第21話 私の好きな匂いだ
「――……もう一回、する?」
その提案に、天井に突き刺していた視線をぐいっと落とした。
上気した頬。潤んだ瞳。淡い吐息。彼女の何もかもが破城槌のように俺の理性を叩くが、寸でのところで踏みとどまる。
「な、何言ってるんですか。冗談はやめてくださいよ。……俺たち、ただの友達ですよね?」
ヘラヘラと、何でもないようなフリをして言った。
先輩は小さく頷く。しかし体勢は変わらず、両の瞳がぱちりと瞬いて俺を映す。
「……でも、お互いに幸せだったわけだし。メリットしかなくない?」
「だ、だからって――」
「ノーカンだし! お酒呑んでるから、ノーカン……だし。だいじょぶ……うん、大丈夫だよ」
長くしなやかな指が、俺の胸のあたりをギュッと掴んだ。
服にシワが寄り、じわっと手汗が染みる。
このまま流されてはダメだ。
酔ってこんなことをしているのなら、余計に跳ねのけなければ。
そう頭では理解できていても、中々どうして身体は上手く動かない。
じりじりと、じわじわと。
カタツムリの行進のような速度で、少しずつ先輩が迫って来る。
「……ダメ、ですよ。さ、流石に、こういうのは」
どうにか声を絞り出したが、それでも身体は動かないままだった。
「……嫌なの?」
「は、はい?」
「私とするの、嫌なの?」
「……」
嫌なわけがない。
草の根を分けて探したって、嫌な理由など見つからない。
でも、そういうことではない。
俺たちは友達だ。嫌じゃないからといって、やっていいことと悪いことがある。
「……嫌なんだ。私のこと、嫌いなんだ」
先輩は眉を僅かに落として、怒られた子犬のような情けない顔をした。
もしかしたら演技かもしれない。ただの悪ふざけかもしれない。
――だとしても、俺は先輩のそんな顔を見るのが嫌だった。
「ぅあっ……!」
先輩の背中に腕を回して軽く引き寄せると、上擦った声を漏らして目を見開いた。
しかしすぐに状況を呑み込み、口元をだらしなく緩ませる。
こつん。
一気に距離を詰めてきた先輩。
額と額がぶつかり、たいした衝撃ではないが少しだけ痛い。それは彼女も同じだったようで、申し訳なさそうに笑う。
「……あの」
「……なに?」
「俺の息、臭かったりしません?」
「……ぷっ。くふっ、ふふふっ」
「な、何で笑うんですか!」
「この状況でそんな心配するの、糸守君ぽいなーって」
「バカにしてます……?」
「ううん。好きだなぁって思ってる」
ふつふつと、顔が沸騰していく。
その様子が面白いのか、先輩はまたしてもクスクスと喉を鳴らす。
「全然臭くないよ。……私は?」
「お酒の匂いと……あと、何かいい匂いがします」
「ありがと。糸守君もいい匂いする」
「お世辞はいいですよ。俺、香水も何もつけてませんし。今日、バイトで汗かきましたし」
「いい匂いだよ。私の好きな匂いだ」
鼻先と鼻先が触れた。
見つめ合ったまま、スンスンとお互いがそこにいることを確認する。
犬みたいだなと思って少しだけ笑うと、彼女も同じように笑みを浮かべた。
一緒なことが嬉しい。
ただそれだけで、背中に回していた腕に自然と力がこもる。
「……っ」
ぴくりと、先輩は驚いたように身体を震わせた。
ほんの少しだけ触れ合った唇。すぐに離れて、お互いに視線を交換する。
「……糸守君、強引過ぎ」
「さっきほとんど無理やりしてきた人が、よくそんなこと言えますね」
「うぐっ。い、痛いところを……」
「……もういいですか? 一応、し、しましたけど」
「糸守君はもういいの?」
「えっ……」
「もういいなら、そう言って。私、離れるから」
額を合わせたまま、数秒ほど無言の時間が流れた。
彼女を見つめるほどに呼吸が荒くなり、体温が上昇して背中が汗ばむ。
もういいだろ。そのへんにしておけ。――俺の中の冷静な部分がそう叫ぶが、心臓の音がうるさくて上手く聞き取れない。
今は先輩しか見たくない。
この人の声しか聞きたくないし、この人にしか触れたくない。
「……んっ」
気がつくと、もう一度先輩にキスをしていた。
さっきよりも深く、長く。
彼女は瞼を下ろして、代わりに口を小さく開いた。
俺の下唇を小鳥のように食み、お前もやってみろとばかりに挑発的な鼻息を漏らす。それに倣って先輩の上唇を食むと、彼女は僅かに身体を震わせながら後ろにのけ反るも、俺の腕がそれを阻止する。
「く、くすぐったい……くすぐったいよぉっ」
「先にやったの、先輩ですよ」
「……うぅ。糸守君がノーダメなの、何か腹立つ」
「いや、俺もくすぐったかったんで。我慢してただけです」
そう言うと、彼女は満足そうに笑って。
今度は向こうから唇を重ねてきた。
俺の服を掴んで離さなかった手が、力を失ったようにするすると落ちてゆく。
そのまま俺の手に行き着いて、指と指を絡め強く握った。手汗が混じり合い、緊張しているのが俺だけではないことに安心し、今がもっと続けばいいのにと一層彼女を引き寄せる。
「……んっ、ぅ、ぅう……ぷはぁっ、はぁ……はぁ……」
「はぁ……ふぅー、息するの、忘れてましたね」
「別に忘れてないけど……糸守君以外に一秒でも時間使うの、嫌だったから。限界に挑戦しちゃった」
てへっとわざとらしい仕草をして、恥ずかしくなったのか顔を伏せた。
……もう、何なんだ。この可愛い生き物は。
堪らなくなり、思わず先輩の頭を撫でた。
ため息が出るほど触り心地がよく、彼女は下に向けていた視線を少しだけ上げて俺の顔を確認し、はにかんだように笑って再び目を落とす。
「……ねえ、糸守君」
「何ですか?」
「私……糸守君のこと、好きだよ」
「……え、ええ。俺も好きです」
「友達、だからね。だ、大丈夫……ノーカン、ノーカン、だから……」
「……は、はい」
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