2 予知夢
(1)
気づくと8月も中旬になっていた。母が帰ってからも、バイトと実行委員会の仕事の繰り返しが続いていた。友恵も、お盆前くらいから1週間ほど帰省していて、しばらく会っていなかったが、実家の方で家族や友人たちと楽しんでいるらしい。スマホには何度も、写真やメッセージでその様子が送られてきていた。
その日、午後になり委員会の仕事を終えてから図書館に向かった。友恵と予定していた旅行だが、彼女は東北の方に行くことを考えているらしい。海沿いの場所に行きたいということで、いくつか候補も挙げられていた。遥人も東北の方にはほとんど行ったことがなく、よく分からないので、旅行雑誌でその候補の辺りを調べてみようと思ったのだった。
しばらく図書館で雑誌を眺めているとイメージも出来てきたので、気になった場所をスマホにメモする。そして、図書館を出ようとした時、ふと立ち止まった。
(そうだ。鳥井先生の本を探そうか)
9月の終わりには、鳥井先生の来年のゼミ説明会があるのだ。まだ先とは言え、そのゼミに入ろうと考えるならば、先生の書いた本をもっと読んでおいた方が良い。最近、バイトと委員会の活動ばかりしていたので、勉強は何もしておらず、さすがに本くらいは読もうという気がしていた。
図書館の書籍検索システムで調べてみると、鳥井先生の書籍は3階の辺りにまとまっている。そこで階段を上がって行った。
3階は社会科学系の書籍が並んでいた。ちょうどお盆前の時期というためか、学生の姿はほとんどない。この前の試験前は一杯だった自習スペースも、今日はガラ空きだ。
奥の方に進んでいき、本棚の表示と番号を確認しながら、通路から本棚を曲がった時だった。
そこに1人の人間が立っていた。やや茶色がかった長い髪の女性だ。
(この子は……)
鳥井先生から頼まれて資料を届けた、あの生協の竹内という女子学生だと思った。今日は茶色の縁の細い眼鏡をかけているので、断定はできないが、何となく似ている気がする。彼女は本を手にしてじっと読んでいる。社会学部の学生だろうか。社会学部は毎年約百名が入学するので、同級生なら今は大体分かるが、上級生や下級生になると自信がない。鳥井先生の講義に出るくらいだから、社会学部の学生なのだろうが、彼女の顔は記憶にないので、少なくとも同級生ではない。
遥人は本棚で鳥井先生の名前を探していく。すると、ちょうど彼女が立っている辺りに先生の名前を見つけた。
「すいません」
そう声を掛けて彼女の前に手を伸ばす。しかし彼女は微動だにせず、そのまま立っている。遥人も彼女の隣に立って、手にした本を開く。
(あの子……だよな)
彼女はかなり集中して読んでいるようだ。一体、どんな本を読んでいるのだろうと気になり、体を少し屈めて彼女の持っている本のタイトルを覗き込む。
その時、彼女が急に遥人の方に顔を向けた。
「あっ——」
思わず声を出して、慌てて手にした本に視線を戻す。しかし、彼女がこちらの方を見ているのが視界の端で確認できた。
胸がドキドキする。彼女の表情は分からないが、遥人を睨んでいるような気がした。この前、彼女の手を掴んだことを思い出したのではないか。
「あの……」
「は、はいっ! あ、あの時はすみませんでした」
勢いよく彼女の方を振り向いて頭を下げた。この前、彼女の手を握ってしまったことも何かの間違いなのだ。今、彼女の読んでいた本のタイトルを覗いたのだって、やましい気持ちは無い。
「えっ? あの時、って……」
彼女は静かに尋ねる。睨んでいる訳ではなく、不思議そうに遥人の方を見ていた。
「あ、あの……前に、鳥井先生の資料を生協で渡したんですけど」
「ああ……どこかで会ったと思ったら、そうですよね。この前はありがとうございました」
彼女は嬉しそうに言った。その様子を見て、ようやく遥人も胸を撫で下ろす。
「社会学部の学生なんですよね?」
「僕? そ、そうです」
「いいですね。私、農学部なんですけど、鳥井先生の本を読んで社会学に興味を持ったんです。それで、鳥井先生の講義も受けてみたら、結構面白くなって。それで先生に色々と聞いたりしていたんです。今日は先生の本を探しに来たんですか?」
「あっ、そうです。9月に、来年の鳥井ゼミの説明会があるから、それまでに少し読んでみようかと」
「ふうん。来年……? ってことは、2年生ですか」
「そうです。2年の猪野と言います」
「イノ?」
「あの……猪に、野原って書くんですけど」
そう説明すると、彼女はじっとこちらを見つめた。大きな瞳が怖いほどに遥人に向かう。
「ど、どうかしました?」
たじろぎながら尋ねると、彼女はハッとしたように首を振った。
「ごめんなさい。……私も2年なんです。農学部の竹内と言います」
彼女はそう言って頭を下げて、遥人に微笑んだ。
「鳥井先生の講義って、面白いですよね。なんて言うか、地域に入り込んで、よく調べてるなあって。机上の空論じゃなく、本当にその地域に根差してる感じがするんです」
「あっ、確かにそうですよね」
「そうそう。まだ本を探しているなら、私、おすすめの本がありますよ」
彼女はそう言って手にしていた本を差し出した。
「これです」
彼女は遥人にその本の表紙を見せる。タイトルは『地域活性化の社会学』と書かれていて、かなり分厚い本だ。
「この本は、私が社会学に興味を持つきっかけになった本なんです。実は、この本の中に私の出身地が出てくるんです。凄い田舎なんですけど」
言いながら彼女はページをめくっていく。そして、遥人の横に並んで、そのページを見せた。彼女から何かの香りが漂ってきてドキッとする。
「真月村っていう所なんです。もう20年以上前から、先生は研究しているみたいなんですよ」
そこでふと彼女は遥人に顔を向けた。彼女の大きな瞳が、間近から遥人の方を真っ直ぐに見つめる。すると、急に全身に鳥肌が立った。
(何だ……これは)
反射的に一歩足を引く。その時だった。
「菜月、どうした?」
後ろから声を掛けられた。振り向くと、そこにがっしりとした大きな体の若い男が立っている。睨むようなその視線にドキッとした。すると、彼女が答える。
「ううん。何でもない」
「ふうん……。じゃ、そろそろ行こうぜ」
男はそう言うと、遥人の方に再び顔を向ける。すると、彼女は手にしていた本を閉じて、遥人に渡した。
「じゃあ、これ。読んでくださいね」
彼女はそう言ってから軽く頭を下げて、遥人から去っていく。その横でさっきの男が並んで歩いていった。
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