第85話 一緒に思い出作ろうね


 朱日先輩の手からグラスが滑り落ち、中身がこぼれる前にキャッチした。


「あの、大丈夫ですか……?」


 薄らと口を開けて呆けていた彼女は、その呼びかけにパチリと瞬きをした。

 次いで俺の頬を両手で挟み、右から左からまじまじと観察する。まったく意味がわからず、俺はひたすらに困惑する。


「……酔ってない、よね?」

「酔ってません」

「でも、さっき焼肉屋さんでお酒呑んでたし……」

「あれくらいじゃ頑張っても酔えませんよ」


 そう言うと、ただでさえアルコールで赤く焼けた彼女の頬がより鮮やかに紅潮した。

 こちらに身体を傾けて、軽く胸に頭突きする。猫の愛情表現のようにぐりぐりと擦り付けて、甘く爽やかなシャンプーの香りを振り撒く。


 不意に顔を上げて、にへらと溶けたアイスのように笑って。

 俺の首に腕を回し、やや強引に唇を奪った。こっちはグラスの中身を零さないようにするのに精一杯で、ただひたすらに彼女の体温を享受する。


「ちょ、ちょっと待ってください。まずこれを置かないと……」


 グラスをテーブルに置くと、彼女は今度は俺を抱き締めた。


「……いいの?」

「何がですか?」

「……私で、いいの?」


 いいも何もない。


 昨日が尊くて、今日が楽しみで、明日が待ち遠しいのは、他でもない彼女のおかげだ。

 一条先輩を始めとした楽しい友達ができたのも、彼女のおかげだ。

 辛い時にそばにいてくれて、俺の弱いところを受け止めてくれて、笑顔で支えてくれて。両腕で抱え切れないほど沢山のものを与えられている。

 

「宇宙の果てまで探したって、朱日先輩以上の人はいないと思ってます。……それより、そっちこそ俺でいいんですか?」

「うん」


 即答だった。

 迷う素振りすらなく、嬉しさと同時に困惑してしまう。


「要君なら、私がしわくちゃのお婆ちゃんになっても、ずっと大事にしてくれると思うし。いくつになっても、私のために泣いて笑って怒ってくれると思うし。……だから、ずっと一緒にいたい。いてくれなきゃやだ。一人にしないで」


 親を見つけた迷子のように、俺をギュッと力強く抱き締めた。こちらもまたそれに応え、心臓の鼓動が伝わってしまいそうなほどに密着する。


 一人にはしない。するわけがない。

 俺の呼吸が続く限りは、絶対に離さない。


「……それで、その……どうしよっか?」

「どう、とは?」

「いや、だから……婚姻届、今から書く?」

「……え?」

「前に調べたけど、あれ、ネットに落ちてるのを印刷して書いても受理してくれるらしくてさ」


 し、調べた?

 ……この人、どれくらい前から結婚を視野に入れてたんだ。


「あとは、戸籍謄本を用意したり。もちろん両方の親への挨拶はいるけど、先に空欄を埋めておけば――」

「ちょ、ちょっと待ってください! タイムタイム!」


 リニアモーターカーレベルの速度で転がる話に、一旦待ったをかけた。

 朱日先輩はふっと俺から離れて、不服そうに唇を尖らせる。


「……何さ。結婚するんじゃないの?」

「し、します! しますけど!」

「けどって何! ハッキリして!」

「少し落ち着いて、俺の話を聞いてくださいよ!」


 どうにか俺の声が届いたらしく、朱日先輩フンと鼻を鳴らして腕を組んだ。


「……どうせ要君のことだから、卒業して就職して収入が安定するまで待ってとか言うんでしょ。お金のことなんて気にしなくていいのに」

「卒業云々の話は否定はしませんが、そこじゃなくて。……俺たちって、付き合う前も付き合ってからも、色んなことを駆け足でやり過ぎてると思うんです。同棲だって、付き合って一ヶ月も経たないうちに始めてるんですよ」


 世間一般の程度はわからないが、少なくとも早過ぎることは確かだろう。そこは彼女も理解しているようで、やや不服そうにしつつも「……そうだね」と相槌を打つ。


「俺はもっと、朱日先輩の恋人として色んな時間を過ごしたいんです。クリスマスすらまだ経験してませんし、初詣とかも行きたいですし、朱日先輩の誕生日もちゃんとお祝いしたいです。もっと沢山、思い出を作りたいんですよ」


 優しく手を取り、もう片方の手を彼女の腰に回した。ジッとその目を見つめると、彼女は照れ臭くなったのか更に顔を染めて視線を逸らす。


「心配しなくても、俺は黙って消えたりもしませんし、一生そばにいますよ。こんな素敵な人、誰にも渡したくないので。絶対に手放したりしません」

「……も、もぉ……恥ずかしい台詞、禁止っ……!」


 ぽかぽかと俺の胸を殴り、不意に目が合って、また頬を染め顔を伏せた。ふっと視線を上げて、どちらともなく口付けを交わし、顔を離して笑みを交換する。


「あと、それに……」

「え、まだあるの?」

「さっきみたいに朱日先輩に流されて言うんじゃなくて、ちゃんとプロポーズしたいんです。だから、もうちょっとだけ、俺のわがままに付き合ってもらえませんか……?」


 そう言うと、朱日先輩は仕方なさそうに、しかし口元を緩ませながら息をついた。「あんまり待てないぞぉ」と呟いて、俺の頭をくしゃくしゃに撫でる。


「……まあでも、プロポーズならもうされてるけどね」

「はい? いやだから、さっきのは違うくて――」


 訳のわからないことを言い出した朱日先輩。

 否定しようとしたところで、彼女はポケットからスマホを出した。


『朱日ー! 俺と結婚してくれー!』


 ……?

 え? は? はい?


『朱日ー! 俺と結婚してくれー!』


 俺の声だ。

 間違いなく、他の誰でもなく、俺の声だ。


「ちょ、ちょっと待ってください。何ですか、それ――」

『朱日ー! 俺と結婚してくれー!』

「わかりました! それはもうわかりましたから!」

「そう? こういうのもあるけど」

『結婚してくれ、朱日。君しかいないんだ……!』

「別のバージョンを聞かせろなんて言ってませんよね!?」

『朱日……俺のお嫁さんになってくれないかな?』

『俺と結婚したこと……絶対に後悔させないよ、朱日』

『朱日を幸せにできるには俺だけだ!!』

「うわぁー! や、やめてください! いつ録ったんですか、そんなの!?」


 俺の声なのに、一切記憶にない台詞の数々。

 あまりの恥ずかしさにスマホを取り上げようと手を伸ばすが、彼女は俺の膝の上から飛び退いて回避した。「へへっ」と悪戯心たっぷりに笑って、フラフラとした足取りで俺から距離を取る。


「先延ばしにするからには、ここにある台詞よりもキュンキュンすること、期待してもいいんだよね?」

「……わ、わかりました。わかったので、一旦そいつらは削除させてください」

「やーだー! やだもーん!」

「ちょっ、危ない!」


 酔っ払った状態で走り出したせいで、足がもつれて前のめりに倒れた。俺はすんでのところで身体を支え、ため息混じりに抱き寄せる。


「ご、ごめんね。助けてくれてありがと」

「それは別にいいので、大人しくしてくださいよ。もう結構酔ってるんですから……」


 朱日先輩を抱き上げて、再びソファの上に座らせた。隣に腰を下ろすと、彼女はころんとこちらに身体を倒して膝の上に頭を置く。俺を見上げて小動物のように喉を鳴らし、身をよじって甘える。


「……恋人としての思い出って話だと、まだしてないこと沢山あるよね。私、二人でプリクラ撮ってみたいな」

「そういえば、何気にカラオケも行ったことないですよね。朱日先輩の歌声、聞いてみたいです」

「旅行も行きたい! 露天風呂に入りながら、日本酒とか呑みたいよねー」


 あれがしたい、これがしたい。

 二人だけのリビングに未来を並べて、それいいですねと同意して、じゃあこれはと次を語る。


 どれくらい時間が経っただろう。

 お互いに出し尽くし、口数が少なくなってきた頃。ふと俺は思い立ち、「こんなこと言っても仕方ないんですけど」と前置きした上で口を開く。


「朱日先輩と制服デートとかしてみたかったです。学校帰りに、二人でファミレスで駄弁ったりして。……もっと早く出会えてたらなぁ」


 こんなことを言ってもどうにもならない。

 それはわかっているが、今日彼女の制服姿を見たせいで、叶いもしない欲が湧いてしまった。しかも猫屋敷さん曰く、本物の制服を着た朱日先輩はコスプレ以上に可愛いらしい。彼氏として、興味を持つなという方が無理な話だろう。


「時間は戻せないけど、家の中だけなら昔の私に変身してもいいよ」

「えっ、どういうことですか?」

「ちょっと待っててね」


 リビングを出ていき、待つこと十数分。

 戻って来た彼女は、見知らぬ服を着ていた。


 クリーム色のブレザーにスカート。白いワイシャツに可愛らしいリボン。……それは、どこからどう見ても制服。使い古された感じを見るに、本当に彼女が使っていたものだ。


「何となく処分せずにおいてたんだけど、案外着れるもんだね。ちょっと胸が苦しいけど」


 見せつけるように、くるりとその場で一回転。

 朱日先輩は何を着ても可愛いが……これは何というか、独特の背徳感がある。綺麗ではない衝動が、心の内側をヒタヒタと這う。


「どう、可愛い? 高校生っぽいかな?」

「えっ……ええ、はい。可愛いです、とっても……」


 高校生を見て興奮する趣味などない。

 ないはずなのに、彼女の姿に体温が上がる。この人との学園生活を妄想して、どうしようもなく口元が緩む。


「どうしたの? 目、ちょっと怖いよ?」


 ギシッとソファに膝をついて、四つん這いで近寄って来た。必死に見ないようにするも、もっと見たいという本能が無理やり瞼をこじ開ける。彼女は何か察したようで、ははーんと白い歯を覗かせて熱い吐息を漏らす。


「……女子高生に興奮しちゃったんだ、大人のくせに」


 耳元で妖しく囁かれ、心臓が大きく跳ねた。

 そっちも大人ですよね、と冷静な突っ込みを入れる前に、その唇を彼女の唇が塞ぐ。


「へへっ……」


 俺を押し倒して腰に跨り、彼女は口の周りの唾液を手の甲で拭った。


「今から私が生徒で、要君が先生ね」

「は、はい?」


 突然始まったゴッコ遊び。

 困惑する俺の胸に手を置いて、ぐいっと前のめりになり顔を近づけた。息を飲むほど綺麗な瞳には俺しか映っておらず、その口は俺のためだけに笑みを作る。


「一緒に思い出作ろうね、

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