第89話 糸守兜
レストランに着くと個室に通され、程なくして前菜が運ばれてきた。
お腹は空いているのが、まるで食べる気がしない。テーブルを挟んで向こう側に、オジ様がいるせいで。
「どうしたんだい、朱日。ここの料理は美味しいよ」
無神経なのかわざとやっているのか、オジ様はにこやかに言った。
お父様は静かに食事をしつつ、「それで」と話を切り出す。
「何ですか、見過ごせないこととは。余程重要なことなのでしょう?」
そう問いかけると、オジ様は濁った目で私を一瞥して、口の周りをナプキンで拭った。
「それを話す前に一つ確認しておきたいんだが……なぁ
聡一郎とは、お父様の名前だ。
想定外の質問だったのか、お父様は「はい?」と聞き返す。
「代々積み重ねて縁と、それに伴う権力や経済力。その恩恵を多大に受けてきた朱日に対し、何か義務を果たすべきだとは思わないのか?」
「……質問の意図はわかりかねますが、朱日は既に、我が家に十分貢献しています。少なくとも資産運用の能力は、私や息子の遥か上だと思いますが」
「そうだね。うん、それはそうだ。ただ名家に生まれた者の義務とは、何も金を稼ぐことだけではないだろう? 男は家を守り、女は他家との縁を結ぶ……古臭い話だが、とても大切なことだよ」
怪訝そうに眉をひそめるお父様。
私は軽くため息をついて、オジ様を睨みつける。
「……私と要君の交際が気に入らないのなら、早くそうおっしゃってください。当然、その理由も含めて」
要君が襲われた裏にも、一条さんが攫われた背景にも、この人がいる。
そう思うと今すぐ平手打ちをお見舞いしたい気持ちでいっぱいになるが、ここで取り乱しても仕方がない。
オジ様はフンと余裕ありげに笑って、出入り口の扉の前に立っていた付き人の男性に目配せした。男性は持っていた角2封筒を、スッとテーブルの上に置く。
「先に言っておくが、儂の個人的な思想で男女の仲に口を出そうというわけじゃない」
言いながら、爪の先で封を切ってゆく。
「朱日も若いんだから、誰と付き合おうと構わない。……ただ相手に問題があると、天王寺家やその他親類に迷惑がかかる可能性がある」
「要君は真面目で誠実な方です。問題などあるはずがありません」
「彼はそうかもしれない。彼自身は、ね」
何が言いたいのかまったくわからず、「は?」と漏らしてしまった。
「糸守君の父親について、朱日は何か聞いていないかな?」
「……空手の道場をしていると、前に要君が話していました」
「そうだね。道場の経営と幼稚園バスの運転手、休日は主にボランティア。近所の評判はよく、つい最近もお隣の家に強盗が入ったのを察知し、犯人たちを一人で制圧したらしい。正義感の強い善良な市民と言える、
封筒から出て来たのは、数枚の写真と書類の束。
写真を一枚手に取ると、そこには銃器を持った屈強な男性が写っていた。心なしか、顔つきが要君と似ている。
「写真の男は糸守
◆
「――彼はその昔、傭兵としてあらゆる戦争や紛争に参戦した。……まあ要するに、金目的で殺しをしていた人でなしだよ」
糸守クンと共にレストランに到着し個室の扉を開けた瞬間、天王寺さんがオジ様と呼ぶ老人がしたり顔でそう言った。
直後、三人の視線が僕たちに向く。
僕の登場に老人はわかりやすく狼狽え、天王寺さんもまた感情を制御し切れていない表情を浮かべている。……何より僕の隣の糸守クンは、酷く動揺しているように見える。
「ちょ、ちょうどいい。朱日、彼氏に聞いてみろ。父親がかつて、何をやっていたのか」
「い、いや、俺は……」
「知らなかったのか? 傷やタトゥーだらけな肉体を見れば、何があったのか聞くのが普通だろう?」
「……昔の写真を見つけた時に、じ、自衛隊の公表されてない特殊部隊にいたって言ってて。だから、父さんが昔何してたかってことは、皆に秘密にしろって……」
「公表されてない特殊部隊か、言い逃れの仕方としては上手いな。確かにかつて自衛官だったが、そういった部隊に所属していた記録はない。何だったら、ここに防衛省の人間を呼んで証言させてもいい」
以前、糸守クンに隠し事がないか迫った時のことを思い出す。
『……ないです。後ろめたいことはないですよ、何も』
『本当に? 本当の本当?』
『仮に悪いことしてたら、平気な顔で朱日先輩と付き合ったりできませんよ。俺、そこまでメンタル強くないので』
『……ふーん』
あの時彼は、明らかに嘘をついていた。
それがおそらく、これのことだ。
糸守クン目線の話だと、公表されていようがいまいが自衛官は自衛官。つまり公務員、後ろめたさなどないだろう。
「とにもかくにも、聡一郎、これは由々しき事態だぞ。人殺しの息子と朱日が一緒になってみろ。先代が化けて出て来てもおかしくない。そうじゃなくても、親類たちが黙ってはいないだろ」
極道の娘だからという理由で、天王寺さんの誕生日会に入れない人間がここにいる。主役である彼女が中に入れたいというのに、まったく聞き入れてもらえない。それくらいこの家は、他人の素性や血縁に対して厳しい目を持つ。
とすれば、糸守クンが傭兵の息子だった場合、親類たちからの非難は必至だ。
「防衛省の人間を呼んで証言させるとか言うけどさ、その証言が正しいって誰が保証するわけ? お爺ちゃんなら記録の改ざんくらいするだろうし、証言だって捻じ曲げられるでしょ?」
「小娘が、わけのわからないことを。お前に何がわかる? 儂が何かした証拠でもあるのか?」
「……ないよ、残念ながら。証拠も何もかも全部握り潰して、他人に押し付けてさ。自分の身を綺麗するのは得意みたいだね」
この老人が諸々の事態の黒幕であることは確かだが、それを決定付ける証拠は一つも出てこなかった。
小綺麗な見た目をして、どうしようもなく腹黒い男だ。ここまでの人間は、うちの親父の世界にもそう多くはない。
「そもそも、突然入って来て挨拶も無しに何だお前は。父親がろくでなしだと、やっぱり娘もろくでなしなんだな。何でも中学の頃、同級生の身体を金で買ったと聞いたが。ゴミムシめ、視界に入るのも鬱陶しい」
「……今、僕の中学の話は関係ないだろ」
僕が向こうのことを調べていたように、向こうもこちらを調べていたらしい。
嫌なことを思い出して気分が悪くなるも、極力平静をたもって言い返す。
「糸守君もだぞ。知らなかったとはいえ、その血は度し難いほどに汚い。遺伝なのか何なのか知らないが、身体も古傷まみれで随分と醜いそうじゃないか。汚れた血と身体で朱日に近づいた挙句、うちの孫にも散々なことをしてくれたわけだし、ここはとりあえず謝罪しておいた方がいいと思うが」
自分が知らされていた情報と違う衝撃から未だ抜け出せていない糸守クンは、困惑した面持ちで目を剥いた。
言われるがままに口を開き、半ば無意識に謝りかけたその時――。
天王寺さんが勢いよく立ち上がり、糸守クンの前に立つ。黄金の瞳でジッと彼を見つめ、その手を取って強く握る。
「――大丈夫だよ。要君は今日、いっぱい頑張ったんだから。あとは私が何とかするから、安心して?」
それはあまりにも、ため息が出るほどに綺麗な笑顔だった。
底抜けに温かくて陽だまりのように心地いい声音に、糸守クンの目に生気が戻る。それを見届けて、彼女は踵を返す。
途端にその顔は凄まじい怒気を纏い、老人を見据えて一歩二歩と距離を詰めた。そしてテーブルの上のグラスを手に取り、入っていた水を老人の頭にぶちまける。
騒然とする室内。
老人の付き人と思しき男が間に入ろうとするが、彼女のひと睨みで動きを止める。
「百万歩譲って、一条さんがヤクザの娘だから誕生日会に参加させられないってのはわかるよ。そういうところと付き合いがあると思われたくない人もいるだろうし。要君が傭兵の息子だから、私と付き合ってるのが気に入らないってのもわかる。……理屈は理解できる」
ポタリ、ポタリ。
最後の一滴まで注いで、彼女は静かにグラスを元の位置に戻した。
老人は驚きで声も出ないのか、ただ天王寺さんを見上げて目を丸くする。
「でもさ、だからって一条さんをゴミムシ扱いするのは違うよね! 要君を汚い呼ばわりはおかしいよね! 二人とも、私の大切な人だってわかってる!?」
いつもの無表情が嘘のような、感情剥き出しの声。
濃密な怒りが烈火の如く燃えており、老人は何かを言おうと唇を開くも、天王寺さんの迫力に圧されて上手く声が出ない。
「……あ、朱日。そうだな、そうだった。今のは儂が悪かった」
「悪かった? で、なに?」
「謝るよ。誠心誠意、謝罪する。それで……ゆ、許してくれないか?」
「もういい、どうでもいい。一条さんがどんな思いだったかも知らないくせに! 要君がどれだけ身体のことを気にしてるかも知らないくせに! ――……
オジ様と呼ぶことをやめ、二人の心理的な距離が修復不可能なほどに離れたことが第三者の僕ですらわかった。老人は余程ショックなのか、その顔は酷く引き攣っている。
「これで決心ついたよ。この家に生まれて色んな得をしてるから、その分だけ尽くさなきゃって思ってた。家の一員として、義務を果たさなきゃって」
「でも」と言い加えて、盛大に嘆息する。
「もうどうだっていい。あなたみたいな人に、私の人生をいいように弄ばれたくない。……私は、私を本気で大切にしてくれる人たちに囲まれて生きたい」
「そ、それはどういう……?」
「家を出るって言ってるの! それならもう、私が誰と一緒にいたって文句ないでしょ!?」
老人の顔色が明らかに悪くなる。
天王寺さんが家を出て得をする人間などいない。絶縁のきっかけがあの老人だと知れれば、間違いなく関係者の中で肩身が狭くなる。それを恐れてのことだろう。
「あー……えーっと、ちょっと話してもいいか?」
ここまでずっと静観していた天王寺さんの父親が、娘の機嫌をうかがうようにおずおずと手を挙げた。
天王寺さんは燃え滾る怒りをそのままに、静かに首を縦に振る。
「まず朱日、ちょっと落ち着け。お前は怒って当然だし、家を出たい気持ちも理解できるが、そういう重要なことは私と相談した上で決めてくれ」
「……はい」
「あと、一条さん……だったかな? 君はオジさんの情報を捏造だと疑っていたが、糸守兜が傭兵をしていたというのは事実だ」
「……どうしてわかるんですか?」
「どうしても何も、本人から聞いたからさ」
「「「え?」」」
僕と天王寺さんと糸守クンの声が重なった。
老人も寝耳に水だったようで、「ほ、本人から?」と上擦った声を漏らす。
「本当はこんな形で話すつもりじゃなかったんだが……まあ、仕方ない。とりあえず、結論を先に伝えておこう」
そう言って糸守クンに目をやり、懐かしそうに目を細める。
「兜は、私と妻の命の恩人なんだ」
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