春、再び
その日の遅番のあがりは深夜だった。
やっと家に帰りつき、ベッドに腰を掛け俺は息をつく。ここしばらく、まともに家に居られたためしがない。部下が一人、怪我で当番のローテーションを離脱しているので、致し方ないところではあったが。
明日は久しぶりに、一日非番だ。さっさと寝て、何とか朝食までに、起きなくては。とにかくネレアと一緒に、朝ご飯が食べたい。ひと月ほどろくすっぽ顔も合わせられていない妻の姿を思い浮かべる。
毎日、俺の王宮の宿舎には、いい香りのするハーブが届く。そのつつましい緑だけが、このひと月の俺を支えていた。
俺の眠りは近衛隊士にあるまじき深さだったようだ。
気が付いたときには、人影は俺のベッドに滑り込んでいた。偽の寝息を乱さないように用心しながら、俺は素早く静かに、左手で短剣を引き寄せる。
ふいに微かな甘い香りが鼻をかすめる。人影の主は、妻だった。
薄絹一枚の夜着の彼女は、俺の背にぴたりと身体を合わせる。
「……ネ、ネレアさん」
彼女は答えない。
「ネレアさん、……寝ぼけてる? 俺は、カイトです。カイト・ハーンベルク」
無言のまま、彼女が震え始める。
「え、寒いの? 大丈夫?」
思わず身体を向け顔を覗くと、彼女は目を伏せて、肩を震わせて、……笑っていた。
俺はすっかり混乱しながら、言葉をつなぐ。
「うるさかった? ごめん、起こしちゃって。
目の前で、彼女の見開かれたはしばみ色の瞳が、月明かりに濡れたように光った。俺の背筋がぞくりとする。
はしばみ色が目の前に限界まで広がり、もう一度開きかけた俺の唇を彼女の唇が覆った。彼女の手が俺の夜着に滑り込み肌に触れた時、俺の中の何かがはじけ飛んだ。
*
気怠く甘い余韻に包まれながら、私は眠りの淵から浮き上がる。温もりが恋しくてすり寄ろうとして、ベッドの隣が空なことに気づき、ゆっくりを目を開ける。
「ネレア、……すまない」
まだ夜明けの気配もない暗闇の中、やっと見えた夫は、背中を向けベッドに腰を掛けて、顔を覆っていた。そのあまりに悄然とした背中に、私は言葉を失う。
「君との初めの約束を、破るなんて。自分の立てた誓いを破るなんて……俺はとことん、駄目なんだな」
彼の声音からは、どうやらこの言葉は本気らしい。私は呆然とする。
この人は。
私が昨夜、どれだけの勇気を振り絞ってこの部屋に来たか。あなたのベッドにもぐりこんだか。分かっていないというの。
「……カイト」
ため息の混じった私の声に、カイトの背中がピクリと震えた。
「あなたのその、時々本物のアホの子なところ、嫌いじゃないけど」
強張った彼の背中に、私の右のてのひらを当ててみる。いつか地べたに座り込んで寒さに凍えていた日、この人はこうやって、私を温めてくれたっけ。あの時私は、初めて人前で泣いたのだった。
あの時の私の涙には、この人への甘えがあふれていた。もう一度、人によりかかる。あの時、多分もう私は、十分にそれをさせてもらっていた。
今の私のてのひらが、彼にとって温かいことを祈りながら、私は言葉をつなぐ。
「カイト。好きよ。私を、抱いてくれて、うれしかった。……でも、こんなことを妻に言わせるあなたは、夫としては、最低ね」
さらに強張る彼の背中に、ゆっくりと頬を寄せる。かわいいひと。
カイトが大きく息を吸う。振り向きざまに抱きしめられ、初めて聞く、切なく濡れた声が耳元で響く。
「ネレア。……愛している」
彼の背中に腕を回しながら、私は応える。
「カイト、私も、……私も、愛してるわ」
彼の身体のわななきを全身で感じながら、私は思う。
ああ、私たち、やっと、夫婦になれた。
曙の薄明かりが窓辺を彩りはじめる。夜が明ければ、軽やかな小鳥たちの歌声が聞こえ始めるだろう。窓を開ければ、朝露にぬれた春の草花の優しい香りがこの部屋いっぱいに流れ込む。やがてそこに、淹れたてのコーヒーや、焼きたてのパンの香ばしい香りが混じり始めるだろう。
それは、めくるめくような幸福の予感、そして確信だった。
カイト・ハーンベルク卿の偽りの結婚 霞(@tera1012) @tera1012
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