(3)
車が止まったのは、いくつか林を抜けた先だった。遥人は車を降りて、その前に立つ。10月が近づいている季節ではあるが、流石に寒いという時期ではない。しかし、その場所はなぜか足元から冷える感じがして、身震いした。
「ここは私達が住んでた場所」
母の言葉に遥人は一歩も動けない。自分が暮らしていたというその場所を見渡す。
そこには、きれいに造成された土地だけが残っていた。
「燃えたんだって」
母が言って、その何もない土地に歩いて行く。
「菜月が月姫になった夜。私たちが真月神社に行った留守中に、誰かが放火したんだよ。帰ってきた時は、もう焼け焦げた残骸しか無かったわ。消防も警察も放火だって言うだけで、誰もまともに調べなかった」
遥人にはその記憶はない。その時は嘉月に拉致・監禁されていたのだ。菜月が月姫の力を初めて使おうとしていた時に、誰かに手足を縛られアイマスクを付けられた上で、車に乗せられた。そして、翌朝になり車から降ろされた所は大学の自分のアパートの前だった。今思うと、もうその時には、真月村で生まれ育った記憶は消え、千子の街で育った記憶に変えられていたのかもしれない。
「この辺にリビングがあって、こっちがキッチンか。遥人の部屋はこっち側かな。……でも、家って結構簡単に燃えるんだなあと思った」
暗闇の中で、ハハハ、と声を出して笑う母の後ろ姿を見て、遥人は強く拳を握る。そうだ。自分の記憶でも、広くはないけれど、平屋の、家族の家があった。好きだったアコースティックギターを好きな時に弾ける自分の部屋もあった。忙しい父はあまり帰っては来なかったが、たまに帰ると3人でテーブルを囲んでいた。
「菜月もよく来てたのよ。あの子の母親が亡くなってから、私のことを『ミーちゃん』って呼ばせて、気軽にこの家に呼んでね」
「それは、母さんの事だったんだ。菜月は美歩さんっていうおばさんにお世話になったって」
「ああ、確かに美歩さんも菜月のことを可愛がってはいたよ。でも、あの人は村の人じゃないし、月姫の事も知らない。だから、普段は私が面倒を見てたの。たぶん、菜月の記憶から私との記憶が消されたから、美歩さんの事だけが残ったのね」
「そういうことか……」
「菜月は誰からも『竹内のお嬢様』と呼ばれて大切にされてたの。だけど、本当の家族である嘉月とあの子の祖母には、将来、菜月を強い月姫にしようという考えしかなくて、昔から伝わる古文書とか道具とかを使って、子供の頃から修業させられていたみたい。だから、狭い家だとしてもここで少しでも家族らしさを感じてほしかったんだ」
「そう……か」
「うん。菜月もこの場所が好きみたいだったよ。……あっ、好きだったのはお前がいたからかも知れないけど」
母は振り向いて、フフっと笑ったが、すぐに遥人の方に背中を向けた。その後ろ姿を見ながら、その自宅のリビングに菜月がいたことを想像してみる。きっと、母の言うように、菜月はここに好んで来てくれていたのだろう。しかし、遥人の中には、菜月がそこにいたという記憶は全くない。それだけでなく、自分達の、慎ましやかな思い出の場所、そして思い出の品々すら、そこにはその欠片さえ何一つ残っていないのだ。
「母さん……あのさ」
遥人は声をかけた。母はまだ黙って背中を向けたまま立っている。
「どうして僕のお茶に睡眠薬を入れたんだ?」
するとしばらくして、「フフ、気づいた?」と母の声が返ってきた。
「だって、あなたがこの村の本当の記憶を取り戻したら、絶対に菜月を助けようとするもの。そうしたら、せっかく築いた私達の豊かな生活が滅茶苦茶にされるだろうからね。今日一日さえ過ぎれば、この村での菜月とお前の記憶も戻らない。だからお前には今日だけゆっくり寝てもらおうと思ったの」
「嘘だ——」
静かにそう言うと、母はこちらを振り向いた。
「母さんは、一人で菜月を助け出そうとしたんじゃないのか? こんな危険な場所に僕に来てほしくなかった。ただ、それだけだろ」
「何言ってるのよ。私はただ、今の暮らしを失いたく無かっただけ」
「頼ってよ!」
母に向かって叫んだ。
「人間は1人では生きられないって母さんは言ってた。母さんも、父さんも、それに僕だってお互い支え合って生きてきたはずなんだ。これまでも……そして、これからだってそうだ。だから、僕も置いていかないでよ」
遥人は母の前に一歩ずつ近づくと、母の左手を握った。母の手は温かい。彼女が驚いたように握られた手を見下ろす。
「母さん……ごめん」
そういって頭を下げる。そして、しばらくして顔を上げて再び母の顔を見つめると、その瞳は涙で輝いていた。
「全く、馬鹿な子ね……。私の記憶は、お前が手を握っても変わらないわよ」
フフ、と母は笑って、遥人に一歩近づくと、その体で遥人を抱きしめた。遥人より小さい母の体から、その温かさがゆっくりと体の奥に広がっていく。
「ありがとう。……さあ、もう行きましょう。ここには何もない」
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