第22話 この気持ちだけは
「お嬢様、今日は随分と上機嫌ですね」
普段まったく喋らない運転手の黒岩が、珍しく話し掛けてきた。
私は窓の外を見つめたまま、「はい、とても楽しかったので」と返す。
もう酔いも覚めて表情もいつも通りなのだが、それでも機嫌の良さが透けていたらしい。
そりゃ仕方ないよ。
だって、今日は糸守君と……き、ききっ、キス、しちゃったんだし。
ヤケ酒していた時は酷い気分だったし、無理やりしてしまった時は死にたくなったが、最終的には丸く収まってよかった。
いや、丸どころではない。
四角なのか三角なのかはわからないが、何かもうとにかくすごかった。
やったことは完全にカップル……なのだが、これが中々難しい。
『ノーカンだし! お酒呑んでるから、ノーカン……だし。だいじょぶ……うん、大丈夫だよ』
あの時、本気で糸守君のことが好きだからキスがしたいと、素直に言うべきだった。
あんな滅茶苦茶な理屈を持ち出して、ノリノリでキスをしていたのだから、彼をかなり混乱させてしまっただろう。
『友達、だからね。だ、大丈夫……ノーカン、ノーカン、だから……』
あれもよくなかった。
何が友達だ。
何がノーカンだ。
私はただ、怖かっただけだ。
自分の手で、関係を進めることが。後戻りの効かないところへ行くことが。
それなのに彼と恋人になりたいと思っている自分もいて、我ながら卑怯だと思うが、友達と恋人のいいとこ取りをしてしまった。
もうここから、何をどうすればいいのかわからない。説明書が欲しい、攻略本が欲しい。
……。
…………。
………………まーでも、今日のところはいっか!
キスできたし! いっぱいチュッチュしたし!
古今東西様々な作品で、どうしてああも愛情表現としてキスが用いられるのかわかった気がする。
あれはやばい。
脳が溶ける。ほわほわして、ふわふわして、ほんとにバカになる。
おかげさまで、もっともっと糸守君のことを好きになってしまった。
「はぁ……」
あと一回くらいしておけばよかった。
そんな後悔に小さく息をついて、指先で唇をなぞった。
◆
先輩を見送って部屋に戻った俺は、ベッドに寝転がり天井を見つめていた。
ふと、彼女の唇の感触が蘇る。
膝の上の温もりが、髪のしなやかさが、身体のやわらかさが、猛火のように頭の中を焼いて、その熱は顔にまで伝播する。
「……っ」
寝返りをうち、ぼふっとマットレスを殴った。
シーツを掴み、動物のような低い唸り声をあげて、足をバタバタと動かす。
『友達に嫌なことさせたくないし。傷つく糸守君も見たくないしさ』
一条先輩に呼び出された日の夜が脳裏を過ぎった。
あの時に感じた、不思議な気持ち。
胸中に渦巻く輪郭のない感情。
あれが何だったのか、今ならわかる。
「俺……」
彼女に触れて、触れられて、ようやく理解した。
俺の好きは、友達としての好きではない。
「――……先輩のこと、本気で好きだったんだ」
もっと触れたい。一緒にいたい。自分のものにしたい。
この好きは、
これを友情と呼ぶのは、流石に無理がある。
独りよがりな一方通行の恋だったらよかった。ただ諦めれば済むのだから。
しかしこれはかなり厄介で、俺だけの問題ではないかもしれない。
というのも、
『……でも、お互いに幸せだったわけだし。メリットしかなくない?』
『だ、だからって――』
『ノーカンだし! お酒呑んでるから、ノーカン……だし。だいじょぶ……うん、大丈夫だよ』
今日のやり取りを思い出す。
あの人と知り合ってから日は浅いが、メリットしかないだとか、お酒を呑んでるからノーカンだとか、そんな理由で身体を許すような人とは思えない。
きっと別に理由がある。
――先輩も、俺のことが本気で好きなのではないか。
無い。あり得ない。
あの人の周りには魅力的な異性など掃いて捨てるほどいるだろうし、その中でよりにもよって俺を選ぶなんてどんな趣味の悪さだ。バカげている。意味がわからない。
……そう、思いつつ。
俺の予想が正しかった場合、今日の全てに納得がいく。
一条先輩とのやり取りに嫉妬していたこと、それでヤケ酒して俺に絡んできたこと、キスがしたいと迫って来たこと。それら一切合切に説明がついてしまう。
それだけではない。
ただ友達として好き。それだけの男のために、毎日食事を作りに来るなんて手間のかかることをするだろうか。
愛してると言いながら抱き締めろなんて、どう考えても友達同士ですることじゃない。
ここ最近の俺への絡み方は、明らかに友達の枠組みを超えている。
これらも全て、先輩の俺への想いが恋愛感情だった場合、辻褄が合ってしまう。
「……両想い、だよな。これって……」
そう独り言ちた瞬間、ブーッとスマホが振動した。
先輩から電話か。タイミングがいいというか、悪いというか。
「はい、もしもし。どうしました、先輩」
『あ、いえ。今家に着いたのですが、その……』
「何ですか?」
『ちょっと糸守君の声が聞きたくて……えっと、ご迷惑でしたか?』
「あ、あぁ。全然そんな、気にしなくて大丈夫ですよ」
こういったことは特段珍しいことではなく、先輩はそこそこの頻度で俺に電話をかけてくる。
俺自身、先輩と話すのは好きなのだが……。
この人は俺に恋愛感情を抱いているのではないか。そう思うと、話の内容がほとんど頭に入ってこない。
『お疲れですか?』
俺がどこか上の空なことに気づいたのだろう。
「い、いや!」と反射的に否定するが、続く言葉が見当たらず頭を掻く。
『今夜はこれくらいにしておきましょう。また明日、晩御飯を作りに行きますね』
「あっ。ちょ、ちょっと待ってください!」
思わず引き留めてしまったが、ぶっちゃけ新しい話題などない。
ただ単純に、もう少し先輩の声を聞いていたい。その一心で、動きの鈍った脳に鞭を打ち会話のネタを練る。
「えっと、あの、俺……今日は本当に、楽しかったです!」
そう口にして、自分の頭の悪さに呆れた。
何だそれ。わざわざ引き留めてこれとか、ふざけるなよ。
小学生が惰性で書いた夏休みの日記じゃないんだぞ。
『……は、はい。私も楽しかったです』
ほら先輩、困ってるじゃないか。
どうするんだこれ。こんな微妙な空気で電話切るのか? いやダメだ、もうちょっと考えよう。何かもっと、爆笑必至な話題があるはずだ。
『また明日も呑みましょう。いっぱい、たくさん呑んで……だから、えっと……』
「はい?」
『たくさん呑んで今日のようなことになっても、それは仕方のないことだと思います』
「……」
『酔って起きたことはノーカン、なので……』
「……」
『ですので、明日も楽しみです』
「……お、俺も。はい。楽しみです」
『それでは、おやすみなさい』
プー、プー。
電話が切れてから数秒間、俺はベッドに突っ伏して足をバタバタと動かした。
今先輩は、暗に言っていた。
明日も今日みたいなことをしよう、と。
「絶対好きだろ!! そういうことだろ、これ……!!」
片想いをしたことはあるが、どうせ俺なんてと諦めるのが常でだった。
好かれなくていいから、せめて嫌われたくなくて、何も行動に移してこなかった。
……でもこれは、告白するべきだよな。流石に。
何でもお酒のせいにするなんて不健全だ。
先輩の身体に触れる以上、せめてちゃんとした関係でありたい。ノーカンにせず、俺の責任で先輩を抱き締めたい。
とは思うのだが、告白の仕方など知らないし、そもそもそんな度胸は持ち合わせていない。
万が一、億が一、兆が一、フラれたら。
全部俺の勘違いで向こうにその気がなく、俺が出しゃばったばかりに関係が破綻、また一人っきりの毎日に逆戻りしたら。
想像しただけで吐きそうになる。
「はぁー……」
先輩の方から告白してくれたらどれだけ楽か。
……そんな、あまりにも情けないことを考えながら、大きなため息を零して肩を落とした。
「――っ!」
パシッと自分の両頬を叩く。
しっかりしろよ、俺。
友達になろうと手を差し伸べてくれて、古傷を見ても引かないでいてくれて、俺のことを大切にしてくれて、その上更に恋人になろうって言って欲しいなんてムシがいいにも程があるだろ。
もし違っていて、全部失うことになってもいい。
先輩が俺のことを好きかもしれないから告白するんじゃない。俺が先輩のことが好きだから、告白するんだ。
この気持ちだけは、俺の口から伝えなければ。
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