性悪な継母姉と身売り同然の縁談から逃げ出したはずが、気づけば腹違いの兄に甘く捕獲されています!え、血がつながってないって本当ですか?

あゆみノワ(旧nowa) 書籍化進行中

1章

1話 嫁入り前夜の逃亡劇


『喜びなさい、フィリア。あなたに縁談よ』


 そう言われて、逃げようと思った。


『こんないいお話、そうはないわ。ちょっぴりお年は上だけれど、きっとかわいがってくださるわ。ねぇ、アルベラもそう思うでしょう』


 娘のアルベラに同意を求める継母イリス。必死に笑いで歪む口元を隠しすアルベラの表情をみれば、裏があることは明らかだった。

 性悪な継母と異母妹が勧める縁談なんて、絶対ろくなものじゃない。


 案の定、お相手は五十才過ぎのガマガエルのような外見の男で、これまで何人もの若い妻を娶っては適当な理由をつけて放り出し、今度は十七才になったばかりのフィリアを後妻に迎えたいのだという。あくどい商売で、お金はうなるほどあるというのだから質が悪い。

 つまり、私は金で売られたのだ。

 絶望し、そして全身に走る悪寒に震えながら決意した。逃げよう、と。


 空には雲もなくきれいな月がぽっかりと浮かび、屋敷はしんと静まり返っていた。


「……さあ、行くわよ」


 かじかんで赤くなった指先にはあ、と息を吹きかけ、部屋の柱に結び付けたシーツを握る手に力を込める。


 膝が破れたズボンとくたびれたシャツ、サイズの合わないブーツ姿。長くまともな手入れもしていないせいでパサついた栗色の髪は、茶色い帽子の中にしっかりと隠した。

 これなら、夜目にはくたびれた格好をしたやせっぽちな少年にしか見えないだろう。


「……自由になろう」


 名家の令嬢とは程遠いこんな暮らしからも。こんな埃だらけの屋根裏部屋からも、満足な食事ももらえないタダ働きいびりライフからも。そして、望まない身売りのような縁談からも。

 

 栄養が足りないせいでうまく力の入らない足をなんとか窓枠にかけ、シーツを結び合わせた急ごしらえの命綱を握りしめ、地面へと降りていく。

 布がちぎれるのが先か、地面へ着くのが先か――。


(あとちょっと……あと少し)

 

「……っ!」


 着地の瞬間の強い衝撃と痛みを感じる間もなく、フィリアは屋敷の庭を抜け人気のない通りへと飛び出した。


 そして、ただの一瞬も屋敷を振り向きもせずに夜道をまっすぐに駆けていく。

 それは、婚約前夜の逃亡劇だった。



 キラキラと丸い目を輝かせて意気揚々と夜道を駆けるその姿を、屋敷の端の部屋から見下ろす一人の男の影がある。

 小さく少女の背中が夜の闇にまぎれて見えなくなるまで、男は身じろぎもせず見つめ続けていた。目に焼き付けるかのように、じっと――。



 

 ◇ ◇ ◇ 



 翌朝、ノートン伯爵家の屋敷につんざくような絶叫が響き渡った。

 

「なんてこと……逃げるなんてあの恩知らず、なんてことをしてくれたのよ。破談になったらどうするの!」

「ちょっと! あの子の姿を誰も見てないのっ。すぐに連れ戻して! もしこれが先方にバレたら……ノートン家は終わりよっ」


 双方向からまくしたてられるキンキンとした声に、長身のスラリとした体躯を仕立ての良い衣服に身を包んだ若い男が、眉根をひそめた。

 

「とにかく今は、先方に一刻も早く知らせを。もう出発の時刻は迫っているのですから。わめいたところで事態は変わりませんよ」


 こんな非常時にもかかわらず何の感情も感じられない落ち着き払った声に、けばけばしい化粧とドレスに身を包んだイリスは男を忌々しげに睨みつけた。


「もしこの話が流れたら、この家はおしまいよ。式のためのドレスや宝石の支払いはどうするの。それもこれも、あの子の顔を立てるために用意したんじゃないの。なのに逃げるなんて、恥知らずにもほどがあるわ!」

「そうよ! リガルドだって後を継げなくなるかもしれないのよ。なんでいつもそんなに冷静なのよっ、腹が立つ!」


 母娘揃って怒りに身体をぶるぶる震わせて、今にも卒倒しそうな有様である。


「ならばあなたが代わりに嫁に行ったらいかがです。フィリアと年も変わらないのですから、先方も納得するのでは。贅沢もさせてもらえるかもしれませんよ」


 そう言い放ち、リガルドは口元に薄っすらと笑みを浮かべた。

 

「私は嫌よ! 絶対に行かないわ。ねぇお母様、私をあんな男のところへなんてやらないでね。絶対に嫌よ、あんな気持ち悪い男。死んでも嫌!」


 アドリアが耳障りな叫び声をあげて泣きわめく。

 母親とそっくりな耳障りな声に、リガルドは顔をしかめた。


「もちろんよ、アドリア。だから泣かないで、かわいい私のアドリア」

 

 娘を慰めるその声もまた、ねっとりと身体にまとわりつくようで吐き気を誘う。


「ならば仕方ありませんね。支度金は、全額返却しなければなりません。今回あなたたちが浪費した分はすべて返品していただきます。それでも足りない分は……そうですね。あなたたちの宝石やドレスを売れば、少しは足しにはなるでしょう」


 リガルドは心の中で悪態をつきながら、感情は表には出さず淡々と言い渡した。


 イリスの顔が、怒りで真っ赤に染まっていく。そしてそれがみるみる青に変わったかと思うと、しまいには土気色になった。


「そんな、それは無理よ。もう支度金なんて全部使ってしまったわ。ドレスだって仕立てなきゃいけないし、それに合う宝石だって……」


 母親の言葉にかぶせるように、アドリアも金切り声を立てる。


「そうよ。絶対に嫌! どうして私が手放さなきゃならないのよっ。あれはみんな私のものよ」


 よろよろとソファに倒れ込むイリス。その横で、足を踏み鳴らし涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、アドリアは怒り狂う。


「……ダルトン」


 二人の姿と能面のような顔で座ったまま動かない父親を冷ややかに一瞥すると、リガルドは家令のダルトンを呼びつけた。


「すぐに先方の屋敷に使いを。あとで私が直々に伺うと伝えるように。私が説明をする」


 そう淡々と伝えるリガルドの視線と、一礼して下がるダルトンのそれが一瞬交差した。


 もはやここに用はないとばかりに颯爽と部屋を後にするリガルドの顔には、満足気な黒い笑みが広がっていた。

 だがそのことに、財産を失う恐怖に慄くだけでいっぱいのイリスたちは気づくわけもない。


 これがすべて仕組まれていたことだったと気づく頃には、すでにノートン家の未来にイリスたちの場所などどこにもないのだ。


 そう。ノートン家のすべては、すでにリガルドの手の中に握られていた。

 その目的はただ一つ。ただ一人、唯一無二の少女の幸せを守るためだけに。




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