「思い出は一瞬のうちに」Part 2
@MasatoHiraguri
第1話 プロローグ
大学卒業後(1980年)に就職した会社(総合商社のある子会社)の社長が、一泊の社内旅行で深夜、若い数人の社員を前に若かりし頃の話をしました。
この方は、1970年代、当時破竹の勢いであった丸紅で、大久保利通の孫である大久保専務の秘書を長く勤め、この会社のすべてを知る場にいらした方です。
その晩のお話は、テレビドラマなんかでは収まらない、漫画やアニメでしか表現できないような奇想天外の話ばかりでした。
数日後、そのお話を一緒に聞いていた私の上司(課長)が、私と二人だけで残業している時に、こうつぶやきました。
「確かに話自体は物凄く面白かったが」
「男が昔話をするようになったら、お終いだよ」と。
この課長は、上智大学の出で、頭がいいばかりでなく、営業マン<会社員<社会人として、誰にでも好かれる人間的魅力を持っておられました。
「悪口」など絶対に言わない。どんなに酷い人の欠点でさえ、好意的に受け入れてしまう人柄でしたので、「おしまい」なんていうキツイ言葉に、私はドッキリしました。
もともと人の話はよく聞いても(具体的に質問されなければ)自分のことは話さないという性格の私ではありましたが、この言葉は耳に残りました。
1990年頃、京都での僧堂時代には、毎日の托鉢や畑・大工仕事の休憩時間に、或いは、休息日の(酒なし)宴会の時にと、約20名いた若い雲水たちが、彼らの知らない商社(社会人)・米国駐在員時代の話を聞きたがっていたのはよくわかっていました。
しかし、「上司の言葉」以前、「問題意識のない者に話しても無意味」という、私の営業マン・マーケティングとしてのポリシーが私にはありました。
目の前の、誰がどんな人間で、どんな話に興味が持ち、さらには私が話したことについて何かしら意味のある・役に立つレスポンスを返してくれなければ、ただ漫然と一方的に話をしても時間の無駄。そういう明確な考えでビジネスをやってきた私には、世間話や与太話(単なるおもしろおかしい話)として自分の思い出を語るのは、詮無き(つまらない)事に思えたのです。
2008年に「思い出は一瞬のうちに」という本をネットで公表したのは、私が体験した1980年頃における「大学日本拳法の(バンカラ風の)雰囲気」を、(一方的な与太話でもいいから)大学日本拳法人に知っておいてもらいたかったからです。
そして、今回の「「思い出は一瞬のうちに Part 2」は、縄文人としての体験談です。聞く人によっては、単なる与太話かもしれませんが、実際に私がこの目で見て聞いて体験した本当の出来事です。嘘やはったりのない、ストレートで単純バカのこの私(縄文人)であったればこそ、飛び込めたウサギの穴(「不思議の国のアリス」)。
もし私が、韓国(百済)人や台湾客家人のような「俗っぽい人間」「世渡り上手」であったなら、決して体験することのなかった世界といえるでしょう。
「縄文人」とはなにか」といえば、早い話が、日本列島に10万年の昔から住んでいた原住民・先住民族のことです。おいおい書いていきますが、私自身は肌の色や顔かたち、DNAがどうこうというよりも、精神的に自分が縄文人であると確信しています。
私が見た「不思議の国」とは、縄文人であったればこそ体験できた。
しかし、私がわたし本来の出自である縄文人に立ち返ることができたのは、やはり、大学日本拳法で、バカ・バカと殴り合いをしたおかげ、だと思っています。技術だの筋力なんていうフィジカルな次元ではなく、ただただ「この野郎、ぶっ飛ばしてやる」という気魂だけの殴り合い。これが卒業後の人生において「もっけの幸い」となったのだと。
日本のアイヌ(縄文人)をはじめ、世界中どの国の先住民族・原住民・インディアンといった純真で素朴な人間とは、一般的な社会の価値観からすれば、恵まれているようには見えません。
アメリカン・インディアン(ネイティブ・アメリカン)、カナダの原住民・オーストラリアの原住民、そして今、私の住んでいる台湾の原住民たち。
(ところが、中国にすむ多数の原住民部族は、世界で唯一「精神性の理解できる中国政府」のおかげで、彼らの伝統と文化を安心して楽しみ、継承しているのです。)
「インディアンの言葉」紀伊国屋書店刊 に綴られたインディアンたちの言葉と、この本の著者ミシェル・ピクマルによれば、現在、ほぼ絶滅に近いアメリカン・インディアンほど高度な精神文明を築き上げた者はいない(と私は思う)。
彼らは白人たちに騙され、裏切られ、また騙され続け、500年の間に600万人が6万人になってしまった。インカ帝国やマヤ文明も同じ(完全消滅)です。
一般論としては、月へロケットを飛ばす高度な文明がこの世で生き残り、高度な精神文明は消えていく、ということになる。
しかし、個人的な問題としてこの事象を見れば、高度な地位と高い銀行残高を残してこの世から消えるのと、生きている間に高度な精神を手にしてこの世とオサラバするのとでは、大きな違いがある。金や肩書きは持って行けないが、高い精神性は消えない、という。そして、死んでも消えないものを持つ者は、正確には死んでいないということになる。
私平栗雅人の場合は、ピュアな性格というよりも(相当な)バカということで、地位や名誉、金銭的にはどん底ですが、中国の原住民と同じく「心で楽しむ」毎日を送れていますが、果たして、この「精神力で生きる」力が、肉体の消滅(死)後、消えずに残るか。
私の60年の思い出を書き綴り、それを繰り返し(自分自身で)読み返すことで、自分自身の精神(力)を増幅させ、アメリカン・インディアンほどの高い精神性には至らずとも、何度も思い出すことで、より存在感のある精神性にしようというのです。
2022年9月26日
V.1.1
平栗雅人
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