(5)

 竹内とティーセットを片付けてから、しばらく居座ったお礼に、そのテラスの周りも軽く掃除をした。気づくと既に夕暮れになり、観光客の姿も無くなっていた。


「猪野くんはこれから大学に戻るんでしょう? 遅くまで引き留めてごめんね」


 竹内が言うのに首を振った。


「大丈夫。夜の方が交通量も少ないし、運転しやすいんだ。都内を通るから、もう少し遅くなって出た方がむしろいいかも」


 遥人が答えると、彼女はそっと頷いた。


「そうだ! せっかくだから、一緒に写真を撮ろうよ」


「えっ……?」


「私のため……でもあるの。猪野くんとここで話したことの証拠に」


 竹内はそこでじっと遥人を見つめた。それは確かに彼女のためでもあるが、遥人は心のどこかでそれに抗おうとする自分を感じる。写真を撮れば、もう言い訳はできないだろう。「よく考えろよ」と言ってくれた大森の言葉を思い出す。


「どうしたの?」


 遥人が黙ってしまったので、竹内が尋ねてくる。


「あ、あのさ」


「何?」


「竹内さんって……付き合ってる人がいるんだよね?」


 すると、彼女は顔を横に向けて少しだけ黙ってから、口を開いた。


「猪野くんは……隅田さんと付き合ってるのよね」


 ストレートに尋ねられてドキッとする。すると、彼女はその心を見透かしたように笑った。


「知ってるわよ。彼女、農学部の有名人だから。この前、農学部の飲み会の時にも楽しそうに話していたし」


「そ、そう……」


 すると、彼女は遥人をじっと見つめた。


「私は、春樹とは付き合っていないよ」


「ハルキ……?」


「体育学部にいる同級生。この真月村出身で、もともとは空手部だったんだけど、怪我をしてからはワンゲルに入ってる」


「えっ……でも」


「誰かから聞いたんでしょう? でも、本当にそうなの。確かに、春樹は幼馴染だし、私の住んでるアパートの近くに住んでいるから、よく一緒にいるけど、それは私の父に言われているだけ。私に変な男が近づかないように、って」


 彼女と一緒にいた体の大きな男のことを思い出す。確かに、体育学部にいそうな大柄の男だったが、前に会った時も遥人の方を睨んでいるような視線しか記憶にない。


「じゃあ……」


 何と尋ねればよいか言葉を選んでいると、竹内はただ黙って頷いた。


「彼と私は付き合っていない。でも、もしかして……猪野くんも本当に隅田さんと付き合ってるの?」


 唐突に彼女に尋ねられて、「えっ」と声を出してしまった。どういうことだろう。自分は友恵と付き合っている。彼女とショッピングモールに行ったこと、車に乗せて出かけたこと、そして彼女の部屋に……。


 そこで、ハッとした。


(僕は……本当に友恵と付き合っているのか?)


 彼女とは、去年、同じ学園祭実行委員会に入り、そこで出会ったことは間違いない。確かに、二人で出歩いた記憶はあるが、よく考えるとそれは実行委員会の仕事の関係で出かけただけだし、連絡を取っていたのも委員のメンバーの一人としてだ。彼女の家に入ったこともないし、恋人同士として二人だけで過ごした記憶もなければ、どうやって付き合い始めたのかも覚えていない。ただ、不思議なことに、今の遥人は友恵と付き合っていると思っているし、周りの知り合いも同じように思っている。何より、友恵もそう思っているし、だからこそ旅行に行こうと誘われていたのだが、そこに何か違和感があったのは事実だ。


 気づくと、竹内の体が一歩近づいているような気がした。


「私……好きなのかもしれない」


 その言葉が聞こえた瞬間、遥人の胸元に彼女の体をしっかりと感じた。竹内は遥人の胸の辺りに顔を埋め、背中に手を回してくる。


「た……竹内さん」


「私、あなたと一緒にいたい。あなたに初めて会った時から、ずっとそう思っていた。私はあなたが好き……だから」


 彼女は遥人の顔を見上げた。


「遥人くん——」


 大きな瞳。そこに遥人の姿が映る。そうだ。遥人も同じことを考えていたのだ。彼女に会った時から、ずっと彼女のことを気にしていた。彼女に薦められた本を読み、この村までやって来たのだってそうだ。そして今日も、彼女に会いたくてこの村まで一人やって来たのだ。


 彼女は遥人を求めている。そして、遥人が求めているのも彼女だ。


「菜月……」


 静かに彼女の名を呼ぶ。そして、彼女の背中に手を回した。全身に彼女の体温を感じる。そして、彼女の大きな瞳に吸い込まれるように顔を近づけた。



******



 辺りは真っ暗になっていた。


 遥人は菜月とともに向日葵畑の奥に入っていた。


「こんなに暗くても撮れるかな」


「大丈夫。やってみて」


 遥人は思い切り手を伸ばす。そして、スマホの画面をタッチした。


 カシャ——。


 撮影音が鳴る。スマホを手元に戻して撮影した写真を確認すると、かなり薄暗い中ではあるが、黄色い向日葵の花と、その前で顔を近づけて笑う遥人と菜月の姿が写っていた。


「やっぱりちょっと暗いかな」


「ううん。大丈夫」


 菜月はそう言って、向日葵畑の中に入っていく。風が吹いて、カサカサと向日葵の葉が擦れあうような音だけが耳に響いている。彼女は背を向けてその向日葵の一つを手に取った。


「向日葵って、いつまでも綺麗に咲くと思うでしょう?」


「えっ?」


「太陽の光を全身で浴びて、元気にその花を咲かせる。……でも、それは夏の間だけなの。気づいているかもしれないけど、9月に入ってからはこの花もどんどん弱っていく。そして、少しずつ枯れていき、冬にはここには何もなくなってしまう」


「でも……また来年になれば花は咲くんだよね」


 そう尋ねると、菜月は少しだけ頷いてから、ゆっくりと首を振った。


「私ね。向日葵が咲けば、この村は元気になると思ってた。向日葵の花がもっとたくさん咲けば、もっともっと良い村になるって。……だけど、私にはまだそう思えない。向日葵は咲いたわ。だけど、村はきっと根本的には昔から何も変わっていないの」


「根本的……?」


 遥人は尋ねたが、菜月はそこで目の前の向日葵の茎を持ったまま、黙ってしまった。すると、急に風が吹いてきた。山から吹き下ろす風が、乾燥した土を舞い上がらせる。思わず両目の前に手をかざして、目を閉じる。


(あれ——?)


 その時、ハッとした。前に、同じような風景を見たことがある気がする。それは、前に夢で見たあの風景だ。長い髪をした女性が向日葵の前に立っていて、その髪を風に揺らしている。今、遥人の目の前に広がっているのは、それと同じような風景だ。


「遥人」


 目の前の彼女から声が聞こえた。


「あっ……うん」


「どうしたの?」


「いや……何でもない」


 そう答えると、彼女はゆっくりと戻ってくる。そして「帰ろうか」と言って、遥人の手を握った。



******



 彼女を車に乗せ、その案内で車を走らせた。向日葵畑からさらに山の方に上がっていくと、立派な門構えが見えてきた。その前で車を停める。


「ありがとう」


 彼女はそう言って遥人の方に笑顔を向けた。そして、車を降りようとして、バッグの中から何かを取り出した。


「はい、これ」


「えっ?」


「私のアパートの部屋の鍵。住所はこの付箋に書いてあるけど、たぶん遥人くんの家の近くよ」


「ど……どうして?」


 そう尋ねると、彼女は「いいから」と言って付箋の付いたその鍵を遥人の手に握らせた。そして、車のドアを開ける。遥人も慌てて車を降りた。


 彼女は門の前に立ち、その門柱の一部分に触れると、その隣の鉄のドアがガチャという音を立てて開いた。彼女はそこから中に入り、門の鉄格子の向こうに立つ。すると、ジャリジャリという音が聞こえてきて、暗闇から真っ黒な大きな犬が姿を現した。


「カイ!」


 彼女がその名を呼ぶと、その黒い犬は嬉しそうに尻尾を振った。


「利口そうな犬だね」


 そう声を掛けると、犬がこちらを見た。その目が真っすぐに遥人を見つめている。その視線が余りにじっと見つめているので、ふと吠えられそうな感じがした。しかし、その犬はこちらを見て、僅かに尻尾を振っただけで、全く動かない。


 それに菜月も気づいて、犬の視線の先にある遥人と目が合った。彼女の大きな瞳が今度は遥人を見つめる。


「不思議……。この子は、知らない人には凄く吠えるのに」


 犬の方に再び顔を向けて撫でてから、彼女は立ち上がった。その隣で、黒い犬もそれを見上げる。「ねえ、遥人」と彼女が口を開いた。


「かぐや姫って、知ってるでしょう?」


「えっ……あの、昔話の?」


 そう尋ねると、彼女は小さく頷いた。


「その話でね。月からの迎えの使者が来て、彼女が月の服を着せられると、この世界の記憶を全部忘れてしまうという場面があるの。月からの迎えの人が言うには、月の世界がいわば天国で、この世界がけがれているからなんだって」


「そう……なんだ」


「でも、この世界は、本当に穢れているのかな?」


「えっ——」


「誰もが望ましい世界なんてあり得ない。それはきっと、理想郷でしかない。そんな世界は偽物。だけどこの現実世界では、悩んだり、悲しんだり、辛い現実に直面するから、そういう記憶を乗り越えるために、私達は支え合い、愛し合う。だからこそ、この世界は本当の意味で美しいんだと思う。……でも、もし月の人達のように、かぐや姫自身もそのことに気づかずに、単にこの世界が穢れていると思って去ってしまったとしたら、可哀想だと思うの」


 彼女は遥人を真っすぐに見つめて口をつぐんだ。彼女の表情は真面目そのものだった。しかし、急に持ち出されたその話に頭がついていかない。


「遥人は……かぐや姫の事を、可哀想だと思う?」


 しばらくして菜月が口を開く。


(カワイソウダトオモウ——?)


 その言葉を心の中で反芻はんすうする。すると、不思議なことに同じような事を誰かに尋ねられたことがあるような気がした。しかし、それは彼女である筈がない。彼女とこんなに話をしたのは今回が始めてなのだ。では一体、誰に尋ねられたのだろう。


「その話は、一体……」


 精一杯そう聞き返す。すると彼女は、しばらくして首を振った。


「ごめんね。変な事を言って。何かちょっと疲れたみたい。……今日はありがとう。また、連絡するね」


 鉄の門扉の向こうで、菜月は「おやすみ」と手を振ってから背中を向けた。彼女の後ろから、黒い犬が黙ってついて行く。その姿は、程なく暗闇の向こうに消えていった。

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