満月を見上げる君との約束
市川甲斐
プロローグ
夕方になり、辺りは一層暗くなっていた。
空が厚い雪雲に覆われているのも暗さに拍車をかけているようだ。昼頃はボタ雪だったのが、今では粉雪に変わり、その降り方も強くなっている。私は車で山中の舗装されていない道を進み、その行き止まりの林を切り開いた場所で車を停めた。助手席に置いた食料品の入ったエコバッグを持って、車のドアを開ける。
その瞬間、冷たい空気が顔を刺した。吐いた白い息がはっきりと見える。12月も終わりに近づき、この辺りは益々寒々しくなっている。初雪は1週間程前に一度降ったが、ほとんど積もらなかった。しかし、車のラジオで流れた天気予報では、この辺り一帯で明日の朝まで雪が続きそうだと伝えていた。この感じだと、この冬初めての本格的な積雪になるだろう。
平屋のリビングの窓からは明かりが漏れている。玄関の茶色のドアを開けて、「ただいま」と声を掛けた。
「おかえりなさい」
中から女の子の返事があった。玄関には薄い茶色の子供用の長靴が、綺麗に揃えて置いてある。私はその隣の端の方に、履いていた靴を脱いだ。
短い廊下を進み、リビングの引き戸を開けると、1人の少女がクリーム色のソファに座り、膝の上に1冊の本を開いてじっと読んでいた。「ただいま」と声をかけながらそこに近寄っていく。
「またその本を読んでるの?」
私が声を掛けると少女は顔を上げる。頭の後ろの高い場所で縛った長い黒髪が、彼女の後ろで揺れた。すると少女は、「ねえ、ミーちゃん」と私に声を掛けてきた。
「私、『かぐや姫』って、嫌い」
「嫌い?」
「ううん。かぐや姫本人は好きよ。だけどこの『かぐや姫』の話が嫌い。かぐや姫が本当にかわいそうになるから」
「かわいそう……かな?」
「だって、かぐや姫は、この世界で暮らした自分の記憶を忘れさせられて、月に帰っちゃうんだよ。自分を好きだと言ってくれる男の人達だけじゃなく、育ててくれたお爺さんやお婆さんのことも全部。そんなのひどい。かぐや姫が、かわいそうだと思う。どうして、こんな話にしたんだろうね」
彼女は真顔でこちらを見つめている。
「それって確か、この世界の人間たちの心が卑しいからっていう理由じゃなかった? 美しい月の世界に戻るのに、そういう嫌な記憶は忘れなければならないって」
「でも、お爺さんとお婆さんは、かぐや姫のことを大切に育てていたんだよ。それも嫌な記憶なの?」
「嫌な事もあったんじゃないの」
私はやや面倒になり、そう答えながら、キッチンの方に歩いていき、エコバッグをシンクの隣に置いて手を洗った。そこから彼女の方を見ると、それに納得できないような様子で再び黙って本を見つめている。その本は、この家にあった古い本で、「かぐや姫」の昔話がほぼ原文に近いと言われる内容で書かれている。所々に挿絵が入っているが、漢字には振り仮名もなく、彼女くらいの年齢の少女が手にするにはまだ早そうな感じがする代物だ。彼女がいつその本を見つけたのか定かではないが、最近では彼女がこの家に来た時には、きまってその本を読んでいるような気がした。
「あのね……私、『かぐや姫』の話でね。最近思うことがあるんだけど」
少女が尋ねる。私はエコバッグから食料品を取り出しながら、声だけで応えた。
「何?」
「かぐや姫は……本当に月に帰ったのかな?」
えっ、と思わず声が出た。顔を上げて彼女の方を見ると、2つの大きな瞳が真っすぐにこちらを見つめている。
「それって、どういう……」
聞き返そうとした時、玄関の方から「ただいま」という元気な声が聞こえた。続いてバタバタと廊下を走って来る音が近づき、リビングの引き戸が勢いよく開いた。
「寒い寒い!」
そう言って入ってきた少年は、ソファの近くにあるヒーターの前に走って行くと、座り込んで送風口の近くに手を当てた。それを見て思わず声を掛ける。
「そんなに近づいたらやけどするよ」
「だって、手が冷たいんだもん。でっかい雪だるまをハルと作ろうとしたけど、雪が強くなってきたから諦めた」
そこで少年はソファに座っている少女の方を振り向いた。
「あれ? またその本を読んでるの?」
少女は頷いてから、少年に尋ねる。
「ねえ。かぐや姫って、かわいそうだと思わない?」
「えっ? かわいそう……そうかなあ。まあ、僕はかわいそうな話よりは、楽しい話の方が好きだけど」
少年が答えになっていない事を言うのを見て思わず苦笑いする。しかし、少し経って私はふと思いついて、手をパチンと叩いた。
「いいこと思いついた! こういうのはどう?」
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