第8話

 私が呆然と熱田氏を見つめている間、熱田氏は「機嫌好き無表情」とでも表現し得るような顔で、ただ私を見つめ返していた。

 ニヤニヤしてもいなければニコニコもしていない、さりとて怒りや悲嘆の感情を浮かべているわけでもない――

 いつの間に呼んだのか、テーブル脇に来た店員に向かって熱田氏はドリンクバー二人分を注文し、私に何を飲むか訊ねた。

 私は恐らく「コーヒー」と答えたのだろう。

 何故なら熱田氏がその後、私の目の前にコーヒーを運んできて置いたからだ。

 俺は、あの足に、殺される可能性があるってことか――

 私の脳内とその他すべて体内に、その考えが詰まっていた。

 それはやっぱり、蹴り殺される、というやり方でなのか――

 たとえ痛みはそれほどではないとしても、やはり同部位に何度も繰り返し攻撃を受け続けると、ダメージが蓄積してやがては致命的な状態になるということなのか――

 あいつは、俺を殺すのが目的なのか?

 俺に対して、殺意を持っているのか?

 脳内をぐるぐる回る、という表現がまさにぴったりだったが、その他すべて体内までをも、その考えはぐるぐる回っていた。

 懐いてさえ、いるものかと思っていた――

 私の、脳内かまたはどこか体内の片隅に、そんな想いがぽつねんと生まれていた。

 俺の、勘違いだったのかな――

 あいつは俺に懐くどころか、殺意さえ持って、それでどすどす蹴ってきていたんだ。

 俺を、殺そうとして。

「まあ、飲まないの?」

 熱田氏の笑いを含んだ声に、私はハッと現実に連れ戻された。

「冷めるわよ」

 熱田氏は自分のコーヒーカップを顎の下に持っていきつつ、私のカップを顎で示した。

 私はカップを手に取り、ブラックコーヒーを一口すすった。

 その様子を熱田氏は、やはり“機嫌好き無表情”で、無言のまま見ていた。

 私が、ほとんど減っていないコーヒーのカップを皿の上に置くと、熱田氏も同じ所作をし、それから両袖をまくり始めた。

「じゃあ、そろそろ始めるわね」

「え」

 私は顔を上げた。

 熱田氏の、白く逞しい両腕が露になっていた。

「熱田スペシウムっていうの」

 熱田氏は言って、超ピンク色の唇を左右に広げニヤリと笑った。

 私は言葉もなく、眉を持ち上げて「何ですかそれ?」という質問の代わりにした。

「つまり私独自の、霊視のやり方でね」

 そう言いながら熱田氏は、右腕を顔の前に立て、その肘の辺りに左手を横向きの手刀の型にして添える、というポーズを取った。

「こうやって、ここから分泌するの。熱田スペシウムを」


 ぞわっ、とした。


 ぞわっ、としか、言えない感じだった。

 背中から、その他全身に、一瞬のうちに鳥肌が立つのがわかった。

 目の前に、よく実った大根のような、熱田氏のむき出しの前腕がある。

 産毛がうっすらと見てとれる。


「分泌するの」


 熱田氏の周波数高めの声が、余韻として響き渡った。

「分泌」

 何が。

 いったい、何が出てくるのか。

 その、逞しい前腕から、何が。

「分泌」って。

 いったい、どのように。

「わあああ」と叫んで立ち上がりたい衝動に駆られた。

 だが私は、ぎゅっと目を瞑って耐えた。

 理性が、まだ私の体内に――脳内はわからないが――残っていたのだ。

 いわゆる「嫌な汗」がじっとりと、それこそまさに“分泌”された。

 それで余計に、私の中の嫌悪感が強まった。

「分泌」って、つまりこの汗のように、この女は霊視するための“何か”を、その前腕から放出させるのか。

 見えない何かを。

 私に向かって。

 じんわり、じわじわと。

 説明のつかない気持ち悪さが、私を完全に包み込んだ。

 私は、息を喘がせた。

 やめろ。

「や、め」

 声にならない抵抗の言葉が、唇の間から洩れた。

「頑張って」

 熱田氏は表情を変えることなく、私にそう告げた。

「負けないで。少しの間だから」


 汚らわしい!


 私の中で、そういう言葉がはっきりと形どられた。

 そうだ。

 私は「分泌」という言葉から、いや、熱田氏の行動から、いや、熱田氏その人そのものから、何かしら汚らわしい、忌避すべきものを、その時強く感じていたのだ。

「ものすごい抵抗ね」

 熱田氏はほんの少し目を細めた。

 ポーズは変わらない。

 脂汗を浮かべ息も絶え絶えの私の視野の隅に、店員の少女が驚いたように目を見開いてこっちを見ている姿が映った。少し離れたテーブルの上の食器を片付けていて、私たちの様子に気づいたようだ。

 彼女はそばを通りかかった、先輩らしき他の店員の少女に声をかけ、一瞬だけ私たちの方を指差して何事か囁いた。

 先輩店員もちらりとこっちを見たが、ああ、という形に口を開き、やはり短く何事か説明した。

 後輩店員の方は、目を見開いたままだったが納得したように、同じくああ、という形に口を開き、そして

「熱田さん」

と、呟いた――声は届かなかったが。

 そうか。

 私は朦朧とした意識の中で、理解した。

 ここは、このファミレスは、熱田氏の「行きつけの場所」なのだ。

 彼女はいつもここで“依頼者”と面談しているのだ。

 そして恐らくいつもここで、今日と同じように、熱田スペシウム光線を“分泌”しているのだ。

 霊視のために。

 つまり彼女はこの店の「有名人」なのだろう。

 ああ。

 ぜってえ、来ねえ。

 彼女となんか。


「ここ、いいだろ。俺さ、前ここで霊視してもらったんだよ。熱田スペシウム分泌する人に」


 死んでも来るか。

 やがて熱田氏は、両腕を下ろした。

 小さな目は、じっと私を見たままだ。

 彼女の腕が下りてすぐ、私も何かから“解放”された。

 そうとしか、表現できない気分だった。

 何かの束縛、或いは呪縛から、解き放たれた感じが強くした。

「なかなか、手強いわね」熱田氏は小さく首を振り、彼女の声帯の発しうる最低域の声でそう言った。「はっきりした正体はわからなかったけど……恐らく“哺乳霊”ね」

「――」ホニュウレイ? 哺乳類の、霊?

 私は呆然と熱田氏を眺めることしかできなかった。

 久しぶりに酸素呼吸をしているという実感を抱いていた。

「哺乳類の霊よ」

 熱田氏はニコリと笑った。

「略して哺乳霊」

 何故略す必要があるのか。

 だがそれも、どうでもよかった。

「だけど、動物霊なのか人間の霊なのかまではわからなかった」

 熱田氏はコーヒーカップを持ち上げすすった。

 私はげんなりした。

 今は、自分自身でも何も口にしたくないし、人が何かを口にするところも見たくなかった。

 外の、新鮮な空気を吸いたかった。

「ま、今日はこれくらいにしときましょう。疲れた?」

 熱田氏は立ち上がり、伝票を手に取った。

「あ、私が払います」

 私は反射的に伝票に手を伸ばした。

 しかし、伝票の方も、熱田氏の方も、見ていなかった。

 手だけが、反射的に伸びたのだ。

 職業上の癖のようなものだろう。

「いいわよ、経費で落ちるから」

 熱田氏はひらりと私の手をかわし、さっさと会計場へ向かった。

 経費って――

 会議費で? まさか接待交際費じゃないですよね? ドリンクバー二人分なんて、五千円以下もいいとこなんだから損金算入のためには

 私の脳は、自分の現状から目を背けることに必死だったのかも知れない。

 そして体は、ただちに扉を抜けて外へ出、そしてただちに走り出し、熱田氏から永久に離れたいという欲求に、必死で抗っていた。

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