるんだ。」
言葉が伝わるとは思っていないが、それでも声に出して彼に私の意思を伝える。同時に、左手を添えて押さえつけている"死猪"の牙を掴み、腕を振り払いながら牙を握り潰してへし折る。
乾いた音を立てて牙が砕け、折られた牙が宙を舞う。それと同時に私の掌全体に刺すような痛みが走る。
"死猪"は振り払われた方向へ身体を大きくのけぞらせると、そのまま一回転して左牙を私の顔に突き立ててくる。"死猪"には一瞥もくれずに右手で受け止める。
私の意思を理解したのか、それとも今の動作で私の能力を理解したのかは分からないが、こちらを見据えながらも下がっていき、ついには後ろを向いて走り去っていった。私は左手を開いて痛みの原因を目に映す。
さて、ちょっと驚いたことがある。"死猪"の牙を握り潰した時、私の手からは血がしたたり落ちていたのだ。左の掌全体の皮膚が爛れて剝れている。
拳を開閉させて感触を確認する。私の身体に明確に傷が付いたのはこれが初めてだ。だが、全く問題ない。
掌を見る時にはすでに再生が終わり掛けていて、感触を確認している時にはすでに完治している。痛みも、既に消えている。つくづく馬鹿げた再生能力だ。
それにしても、皮膚が爛れて剝れるだなんて、気持ちのいい話ではないな。腐食効果、とでも言えばいいのか。おそらくは奴に纏わり付いている黒い靄に触れたものを腐食させるのだろう。
異常な再生能力を持った私だから良いものの、そうでない者にとっては厄介極まりない話だ。考察していると、右手がジリジリと痛みを伝えてきた。
"死猪"は顔を上げながらこちらを向くことなく私の身体を左に迂回して走り抜けようと動き出す。
私を無視して"老猪"を仕留めに行くつもりか。させるわけがない。私の隣を横切ろうと左前足を地に着ける直前で尻尾を振るい、鰭剣で左前足と左後ろ足を付け根から切断する。
体を支えることが物理的に不可能となり、私の後方で"死猪"が体を横転しながら全身を滑らせていく。切断された足の切り口からは、血はおろか体液すら一滴も出ていない。先程の牙と同様、纏わり付いていた黒い靄は徐々に薄れて消えていく。
止めを刺そうと近づいたところで、異常なことが起きた。
前後の左足を失っている筈の"死猪"が起き上がったのだ。切断した部位からは纏わり付いているものよりも密度の高い靄が元の足と同じ形を形成している。
僅かに視界に映った顔には、牙の断面から高密度の黒い靄が噴き出し、切断した場所から足と同様に元の牙と同じ形状を形作っている。
"死猪"がこちらに一瞥もせずに、走り去っていった"老猪"を追うために右前足で地面を掻いている。
行かせはしない。
それに、お前の存在は私にとって許容できるものではない。尻尾を操り右後ろ足を巻き付けると、"死猪"に反応される前に樹木よりも高い位置まで放り投げ、私自身も飛び上がる。
体を切断しても何らかの不可思議エネルギーで部位を補うことが出来るのならば、必ずその不可思議エネルギーの発生源がある筈だ。
意識を集中させて目を凝らして飛び越えた"死猪"を見れば、ちょうど心臓の位置から全身に流れるように不可思議エネルギーが溢れている。失った部位を補っている部分は特に大量に、勢いよく流れている。
ならば、私は意識を集中させ、相手を『絶対に貫く』という強い意思を鰭剣に伝える。尻尾を最大速度で伸ばしながら、尻尾全体を付け根から順に右回りに回転させて"死猪"の心臓部めがけて全力で鰭剣を突き出す。
「『貫け』ッ!!!!」
これまでに聞いたことが無い程のけたたましい破裂音が響き渡るとともに、"死猪"の身体を心臓部ごと貫通させ、そのまま鰭剣が大地に突き刺さる。
貫いた部分の口径は私の尻尾の付け根よりも二回り以上広い。傷孔と尻尾の隙間から鰭剣の突き刺さった場所を覗くと、地面が爆ぜること無く、それでいて鰭剣の幅よりも広い穴を開けている。
既に黒い靄が霧散した肉体が地面に落下していく。無事に"死猪"を倒すことが出来たようだ。尻尾を戻しながら私も地上に降りる。
着地した後に"死猪"の体を確認する。意外にも地面に激突した"死猪"の腐敗した体に衝突の損傷は無い。今はもはや"
死体を観察していると、私の元に"老猪"が近づいてくる気配が感じ取れる。
"死猪"が放っていた不可思議エネルギーを明確に認識してから、私は生物が持つ何かしらの不可思議エネルギーを感じ取れるようになっていた。それは"老猪"からも感じ取れ、五感に頼らずに彼の接近が理解できた。
"老猪"が私の元までたどり着くと私を見つめる。その瞳には既に闘志は宿ってはいないが、落ち着いた雰囲気と知性を感じさせる。
「もう、心配は無いよ。安全だ。」
宥めるように"老猪"の顔を撫でる。やはり言葉が伝わっているかは分からないが、声に出して伝えたかった。雨に濡れてじっとりと濡れた毛皮越しに彼の体温と鼓動が伝わってくる。
既に"死猪"に負わされた傷は塞がっていて、大分落ち着いているようだ。その表情に怯えは無い。それどころか、私を見つめる彼の瞳からは、こちらを敬うような気配すらうかがえる。
「・・・フゴッ。」
彼は頭を深く下げながら短く鳴くと、私に背を向けて"死猪"の体を咥えてそのまま引きずってこの場を立ち去って行った。その足取りは力強く、自分より大きな体、重量をまるで気にしている様子は無い。
去っていく"老猪"の背に向けて小さく手を振ると、それに合わせて彼の尻尾も揺れたような気がした。
次に会った時には、もっと友好的に触れ合うことが出来るだろうか。
一人この場に取り残された私は鰭剣で開けた穴を覗いてみる。鰭剣の半分ほどまでしか刺さっていなかったにも拘わらず、深さは私の身長よりも深い。それに拳の突きや蹴りのように地面を溶かしているわけでもない。
不思議なことに今回は鰭剣を含めた尻尾は高温を纏うことは無く。貫いた"死猪"の体も、そしてこの穴も、高熱の影響を受けることは無かった。
原因に心当たりがある。生物が持っている、当然、私も持っている何かしらの不可思議エネルギーだ。
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