(3)
ランチの後、遥人は午後からの社会学の講義に出るため、第一学部棟に戻っていた。
社会学部では、3年生からいずれかの教授のゼミに入らねばならない。そのため、2年生向けに、ゼミの説明会も始まりつつある。遥人は今日の講義を行う鳥井教授のゼミに入ろうと考えていた。教授は、現場の人々や地域の調査を重視していて、身近に感じたのが理由だ。そのゼミの説明会は夏休み終盤の9月に予定されているのだが、今日は夏休み前の最後の講義となるため、その講義をサボる訳にはいかなかった。
60人ほどを収容するやや広めの教室には、開始10分前にはかなりの学生が入っていた。中程の席に知り合いの顔を見つけて隣に座る。
「早いね」
「そりゃ、夏休み前は今日で最後だしな」
そう答えた前口は、ノートと筆記用具をリュックから取り出した。彼は社会学部の同級生で、同じ鳥井ゼミに入る予定だ。
「楽しそうだったじゃないか」
「えっ? 何が」
「いいよなあ。女子2人に囲まれて、さぞや楽しいランチだっただろ」
「も、もしかして……二学の学食にいた?」
「県人会のヤローだけでな」
そこで前口はハアと大きくため息をついて、横から肘で突いてきた。
「お前、いいかげん誰か紹介しろよな。学園祭実行委員は女子も多いんだろ?」
「そ、そんなこと……ないと思うけど」
遥人もノートと筆記用具を出しながら答える。前口は悪い奴ではない。頭も良いのだが、かなりのあがり症で、特に女子と話をするのが苦手なのだ。それでも彼女が欲しいという気持ちは強いので、なかなか難しい。
「頼むぜ。期待してるかならな」
前口の言葉に頷いてから、リュックから書籍を取り出してテーブルの上に置いて準備する。しばらくして、鳥井教授が教室に入ってきた。完全な白髪の彼は、おそらく60歳前後だろうが、とても穏やかな人物だ。教授が持ってきたモバイルパソコンを、最前列にいた学生がプロジェクターに繋いで前方に資料が映し出される。教授はパソコンを操作しながら講義を進めていく。
今回は霞ヶ浦と近隣の地域住民との関係性についての考察のようだ。歴史的な考察から現代への流れの中で、人間と霞ヶ浦という湖がどのように関わっているのか。先生なりのフィールドワークを交えながら、一つの分析をしていくのを興味深く聞いていた。
講義が終わると、いつものように感想を書いていく。シャーペンで書いていくのだが、午前中の試験でも大量に文字を手書きしたので、まだ指先に疲れがある。しかし、あまりに書かない訳にもいかないので、頑張って書いていると、隣の前口は「先に行くぞ」と言って教室を出ていった。
遥人が書き終わった頃には、教室には5人ほどしか残っていなかった。先生の立つ教壇の前に置かれた箱に感想用紙を入れる。
「ああ、ちょっと。猪野くん」
鳥井先生が声を掛けてきた。先生とはあまり話したことは無かったと思うが、呼びかけられたので立ち止まって先生の方に顔を向ける。
「ちょっとお願いがあるんだがね」
「はい。何でしょうか」
そう尋ねると、先生はそこにあった手提げ袋の中から、A4サイズの1通の封筒を取り出した。
「これを届けてほしいんだ。竹内くんという女子学生なんだが」
「竹内……ですか」
「今日の講義には出られないと聞いていたんだが、早めに渡したくてね。私は明日からしばらく出かける予定があるから、悪いんだが君から渡してくれないか」
「僕からですか? でも……僕はその子を知らないんですが、どうやって渡せば」
「彼女は、第二学部棟の生協でバイトをしているんだ。しばらく出かけていてこっちにいないようなんだが、あと数日したらバイトに入るらしい。だから、君が生協に持っていって彼女に直接渡してほしいんだ。大事な資料だから」
先生はそう言って封筒を遥人の方に差し出した。封筒は封をしてあるが、中身は何かの資料なのか厚みは無さそうだ。先生が自ら依頼してきたことを強く断る理由もないし、先生がそこまで知っている学生なら、封筒を渡せば分かってくれるだろう。遥人は「分かりました」と言ってその封筒を受け取った。
「じゃあ、頼んだよ」
鳥井先生はそう言って遥人の肩を手でポンと叩いた。
キイン——!
その瞬間、強い耳鳴りがした。体がよろめくような気がして、思わず教壇に手をついて体を支える。
「おっと……大丈夫かい?」
先生が驚いた顔を向ける。それに「大丈夫です」と答えると、先生に一礼して教室を出た。廊下に出てからしばらくして立ち止まると、腕に鳥肌が立っている。今日はかなり気温も高いはずであるが、やはりおかしい。ここ最近、詰め込みの試験勉強でやや寝不足になっていたので、試験も終わった安心感もあって体調を崩してしまったのかもしれない。学生達がザワザワと行き交う廊下を、遥人は封筒を持って早足で歩いた。
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