第90話 映画でも観ながら


「命の恩人って、どういうことですか?」


 俺の問いかけに、聡一郎さんはふむと頷いた。


「もう二十年以上前の話だな。友人に招かれて、私と妻で中東のある国に行ったんだが、滞在中にテロに遭遇したんだ。泊まっていたホテルが占拠されて、映画なんて目じゃないほどの大パニックだった」


 懐かしそうに語って、グラスに手を伸ばし唇を濡らした


「私たちは他の宿泊客と一緒に、一つの客室に避難したんだ。でも、テロリストたちに扉を破られそうになってね。あちこちから銃声や悲鳴が聞こえてくるし、もうここで終わりだと覚悟したよ。……その時立ち上がったのが、休暇で泊まりに来ていた兜だった」


 当時の興奮を思い出してか少し鼻息を荒げつつ、「あれは凄かったな」と続ける。


「窓枠を伝って隣の部屋に行って、そこから廊下に出て一瞬で制圧したのさ。丸腰の状態でね。あとは彼の指示に従いながら、何とかホテルを脱出した。私が今ここにいるのは、まぎれもなく彼のおかげだよ」


 ふっと俺に目をやり、両の瞳にやわらかな熱を灯した。

 別に俺が褒められているわけではないのに、何となく照れ臭くなる。


「……な、何だそれは」


 朱日先輩がオジ様と呼ぶ老人が、わなわなと肩を震わせながら言った。


「そんなもの、儂は知らんぞ! 娘可愛さに下手くそな作り話をするなっ!」

「助けられたあと、あまり目立ちたくないからこのことは口外しないでくれって、兜から頼まれたんです。傭兵を生業としてる日本人ってだけでも珍しいのに、ホテルの宿泊客を救ったなんて世界的なニュースになってもおかしくないですからね」


 「あ、そうだ」と何か思いついたのか、聡一郎さんは内ポケットに入れていた手帳を取り出した。


「あれ以来、あいつとは友人なんです。糸守君が生まれて二年くらい経った頃に、朱日を連れて会いに行ったことがあるんですよ。一応、これが証拠の写真です」


 二つ折りにされた写真を受け取った老人は、カッと目を見開いた。

 一条先輩はパッと写真を取り上げて、俺と朱日先輩に見せる。そこには確かに、うちの両親と天王寺夫妻、幼い俺と霞、そして朱日先輩が写っている。


「覚えてないか、朱日。シャッターを切る直前、お前が兜のタトゥーを見て、お煎餅って叫んでな。それがツボに入ったらしくて、お母さん、腹がよじれるほど笑ってたんだぞ」


 この頃の朱日先輩は、ちょうど三歳くらい。

 雪乃さんが言っていたが、当時の彼女はかなりお煎餅にハマっていたらしい。将来の夢はお煎餅屋さん、と言うほどに。


 朱日先輩は頬を染め、「覚えてません」と恥ずかしそうに目を逸らす。彼女の意外な一面を知って嬉しいのか、一条先輩はニヨニヨと唇を緩ませる。


「……妻はほとんど笑わなかったから、この写真は本当に貴重なんだ。これを見てると、今でも彼女の笑い声が聞こえてくるよ」


 そう言いながら、写真を受け取って再び丁寧に折り畳み手帳のポケットに入れた。


「何年か前、朱日の誕生日会にも来たことがあるんだぞ。……まあでもあいつ、朱日に悪さした男を思い切り殴り飛ばして、すぐに帰ったんだけどな」

「も、もしかしてそれって、雪乃さんが議員をボコボコにした年のことですか?」

「よく知ってるね、糸守君。雪乃から聞いたのかな」


 夏休み中、雪乃さんが呑みの席で話していたことを思い出す。


『何年か前の誕生日会で、とある議員があーちゃんの身体に触ってるのを見て、私プッツンしちゃって。後ろからアイスピックで――』

『刺したんですか!?』

『刺そうとしたけど、他の参加者に止められたの。文句言ったらその人、素手で殴った方が気分がいいって言って、議員を殴り飛ばしちゃったのよ。十メートルくらい飛んだわね』

『十メートル? ば、化け物じゃないですか……』


 化け物じゃなかった。父さんだった。

 ……あぁいや、化け物は別に間違ってないのか。


「だから、朱日が糸守君と付き合い始めたと聞いた時は驚いたよ。すぐに兜に連絡して、私たちの関係は秘密にしておこうと決めた。朱日の性格的に、親同士が知り合いだとわかったら、仮に嫌になっても糸守君と別れられなくなってしまうだろう?」


 確かに、と俺は内心頷いた。

 朱日先輩は責任感が強い。心底嫌な誕生日会に、毎年出席して笑顔を振り撒くほどに。前もって親同士の関係を知っていたら、父親の顔を潰さないため何が何でも我慢することは目に見えている。


「ただまあ、オジさんの言い分もわかります。私は兜に命を救われましたが、彼を清廉潔白な善人と呼ぶのは難しいでしょう。このことが他の親類や関係者に知られれば、私の友人だ、命の恩人だと説明しても、糸守君を認めない人は必ず出ると思います」

「……あ、あぁ、そうだな」

「そこで提案なのですが、もし非難の声が上がった際は、オジさんの口から説得していただくというのはどうでしょう?」


 散々手間をかけて調べ上げ、誰よりも真っ先に俺を非難したのはこの老人だ。

 にも拘わらず、俺を庇うように言われた老人は、「は?」と素っ頓狂な声をあげる。


「情けない話ですが、天王寺家において現当主の私よりも古株のオジさんの方がずっと影響力がある。オジさんが糸守君を認めれば、誰も二人の関係に水を差すことはないと思います」

「ま、待て。それで儂に何の得がある?」

「さっき朱日が言っていましたが、このままでは彼女は家を出て行きます。オジさんの暴言のせいで。しかしオジさんが糸守君に味方するなら、朱日は先ほどの発言を撤回するでしょう。そうだよな、朱日?」


 急に話を振られ、朱日先輩は戸惑いながらも頷いた。

 聡一郎さんはニコリと笑いつつ、冷たい視線を老人に浴びせる。


「どうしますか。ありがたいことに、うちの娘は沢山の人から愛されているので、それをオジさんが追い出したとなると大変なことになりますよ?」


 一条先輩の介入によってかなり拗れてしまったが、そもそもこの老人がしたかったのは俺への嫌がらせだ。あの孫二人をトイレに押し込んで気絶させた上、朱日先輩と付き合ったことが許せなかったのだろう。


 その結果提示された二択は、どちらを取っても俺にダメージがないもの。

 それどころか、朱日先輩を追い出す道を選んだ場合、自分が火傷することになってしまう。


 老人は今にも砕けそうなほどに歯を食いしばり、バンとテーブルを叩いて立ち上がった。俺を睨みつけて何か言いかけるも、朱日先輩を一瞥して出掛かった言葉を飲み込む。


「……い、命の恩人の、む、息子か。うん、なるほど。だ、だったら何も言うことはない。儂が……せ、責任をもって、彼の後ろ盾となろう」

「そうですか。ありがとうございます」


 今にも卒倒しそうなほど汗を滲ませながら、老人は苦しそうに言葉を絞り出した。対して、聡一郎さんは眉一つ動かさず淡々と返す。……強いな、この人。流石は朱日先輩のお父さんだ。


「……おい、帰るぞ」


 付き人の男に刺々しい口調で言って、老人は不機嫌さを隠しもしない足取りで部屋を出て行った。

 扉が閉まるのを確認し、一条先輩はドカッと床に座り込む。辟易した様子で息をつき、「何だよぉー」と気の抜けた声を漏らす。


「そういう事情があったなら、僕が色々邪魔した意味ないじゃん。あーあ、何かバカみたい。疲れちゃったよ……」


 彼女の発言を聞いて、聡一郎さんは朱日先輩に説明を求めた。

 俺の弱味探しをしていた連中を潰して回っていたことを簡潔に説明すると、聡一郎さんは席を立って一条先輩の肩を叩いた。


「よかったら君が集めた情報、私に譲ってくれないか」

「……いいですけど、何に使うんです?」

「さっきも話したが、私の影響力はさほど強くない。オジさんのような先代の関係者が幅を利かせているのが現状だ。でも、君が握った弱味があれば、いくらか状況は変わるだろう。……せめて、君が朱日の誕生日会に出席できるように、何とか頑張ってみるよ」


 その言葉に、一条先輩は目の色を変えた。

 すぐさま立ち上がってお尻のホコリを払い、USBを聡一郎さんに渡す。


「糸守君、ちょっと話そう。申し訳ないが、二人は部屋の外で待っていてくれないか」

「わかりました」


 朱日先輩は一条先輩を連れ、部屋を出て行った。

 聡一郎さんに促され、先ほどまで老人が座っていた席に俺は腰を下ろす。


「名乗り遅れたが、天王寺聡一郎だ。よろしく」

「い、糸守要です。よろしくお願いします。……あの、ご、ご挨拶が遅れて申し訳ありませんっ」

「気にしなくていい。私も仕事ばかりで、まったくと言っていいほど時間が取れないからね」


 朱日先輩のお父さんに挨拶。

 前々から望んでいたことだが、まさかこんな形で叶うとは思わなかった。心の準備ができていないため、心臓がバクバクと動いて煩い。


「兜のことを聞いて、ショックだったかな。どうやら君は、本当のことを聞かされていなかったようだが」

「……ショック、とかじゃないです。ただ、どうして俺に嘘ついたのかなとか。母さんのことも騙してたなら嫌だなとか、色々考えてしまいまして」


 最悪、俺と霞はいい。

 だが、そんな大事なことを母さんに伏せていたのだとしたら納得がいかない。もう母さんには、打ち明けようがないのだから。


「心配しなくても、君のお母さんは知っていたよ。そこは保証する。君に話せなかったのは、万が一にでも嫌われるのが怖かったんだろう。あれは見た目のわりに、中々繊細なところがあるからね」


 父さんが繊細か。まったく想像がつかない。

 ただ自分で言うのも何だが、俺もかなり繊細な部類だと思う。……母さん似だと思っていたが、もしかして父さんから受け継いだのだろうか。


 いやまあ、それはいい。

 母さんにちゃんと話していたなら、ひとまず文句はない。


 それよりも、朱日先輩のことだ。


「えっと、その……誕生日会で周りの迷惑も考えずに告白したり、そ、相談もなく娘さんと同棲したり、本当に何て謝ったらいいか……」

「同棲に関しては、流石に親としてちょっと思うところはあるが……まあ、どうせあの子が半ば強引に君を引き込んだんだろう。あれは妻に似て、かなりの行動力の持ち主だからね」


 朱日先輩のお母さんは感情が表に出ないタイプだと聞いていたが、大人しい性格というわけではなかったようだ。ということは、聡一郎さんもかなり振り回されてきたのだろう。……そう考えると、急にこの人に親しみを感じる。

 

「それより、糸守君には感謝しているんだ。本当に何てお礼を言ったらいいかわからないよ」

「か、感謝、ですか?」

「妻が死んだ時、私は仕事に逃げたんだ。朱日を見ると妻を思い出して、それが辛くてね。最低だよ、まったく。……あの子が笑わなくなったのは、私のせいだと言っても過言じゃない」


 つい先ほどまでの威厳のある顔付きはなりを潜め、一人の何でもない父親として自嘲気味に語った。

 最後に「でも」と続けて、口元にやんわりとした笑みを描く。


「雪乃から聞いたが、朱日は君の前だと笑うそうじゃないか。今日だって、君や一条さんのためにあの子は怒った。あんなに感情を剥き出しにする朱日は久しぶりに見たよ。……本当に嬉しかった。恋人にも友人にも恵まれているようで、安心したよ」


 そう言って立ち上がり、こちらに手を伸ばした。

 握手を求めているのだと理解し、俺も腰を上げてそれに応じる。


「朱日のことを頼む。これからもあの子の、心の拠り所でいてあげて欲しい」

「はい、もちろんです。ずっとずっと、そばにいます」

「……言っておくが、もしも娘を泣かしたら兜の息子でも許さないからな」

「は、はいっ」


 俺の返事を聞いて、和やかに微笑み踵を返す。


「私はもう行かないと。会計はこちらで済ませておくから、朱日と一条さんの三人で食事をしてから帰るといい。今ある分は取り換えてもらうように言っておくよ」


 「また今度、ゆっくり話そう」と続けて、聡一郎さんは部屋を出て行った。




 ◆




「いやぁ、美味しかったー! すごいね、このお店。僕も今度来ようかな!」


 約二時間後。

 フルコースを存分に堪能して、俺たちは店を出た。


 時刻は午後十時前。

 十二月の夜はとても寒く、肌を刺すような夜風に俺たちは身震いする。


「じゃあ僕、帰るよ。親父さんにご馳走様って伝えといて。それじゃ――」

「お待ちください、一条さん」


 俺たちに背を向けかけた一条先輩を、朱日先輩が呼び止めた。

 彼女の意図を察し、「今日するんですか?」と耳打ちする。それに対し朱日先輩は、コクリと頷く。


「全部終わったことですし、これから私の家で呑み会でもしませんか。映画でも観ながら、ゆっくりと」

「あれ? 天王寺さんってお酒呑めないんじゃなかったっけ……?」

「一条先輩、あれ、嘘なんです。朱日先輩と呑むの、楽しいですよ」


 そう言うと、一条先輩は釈然としないながらも頷いた。


「わかった。じゃあ行こっか。先に潰れた人に何してもいいっていうルールだよね?」

「朱日先輩、やっぱりこの人家に入れるのやめましょう」

「わー! う、嘘うそ! 潰れてなくても何してもいいんだよね!?」

「いいわけあるか!」


 あーだこーだといつものように言いつつ。

 俺たちはコンビニで必要なものを買い込み、帰路についた。

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