(3)
真っすぐ睨むように見る母の視線を受けて、遥人は唖然としていた。
「絆を破ったって……どういうこと?」
「月人は、1人や2人くらいの記憶を変える力を使うくらいなら、自らの記憶にもほとんど影響はない。だけど、月姫としてたくさんの人の記憶を変えるような大きな力を使った場合、自らの記憶の消耗も激しい。だから、月姫の仕事の時には必ず月命がすぐ傍にいるんだ。だけど、何らかの理由で月命がすぐにその記憶を戻さないと、彼はその役割を果たしていないことになる。すると月姫の強い力で、月命の持つ月姫との記憶は失われ、全く別人格の記憶に変えられてしまうんだ。それは、二度と2人が出会わないように、場所も、生き方も、何もかもがそれまでとは全く関係ないものになる。――今のお前の記憶は、その変えられた記憶だよ」
「じゃあ……僕がそこに居なかったってこと?」
「7月の満月の夜。菜月が初めて月姫になり、その力を使った時、お前はそこから姿を消した。だから、お前は記憶を別人に変えられたんだ」
「そんな……でも、どうして僕は」
そう尋ねたが、母は顔を横に背けただけで遥人の質問には答えずに話を続ける。
「とにかく、お前の記憶は変えられてしまった。それがどう変わったのかも分からなかったから、私はお前の様子を見に大学に行ったんだよ。そうしたら、菜月の記憶は全く無いし、全然知らない子と付き合ってることになっててさ。まあ、あの子も悪い子じゃ無さそうだったから安心したけど」
母はそう言って笑う。しかし、すぐに母は再び真面目な顔になって遥人を見つめた。
「でも、私はね……。もう、この生活でいいと思った」
「えっ――」
「もう、お前には、真月村のこと、月姫のこと……いや、菜月のことを、忘れてほしかったの」
母は湯飲みを持ってその中身を覗く。
「こんな仕事、続けるのはおかしい。だって、そうでしょう? 人間の記憶は、それぞれが生きていく中で培ってきたもの。つまり記憶は、人生そのものなのよ。それを変えるなんて、その人を否定し、まるで命を奪っているような気がした」
母は立ち上がり、遥人に背を向けてポットのお湯を沸かし始めた。
「……だけど、私はその仕事を止められなかった」
背中を向けた母から静かな声が聞こえてきた。
「どうして真月村が周りの市町村と合併する道を選ばなかったと思う? 表向きは合併に取り残された村って言われているけど、本当はその必要がなかったからなのよ。真月村は、月姫の仕事で得たお金で成り立っている。月姫のことを知る村民はほとんどいないけど、昔から、月姫が稼いだお金は竹内一族が経営する様々な企業を通じて村内に還元され、村民の生活は成り立っているのよ。……だから、鳥井先生が初めに向日葵の話を言い始めた時も、みんなは馬鹿にしてたんだ。みんなで向日葵を植えて、自然と観光を売りにしてそれで村が成り立つようにしていこうなんて。……でも、あの人だけは本気で考え始めた」
「あの人って……」
「お前の父親。猪野光人よ」
母はそう言って、遠くを見るような眼をした。
「あの人は、大学時代に鳥井先生と知り合ったらしくてね。それから必死に向日葵畑作りを推進してきたの。そして、コツコツとそれにお金と時間をかけてきた。そして、表向きは竹内一族の繁栄のためとして一族の理解を得て国会議員になったのに、裏ではまだ向日葵畑のことに力を入れている。それらは全て、月姫の仕事がなくても村が成り立つようにするため。……でも、私はやっぱり止められなかった。嘉月や村の人達だけじゃない。私自身だって心のどこかで、人の記憶を奪うことの罪悪感よりも、月姫の力で稼いだお金で得られる、豊かな生活を望んでいたのよ」
「母さん――」
母は急須のお茶を一度捨てて、お茶の葉を入れ直すと、お湯をそこに注いだ。
「でも、菜月は違う。あの子は真月村のあの向日葵畑と、山と太陽と月。全ての自然を心から愛していた。それをたくさんの人に見てもらって、好きになって欲しい。そうすれば、この村はきっと活性化する。そして、鳥井先生に会ってその教えを聞きたいと言って、紫峰大学に入ったの。……たぶん菜月は、竹内家の本家の娘だから、幼い頃から、月姫の仕事のこと、そしてそれで村が成り立っていることに薄々気づいていたんだと思う。だからこそ、いつの日か月姫の仕事を止める方法を考えていたんだ。――でもそれは、もう絶対に叶わない」
母は椅子に倒れるように座り込んだ。遥人は思わず声を荒げた。
「そんなことないよ! 母さんだって、月姫の仕事を止めることを望んでたんだろう? それに、菜月だって、真月村を良くしたいって、そのために鳥井先生にも相談していた。まだその想いは残ってる!」
「もう遅いの! ――菜月の中に、お前との記憶が無くなってしまったから」
母は立ち上がって拳を握った。
「菜月と、僕の……記憶……?」
「月姫と月命の絆が破られると、月命の記憶が変えられるだけじゃなくて、月姫自らが持つ月命との記憶も消えてしまう。そして、これからいくらお前が菜月に近づいたとしても、満月のたびに菜月の中のお前との記憶は失われてしまうんだ。残念だけど、お前の存在が菜月の中にとどまることはない」
「でも……でも、菜月がこの前、僕の記憶を失っていた時、菜月は僕の記憶を取り戻した」
「それは、菜月が月姫になり、お前と出会ってからの記憶だけ。お前が菜月の月命であった記憶は取り戻せない。それに――」
そこで母はじっと遥人を見つめた。
「それに……何?」
そう尋ねると、母はゆっくりと首を振った。
「いいのよ……。もう、時間切れ」
「えっ――」
俯いた母の姿を見つめる。すると、なぜかめまいのようなものを感じ、遥人はカウンターに手をついて体を支えた。
「か……母さん……」
瞼が急激に重くなってくる。徹夜明けに訪れた眠さではない。声を出すのも精一杯だ。瞼を閉じた暗闇の中で、微かに声が聞こえる。
「お前は、お前の記憶を生きなさい。明日になれば、全て忘れるから」
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