ならましものを

有田くもい/角川文庫 キャラクター文芸

ならましものを

「やれやれ、やっと見つけた」

 誰よりも親しく、何よりも温かい声がする。

 ふり返り、返事をするべきだと思いながらも、鬼王丸おにおうまるは池の水面を見つめたまま、あえて声を聞き流す。幾許か置いて、それなりに頭が冷えたとはいえ、ほいほいと素直になれるほどに怒りは収まっていない。

 草群れを踏み分けながら、声の主が歩み寄ってくる。

 義父――道真はのんびりした様子で鬼王丸の横に並ぶと、まぶしげに目を細め、池の浅瀬に浮かぶ丸い葉の茂りを指した。

「暑くなってきたと思えば、もうあさの季節か」

 蛙の声が活気を増す頃に咲く浅沙は初夏の先触れだ。黄色の五弁花が開けば、水面はたちまち菖蒲や杜若、次には睡蓮に蓮と華やぎはじめる。

「いまにも花が開きそうだな。明日の朝、滝夜たちを見送るついでに、確かめに来るとしようか?」

 道真は気負いなく話しながら、鬼王丸の顔を覗き込んでくる。

 鬼王丸は眉根を寄せたまま、頑なに視線を逸らし続けた。

 今朝方、およそ二年半ぶりに実親――千冬ちふゆ滝夜たきやが大宰府に帰ってきた。

 離れて過ごすうちに鬼王丸も数えで十を迎えた。両親は、といってもほぼ滝夜に限りだが、息子の伸びた背丈や少し大人びた仕草に感動しきりで、時に涙ぐみながら再会を喜んだ。

 しばし親子水入らずの時間を過ごさせてやりたいと思ったのだろう、鬼王丸が気づいた時には道真の姿はなかった。もし、道真が留まってくれていたら、あそこまで感情を乱さずに済んだかもしれない。我ながら甘えた考えだと思うが、少し怨みに思ってしまう。

 多少のぎこちなさを含みながらも、久方ぶりの親子の会話は和やかに進んでいた。

 だが、滝夜が口にしたあるひと言で状況は暗転した。鬼王丸は激昂のあまり、滝夜に酷い言葉を投げつけてしまった。

 このまま顔を合わせていたら、さらに母を傷つけかねない。それを恐れて、御し切れない怒りを抱えたまま、鬼王丸は神域を飛び出した。そして、心荒ぶるままに神域の裏手の森に駆け込み、道真と共に何度か訪れたことのある池に行き着いた。

 鬼王丸の態度こそ反抗的だが、内心ではすでに観念している。両親ならともかく、義父相手に意地を張ったところで勝ち目はない。

 親子のいさかいを見かねて、道真が迎えに来ることは予想がついていた。ついでに、わざわざ手間をかけ、自分の足で探し回るであろうことも。

土地神である道真にとって、この西海一帯は庭に等しい。その気になれば簡単に見つけ出せるにもかかわらず、あえてそうしなかったのは、こういう時は気持ちを落ち着かせるときを与えてやる方が良いと知っているからだろう。道真はしばしば、自身の子育て経験の乏しさを恥じるが、当人が思うほど酷かったとは思えない。大事なところでは、ちゃんと子たちに目を向けていたからこそ、いまもこうして心を汲んだ対処ができるのだ。

「何があったのか、無理に聞こうとは思わん。でもな、明日別れれば、またしばらく会えなくなる。少しでも迷う気持ちがあるなら、戻って滝夜と話し合え」

 道真は穏やかに述べると、口を閉ざす。

 義父と義子の間に降りた静寂を埋めるように、びたきの明朗なさえずりが鳴り響いた。

「・・・・・・母上は泣いておられましたか?」

 しばしのち、端々に迷いを残しながらも鬼王丸は尋ねる。

 傷ついた滝夜の顔を思い出せば、ざわざわと心が騒ぐ。己の仕出かしたことを知るのは怖いが、確かめずにはいられなかった。

「ああ。自分が情けないと言ってな」

 道真の声に責める類の響きはなかったが、それでも鬼王丸の心は大きく揺らいだ。

 多分、震えていたのだろう。身を寄せてきた道真が肩を抱いてくれた。

「滝夜は自分が傷ついたから泣いておるのではない。息子を傷つけてしまった自分が許せなくて泣いている。だから、おまえが自分を責める必要はない」

「・・・・・・いえ、私のせいです。母上が悲しむとわかっていて、それでも我慢ができなくて酷い言葉を・・・・・・」 

 もはや留めておけず、鬼王丸は胸の内を吐き出していく。

「母上は私が可哀想だと、こんな不幸を負わせて謝りようがないと仰ったのです。それが許せなくて・・・・・・私を想っての言葉だとわかっています。でも、たとえそうでも、私を不幸と呼ぶことは許せない。私は不幸じゃないっ。義父上の子になれた鬼王丸は幸せ者ですっ」

 鬼王丸は必死の思いで言い募る。

 己の所業に対し、言い訳をするつもりはない。だが、これだけは譲れないという気持ちを道真に知っておいて欲しかった。

 はじめ、道真は大層驚いた様子で瞬いていた。

 だが、不意にひくっと咽喉のどを鳴らしたかと思うと、ぼろぼろと涙をこぼし出す。

 まさに青天の霹靂。鬼王丸は仰天し、青ざめた。

「ち、義父上、どうされました? ひょっとして、私のせいで――」

「・・・・・・違う。鬼王丸のせいじゃない。そうじゃ・・・・・・」

 言いながらも、涙が止まらないのか、とうとう道真はしゃがみ込んでむせび出す。

「義父上っ・・・・・・泣かないでください」

 鬼王丸は転がる勢いで膝をつき、道真に取り縋る。

 母に続き、義父までも泣かせてしまうとは。己のとんでもない狼藉ぶりに、もうどうすればいいのかわからなかった。

「すまん。どうにも堪らなくて・・・・・・。鬼王丸の言葉が、あのときと同じだったから」

 道真はぐずぐずと鼻をすすりながら、それでも辛うじて答える。

「同じ・・・・・・?」

「昔、妻・・・・・・のぶも同じことを言うてくれた。大宰府に流される前夜だった」

 別れの夜、道真は妻の宣来子に滝夜とよく似た言葉で詫びた。こんな不幸に巻き込んで、本当にすまない――と。 

 それに対する宣来子の答えは、馬鹿を言うなという一喝だった。

 私の幸不幸を決めるのは私だけ。他の誰でも、たとえあなたであっても、それを勝手に決めることは許さない。菅原道真の妻になれた私は幸せ者です。昔も今も、心よりそう思っておりますと、真っ直ぐに言い切った。

「あのときの宣来子の言葉にどれだけ救われたか・・・・・・。それだけでも十分過ぎるくらいなのに、いまもまたおまえに救われて・・・・・・俺こそが世で一番の幸せ者だな」

 道真は泣きながら、それでも笑い、鬼王丸に優しい眼差しを向ける。

「鬼王丸。おまえや宣来子の言う通り、幸不幸はまわりが決めて良いものではない。ただ、同じ間違いを犯した者同士として、俺には滝夜の気持ちがよくわかる」

 道真は袖で涙をぬぐうと、鬼王丸の頭に手を置く。

「この義父も、滝夜も、誰も彼も必ず間違える。想うがゆえだったというのは言い訳にしかならないが、それでも滝夜を許してやって欲しい。俺とて、もしあのとき宣来子が許してくれなかったらと思うと、辛くて堪らなくなる」

「・・・・・・奥方様は義父上を許してくださったのですか?」

「ああ、明くる日は笑顔で見送ってくれたぞ。土産は不要、元気で帰ってきてくれればそれでいいと言ってな。結局、果たしてやれなかったが」

 笑みに切なさを滲ませる道真を見つめ、鬼王丸は息を吐く。

 そんな風に言われれば拒めるはずがないし、なにより。

 おまえに救われたと言ってもらえた喜びで、心底に残っていた怒りが消え失せた。

 道真を救い、助けたい。それは常に鬼王丸の心の芯にある願いだ。それがわずかでも叶えられたとなれば、どんな怒りや不機嫌も容易く吹き飛ぶ。

「・・・・・・わかりました。戻って、母上と話をします」

「そうか、良かった。ありがとうな、鬼王丸。なら、帰るとするか」

 道真は心底嬉しそうにほほえむと、頭に置いていた手を鬼王丸に差し出す。

「歳のせいか、泣いたせいか。目が霞んで仕方がない。鬼王丸、手を引いてくれ」

「またそんな・・・・・・」

 喜びから一転、鬼王丸はげんなりと顔をしかめる。

 少し前まで、手を引こうとする道真と、それを拒む鬼王丸の飽くなき攻防が繰り広げられていた。

 最後は、もう童ではないという鬼王丸のもっともな主張で決着がついたのだが、道真はまだまだ諦め切れないらしく、隙を見てはこうして手をつなごうとする。

 いつもなら、断固拒否と突っぱねるところなのだが・・・・・・。

「森を出るまでですよ」

 渋々といった態を装いながら、鬼王丸は道真の手を取る。

 いつもの子供扱いのようにみせているが、本当は違う。そうやって、道真は行夜に帰りやすい状況を与えてくれているのだ。それくらいはちゃんとわかっている。

 手を取り、並び立ち、ふたりは歩き出す。

 願いが叶ってすっかりご機嫌な様子の道真の横で鬼王丸は密かに誓う。

 いつか、本当の意味でこの手を取りたい。

 ただひとりですべてを背負い、すべてを救おうとする義父を支えられるように・・・・・・いや、必ずなってみせる、と。

「そうだ。明日、浅沙を見に来ような」

「はい。咲くといいですね」

 これまでも、そしてこれからも重ねていく他愛もない約束を交わしながら、ふたりは森をあとにした。



 

 

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