第29話 好きです


 先輩に連れられてバルコニーに出た。

 時刻は午後七時過ぎ。日が傾き始め、涼しげな風が頬を撫でてゆく。


「あの、先輩っ」


 俺の呼びかけに、先輩はネクタイを直しながら「はい」と短く返事をした。

 シラフ特有の無感情な顔で。


「今日の先輩、すごく綺麗です。……あっ、綺麗なのはいつもですけど、そのドレスがめちゃくちゃ似合ってて……!」


 妖精のような金の髪と金の瞳。モデル顔負けのスタイルに大人びた顔つき。それらを一層引き立たせる、豪華な深紅のドレス。


 少し前に出かけた際、可愛いというよう注意を受けたことを思い出し、指摘される前に素直な感想を伝えた。本当に綺麗で見惚れてしまう。セクシーなメイクも相まって直視するのも難しい。


「……ありがとうございます」


 スイッチが入った先輩は確かに無表情だが、完全に感情が死ぬわけではない。

 嬉しそうだったり、楽しそうだったりと、いくらか滲むものがある。


 今の先輩の顔にあるのは、悲しみの色だった。

 俺の褒め言葉が陳腐だったのか? いや、そんなことで先輩はこんな顔しないだろ。


「どうしました? 具合でも悪いとか?」


 ネクタイを直し終えた先輩は、すっと俺を見上げて、すぐに視線を落とした。


「……申し訳ございません」

「な、何で謝るんですか。意味がわかりませんよ」

「申し訳ございません……本当に、本当に、ごめんなさい。ごめんなさいっ」


 ジャケットの袖を指でぎゅっと摘まみ、何度も何度も謝罪した。

 時折俺を見上げるその顔は、やはり鉄のように硬いが今にも泣き出しそうな雰囲気を孕んでいる。


 わからない。

 まったく理解できない。

 「どういうことですか?」と尋ねると、彼女は震えながらルージュの唇を開く。


「……糸守君に、手荒なことをさせてしまいました」

「えっ? あー……い、いや、あれは別に、そういうのじゃ。ちょっと話したら、あいつら腹痛でトイレに行っちゃって――」


 当然嘘だ。実際はトイレに連れ込んで、サクッと気絶させて個室で寝かせている。

 そんなことはお見通しのようで、先輩はふるふると首を横に振る。


「争い事が好きではないと知っていたのに……先ほど私は、あなたが手を汚すことを願ってしまいました。私が強くなればいいと大口を叩いておいて、自分ではどうにもできない事態に陥ったからといって都合よく……ごめんなさい、ごめん……ごめんね、糸守君……っ」


 俺の胸にそっと額を当てて肩を震わせる。

 ぽつりと、革靴の上に何かが落ちた。音の正体は確かめるまでもない。


 本当に……本当の本当に、心の底から思う。

 この人に出会えてよかったと、噛み締める。


「謝らないでください。俺は何とも思ってませんから」


 肩に手を置くと、先輩はそっと顔を上げた。

 今にも零れ落ちそうな涙を指で掬って、艶やかな髪を撫でる。


「確かに争い事は嫌いです。でも、先輩がいやな思いをするのはもっと嫌いなんです。……だから、そんな顔しないでくださいよ。俺、鍛えててよかったなって、最近になってようやく思えるようになったんです。俺のことを大切にしてくれる先輩だから、全身全霊で守りたいんです! ……そういう風に思うのってダメですか?」


 我ながら、卑怯な言葉選びをしてしまった。

 こんなことを言われて、ダメだと否定するのは難しい。


 案の定、先輩は難しそうに唇を結び、最終的には「わかりました」と首を縦に振った。

 その顔に悲しそうな気配はなく、どうしようもない子供を見るような愛情と諦念の混じった淡い笑みが刻まれている。


「っていうかあの二人、何でここにいるんですか? 招待したわけないですよね?」

「今夜のお客様の中で、実際に私が招待した人は極僅かです。あとは身内とそのお知り合い。あの二人はオジ様の……私のお爺様の親友のお孫さんです」

「えっ。じゃあもしかして、この会場にその親友の人、来てたりします?」

「糸守君に話し掛けた、ご高齢の方を覚えていますか? あの方です」

「……ま、マジですか?」


 ブワッと全身から冷たい汗が噴き出した。

 やばい。完全にやらかしたぞ。


 祖父の前でその孫を連れ出してトイレにぶち込むとか、やっていることが完全にヤクザだ。先輩を助けたどころか、先輩の名にとんでもない傷をつけてしまったかもしれない。


「ちょうどオジ様から、あの二人のどちらかと関係を持つよう迫られていたので本当に助かりました。ありがとうございます」

「か、関係? 関係って、そういう意味のアレですよね? 誕生日会でそれは流石にどうなんですか……?」

「オジ様だけではなく、この場の相当数の目的はそれです。天王寺家の身内に入れば、何かと得をすることが多いので」

「……はぁ?」


 一瞬にして怒りが沸点を突破し、少しだけ吹きこぼれてしまった。

 ビクッと怯える先輩に、「ご、ごめんなさい!」と謝罪して俯く。奥歯を強く噛み、煮え返りそうなハラワタをどうにかなだめる。


『……その代わりってわけじゃないけど、誕生日会、絶対に来てね。一緒にいてくれたら、私も楽しく過ごせると思うから』


 あの時の先輩の言葉の意味がようやく理解できた。

 お祝いなど建前で、自分をそういう目で見る人間ばかりが集う誕生日会など楽しいわけがない。


「失礼ですけど、それなら参加者を絞ればいいじゃないですか。それこそ、先輩が招待した人だけにするとか……」


 俺が言ったところで、どうにもならないことはわかっている。

 だが、口を出さずにはいられない。こんなのは絶対におかしい。


「亡くなったお爺様が企画されたものなので、そう簡単にはいきません。私が寂しくないよう、大勢の人を集めるのが目的ですので」

「……寂しくないって、どういうことですか?」

「今日は私の誕生日ですが――」


 ふっと、先輩の表情に陰が差した。

 続く言葉を躊躇う唇。大丈夫だろうかと顔を覗き込むと、彼女は小さく深呼吸をして、


「同時に……母の命日でもあるのです」


 俺の目を見つめたまま、静かにそう告げた。


「幼かった私が自分の誕生日を嫌いにならないよう盛大に祝おうという、お爺様なりの気遣いです。実情がどうであれ、その気持ちを無下になどできません」


 と言って、ふっと視線を後ろへ流した。

 大広間とバルコニーを繋ぐ出入口。ガラス扉の向こう側には、チラチラとこちらの様子をうかがう男が十人以上はいる。先輩が戻って来るのを待っているのだろう。


「一言二言話して、何かお誘いを受けた時はやんわりとお断りをする。大変ですが、これも私の務めです。……ですから糸守君、どうか私のそばにいてください。あなたがいてくれたら、最後まで頑張れるので」


 儚くて、そよ風が吹けばかき消えてしまいそうな、そんな声だった。


 そりゃそばにいる。頼まれなくたってそうする。

 この場の大勢が俺のやったことを目撃したわけだから、俺が睨みをきかせていればあの二人みたいな輩は現れないだろう。


 でも、それでいいのか?


 務めって何だよ。頑張れるって何だよ。

 せっかくの誕生日なのに……しかもお母さんの命日なのに、そんなのってあんまりじゃないか。


 沖縄の別荘に行く時だって、泣きたくないからと俺を同行させるくらい、今もお母さんのことを大切に想っているのに。


 それなのに……何なんだ、くそ。ふざけるな。


 俺だったら絶対に耐えられない。

 母さんの命日に、やりたくもない他人のご機嫌うかがいなんて吐き気がする。


 ……いっそ全部、何もかも、ぶち壊してやろうか。


 こんな誕生日会があるからいけないんだ。

 ちょっと暴れて中止に追い込む、とか。もっと平和的に、先輩をここから攫うのはありかもしれない。そうだ、それがいい。


「どうされましたか? 少々、目が怖いのですが」

「……あ、あぁ、いえ。すみません、大丈夫です」


 ダメだダメだ。

 何がありだよ。バカか俺は。なしに決まってるだろ。


 頭に血が昇ってるな。少し深呼吸しよう。


 今日の会には、俺のように先輩から直々に招待を受けた人が他にもいる。

 もちろん仲のいい身内もいて、その他の人だって全員が下らない目的を持って来たわけではないだろう。何の関係もない人たちに迷惑がかかることを、先輩が望むわけがない。


 先輩のお母さんだって、そんなことをしたら怒るはずだ。


『……わかりました。当日は先輩が楽しいって思えるように最大限努力します! 一発芸でも何でも任せてください!』

『うん、ありがと。約束だよ?』

『はい、約束です』


 考えろ。考えるんだ。

 ここで状況を変えられないなら、何のためにあんな約束をしたかわからない。


 先輩の頭痛の種は、あの男たち。

 平和的に、安全に、誰にも迷惑をかけることなく、その種を取り除く方法がきっとある。


「――――あっ」


 できの悪い頭を振り絞り、一つだけ掴み取った。


 これが最良で最善なのかはわからない。

 本当に現状を打開するに足るかも、正直自信はない。

 それでも、今はこれしか思いつかないし、他の案を模索する時間などない。


「先輩――っ!」


 彼女の手を取った。

 強く、強く、どこへも行かせないよう握り締めた。




 ◆




 突然、糸守君に手を握られた。


 急いできたせいか、気温が高いせいか、やけに汗ばんでいた。

 わけが分からず首を傾げると、彼は視線を逸らして唇を噛む。それでも手だけは離そうとせず、むしろ一層力を込めて汗をにじませる。


「……あの、糸守君?」


 チラリと後ろを確認する。

 私目当ての客人たちが、今か今かとこちらの様子をうかがっている。早く行って適当に相手をしないと、向こうから話し掛けてきそうだ。


「せ、先輩……えっと、その、俺っ……!」


 緊張に満ち満ちた漆黒の瞳で、ジッと私だけを映した。

 頬を焦がすほどに赤くして、唇を震わせ言葉にならない何かを紡ぐ。


「……っ……す、すっ……!」

「す?」



「――……す、好きです!!」



 ぴたりと、虫の音が止まったような気がした。

 とても静かで、それに反比例して自分の心臓の音がやけにうるさい。


 糸守君の大きくてゴツゴツとした手が、更に強く私の手を握った。

 滴り落ちそうな手汗。彼の熱が伝播したのか、私まで全身に汗が浮かぶ。



「何があっても、絶対に幸せにします! だから、その……お、俺と付き合ってください!」



 今にも爆発しそうなほど、糸守君の顔はいっぱいいっぱいだった。

 もちろん、私にも余裕なんて呼べるものは一ミリもない。鉄のように硬い顔は、自分でもわかるくらいに溶けて、笑っているような泣いているような表情を浮かべている。


 なぜ、どうして、今それを言うのか。

 もっと相応しい時と場所があるのではないか。


 疑問は尽きないが、それらをこの場で問う暇などない。


 身体は勝手に、彼の手を握り返していた。

 息を呑み、少し吐いて、目が回りそうなほどの熱を逃がす。涙なのか汗なのかわからない液体が頬を伝い、顎の先からぽたぽたと落ちてゆく。


「……っ……」


 その水滴の行方を見送って、私は彼の瞳に視線を合わした。


「は、はいっ……!」


 告白の返事がこれでいいのかと、どこか冷静な自分が囁く。


 でも、今はこれが精一杯。

 こんなに嬉しいことが世の中にあるとは知らず、これ以上は言葉にできない。

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