(8)
母が来る日になった。前日のバイト明けに昼まで仮眠してから、車で駅まで迎えに行く。待ち合わせ場所にした駅の改札口の辺りで待っていると、グレーの小さめのスーツケースを引きながら母が姿を現した。
「元気そうじゃない」
母がそういうのに「うん」とだけ答えてから、駐車場に歩き出した。母はクリーム色の帽子を被り、茶色のワンピース姿だ。久々に会ったためなのか、母の顔が少しやつれたような気がする。
「ご飯、食べた?」
「まだよ。どこか適当に連れて行って」
そう答えた母に頷き、車に乗り込んでから少し走り、近くのファミレスに入った。
タッチパネルで食事を注文してから、母はドリンクバーで持ってきた紅茶を一口飲む。遥人もコーラをゴクっと飲んだ。
「この辺りって結構都会なのね。もっと大学しかない場所だと思ってたけど、意外ね」
「もう数十年前だけど、鉄道の路線ができるまでは、もっと何も無かったらしいよ」
そう言うと、母は頷いてから紅茶のカップに口を付けた。
「それより、どうして今日は電車で来たの」
「えっ? だって、電車の方が便利だから」
「遠回りなんじゃない。東京経由だから」
千葉県の東端にある千子市から電車で来る場合、一度東京に出てからこちらに向かうことになる。母は車の運転もするので、車で来るのかと思っていた。
「ああ、別に——。そんなことないよ」
母は静かにそう答えた。するとその時、ちようど店員がやって来た。
「お待たせしました。シーザーサラダでごさいます」
そこにはそこにはファミレスの制服を着た友恵が立っていた。彼女は母の方をチラッと見る。
「遥人のお母さん……ですよね」
「えっ? あっ……ああ。そうです」
「ご無沙汰してます。前に犬ヶ崎の海で濡れた時に着替えを借りた隅田です。あの時はお世話になりました」
友恵は母に深く頭を下げた。母はやや驚いたように友恵の方に体を向ける。
「ま……まあこれは、丁寧に。大丈夫ですから」
顔を上げた友恵は母に笑顔を向けてから、遥人の方を向いた。
「来てくれてありがとう」
「うん。さっき着いたところ」
「どこかこれから連れていくの?」
「いや……まあ、筑波山とかかなあ」
「何それ! せっかくだから、もっと遠くまで行けばいいのに」
「でも、どうせ今日明日だけだから」
「しょうがないわね。まあ、せめて何か少しサービスしてあげる。……どうぞごゆっくりしてくださいね」
友恵が母に向かって言うと、母は立ち上がった。
「こちらこそ。遥人をよろしくね」
母は笑顔でそう言って友恵の方を見つめた。友恵も母の方に顔を向けていたが、そのままじっと母の方を見つめている。
「お母さん——」
そう呟いた瞬間、すぐにハッとしたように「すみません」と頭を下げると、友恵は足早にキッチンの奥に戻っていく。母は椅子に座り直して紅茶の入ったカップに口をつけて、友恵の去った方を見たまま尋ねた。
「彼女……だっけ?」
「い、いや……まあ」
「ふうん。可愛い子じゃないの」
母は笑ってから、フォークでサラダを口に運んだ。母は小料理屋で地元の中高年を相手にしているので、下世話な話題でも全く平気なのだ。だから、昔から息子の女性関係にもかなり口を挟んでくる。
しばらくして、友恵がメインのハンバーグランチを運んで来た。サービスなのか、ライスの量が相当多い気がする。少し食べ進めてから母に尋ねた。
「母さんの方も変わりないの? 最近、店はどうなの?」
「そうね……まあ」
母はそこで再びカップに口をつけてから、遥人の方に笑顔で尋ねた。
「それで……さっきの子の名前は、何て言うの?」
******
ファミレスを出てから、予約していたホテルに母を連れて行った。フロントでチェックインしようとした時、母が言った。
「悪いけどさ。ちょっとトイレ行きたいから、私の名前と住所を書いておいてよ。これはホテル代」
「えっ……ああ」
母から一万円札を受け取ると、母はすぐに行ってしまったので、仕方なくフロントでボールペンを持って母の名前と実家の住所を書く。フロントの男はそれを受け取ると、かわりにカードキーを渡してきた。ほどなく戻って来た母にカードキーを渡す。
「これからどうする? 筑波山にでも行ってみる?」
「そうね……。それもいいけど、まずはお前のアパートでも見学に行こうかな」
「マジ……?」
「別に何か探すつもりはないわよ」
母は「荷物だけ置いてくる」と言って、スーツケースだけを引いて去っていった。しばらくして戻ってきた母は、「行こうか」と笑顔を向けた。
車に乗り込み、大通りを進んで学生アパート街に入っていく。その一角にある2階建ての自宅アパートの駐車場に車を停めた。車を降りて階段を上がり、2階の部屋の玄関のドアを開けた。
「へえ……意外に綺麗にしてるじゃないの」
母は関心したように言って、端に置いたベッドマットに腰掛けた。母はそこで部屋の中を見回していく。
「ちゃんと授業には出てるの?」
「もちろん……大体は」
母は「いいわね」と言って立ち上がり、テーブルの上に置かれた本を手にする。社会学の講義に使っていた鳥井先生の書いた霞ヶ浦の研究の本だ。
「へえ、霞ヶ浦の……」
そこまで言ったところで、母は本の表紙を見つめたまま黙ってしまった。
「どうしたの?」
遥人が尋ねると、母はハッとしたようにこちらを向いた。
「えっ……ああ、何でもない」
母は手にしていた本をテーブルの上に戻す。
「それにしても、残念だわ」
「えっ? 何が?」
「彼女と撮った写真の1枚でもあるのかと思ったのに」
母はそう言って楽しそうに笑った。
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