第15話

 英治の家に着くと、もう外はすっかり暗くなっていた。

 冷たい空気が楓の顔を撫でていく。

 チャイムを鳴らすと今度はすぐに扉が開いた。


「かえでちゃん、いらっしゃい。お仕事お疲れ様」


 英治は満面の笑みで楓を迎えてくれた。

 今日はしんどい仕事をしたからだろうか、英治のキラキラした笑顔に心が浄化されていくのを楓はひしひしと感じていた。これがアイドルの力か。

 見ると英治はざっくりとしたブラウンのニットの上にデニム地のエプロンを付けていた。まだ糊が効いていそうな新しいものだ。


「……料理してたの?」英治が料理をする、という話は今まで聞いたことがなかった。あぁ、と言い英治はエプロンを見た。着けっぱなしだったことに今気づいたようだ。

「かえでちゃん、お腹空いてる?もしよければ一緒に晩御飯食べない?」

 英治は楓を見てもう一度微笑んだ。楓が時計を見るともう7時を回ろうとしているところだった。


「一人で食べるの寂しいし、ね?」いつもの甘えるような顔で見られると断れない。

「じゃあ、お言葉に甘えて……」

 お医者さんからの言葉もあるし……楓はそう自分に言い訳しながら部屋に入った。


 

 準備するから座って待っててね、と英治は言って台所に立った。

 楓は英治が見える位置の椅子に座った。

 今日の週刊誌を見て目が勝手に比較しているせいだろうか、英治はかなりすらっとしたように見える。

 英治にダイエットの進捗を聞こうとしたが、あまりに真剣な顔で鍋に向かっていたので楓は話しかけるのを諦めた。

 味噌汁のいい香りがしてきた。


「お待たせしました」

 

 英治はテーブルにお皿を並べ始めた。

 玄米ご飯に味噌汁、鮭の塩焼き、ひじきの煮物。

「あ、俺が作ったのはお味噌汁だけだからね、安心して」

 英治は少し慌てたように言った。

 味噌汁にはワカメと豆腐が入っていた。豆腐は少し崩れかけていた。


「いただきます」


 楓はそう言ってまず味噌汁の椀を持ち上げた。

 冷えた体に少しだけ味の濃い温かい味噌汁が沁みていく。


「おいしい」楓はそう言って優しく微笑んだ。

「よかった、ってお味噌汁くらいで大袈裟か」英治は自虐的に笑った。

「お味噌汁だって立派な料理よ。あなどっちゃだめ」

 楓に叱るような口調で言われたが、英治はそれがなぜか嬉しかった。


「それにしても急に料理なんてどうしたの?」楓は英治に尋ねた。

「ブンちゃんに時間があるなら料理でもしてみたら?って言われて。俺、一通り家事やってたけど、台所には入れてもらえなかったんだよね」

 英治は祖母と二人暮らしている数年間、祖母の負担を考えてなるべく家事を手伝うようにしていた。それでもその年代の人らしさなのか彼女の性格からか「台所は私の聖域なの、英治は入ってこないで」が彼女の口癖だった。


 ブンちゃんには「英治の好きな人も惚れ直すんじゃないの?」とも言われたがそれはもちろん黙っていた。好きな人がいる、とはブンちゃんに言ったが、それが誰かとは未だ明かしていなかった。手始めに味噌汁作りの練習をしていたら楓から電話があって、いきなり練習が本番になってしまったのは想定外だった。


「あ、それで伝えたいことって何?」

 その時に英治は電話で楓と話したことを思い出した。

「あ、えっと……」

「もしかして、週刊誌の件?」英治は眉毛をㇵの字にして悲しそうな顔をした。

「……あれ、見たの?」

「見てないよ、見てないけど色んな人があの記事見て連絡してくるんだもん。辞めちゃうの?とか」


 心配してくれるのはありがたいんだけど、と言いながら英治の顔は困っていた。


「じゃああれはガセネタなの?って言われると、まぁ太ったのは事実だし、何て言ったらいいか分かんなくなっちゃって」


 そういうところで適当な嘘をつけないのが英治らしい。


「ブンちゃんはめちゃくちゃ怒ってて、アシスタントさんが持ってきた週刊誌ビリビリに破いてたし」


 楓はそれを想像して苦笑した。確かにブンちゃんはあれを見たら激怒するだろう、大事な芸術作品をけなされたのだから。



「違うの、あの件じゃなくて」

「あ、そうなの?」

「あのね、英治……STARS……あの4人がキャンバスを契約解除になったんだって」


 英治はその言葉を聞いて5秒ほどフリーズした。

「……あ、え、そ、そうなんだ」

 英治はその後何かを考えるように下を向いて黙ってしまった。


「STARSが出した曲の権利とかはこっちにあるから、英治が復帰した後に歌いたければ歌っていいし、特にこっちに害はないとは思う」

 英治は別にそんなことは気にしていないだろう、そう思いながら楓は説明口調で話した。


「……何で契約解除になっちゃったの……?」


 しばらくして口を開いた英治は楓の顔色を窺うように聞いた。

「ごめん、私達もそこまでは聞いてないの。社長宛に連絡があっただけで」

 ただ、と楓は前置きして続けた。

「契約解除になるということは、事務所に何らかの害を与えると考えられる、ということだと思うの」

 退所ではなく、契約解除である。英治には言わないが、キャンバス内でも色々ゴタゴタがあったのではないかと楓は邪推していた。


「……俺も契約解除になる?」不安そうに聞く英治の言葉に楓は驚いた。

「はぁ?なるわけないでしょ」驚きのあまりつい語気が荒くなってしまった。

「だって、俺今休んでるし、変な記事出て迷惑掛けてるし……」

 元気になったように見えてもまだまだ不安なのだろう、それだけ傷は深いのだ。


「あの記事は、不快ではあるけど……英治への注目の高さの現れでしょ。それにあの時言ったでしょ?ここにいていいって」


 英治の不安を一つ一つ溶かしていくことが、今の私に出来ることだ。楓はそう思いながら答えた。


「うん……」

「ごめんね、却って不安にさせちゃったかな」

 楓の声に英治は首を振った。

「ううん、教えてくれてありがとう。ニュースとかで見たらもっと不安になってたと思うから」英治は少しだけ微笑んだ。

「でも、何て言ったらいいか……」

 英治は頭をかいた。それに合わせて柔らかそうな栗毛が揺れる。


「そんなすぐに割り切れるものじゃないよね、10年以上一緒に活動してきたんだから」


 楓にとっては目の上のたんこぶでしかなかったが、英治にとっては長年共に歩んできた仲間である。

 楓の言葉に英治は頷いてこう答えた。


「俺は一番年下で、何も出来なかったから」

「……英治、本気でそんな風に思ってるの?」


 謙虚にも程がある。どう考えてもSTARSは英治のおかげでここまで活動出来てきたのだ。

 何なら英治が星野ほど傲慢になっている方が自然ではないかとすら思える。

 だが、英治は本当に自信がなさそうに頷いた。


「分かった」楓は大きく深呼吸してそう言った。

「じゃあ私が一生懸けて分からせてあげる。英治が凄いアイドルだってこと」

「……かえでちゃん、それって……」

 英治は目を丸くした。

「なんかプロポーズみたい!!」

 英治の頬は乙女のようにピンクに染まっている。

 

 一方の楓のこめかみにはマンガのような青筋が立っている。

「……人が真面目に話してるのに……帰る!!」

 楓が立ち上がって帰ろうとしたので、英治は慌てて楓の腕を掴んだ。

「ごめんー、今のは俺が調子に乗りました。俺が100%悪いです。でもまだご飯残ってるから温かいうちに食べよ?」

 英治に甘えたような声を出されたら勝てる気がしない。


「……ご飯食べたら帰るからね」楓は憮然として食卓に着き直した。

「うん。あ、この鮭美味しい」

 そう言ってご飯を頬張る英治の笑顔は以前と変わらないように楓には映った。

 

――そんな顔見たら怒る気にもなれないじゃない。

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