序歌
霜月はつ果
はじまりの歌
札が読まれる前の静けさだとか。
音になりきる前の音をとらえた瞬間だとか。
相手より速く札を払えたときの喜びだとか。
最後の一枚まで勝負が決まらない面白さだとか。
そういう全部が好きだった。
競技かるたが好きだった。
でも、それももう終わりにしよう。
***
競技かるたを始めたのは高校一年生のときだった。
高校に入学したら中学にはなかった百人一首部があったから、興味本位で見に行って、魅せられた。あっという間にはまっていった。楽しくてしかたがなかった。
それなのに、やめる理由を探し始めたのはいつからだろう。
自分より後に始めた大学の同期や後輩にあっという間に追い付かれていくのが辛かった。抜かされていくのが悔しかった。成長の速度は人それぞれなんて納得できるほど大人じゃなくて、自分だけ停滞しているみたいで怖かった。
好きだったかるたが嫌いになっていくのが嫌だった。
一か月ほど前にも大会があった。一緒に大会に出た伊代は大学から競技かるたを始めた同期だった。わたしは二回戦で負けて、伊代は二回戦を勝って、三回戦も勝った。伊代が三回戦を勝ちあがったとき、喜べなかった。「次もがんばれ」なんて言って送り出した自分が、上手く笑えているか不安だった。そんな自分が嫌になった。
競技かるたには級というものがある。A級~E級まであって、その級の大会で勝つと昇級していく。C級だったわたしと伊代は三位入賞がB級昇級の条件で、四回戦は準々決勝、つまり昇級戦だった。
接戦だった。伊代を応援していたはずなのに、気づいたら勝たないで欲しいと思っている自分がいた。気づいたとたん、怖くなった。友だちの勝利を喜べなくて、それどころか足を引っ張ろうとしている自分が醜かった。
伊代は負けて、昇級できなかった。ほっとしたのは言うまでもなくて、そんな自分が心底醜くて、嫌いになった。最低だと思った。かるたをやめようと思った。このままじゃ、嫌な人間になってしまう。やめたいなと思って、やめていいよと答えた。
だから。
申し込んでいた次の大会で最後にしようと決めた。
大学二年生の秋。引退試合なんかでは決してない。自分で決めた、自分だけの幕引き。
相手に礼をして、読手に礼をして、ふうっと長く息を吐く。心臓がうるさいから、もう一度息を吐いた。何度大会に出ても、この瞬間の緊張だけはいつも訪れる。
「
序歌。そして、一秒の沈黙。静かに息を吐く。
わたしの最後の大会が始まった。
***
一回戦は辛勝で、二回戦はそこまで苦戦せずに勝利した。二回戦を終えて控室に戻ると伊代も帰ってきていた。
「むっちゃんお疲れどうだった?」
「勝った。伊代はどうだった?」
伊代はピースサインで答えてみせる。
「次もがんばろうね。昨日のD級昇級ラッシュだったじゃん。これはわたしたちも波に乗るしかない!」
伊代は昨日行われたD級大会を話に出す。昨日は同期と後輩が合わせて四人昇級していた。D級で昇級したということは追いつかれたということ。そんなふうにしか考えられなかった自分が恥ずかしい。
「三回戦の対戦まだかな?」
この話を続けたくなくて話題を変えた。
「んー、あ、対戦出たみたい」
伊代がわたしにもスマホが見えるように近づいて、ショートカットがさらさら揺れる。
「あ、この人前に大会で当たった人だ」
見覚えのある名前を記憶から探って思い出す。確か、春にあった大会の一回戦で当たった高校生の方。伊代がまだ同じ級じゃなかったころだった。
「そのときはどうだったの?」
「勝ったけど運命戦だったんだよね。やだなぁ」
競技かるたは札を自陣と敵陣の二つの陣にわけて取り合う。相手の陣をとったら自分の陣から一枚送る。そうして先に自分の陣の札をなくした方が勝ちになる競技だ。運命戦というのは、自陣も敵陣も札が残り一枚になっている状態のこと。残り二枚のうち読まれるのはあと一枚だけで、自陣の札が読まれた方が有利だからそう呼ばれている。
「そしたら今日はしっかり勝ちたいね」
――しっかり勝つ。運命戦にもつれ込む前にしっかり勝つ。
前回接戦だった人だから負けるかもしれなくて嫌だな、なんて思ってたわたしは、伊代の言葉にちょっとだけ背筋が伸びた。
慎重に始めた三回戦は、意外にも危なげなく勝つことができた。もちろん伊代も勝って戻って来て、「さすがむっちゃん」なんて言う。
「さすがってなにさ」
「むっちゃん強いもん。てか強くなってるもん。勝つだろうなって思ってたよ」
当たり前のように強いと言われて嫌になる。伊代と試合をすれば三回に一回くらいしか勝てないのに。
「伊代にあんま勝てないけどね」
「相性だってあるでしょ。むっちゃんは強いよ。勝てるときだってギリギリだもん」
わたしが返す言葉を探していると、伊代はちょっとむくれて続けた。
「さては、信じてないな? もー! むっちゃんはもっと自信を持つべきなんだよ。てか、運命戦だった相手にきちんと勝ったんだから強くなってるんだよ」
言って、満足したようににっと笑う。強くなってるんだよ、という言葉にどきりとした。信じたいような、信じたくないような、そんな気持ち。
「次勝てばB級だね。緊張するー」
「伊代は緊張とかしないのかと思ってた」
「えーそりゃするよ。しまくりだよ」
意外。伊代は大会でもミスが少なく安定して試合をするから緊張とかあんまりしないんだと思ってた。
「でも今日はむっちゃんが一緒だからいつもよりちょっと元気かもしれない」
やわらかく伊代が笑う。ふと、自分がかるたをやめると言ったらこの子はどんな顔をするのだろうと思って、胸がぎゅっとなった。
「次も一緒に勝つよ。ふたりで昇級だ」
伊代のこういうところがまぶしくて嫌いで、憧れる。
昇級戦となった準々決勝四回戦は、難敵だった。リードはしているが差が開かない。場に残った札は敵陣自陣合わせて十五枚。わたしが二枚とれば相手は一枚とるし、わたしが一枚取れば相手は二枚取った。接戦だった。まわりはちらほらと終わり始めていて、早く勝たないとと焦りが出始める。楽しくなんか全然なくて、しんどい。なんて思っていたらお手つきをして相手に追いつかれる悪循環。
ずるずると嫌な方に、ダメな方にと引っ張られ始めたとき、不意に背中をポンと叩かれた。
「がんばれ」
ぎりぎり聞き取れるくらいの小さな声。顔を上げれば、伊代がいた。試合を終えて受付に結果を報告しに行く途中で声をかけてくれたらしい。次も一緒に勝つよ――。もう一度、そう言われたような気がした。
かるたは、気持ち一つで流れが変わる。集中。意識を研ぎ澄まして、頭を回転させて。連取されていたのを、押し返す。けれど、相手だって昇級がかかってる。簡単には自分のペースにさせてくれなかった。取って、取られて、取り返す。
集中すると、余計な音が聞こえなくなった。世界が相手と札と読手だけになったみたいな静かな世界。一瞬を争って、札に手を伸ばす。あれが読まれろと強く念じる。終わるのが寂しくすらあるような、不思議な感覚。
勝負は白熱して、決着がつかないまま相手が一枚、自分が二枚になる。自分を鼓舞する。なにが出ても、取る。勝つぞ。
読まれたのは、敵陣の一枚。取ったのはわたしだった。一枚送って、運命戦。
出ろ。出てください。出てくれ。お願いです。
しんと張りつめた空気を、読手の声が伝う。三秒の余韻、一秒の沈黙。
――読まれたのは敵陣だった。
試合を終えて、相手と礼をして、読手に礼をする。負けた。頭の中はそれでいっぱいのまま、使った札を片付ける。使った五十枚がきちんとそろっていることを確認して立ち去ろうとしたとき、相手の選手に呼び止められた。
「あの!」
驚いて顔を向ければ、彼女ははにかみながら言葉を探した。
「あの、ありがとうございました。すごい強くて、楽しかったです」
突然のことに、返す言葉が思いつかない。すると、わたしの沈黙をどう受け取ったのか、彼女は少し慌てた様子で付け加えた。
「いやほんとですよ! ずっと差がつかなかったじゃないですか! ほんとに強かった。次絶対昇級しますって。ほんとに」
「……わたしも楽しかったです。ありがとうございました」
気づけばそう返していた。言って気づく。ああ、楽しかったなと。久しぶりに楽しかった。負けたし苦しかったのに、楽しいと思えた試合だった。
「めっちゃ悔しい」
遅れて、悔しさがこみ上げてくる。鼻の奥がツンとなった。
「運命戦はもうしょうがないですよ」
見ればなぜか彼女も泣き出しそうな顔をしている。
「また試合したいです」
彼女は照れくさそうにそう言うから、つられながらうなづいてしまった。
控室に向かう途中、伊代が駆け寄ってきた。思いっきり抱きつかれてよろける。試合後で体が温まっていて、自分の体温が伊代に移っていくのを感じた。見れば伊代はぼろぼろ泣いていてぎょっとする。
「なんで伊代が泣いてるのよ」
「だって、むっちゃんの方出ないんだもん。てかなんでむっちゃんは泣いてないのさ。もらい泣きって言い訳しようと思ってたのにできないじゃん」
心臓がぎゅっと痛くなる。あんな恥ずかしい気持ちはばれないように自分の中にとどめておこうと思っていたのに、我慢できなかった。伊代に泣いてもらう資格なんてない。
「伊代ごめん。わたし、謝りたいことがある。伊代が泣いてくれるようないい奴じゃない。この前の大会、伊代に昇級しないで欲しいって思った。おいて行かないでって思っちゃったの。最低だ。ごめんね」
伊代は一瞬泣き止んで、驚いた顔をした。ああ、責められるかな。嫌われるかな。なんて思ったのは一瞬で、伊代がまた泣き出すからびっくりする。
「そんなの全然いいよ。仲間だけどライバルなんだから当たり前だよ。そんなこと言ったら、わたしだって思ったことあるよ。D級のとき、C級だったむっちゃんが大会に出るたびもやもやした。全然追い付けないのに、もっとおいてかれちゃうって怖かった。わたしもごめん」
泣かないぞって思ってたのに、涙が頬を伝った。窓からはゆるやかな光が差し込んでいて、ひさかたのだな、なんて思う。季節はちっとも春じゃないけれど。
「伊代、背中叩いてくれてありがと」
「背中くらいいつでも叩くよ」
言いながら伊代は、わたしの背中を優しくなでる。この大好きな友人が昇級したことが心の底からうれしくて、心の底から悔しかった。
***
控室でひとりになると、おさえていた気持ちがあふれ出した。
『すごい強くて、楽しかったです』
『次絶対昇級しますって』
『また試合したいです』
控室でひとり、彼女の言葉を想う。
……無責任なこと言うなよな。このまま続けたって、確実に勝てるなんて保証はないのに。いつまでも勝ちあがれなくて、苦しい思いをし続けるかもしれないのに。抜かされていくだけなのが辛くて、もうやめようと思っていたはずなのに。
うれしいって思っちゃったじゃんか。
もっと強くなりたいって、かるたが楽しいって、思っちゃったじゃんか。
やっぱりかるたが好きだって、わかっちゃったじゃんか。
下を向いてそっと湿った目尻を拭った。膝の薄くなったジャージが目に入る。伊代の、強くなってるんだよ、という言葉を思い出した。
緩くなったポニーテールを結び直す。控室を出て、試合会場に足を向ける。息をするのさえためらわれるような静けさ。
「難波津にー咲くやこの花ーふゆごもーり――」
序歌が聞こえてきて、わたしは静かに息を吐いた。
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