第43話 同棲してくれるまで返さないから
「糸守君、大丈夫ですか……?」
「は、ははっ。大丈夫ですよ……えぇ、まあ……」
「ごめんなさい。私が遅くまで付き合わせてしまったから……」
「先輩のせいじゃないです! 俺が勝手に寝坊しただけなので!」
目が覚めると、午後一時を回っていた。
つまりそれは、バイトの面接に遅刻するということ。
すぐに謝罪と再面接のお願いの電話を入れたが、時間を守れないような方は結構ですと、至極真っ当なお叱りを受けてしまった。ぐうの音も出ず、普通にへこむ。
「先輩の家のベッドが寝心地良過ぎて、つい寝過ぎちゃいました。何かすみません。あれと比べたら、うちのベッドなんて体育館のマット以下ですよね」
テレビもソファも相当値が張るものだ。きっとあのベッドも高価に違いない。
寝具には金をかけろ、という話をよく聞くが、まさかここまで違うとは。身体の疲れがスッキリ取れている。
「別に私、糸守君と一緒なら公園のベンチでも熟睡できますが」
シラフ特有の鉄仮面のような顔で言いながら、「どうぞ」とテーブルにコーヒーを置いた。
トースターからはパンの焼けるいい匂いが漂っており、世の中はすっかり昼だというのにここだけ朝に取り残されている。
「気に入って頂けたのなら、あのベッド、糸守君の家にも置きましょうか。シングルのも販売されているので、今あるのと取り換えましょう」
「いやでも、俺にそんなお金……」
「私が出します。どうせ一緒に寝ますし」
「せ、せめて半額出させてください! そうしましょう!」
「大丈夫ですか? かなり高額ですよ?」
先輩はスマホを操作し、販売サイトを見せてくれた。
……な、何だこれ。ちょっとした車が買えるぞ。これの半額って、どれだけバイトすれば払えるんだ?
「……ごめんなさい。バイトの面接すっぽかすようなやつに、払える額じゃありませんでした」
「律儀ですね。まあ、そういうところが好きなのですが」
ふっと口元に僅かな笑みを落として、できたトーストを取りにキッチンへ向かう。
二枚のお皿には、一枚ずつ四枚切りの食パン。脇にはプチトマトと茹でたブロッコリーが鎮座しており、それだけで朝食が華やぐ。
いただきますと手を合わせ、ぱくりと一口。
美味い。シンプルな味が故に、身体によくしみる。
「名案を思い付きました。私が糸守君を雇う、というのはどうでしょう。これで糸守君のバイト問題も解決です」
「は、はい?」
「一緒に住んで、あのベッドを始め家具は全て共有。家賃や光熱費はこちら持ち。その代わり、糸守君には家事の一切をやっていただきます」
「……あのー、それってつまり、同棲ってことですか?」
「違います。住み込みのバイトです」
「いや、同棲ですよね!? どう違うんですか!?」
「仮に同棲だったとして、何か不都合でも?」
無表情なせいで、眼球の存在感がより際立つ。
力強い黄金の瞳に見つめられ、蛇に睨まれたように声が出ない。
「料理は私も好きなので、たまに作ります。掃除は週に三回。あとは洗濯やアイロンがけ、宅配の受け取りやゴミ出し等をしていただければ大丈夫なので。私から現金を貰うことに抵抗があるなら、空いた時間にこれまで通り単発でバイトを入れればよろしいかと」
勝手に話を転がして、コーヒーで唇を濡らした。
ジッと再度俺を見つめ、「いかがですか?」と問う。
「あー……えーっと、あ、ありがたい話、なんですけど……」
嫌ではない。
むしろ、一緒に暮らせるならそうしたい。
精神的にも、肉体的にも、そっちの方が絶対にいい。
防犯のことを考えても、もしもの時は俺が侵入者を撃退できるし、最悪盾になるという手段もある。
自分の気持ちは明白だ。
心の底から、先輩の提案に対し首を縦に振りたい。
――でも。
背中に嫌な汗が浮かぶ。
やめておけと、耳元で囁く。
「ごめんなさい。今の家、そこそこ気に入ってて。手狭ですけど、立地は悪くないですし――」
「それは本心ですか?」
「……えっ?」
「今の家の方がいいと、本当に思っていらっしゃるのなら構いません。ただ私に言えない理由があるのなら、素直にそう言ってください。理由の方は聞かないので」
全てを見透かしたような眼光に当てられ、口の中がやけに渇く。
小さく深呼吸して、コーヒーを一口飲んで、ニッコリと笑う。
「先輩に言えないこと何てありませんよ。大丈夫です、安心してください」
口早に言って、「それよりも」と続けた。
風呂に入ったあと、先輩が用意してくれていた新しい下着と服。柔軟剤のいい匂いが漂うTシャツを一瞥して、先輩へ視線を移す。
「このTシャツもズボンも……あとパンツも、たぶん俺のですよね?」
「ななな何のここことですか?」
カップを持つ手がガタガタと痙攣し、目に見えて動揺してる。
「あと当たり前みたいに寝巻きにしてるそのワイシャツも、俺のじゃありませんか?」
「……」
「どれくらい持って帰ってるんです? 怒らないので教えてください」
「……も、もうありませんよ?」
その顔、絶対嘘ついてるだろ。
無表情だからって隠し通せると思うなよ。
「俺、そんなに服持ってないんで程々にしてくださいよ。先輩だって、俺が服持って帰ったら困るでしょう?」
「だって……だってぇ……うぅー……」
「そんな唸られても……」
鉄仮面が解れ、素の表情が表に出た。
悔しそうに唇を結び、両の瞳に薄い涙の膜を張る。
「寂しくさせるのが悪いんだもん! 一緒に住めば解決するもん! だから、同棲してくれるまで返さないから!」
「住み込みのバイト、じゃなかったんですか?」
「揚げ足取らないで! くそぉ……私が大好きなのをいいことに、調子に乗りやがってー! もっともっと好きになるぞばかー! あほー!」
「いや、どういう脅しなんですか……」
これ以上、うちから衣類がなくなるのか?
あぁ……それだと流石に困るな。
◆
あれから数日が経った。
時刻は午後一時過ぎ。
今日も今日とて、私は糸守君の家に来ていた。
「晩御飯に何かリクエストはありますか?」
ソファに座って読書をする糸守君と、その膝を枕代わりにする私。仕事関係のメールを返し終え、私はスマホをテーブルに置いて視線を上げる。
「中華はどうですか? 前に作ってくれた八宝菜、すごく美味しかったです」
「わかりました。糸守君の好きなウズラの卵を多めに入れて作りましょう」
「あ、ありがとうございます」
子供扱いをしてしまったのだろうか。
糸守君は気恥ずかしそうに笑って、そっと本で顔を隠した。
ピンポーン。
呼び鈴がなり、彼は玄関の方へ目を向けた。
私はそっと立ち上がり、「出てきます」と部屋を出る。
鍵を開けて扉を開くと、そこには女の子が立っていた。
Tシャツにショートパンツと夏らしい装い。黒い髪を一纏めにして揺らし、肌は焼けて煮卵のよう。爛々とした瞳は私を見て驚きの色に燃え、次いで遅れてやって来た糸守君に視線を移すなりハッと息を飲む。
「どぉおおおおりゃああああああああ――――ッ!!」
彼女は私を押しのけて玄関に入り、糸守君の顔面目掛けて飛び蹴りを食らわせた。
突然のことに何とか腕でガードするも、それでも勢いは殺せずリビングまで吹き飛ぶ。
「ちょ、待っ――」
「この大バカ野郎!! モテないからって、女の人を監禁するとか何考えてるんだ!? わたしがその根性叩き直してやるー!!」
「違うっ! 違うから!」
怒声を響かせながら、素人とは思えない身のこなしで糸守君に殴る蹴るの猛攻を加えた。
手や足が空気を切る鋭い音と、それを受け止める鈍い音。
わけがわからずに「あ、あのー」と後ろから声をかけると、その女の子はバッと振り返り明るく笑った。
「お姉さんは今のうちに逃げてください! このクソ兄貴は、わたしが何とかするので!」
「えっ……あ、兄貴?」
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