1 向日葵
(1)
近くで電子音が聞こえていた。その場所に手を伸ばし、薄目を開けてそれを確認する。スマホの画面には朝8時の表示が出ていた。
ゆっくりと体を起こしてから背伸びをした。頭の後ろの方で扇風機が回っていて、僅かに生温い風を送ってくる。背中に汗を感じてやや不快感があり、枕元にあったリモコンでエアコンを作動させた。
薄いカーテンからは既に外の陽射しが入ってきている。猪野遥人は部屋の端に置いたマットレスから立ち上がり、キッチンのシンクで顔を洗った。
その部屋は8帖の1Kで、玄関から入ってすぐの場所にユニットバスがあり、その反対側がキッチンになっている。その奥がリビングルームになっているのだが、ベッド替わりにしているマットレスとダイニングテーブル兼勉強机としている80センチ四方くらいのテーブル、それに3段の本棚が2つあるだけなので、かなり広い感じがする。クローゼットの中にも衣装ケースはあるが、あまり衣服にこだわりもないので、それほど詰まっている訳でもない。
冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに注いで一気に飲み干した。喉元からその冷たい感覚が奥までしみわたっていく。その爽やかな感覚のまま、パンをトースターに入れた。そして、スマホでラジオをかける。
『7月24日、月曜日の朝。皆さま、いかがお過ごしでしょうか』
キャスターの明るい声が聞こえてきた。壁に掛けられた小さなカレンダーに顔を向ける。
(ようやく試験も終わりか)
そう思うと、かなり気持ちが楽になった。今日の試験さえ終われば、講義はいくつか残っているが、明日からは事実上の夏休みになる。紫峰大学の夏休みは、8月と9月の2か月間だ。今日は午前中に法学の試験がある。ただ、試験と言っても、担当教授の方針で資料持ち込みは自由なので、とにかく関連する内容を書くという作業だ。遥人は、他の多くの学生と同様に、1学期の間はその講義にはほとんど出ていない。しかし、既に、友人からもらった毎回の講義のノートの写しも確認しているし、その内容に触れながら書けばよいのだ。担当教授も「関連する内容を論理的に書くことが大事」という考え方なので、とにかく試験に出て、自分なりに書けば大丈夫だろう。
ペットボトルのコーヒーとパンだけの簡単な朝食を済ませると、遥人は外に出た。日陰とはいえ、蝉の元気な声が響き、すでに気温もかなり高そうだ。背負ったリュックに入れたファイルや書籍の重さを感じながら、1階に下りる階段の方に歩き出すと、表の駐車場に引っ越し業者のロゴのついた小型トラックが停まっているのが見えた。
(こんな時期に引っ越し?)
学生にしては夏のこの時期に珍しいと思いながら階段を下りていくと、ちょうどトラックの荷台に青色のスポーツタイプの自転車を積み込んでいて、トラックの脇に帽子を深く被った中年の男が立っていた。やはり学生ではなさそうだ。
「これで全部ですね」
尋ねる業者の近くを通りながら何気なくトラックの幌の中を覗くと、さほど荷物は入っていない。中年の男は黙って書類のようなものにサインする。その時、その男が急に遥人の方を向いた。男の鼻の横には目立つホクロがあったが、彼と目が合った遥人は慌てて顔を背けて歩いていく。すると、背中の方から業者が「それではお預かりします」と言う声が聞こえた。
大学の方に向かって歩きながら、少し前の事を思い出していた。まだ1週間ほど前のことだったと思うが、ショッピングセンターの方に自転車で買い物に行ったときに、駐輪場に停めて鍵をかけていたと思うのだが、買い物を終えて戻ってくると自転車が無くなっていた。高校時代から乗っていて変速ギアも何段もあるスポーツタイプの自転車で気に入っていたので、残念ではあったが、それ以降、大学には徒歩で通学するようになっていた。
紫峰大学は南北4キロ、東西2キロと言われる広大な敷地に立地していて、その中に学部棟や図書館、そして学生宿舎などの各種施設が点在している。その広大な敷地を「ペデストリアン」という歩道が南北に通っている。長いので通称ペデと呼ばれているのだが、そこを通って学生たちは学内を移動している。学内を周遊する車道もありバスも通っているのだが、ペデを自転車で移動するのが最も効率が良い。
遥人の住むアパートは、大学敷地のすぐ西側に位置しているが、その辺り一帯は昔から学生向けのアパートが密集している地域らしい。自転車通学がより早くて快適であることは確かだが、講義が行われる学部棟の辺りまでは、ペデを通って徒歩でも15分ほどで着くことができる。それが分かったので、改めて自転車を買うことは今は考えていなかった。
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