(4)

 遥人は駐車場の端の方に停めた車の中で仮眠していた。さすがに早朝から運転してきたので疲れが出ていた。ちょうど曇っていて、少し開けた窓からは風が通って心地よい。竹内に会えた安心感もあり、ぐっすり眠ってしまったが、トントンと窓を叩く音で目を覚ました。見るとそこに、竹内が立っている。慌てて起き上がり、車の外に出た。


「ごめんね。起こしちゃって」


「大丈夫。もう昼?」


「午後の3時よ。よく寝てるみたいだったから起こしにくくて」


 竹内はそう言って笑った。その笑顔に心の底からホッとする。すると、竹内はビニール袋を差し出した。


「お店で売ってるお握り弁当。ご飯食べてないでしょう?」


「あっ……いいよ。別に」


「いいから。こんな所まで来てくれたお礼」


 竹内は強引に遥人に袋を持たせるので、「ありがとう」と頭を下げた。


「この辺りって、ファミレスみたいにゆっくりできる場所がないのよね……。あっ、そうだ。ちょっと車に乗せてもらえる?」


 そういう彼女は、助手席の方に回って、ドアを開けた。遥人も慌てて車に乗り込み、エンジンをかける。そして彼女の案内のままに車を走らせていくと、すぐに車を停めた。そこはあの向日葵畑の駐車場だった。車を降りた彼女の後ろからついていくと、朝に竹内のことを尋ねた店のドアを彼女は開けた。


「いらっしゃい……あら?」


 店の窓を拭いていた女性が振り返った。


「こんにちは、おばさん。ちょっと外のテラス席を借りていい?」


「ええ、もちろん。ゆっくりして」


 女性は少しだけ遥人の方を見て笑顔で答えた。竹内はそれに頭を下げると、「こっち」と言って店の外に出た。


 店の裏側は、手作りのような木造のテラスがあり、屋根といえるほどではないが遮光シートのようなものが掛けられていて、その下は日陰になっている。そこにテーブルが3つほど置いてあり、その周りに無造作に椅子も置かれている。そこには誰もおらず、その一つの椅子に竹内は腰掛けた。


「ここって、涼しくて気持ちいいの。猪野くんもそこに座って」


 竹内が示した椅子に座ると、ちょうど彼女と向い合せになった。やや恥ずかしくなり、気を紛らわせるために、先ほど貰ったお握り弁当のパックを開けて一口食べた。


「お、美味しい。ありがとう。本当はお腹空いてたから」


 そう言うと、竹内は嬉しそうに頷いてから、身を乗り出して尋ねた。


「それにしても、よくこんな所まで来てくれたね」


「ごめん。竹内さんに連絡しようと思ったんだけど、スマホをなくしちゃってデータも消えちゃったんだ。だから、生協の人に僕のことを伝えてくれるように頼んだんだ。生協の人には実家に帰ってるって聞いたから、どうせならここまで来てみようと」


「それって……普通なら軽いストーカーよ」


「ご、ごめん……」


 深く頭を下げてから再び顔を上げると、竹内はフフっと笑ってこちらを見ていた。


「冗談よ。それで、この前もここに来てたの?」


「そう。その時にスマホを失くしちゃって」


 若者たちに囲まれて奪われたという話は避けたが、その時に見た向日葵畑の風景、朝晩の風景、そして村人の優しさにも助けられたという話をした。


「雨宮さん……?」


 雨宮夫妻に助けられたという話をしたとき、彼女は怪訝そうな顔をした。


「そうだよ。奥さんの方が、昔、竹内さんの小学校の担任をしてたって」


「そう——」


 彼女はそこで少し黙ってしまった。


「覚えてない?」


 そう尋ねると、彼女は首を振った。


「ううん。それで、他には何か?」


「役場で、村長さんに会って、話しかけられたんだ。あれって、竹内さんのお父さん?」


「ええ、そう。……でも、ちょっと意外ね。普段のお父さんは、あんまり気軽に話をするような人じゃないから」


 竹内はそう言って素直に驚いたようだった。その時、店の方から先ほどの女性がやってきた。


「ごめん。ちょっとお邪魔だった?」


 女性は竹内の方に笑いかける。


「ち、違うの。久々に会ったからいろいろ話をしているだけ」


「ふうん……いいわ。これ、ブルーベリーのジェラート。せっかくだから食べていって」


 紫色のジェラートを乗せた白い皿を、女性は遥人と竹内の前に置いた。「ありがとうございます」と遥人も頭を下げる。


「じゃあ、ごゆっくり」


 女性はそう言って、店の方に戻っていく。


「あの人は、私のおばさんの美歩さん。死んだお母さんの妹なの」


「えっ? お母さん……そうなんだ」


「うん。お母さんは私がまだ幼稚園の頃に死んだの。だから私、おばさんには小さい頃から結構お世話になってるの」


「そう……」


 竹内は顔を横に向けた。その方角には普段なら南アルプスの山並みが見えるはずだが、今は雲に覆われてほとんど見えない。


「実はさ。僕も、小さい頃にお父さんを亡くしているんだ」


 えっ、と竹内がこちらに顔を向けた。


「漁師だったんだけど、事故で死んだらしいんだ。僕も幼稚園の頃だったみたいだから、全然記憶にないんだけどね」


「そうなの……。私達、なんだか似てるね」


 竹内がじっとこちらを見つめた。遥人もその視線を見つめ返したが、彼女はハッとしたように俯いた。そして、「せっかくだから食べようよ」と言って、ジェラートを口に運ぶ。遥人も同じようにスプーンでジェラートをすくって口に入れた。甘酸っぱい味が冷たい雫になって口いっぱいに広がる。素直に、「美味しい」と言うと、彼女も笑顔で頷く。その時、ふと、彼女の右手でキラッと何かが光っているような気がした。


(指輪……?)


 そう思ったが、あまり注目しすぎるのもどうかと思い、そのままジェラートを食べ進めていった。


 食べ終わると、竹内は遥人の皿も一緒に店内に片付けに行った。遥人は一度立ち上がり、空を見上げる。広がっていた雲が途切れはじめ、その隙間から薄い光が差し込んできている。その光を受けて、目の前の畑に咲く向日葵も、明るい黄色に変わったような気がした。


 しばらくして、竹内はティーポットとカップ2つをトレーに乗せて戻ってきた。


「もう夕方で涼しくなるから、温かい紅茶ね」


 そう言って彼女は椅子に座り、カップに注いでいく。やや赤みがかった茶色の液体が白いコップを満たすと、竹内は遥人の前にそのカップを置いた。


「それにしても、不思議よね」


「えっ?」


「私、猪野くんに自分の連絡先も渡していたのに、あなたのこと、全く忘れていたってことでしょう?」


「うん……まあ」


 遥人が答えると、竹内は静かにため息をついた。


「私ね。たまに不安になることがあるの」


「不安?」


「私……病気かもしれない」


 彼女は再び顔を横に向けた。どう声を掛けてよいか分からず、遥人はじっと彼女を見つめる。すると、彼女は黙って首を振った。


「ごめん。こんな話をして」


「いいよ。でも、一体、どういうこと?」


「私は、今日あなたに会うまで、あなたのことを忘れていた。そして、あなたがさっき教えてくれた雨宮っていう先生のことも、正直まだ思い出せないの。……ううん。その他にも同じようなことがいくつかある。最近、気が付くと、私の中の大切な記憶が、少しずつ少しずつ、抜け落ちているような気がするの」


「まさか——」


 驚いてそこで言葉を失ってしまうと、彼女はこちらを向いた。


「私はこれからもっと忘れてしまうかもしれない。それに、今回は思い出せても、次も思い出せるとは限らないわ。だから……私は、それがたまらなく不安なの」


 彼女はテーブルの上で両手を組んだまま、そこで俯いてしまった。その長い髪を、山からの風がサラサラと揺らしている。彼女は泣いている。いや、涙は出ていないのだが、心の中で泣いているような気がした。確かに、記憶を失うような病気はあるかもしれない。しかし、それはただ進行するだけとも限らない。その証拠に、遥人のことをさっきまで忘れていたのに、今は思い出してくれている。


「ごめん……おかしいよね」


 彼女が俯いたまま呟いたので、思わず身を乗り出した。


「だ、大丈夫だよ!」


 遥人は元気に声をかけたつもりだった。しかし、いつの間にか、テーブルの上で組まれた竹内の両手の上に自分の手を重ねていた。彼女の手の温もりが急に伝わってくる。


「あっ……ご、ごめん」


 慌てて手を放して椅子に座り直す。すると、竹内はテーブルの上に置いたままの自分の手をじっと見つめてから、遥人の方に顔を向けた。


「猪野くん……。もう1回、手を出してくれない?」


 ドキッとした。しかし、彼女は遥人の方をじっと見つめている。自分の胸の高鳴りをしっかりと感じながら、その手のひらを上にしてテーブルの上に置いた。すると、竹内はその手の上にそっと自分の手のひらを重ねる。


「温かい——」


 竹内の手の温もりが遥人の心の奥まで伝わるような気がした。胸の鼓動を感じながら、その重なった手をじっと見つめる。そして、恐る恐る竹内の顔を見上げた。


(竹内さん……)


 彼女は目を閉じていた。風にその長い髪を揺らされながら、穏やかに眠るような表情をしている。それは、まるで何かの物語に出てくるお姫さまのような美しさだ。そして、そのすぐ目の前にいる彼女に、しっかりと手を握られている自分。


「菜月ちゃん、帰るよ」


 その時、後ろから女性の声が聞こえた。ハッとして振り返ると、道路を挟んだ向こう側の駐車場から、先ほどの女性が手を振っていた。すると、竹内は遥人の手に重ねていた手のひらをパッと離した。


「あっ……は、はい!」

 

「ティーセットは片付けておいてね」


 女性は明るくそれだけ言うと、車に乗り込み、すぐに走り去ってしまった。

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