夏
カイト、一度目の夏
かがんだ彼女が柵越しに振り向いた瞬間、心臓が跳ねた。
少し灰色の混ざったような、不思議なはしばみ色の瞳。切れ上がった美しい目が俺を見つめる。
(あの子だ)
こんな偶然があるのだろうか。
瞬間、俺は、自分の両てのひらを見下ろして立ち尽くしていた10歳の夏の日に引き戻される。うるさいくらいに鳴いていたセミの声が、自分の荒い息遣いと同時に戻って来る。自分の周りの世界が何もかも変わったのだと、痛みと共に思い知らされたあの日。薄暗い道場の埃っぽいにおい。でもそれは、無邪気な少年の日々を悼む寂寥と、生まれ変われる予感の言いようもない高揚が入り混じった、奇妙に明るい記憶でもある。
我に返ると、目の前の女性が微かに眉をひそめて首をかしげていた。
「……失礼」
自分がぶしつけにも、まじまじと女性の顔をのぞき込んでいたことに気づき、俺は慌てて口走る。
「こちらは、イーヴァリ……元隊長のお宅でよろしいでしょうか」
彼女の視線が素早く俺の剣の柄に走り、合点したように軽くうなずきが返る。休日の私用のため、俺は今、私服で彼女の前に立っていた。見るものが見れば近衛隊士と分かるのは唯一、剣の柄にさりげなく彫り込まれた紋章のみだ。
彼女の父の遺骨に礼を捧げに、近衛隊士がこの屋敷を訪れることは、そう珍しいことではないのだろう。しかし俺は、本当のところは今日は、彼女に声をかけるつもりではなかった。自分が適当につかんだ釣り書きの女性の姓に、もしかして、と思い、住所の屋敷を確認するだけのつもりだったのだ。こんなことになるならそれなりの手続きと、せめて隊服で訪うべきだった。非常識な訪問者となってしまった自分のうかつさを内心呪いながら、俺はとにかく笑顔を浮かべる。
彼女は手にしていたスコップを地面に突き刺し、軽く手を払うと立ち上がる。その所作の美しさに俺はおもわず見惚れた。
それからひと月後、俺は彼女に結婚を申し込んだ。彼女は戸惑いながらもその申し出を受けた。まあ、ある意味卑怯なやり方だったことは認める。彼女が暮らしている屋敷が、彼女の父が亡くなった後に当主を継いだ彼女の異母弟のものであること、彼女があまり良い待遇を受けていないことは、少し調べれば簡単に分かった。俺の申し出を断れる環境に、彼女はいなかった。
彼女には、忘れられない相手がいる。いくら俺でも、死人と戦って勝てると思う程、馬鹿じゃない。でも、俺は、自ら籠の鳥になっている彼女を、どうにかして自由にしたかった。10歳の俺を解き放った彼女を、今度は俺が、どうにかして解き放つ。……あの時、それが自分にできると思ったこと自体、思い上がりではあったのかもしれないけれど。
*
ネレア、一度目の夏
結婚式は、私たちの希望を聞き入れた、王族のものとは思えない簡素なものだった。
それでも、夫となる人の招待したわずかな列席者はみな、魔術師や近衛隊の礼装に身を包んだ、異様に見目の良い人々ばかりで、やはりこの新郎は只者ではないと思わせた。
「狭くて悪いけど、しばらく、ここで仮住まいしてもらえるかな」
結婚の申し出を受けた後、連れていかれたのは、王都の一角にあるこじんまりとした家だった。
「俺が10歳から成人まで、育った家だ。今は俺、近衛隊の宿舎暮らしで……王宮の中で暮らすのは、君には窮屈だろうから、どこかにしっかりした屋敷を手に入れようとは思っているけど、君の好みが、分からなかったからさ。まあ、ゆっくりと選ぼう」
「ここがいいです」
「へ?」
眉をひそめて、夫となる人は振り返る。
「でもここ、下町だし、君の住んでた屋敷より、ずいぶんと小さいだろ。庭も、狭いし。……俺、金だけは不自由しない身分だから、気を遣わなくていいよ」
「ここがいいです」
私は、この家が、というか、庭が一目で気に入った。
入り口に、百日紅が花を咲かせている。小さいけれど、良く考え抜かれた配置の庭だった。今は少々荒れているが、手を入れれば、いくらでも美しくなるだろう。一人で好きなように庭いじりをするには、格好な広さだった。
「……そうか」
つぶやくように言ってから、夫となる人は微笑んだ。
「ここにまた主人ができるのは、うれしいな」
結婚式を終えた夜、その小さな家の寝所で、私たちはテーブルをはさんでお茶を飲んでいた。
「俺は、変則勤務や緊急の出動がある。結婚して、全く夜を自宅で過ごさないわけにもいかないだろうけど、基本は王宮の宿舎に詰めることにするから、あまり心配しなくていい」
さらりとした響きの声で、夫となった人――カイトさんは言う。
「とはいえ、今日はとりあえず、ソファーで寝るよ」
ニヤリと共犯者の笑みを浮かべる横顔に、私は思い切って問いかける。
「あの、どうして、――飾り物の妻など、ご所望になったのですか」
初めの申し出からは、少々、頭のおかしい御仁なのではと思った。ただ、短い付き合いだが、私は、彼の頭がまともだとしか思えなくなっていた。だとすれば、人に言えない肉体的欠陥があるか、政治的にまずい相方がいるのか。いずれにしても、妻の立場を演じる以上、私には、知る権利がある。
「……そう、君が聞きたいなら、話しておく必要は、あるよね」
カイトさんは前を向いたまま、淡々と話し出す。
「俺の母親は、下町の飲み屋の踊り子だった。見た目も、心も、きれいな人だったと思う。そこで、まだ王子でお忍びで遊びに来ていた現王と知り合って、相手には黙って俺を産んだ。多分、何事もなく暮らしていけたら、俺の父親が誰かは墓場まで持っていくつもりだったと思う。でも、俺が10歳になったころ、母は病に倒れた」
彼は息をつき、カップのお茶を一口含む。
「命が危なくなった時、母は俺に、父親の正体を話した。俺の先行きが、心配だったんだろう。自分が死んだら、王宮へ行って名乗りを上げろと、言っていた」
彼の瞳は、虚空を見つめている。
「俺は、その日のうちに王宮に行った。その時俺たちは貧しくて、母はまともな治療も受けられていなかった。俺は、母親の命を助けるためには、これしかないと思った」
なぜか、彼の唇には苦い笑みがある。
「それまで俺は、俺たちを放り出して知らないふりをしている父親を憎んでいた。まあ、子供だったからさ。母に、子供を孕ませるようなことをしておいて、知らなかったでは済まされないと、本気で思っていた。でも、あの時俺は、心底憎んでいた相手に、頭を下げて金を無心した。子供なりに持っていた、プライドってやつを、俺は、金のために、捨てたのさ」
もう一度、カップの中身を含もうとして、それがほとんど空だと気づき、彼は苦笑いした。私は黙って、彼のカップにお茶を注ぎ足す。
「ありがとう。――まあ、その時の自分の行動を、俺はこれっぽっちも後悔はしてない。たいていの奴は、大切な誰かを助けるためだったら、泥を飲むくらいは、平気だろ。結局、母親は数か月も持たずに死んじまったけど……」
前置きが長くなったな。カイトさんは私に目を向けた。
「母親が死んでからの方が、俺にはまあまあの地獄だった。一度上げた名乗りを撤回することは許されなくて、俺は一人で、魑魅魍魎の跋扈する王宮に放り込まれた。俺に武術と気構えを仕込んでくれた君のお父さんと、一から立ち居振る舞いを仕込んでくれたこの家の執事頭――あの『爺さん』だけどーーがいなかったら、よほどおかしな大人になっていたか、もしかしたら、死んでいたかもしれない」
本当に、恩人なんだよ。彼はつぶやく。
「ただ、俺に子供ができてしまったら、その子は、俺以上に難しい立場で、地獄を歩くことになるだろう。俺は子供を持つつもりはない。でも、結婚したくないなんてわがままは、これまた、許されない。成人してから、毎晩のように夜這いをかけられて、そうでない日は刺客を向けられて、さすがに俺も、参っちまった」
カイトさんはもう一度、苦笑いをする。
「それで、あんな狂った申し出をしてしまった。君には、申し訳ないことをしたと思っている。……でも、約束は、守るよ」
笑みを含んだままで、彼は言葉をつなぐ。
「君を妻として、大切にする。君が立てている操も、守ることを誓うよ」
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