葬式
ある日の夜、自宅にあった黒電話が鳴り響く。
母親が応答すると「えっ!」と絶句し、少し間を置き、「駄目だったんだ・・・分かった」と言い、静かに受話器を置く。
母親の兄に「死」の瞬間が訪れた。
母親と兄の年齢は20歳程はなれていたらしいのだが、今考えると40代後半で亡くなったことになる。
母方の家はいわゆる大家族で、母は末っ子だった。
母の両親は幼いころに死別したらしく、死んだ兄を含めて兄姉に育てられた。
幼少の私は人の「死」というものに対する価値観など皆無であった。
それまでに見たこともない程、母親は悲しみ、落ち込んでいたのだが、バタバタと慌ただしく、鞄に服を詰め込んでいたのをよく覚えている。
次の日、晴れ渡る空の下、家族全員が車に乗り込み、母親の故郷に出発したのである。
家族全員で揃って出かけた記憶がなかった私は、この時ようやく「なにかがあったのだろう」と感じていた。
高速道路に乗り、ひたすら車を走らせた。
田舎の高速道路移動など景色に代わり映えなどという贅沢はない。
どこまでも、青空と田舎の風景であった。
移動時間は高速道路2時間、一般道で1時間もの長旅ではあるが、高速道路を降りたあたりから小さな街並みがいくつか見られ、少しだけ旅行気分を味わうことができたものである。
母親の故郷は鉄鋼業で栄えた町であった。
市街地を通り大きな鳥居を右折、その先が目的地だ。
平屋の大きくはなく小さくもない家、そこが母親の実家であった。
中にお邪魔すると、見知らぬ大人の集団、その面々が母の兄姉なのだろう。
亡骸に対面した母は泣き崩れた。
始めてみる光景である。
私も亡骸と対面したわけだが、何か薄気味悪い気持ちになったことを覚えている。
その後、皆が何やら話をしているのだが、私はつまらない大人たちの寄り合いには少しだけ参加をし、あとは外に散歩に行った。
幼児の行動範囲などたかが知れているので、大した時間つぶしにもならないが、見知らぬ大人たちに気を遣うよりはマシであった。
やがて日は暮れ晩御飯の時間がきた。
長いテーブルに数多くの料理が大皿に盛りつけられ、大人たちが座っている。
みんな故人との思い出話に花を咲かせている、そんなありふれた風景の中、その景色を私は壊してしまう。
私は並べられた料理と白米に手を付けずにいると、大人たちは気を遣い、「何でも好きな食べ物を遠慮しないで食べて」と私に声をかけてきた。
私は好きな食べ物をという提案で遠慮なくテーブルに置いてある「あじ塩」を手に取り白米に振りかけ食べ始めた。
これが母親の逆鱗に触れる。
「恥ずかしいからやめなさい!あじ塩なんて普段は振りかけないのに何で今日はそんなことするの!」とあじ塩を取り上げられた。
私は「だってあじ塩が一番好きなんだもん」と抵抗したのだが、母親は「やめろ!」と激怒するばかりである。
周りの目は冷ややかなもので、それまでガヤガヤと騒がしかったのがウソのように静まり返ったのだ。
その時はじめて「あじ塩を白米に振りかけて食べることは恥ずかしい」ことなのだと記憶する。
然は然り乍ら自宅には、ほぼ「おかず」のような食べ物はない。
自宅以外の食卓すら見るのは初めてである。
今思えば、おいしいのか否かがわからないものよりは、確実に味が分かっている「あじ塩」を選択したのだろう。
白けたムードが終焉し就寝時間が訪れ、やがて朝が来た。
私は「おねしょ」をしていたのである。
残酷な瞬間だ。
見ず知らずの大人たちの前で何たる失態と、ひどく落ち込んでしまうのだが、大人たちは私が落ち込まないように声をかけてくれる。
パンツを履き替える必要があるのだが、あろうことか私のパンツを忘れてきたらしく、姉のパンツを履く羽目になった。
このことでさらに落ち込み、この家での記憶はそれ以降まったくない。
次の記憶になると、母親の実家から移動し隣の県にきていた。
両親の会話から察するに、中々ここまで遠出ができないからついでに葬式に出席できなかった姉に会いに来たようだ。
その家も小さな家で裕福とは言えない感じである。
私はその家にはお邪魔せず外で時間つぶしをしていた。
そこに猫が現れてかわいがっていたのだが、少しすると母親の姉が勝手口から私に声をかけて「おやつにハムでも食べなさい」と手渡してくれた。
私はそのハムを食べずに猫に食べさせた。
猫が可愛いがゆえの行動ではない。
当時の私は肉類が嫌いだったのだ。
決して優しさではない。
しかし、その一連を見ていた母の姉は私を叱った。
「食べ物を粗末にしてはダメでしょ」。
大人になった私はそのことを粗末とは思わない。
しかし生活が豊かなのか、貧しいのかで「粗末」と感じるか否かはわかれるのであろうし、心の豊かさもまた、価値観に影響を及ぼすのだと思う。
長かった初めての遠出は冒険のようなワクワクなどはなく苦い思い出として半生に刻まれている。
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