第十九話 うたかたの恋

 ――出立する少し前、アリオンとアーサーが、ずっしりとした丸太を使って鍛錬をしていた時のこと。

 互いに何合か撃ち合った後、アーサーは口を開いた。

 

「……ふぅ。あんたはただ持久力の問題があるだけだ。身体のキレも問題ないし、攻めや守りという基本の型もしっかりしている。心配しなくても、腕そのものは問題ないと思う。スタミナつけないとな」

「そうか……安心した。ありがとう」

 

 張りの戻った頬を滑り落ちる汗が、水晶のように輝いている。

 背中に流した髪を低い位置で結った王子の表情は、どこか嬉しそうだった。

 

 そこへひゅーっと口笛の音が聞こえてくる。

 アリオンが後ろを振り返ると、ヘーゼル色をした瞳の少女が立っていた。

 にこにこ笑っている。

 一体いつからいたのだろうか。

 

「へぇ~結構あんたやるじゃん! 鍛錬なら、私付き合うよ。男性相手の方が私にとっても良い修行になるしな」

「こいつ腕は確かだから、トレーニング相手として適役だ。……因みに、相手している時は女と思わなくてもいいぞ」

「……最後の一言は余計だ」

「……おいコラ。今俺はアリオンの相手をしてるんだぞレイア」

 

 横から飛んできた丸太を、アーサーは素手ではっしと受け止めた。口ではやや批判めいたことを言っているが、よく見ればにやりと笑みを浮かべている。

 

「……ひょっとしてお前妬いてるのか? 寂しかったら後で相手してやるからちょっと待ってろ」

「馬鹿。そんなわけあるか!」

「……おやおや」

 

 苦笑するアリオンの横で二人が取っ組み合いの応酬をしていると、くすくす笑う声が聞こえてきた。赤褐色の髪の少女だった。

 

「ふふふ。この二人仲良いでしょ? ほっとくと殴り合い、叩き合いと言う名のじゃれ合いを始めちゃうんだから! 仲良すぎて見ているこっちがにやにやしちゃうわよね」

「……俺達猫じゃないんだけどな」

 

 レイアの頭を押さえつけているアーサーは、半分呆れた顔をしている。

 

「ところで、立ち入ったこと聞いても良い? 個人的な興味なだけなんだけど」

「ああ。大丈夫」

 

 セレナが急に話題をふってきた為、アリオンは首を縦に動かした。

 彼女から尋ねられるだなんて、珍しい。

 

「アリオンは今、気になる人はいるの?」

「いた……といえば良いのかな」

 

 その場がおお、と少しどよめいた。

 まあ、王子たるもの、十七で色恋話しや婚姻の話しがゼロの方が少ないだろう。

 

「好きだった。でも、十年前に起きた戦争でその人は行方不明になってしまった」

「まあ! 十年前ということは、あなたがまだ七つ位のころね。きっかけは何だったの?」

「父親と一緒にアルモリカに来ていた彼女が、海で溺れそうになったところを僕が助けたんだ」

 

 やや伏し目がちになったその視線は、どこか切なげだった。

 

「……明るくて、笑顔がとても可愛い娘だった……」

 

 ⚔ ⚔ ⚔

 

 ダムノニア王国。

 今は滅亡したその国名を口にする気にもなれず、言葉として出なかった。

 その国の第一王女、ジャンヌ・ロアン。

 彼女は国王のたった一人の愛娘で、おっとりとした姫だった。

 そして好奇心旺盛な心も併せ持つ彼女は、海を見たい一心で父親であるエオン・ロアン王と共にアルモリカに来ていた。

 その日何故か連れている共がおらず、一人だった。

 

 丁度海で泳いでいたアリオンは彼女の悲鳴を聞きつけた。

 声のする方向に泳いでいくと、彼女は手足をバタつかせ、顔だけ水の上に出しているような状態だった。

 少し離れたところに、花で彩られた帽子が浮かんでいる。

 落ちたのか流されたのか分からないが、きっとこれをとろうとして海に落ち、溺れたに違いない。

 慌てて泳いで彼女の元に向かい、自分につかまらせ、城の近くにある砂浜まで連れて行ったのだった。

 

 それがきっかけで彼女と一緒に遊ぶようになった。

 カンペルロ王国がダムノニア王国を侵略し、占領下に置くその日が来るまで……

 

 ⚔ ⚔ ⚔

 

 今となっては全て懐かしい思い出だ。

 あれきり、彼女には会っていない。

 そして今現在、思い出の大切な海は同じ敵国によって奪われてしまっている。

 

 そこまで話すと、彼は静かに目を伏せた。

 

「あの国はカンペルロ王国によって滅ぼされ、既にない。探しに行きたかったが、家臣達に止められ行くにも行けなかった。まあ、齢七つの子供が人探しに向かう場所ではないが」

 

 ダムノニア王国が滅ぼされ、行方不明となってしまった王女、ジャンヌ。王一族は全て殺害されたと聞かされた為、その情報が誤っていなければ、彼女は既に死んでいるだろう。

 

 この腕で一度は助けた命。

 今はもう失われている命。

 何故罪のないあの姫が巻き込まれねばならないのか。

 指の間からこぼれ落ちる砂のように、アリオンはどこか虚しさを感じた。

 

「――そうだったのね。踏み込み過ぎちゃった。ごめんなさい」

 

 セレナは申し訳無さそうに頭を垂れた。

 それを目にしたアリオンは慌てて首を横に振った。両手を広げ左右に動かすジェスチャーもしている。


「いいや、気にしなくても大丈夫だよセレナ。今まで誰にも話していなかったことだから、お陰で反対にすっきりしたよ」

 

 幼い頃の、淡い想い出。

 だけど、その灯火は彼の心の中に灯ったまま。

 きっとその火はくすぶり続け、ずっと消えないままだろう。

 

 レイアは少し胸がちくりと傷んだが、顔には出さないでいた。

 

「十年も昔のことか。アリオンは一途なんだな」

 

 王子は顔を上げた。

 

「僕……というより、全員ではないが、僕達人魚族は、そういうものが多いんだ」

 

 (人魚は一生でただ一人を愛し、死してなおその者をずっと愛し続ける……そういう生き物だって、どこかで聞いたことがあるな)

 

 でも彼はいずれ国を建て直さねばならない。

 一人では無理だ。

 共同統治と言えば良いのだろうか。

 連れ添い、支え会える伴侶が必要だ。

 彼だってずっと一人のままではいられないから、この恋を、いつかは忘れないといけない……。

 

 彼をまとう世界は、何故か残酷だ。

 少しは優しく微笑んでくれれば良いのに、現実はそれを許さない。

 

 王子はどこか、寂しげな目をしていた。

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