(9)
その細い脇道から出ると、林が途切れて、目の前に1つの木造建物が現れた。
林が人工的に広く切り開かれた中に立つ大きな木造の社殿。正面の木の格子が付いた引き戸は閉められていたが、横に引くと簡単にガラガラと開いた。その入口に黒い革靴と、記憶にある白いスニーカーが置いてあるのを見つけ、急いで社殿の中に上がって奥に走っていく。真っすぐに行った突きあたりにある引き戸を開けた。
そこは20畳くらいの広い空間だった。真っ暗なその部屋の向こうには、紺色の夜空と、輝く満月がくっきりと見え、室内に光がさらさらと注ぎ込んでいる。そしてその光を全身に浴びながら、不思議な光に包まれるように空を見上げて立っている人影。
「菜月!」
彼女は白い装束を着ていて、こちらに背を向けて立っているので顔は見えない。しかし、その後ろ姿は間違いなく菜月だ。長い髪が銀色に光ってユラユラと揺れている。遥人は夢中で駆け寄った。
ビリッ!
痺れるような感覚があったと同時に、体が大きく後ろに跳ね返された。
「くっ——」
頭を押さえて床に倒れ込んだ遥人の前に、暗闇から人影が出てきた。
「フフ……何をしているんだ。忘れたのか、遥人」
男の声が聞こえ、その姿が近づいてくる。見上げると、そこには竹内嘉月の姿があった。遥人がそこに近づこうとして手を出すと、その指先に静電気のようなビリっとする感触があった。
「何だ……これ」
「月姫がその力を使う時は、月命以外はその側には近寄れない。お前はそんなことも忘れたのか」
嘉月の声だけはしっかりと聞こえた。
「お前達の負けだ。既に菜月は大きな力を放っている。もう菜月を止めることは誰にもできない。自衛隊や警察だけでなく、たくさんの一般市民さえもお前達の敵になるのだ。黙って見ていれば良かったものを」
遥人は痛む頭を押さえた。跳ね返されて打った背中の辺りもズキンとする。
「どうして、そんな事を……」
「ハハハ! 菜月は、竹内家の本筋の月姫だ。だからこそ、強い力を、迷いなく使うことができるようにしなければならない。そのために、我が家では菜月に小さい頃から月姫の事を教えてきた。お前達のような、迷いのある人間とは違うのだということをな」
嘉月が歩く様子がすぐ傍で見えるが、その体には手が届かない。
「お前は、この世界はどうやって成り立っているか考えたことがあるか」
手が届きそうなほど近くに嘉月が立ち、遥人を見下ろしながら言った。
「それは沢山の平凡な人間達の、限りない欲望の心だ」
「欲望の心……だと」
「人間は利己的な存在だ。自分の利益になることの方に動く。権力者、資産家に従うのは、それにより利益を得ることができるからだ。もちろん、そうしなければ罰せられるということだって利益の1つと言っていい。それだけじゃない。より力の強い者、より美しき者の傍にいて、自分もその仲間として扱ってもらうことも似たようなものだ。より利益になる場所を人間は求める。お前の父も母もそうだ。……それに、お前だってそうだったんじゃないのか。月命として、菜月と結婚して、この仕事をしていくことを望んでいたんだろう?」
「違う……僕は……」
頭を押さえ、ゆっくりと体を起こしながら言う。嘉月はそれにフフ、と軽く笑って続けた。
「しかし、だ。……もし、人間達が自分の利益を度外視して、一団となって立ち上がったらどうなるか。どんなに権力があっても、どんなに金があっても関係ない。新たな人間を敬い、新たな商品・サービスを支持するようになった時、既存の権力者や資産家は一気に没落する。それは世界のどの国でも同じだ。どんな大国も大企業も、通貨の価値ですら、沢山の人間達が支持することによって成り立っているからだ。……分かるか。人間達の記憶を操れば、そうした利己的な意識を超越させ、新たな世界を創り出すことができるのだよ」
嘉月は再び菜月の周りを歩き始めた。その向こうに、すぐその先に、菜月がいるように見えるのだが、その手は全く届かない。
「お前も思わないか? この世界は穢れていると。目先の利益、欲望、権力。それらが引き起こす自然破壊、飢餓、戦争。この国の未来、この世界の未来を潰そうとするのは、そうした人間達の穢れた心だ」
「お前こそ……ただの欲望の塊じゃないか。菜月の力を使って、自分の都合の良い世界を創り出したいだけだ!」
「ハハハ! 勘違いしてもらっては困る。私が欲しいのは金でも権力でもない。美しい世界だ」
「美しい……世界だと」
「この国を、世界を、月姫の下に正しく支配する。どれだけの巨大企業であろうが、強大な軍事国家であろうが、マスコミの報道や膨大なインターネット上の情報があろうが関係ない。月姫をして世界中の人間達の記憶を操れば、いかようにも人間達を導き、新しい、美しい世界を創ることができる。それを邪魔する人間達はこの世界から消すことだって簡単だ。この村の、月の人の子孫である私達には、その権利がある。そのために私は、実の娘を強い月姫にしたのだ」
嘉月が見つめる先にいる葉月は、真っすぐに立って外を見つめたまま動かない。
「馬鹿な……菜月を、解放しろ……」
「ハハハ! もう無理だ。既に力は放たれてしまった。今日、十五夜の真夜中を過ぎれば、昔の菜月の記憶は絶対に戻らない。私が菜月の記憶を導き、更に力を強くする。それはもはや誰にも止められないんだ」
ハハハ、と大声で笑いながら、嘉月は部屋の隅にある肘掛け椅子に深く体を沈めた。遥人は手をついてようやく立ち上がる。頭をひどく打ったようで、まだジンジンと痛む。
「遥人! 大丈夫か」
振り向くと後ろから母が走ってきた。
「嘉月、やめるのよ!」
「これはこれは、前の月姫様ではないか。分かっているはずだ。お前らごときの力では何もできない」
嘉月は豪快に笑う。母もその先に進もうとするが、遥人と同じように跳ね返される。遥人ももう一度進もうとしたが、再び床に転んでしまった。
「やっぱり、ダメか……」
「フフフ……おや? そういえば、お前の月命はどうしたんだ?」
嘉月が不敵な笑みを母に向ける。確かに、さっきまでいた父の姿が見えない。
「父さんは?」
「光人は……撃たれた」
真っすぐに壁に顔を向けている母の姿を、ハッと息を呑んで見つめる。
「……死んだのか?」
「大丈夫——。私が、何とかする」
遥人の問いに答えることなく、母は静かに言うと、目の前に手を向けた。そして、目を閉じて静かに深呼吸していく。
「母さん……何を……」
「遥人——お前の事は、絶対に忘れないよ。だって、私のお腹を痛めた大事な子供だからね」
母は遥人を見て軽く笑うと、再び前を向く。
「さあ、遥人。早く離れるんだ」
すると、母の髪がさっき見た時と同じように、銀色に輝き始め、静電気を受けたような感じでフワリと空中に浮いた。
「水月……まさかお前、1人で……」
嘉月が椅子からさっと立ち上がる。その瞬間、母は目にも留まらぬ速さで遥人の腕を掴むと、信じられないような力で彼の体を後ろに投げ飛ばした。床に背中を打って顔を上げた遥人の前で、一瞬、目も眩むほどの強い光が現れた。
バリバリ! バリ! バリン!
大音響が響き渡ると、左手を前に向けて真っすぐに立つ母の目の前で、たくさんの光のカケラが雨のように床に落ちてくるように見えた。そして、彼女はその場に膝をつく。
「母さん!」
急いで近寄ると、母は膝をついたまま顔を上げた。
「く……まだだ」
母は再び前に左手を伸ばすと、唖然として立っている嘉月に、真っすぐに光のようなものが向かっていく。
「うわあああ!」
嘉月が光に包まれて、悲鳴を上げながら床に倒れこんだ。母もそのまま完全に床にうつ伏せに倒れる。
「母さん! 母さん!」
母に近寄った遥人の後ろから、男の太い声がかかった。
「遥人! 水月はいい!」
振り向くと、そこに父の姿があった。先ほど平田と呼ばれた男に肩を借りて足を引きずっている。迷彩服に黒いシミがついているように見えた。
「父さん、生きてたのか……」
遥人の声には耳を貸さず、父は平田を促して母に近寄ると、倒れこむようにしてすぐに母の体を抱きかかえる。
「馬鹿野郎! 1人で何て無茶をするんだ!」
父は叫んで母の体を強く抱きかかえた。母は目を閉じたまま動かない。
「こんな時のために防弾チョッキを着てたんだよ。それを知らずにお前は——こんなに体が冷たくなって……。くっ、絶対にお前は死なせない。お前の記憶だってすぐに戻してやるからな」
父は必死に母の体中を撫でていく。茫然とその様子を見つめていると、父が顔を上げて叫んだ。
「早く! お前は、菜月だ! もう時間がない」
遥人はハッとして立ち上がり、まだ床でキラキラとしている光のカケラの上を必死に走り、菜月の隣に駆け寄った。
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