第3話 「存在を書く その1 書いたものは存在し、書かれていなければ存在しない」
「書いたものは存在し、書いていないものは存在しない」
小説における絶対の法則です。
書かなくても存在しているように見える場合も、実際には書いてあります。
たとえば「左手の結婚指輪が銀色に輝いている。」と書けば「銀色の結婚指輪」そのものが存在していることがわかります。と同時に「この人物は結婚していて、配偶者がいる」つまり「配偶者」の存在も同時に書いていることになります。取り立てて「配偶者」と書かなくても、読み手は皆「配偶者」の存在を意識するのです。
まあこれは隠喩的なテクニックによるものです。実際的には「書かなければ存在しない」のが小説の文章です。
書かなければ存在しない
「書かなければ存在しない」のが小説の文章です。
その場に何人いるのかも、書かなければ読み手はわかりません。
「人々が集っていた。」と書いてから三人の名を挙げていくと「少なくとも三人は確定しているが、それ以上に人がいる」ことになります。
それがなく、単に三人の名前を挙げて書くと「そこには三人しかいない」ことが確定します。(語り手である主人公を含めて四人の場合も)。
たとえば「三谷さんが背広を着てテレビに出ている。隣で立っている安住さんがキャスターだ。」と書けば、存在しているのは三谷さんと安住さんのふたりだけ。もちろん語り手を含めれば三人だけです。
実はここにも隠喩的な使い方があります。
たとえば「渋谷の雑踏の中、ビートたけしさんと明石家さんまさんとタモリさんがいる。」と書いたとします。
渋谷には「ビートたけし」「明石家さんま」「タモリ」の三名、そして語り手のを加えた四名がいることがわかります。
しかし「雑踏」と書いてあるので「他にも人がいる」ことがわかります。「雑踏」という言葉でかなりの人数がいると隠喩されています。
しかもすごいことに、「渋谷には、ビートたけしさんと明石家さんまさんとタモリさんがいる。」と書いたとしても、「渋谷」は皆が知る若者の喧騒の街ですから「他にもいるだろう」と感じてしまいます。
もし本当に語り手を加えた四名のみが渋谷にいる場合は「渋谷には、ビートたけしさんと明石家さんまさんとタモリさんと私の四名しかいない。」と書かなくてはならないのです。「渋谷」という若者の喧騒の街でも、今は「四名しかいない」わけですね。
ここまで書かないと「他にも人はいる」と思われてしまいます。
共通認識で書かなくても存在することがある
「書かなければ存在しない」のが小説の文章です。
しかし「単語によって連想されるものも存在する」という側面もあります。
共通認識のある単語を選ぶと、本来「書かなければ存在しない」はずのものでも、その単語から認識される共通のものが「存在している」ように受け取られるのです。
「結婚指輪」で「配偶者」の存在が、「渋谷」で「大勢の若者」の存在が自然と頭に湧いてくる。これも小説の文章の特徴です。
同じ「まち」でも「町」はのどかで人がいないかいてもまばらですが、「街」は人がごった返して賑わっているイメージがありませんか?
これも「単語によって連想されるものも存在する」という小説の文章の側面に起因しています。
そこで「省いてもわかるものについては省いたほうがスマートになる」という一面から見てみます。「結婚指輪」と書いているのに「妻がいる」と書いたり、「渋谷」と書いているのに「大勢の若者がいる」と書いたり。これって書かなくてもだいたいわかりますよね。
「結婚指輪」は配偶者(夫か妻)がいるから着けるものですし、「渋谷」も若者の街なのですから。あえて「夫」「妻」とか「大勢の若者」とか書かなくても理解できます。
であれば、「夫がいる」「妻がいる」「大勢の若者がいる」と書かなくても彼らは物語上に存在するのです。それなら省いても問題ないですよね。
異世界で現実世界の共通認識は通用しない
ただ異世界ファンタジーの場合はこうはいかないのです。
なぜなら、この異世界は書き手が創ったものであり、読み手に共通認識が存在しないからです。
仮に「帝都」と書いたとして、人がどのくらいの密度で存在しているのかは読み手にはいっさいわかりません。人があまりいない「帝都」も存在するでしょうし、「渋谷」のようにごった返している「帝都」かもしれません。
これは書かなければわからないので、必ず書くようにしてください。
「結婚指輪」も異世界ではまったく異なる認識である可能性もあります。たとえば離婚したら着けるものかもしれませんし、婚約期間中だけ着けるものかもしれません。
現実世界では「共通認識」で省いたほうがスマートになる場合でも、あなたが創った異世界では「共通認識」は通用しないのです。
まあ異世界ファンタジーの書き手は、「共通認識は省く」などという決まりごとを知っている人ばかりではないので、指摘されなくてもしっかり書き込んでいる方が多いでしょう。
あとがき
今回は「書いたものは存在し、書いていないものは存在しない」について述べました。
小説とは、基本的に書かなければ存在しません。書いたものは存在しています。
「ドラえもんがいる」と書けば、その小説には「ドラえもん」が存在するのです。
芥川龍之介氏『蜘蛛の糸』は、主人公のカンダタ、天界のお釈迦様とカンダタに助けられた蜘蛛、そして地獄にいるその他大勢の罪人が出てきます。逆にいえばそれしか出てこないのです。天界にはお釈迦様以外にも神仏はいるはずですが、この物語ではお釈迦様とカンダタに助けられた蜘蛛しかいない。
「書いたものは存在し、書いていないものは存在しない」が徹底されているのです。
だからこそ雑事に惑わされず、物語に集中できます。
今回は短いのですが、次回がちょっと理解しづらいかもしれませんので、少しゆとりをもっていただけたらと存じます。
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