第6話 九条家 —後編—
身体の調子は良い。治療をしてくれた人物は優秀な人だったようだ。
朝食は持ってきてくれるということだし、一日中部屋にこもっていられるほどには部屋の設備は充実していたが、空也は洗顔や軽いストレッチなどのモーニングルーティンを済ませると部屋を出た。
「あっ、おはようございます!
「おはよう」
挨拶をしてきたのは、空也の部屋の前の椅子に座っていたメイドだ。
どう個性的なのかと言えば——、
「昨日のややお疲れな感じも味がありましたけど、今の
底抜けに陽気なのだ。
顔合わせをしたときこそ大人しかったが、堅苦しいのは苦手だと空也が言った少し後には、すでに今の彼女になっていた。
「福島さんは朝から元気だね」
「もうっ、同い年なんですからヒナで良いのにー!
「沙希さんは特別だし、それを言うなら皐月さんも——」
「と、特別ー⁉︎」
きゃー、と頬に手を当てるヒナ。もはや空也の台詞の後半部分は聞こえていないようだ。
「ちょっとうるさいよ。皐月さんに言いつけようか」
「待ってくださいそれだけはご勘弁を! この身体好きにして良いから皐月さまには言わないで!」
言葉こそふざけているが、ヒナの目は結構真剣だ。皐月は怒ったら怖いのかもしれない。
「それじゃあお言葉に甘えようかな。今日の夜、皆が寝静まったら入っておいで」
「はい、喜んで! ……って、ええ⁉︎」
「冗談だよ。それじゃ」
ヒナ以外とは平和的な挨拶をかわしながら、空也は屋敷の玄関まで
「空也」
ストレッチをしていた沙希が声をかけてくる。彼女はランニングウェアを着ていた。
「おはよう、沙希さん」
「おはよう」
なぜ彼女がしっかり走る準備をしているのかといえば、彼女と一緒に行うことが、空也がランニングを許された条件だったからだ。
空也の行動が制限されているのには、ちゃんとした理由があった。
空也は先日の【ファング・ハント】、そしてローブに全身を包んだ謎の男との戦闘を経て魔力枯渇症になった。症状自体は治癒魔法ですでに治まっているが、魔力枯渇症を発症した者は、数日は激しい運動や魔力の過度な行使は厳禁だ。
沙希は、そんな状況下で運動をするという空也のお目付け役だった。
「ごめんね。付き合わせちゃって」
「ランニングは私も毎朝しているから」
「そっか」
沙希の
「じゃあ、行こうか」
「うん」
空也と沙希は、並んで走り出した。
今の自分が無理をしてはいけない状況だということは空也にもわかっているため、ペースは普段よりもゆっくりだった。
それでも普通の人からしたらキツいペースだが、隣を走る沙希は全く呼吸を乱していない。毎朝走っているという言葉は、あながちただの気遣いでもなさそうだ。
たまに雑談を交わしながら、二人はあらかじめ決めていたコースを同じペースで走っていたが、そのペースはやがて乱れた。
それはどちらかの体力が尽きたからではなく、
「空也」
雑談をするとは思えない真剣な声色で沙希が空也の名を呼び、その場に立ち止まったからだ。
彼女が二人の周囲に遮音の結界を張ったので、「何か重大な話か」と空也は察した。
「何?」
「聞いても良い?」
「僕が答えられることなら」
沙希は少し
「【
沙希の質問に、空也はすぐには答えを返さなかった。予想外の質問に驚いたからではない。予想された質問だったから、返答の仕方に迷ったのだ。
「……それに答える前に、僕からも一つ良い?」
質問に対する質問だったが、沙希は特に嫌な顔はせずにコクリと頷いた。
「どうしてあの魔法について、九条家の皆さんにお話ししなかったの?」
「一番は直感」
空也の質問を予想していたのか、沙希は即座に返答した。
「直感?」
「うん。それに……私もあの男も知らない技だった。口外したら、空也にはきっと不利」
「僕としてはその判断はすごいありがたかったけど……でも、九条家のメイドとしてはよろしくないんじゃ?」
「空也にとって良かったなら大丈夫」
沙希がふっと頬を緩ませた。
「っ——!」
空也は目を見開き、言葉を詰まらせた。
その変化は微弱だったが、それでも間違いなく彼女の顔には笑顔が浮かんでいた。
出会って以来、彼女が
その
しかし、空也を動揺させた張本人は、そのことに全く気づいていない——あるいは気にしていない——ようだ。
「あの技……何?」
言葉少なに聞いてくる沙希の目には、今度は好奇心が覗いていた。
そのマイペースさに、空也も
「教えるのは構わないけど……」
「大丈夫。他言はしない」
「……わかった」
空也が
「あれは【
沙希がコクリと頷く。
「【天命の恵】はそんな自然界から少しずつ魔力を分けてもらうんだ。どれくらい分けてもらうかはある程度はこちらの強制力が働くから、加減を間違えれば辺りの植物がすべて
「……すごい技」
沙希は視線を
「つまり……空也はあのとき魔力切れを起こしていたけど、動植物からの魔力で【氷結世界】を含む魔法を発動した……」
「そういうこと。沙希さんがあいつの注意を引きつけてくれたおかげで余裕をもって準備できたよ、ありがとう」
「ううん」
沙希が微妙に視線を逸らした。褒められ慣れていないのかもしれないな、と空也は解釈した。
「他に聞きたいことはある?」
沙希は小さく首を振った。もちろん横に、だ。彼女は遮音の結界を解いた。
「じゃあ、体が冷えると良くないし、そろそろ再開しようか」
「うん」
二人は、止めていた足を再び動かした。
「瀬川さま、沙希ー!」
スタート地点に戻ってくると、元気な声が聞こえてきた。二人が走ってきたのとは反対方向から、ヒナが花瓶を持って小走りに駆けてくる。
「おわっ⁉︎」
何かに
「ちょ、大丈夫っ?」
空也は慌ててヒナの元に駆け寄った。膝から出血している。
「いたた……す、すみません」
ヒナが苦笑いを浮かべた。
空也の後からやってきた沙希が、ため息を吐いてしゃがみ込んだ。ポケットからハンカチを取り出し、ヒナの膝に巻く。
「ヒナはドジなんだから、何か持っているときに走っちゃ駄目だって何回も言っている」
「ごめん……」
シュンとするヒナに、沙希がもう一度ため息を吐いた。
少し冷たいんじゃないか、と空也は思ったが、それは早とちりだった。
「……他に怪我は?」
「えっ? ううん、ないよっ。ありがとう!」
笑顔でお礼を言うヒナに、沙希は軽く頷いた。その顔には表情らしい表情は浮かんでいないが、どこか優しげな顔つきだった。
沙希は花瓶の破片拾いを始めた。空也も手伝おうとするが、客人だから、と制される。
「あっ、私も——」
「ヒナは
「うへえ、また叱られる……」
「自業自得」
歯に衣着せぬ沙希の言葉に泣き真似をしてから、ヒナは屋敷に向かって歩き出した。
歩き出してすぐ、あっ、と声を上げて彼女は立ち止まった。空也がそちらに目を向けると、髭を生やした白髪の男性——佐々木がこちらに向かって歩いてきていた。
「先程大きな音がしましたが——」
「すみませんでしたっ!」
佐々木の言葉を
「ヒナが転んで花瓶を割りました」
沙希が淡々と事情を説明する。
「そうですか……空也君、申し訳ありません。お怪我はありませんかな?」
「はい、大丈夫です。福島さんが膝を
「お優しいですな」
ありがとうございます、と頭を下げ、佐々木がヒナを見た。
「ヒナ殿」
「は、はいっ」
ヒナがビシッと姿勢を真っ直ぐにした。
「まずは治療が先決、お説教はその後です。沙希殿、片付けを任せてよろしいですかな?」
はい、と沙希が頷いた。彼女はとても手際がよく、破片はほとんど拾い終わっていた。
佐々木とヒナが屋敷に入っていく。
その後ろ姿を見ながら、空也は沙希に話しかけた。
「福島さんっておっちょこちょい?」
「ドジっ子。しょっちゅう何かやらかしている」
「そうなんだ。でも、皆大切に思っているんだね。沙希さんも、佐々木さんも」
沙希はもちろん、佐々木も説教するとは言っていたが、ヒナを見る目は温かかった。
「アホな子ほど可愛いの典型」
「なるほど」
言い得て妙だな、と空也は笑った。
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