第16話

『サラは心配です。殿下はサラがいなくなっても大丈夫なのかと』

 膝に寄りかかって鼻歌を奏でるハウトの頭を撫でながら、女神サラスヴァティーは切なそうな瞳で小さく呟いた。

『? サラがいなくなることなんてないでしょ?』

『私は決して永遠に在りつづける存在ではありませんもの』

『でも何百年も前からずっといるのに』

『次の瞬間にはふとした拍子で粉々に砕け散っている、なんてこともあり得るのですよ。そうなってしまうと、殿下はとても寂しい思いをされるでしょうね』

 父王や新しい母、まだ言葉も喋れない弟妹、乳母や小間使いたちなど、ハウトを取り囲む者は多くいる。けれどハウトが最も信頼し、敬愛しているのはサラスヴァティーだけ。暇さえあれば女神のそばに向かい、語らったり歌ったり、濃密な時間を過ごしていた。

 そんな日々がずっと続くと信じているのは自分だけなのか。ハウトはむう、と頬を膨らませてサラスヴァティーを見上げた。

『サラは絶対に俺を置いていなくなったりなんかしないでよ』

『出来る限りそう努めますが、もしも・・・がないとは限りません。数秒前まで続いていた日常はささいなきっかけで壊れるもの。一度壊れたものは、近い状態に戻すことこそ出来るでしょうが、完全に同じには戻りません。そうなった時でも、殿下にはお心強く過ごしてほしいのです。……たとえサラがいなくても』

 カラヘッヤの侵攻はすでに始まり、国境付近はひどく混乱していた時期だった。幻獣であると同時に神でもあるゆえの直感か――なんにせよサラスヴァティーは近々自身が消えてしまうと察したのかも知れない。だからそんな話をしたのだろう。

『大丈夫だよ。サラがいなくなっちゃうかもしれないのは寂しいし悲しいし、嫌だけど、きっと俺は大丈夫』

『本当ですか?』

『だってそうじゃないと、サラを安心させられないでしょ?』

『……そうですね』

『でもサラがいなくなっちゃったら、俺は誰と話せばいいのかな。楽しかったこととか、嬉しかったこととか、嫌だったこととか。みんなも聞いてはくれるけど、サラみたいに厳しいことを言ったりしないんだ』

 ハウトが不満を述べると小間使いは顔を青くして平伏し、意味の分からない笑みを張り付けてどうにか機嫌を取ろうとしてくる者もいる。「殿下の言う通りです」と肯定されるのは悪い気分ではないのだが、妙な物足りなさと寂しさが胸のうちで燻るのだ。

『俺の言うことを素直に聞いてくれるのは嬉しいけど、でもそれってなんだかつまらないと思わない?』

『でしたら、お友だちを作られてはいかがでしょう』

『友だち? なにそれ?』

『お互いがお互いを大切にしている関係のことですよ。目に見えない糸でつながっているような、そんな間柄です。どちらか一方の立場が上、というのは主従関係になりましょうが、友だちは立場が対等であるからこそ築かれるものだとサラは思います』

 友だち、と覚えたての言葉を記憶に刻むよう何度も口ずさみ、ハウトはサラスヴァティーの手を握って立ち上がった。

『それって俺とサラみたいな?』

『まあ。殿下はサラを友と呼んでくださるのですか?』

 心の底から嬉しそうにサラスヴァティーが笑い、ハウトも頬を染めながら白い歯を見せて笑う。今まで名前のついていなかった二人の関係性に名前が付いた瞬間は、きっと誰から見ても微笑ましい光景であったに違いない。

 ――どうして忘れていたんだろう。

 ハウトは真っ暗闇にふわふわと浮いているような心地でいた。幼い自分と、壊れる前のサラスヴァティーが語らう様を天高くから見下ろしているような、不思議な気分だ。足元だけが木漏れ日のようにぼんやりと照らされ、光の中で女神が音楽を奏でている。

 ――女神は……サラはいつも、今にも散っていきそうな花に似た笑顔を浮かべていたな。

 どうにか近づいてサラスヴァティーをもっとそばで見たいのに、どれだけ迫ろうとしてもその分だけ光は遠ざかり、ハウトを嘲笑うように場面は移り変わる。

 異国の兵に貫かれ、崩れていく女神が照らされた。

『サラ! サラ!』

 声を返してほしくて肩を掴むと、そこからボロボロと崩れた。ハウトを守るべく伸ばされた腕は指先から塵のように綻び、敵の前に立ちはだかった美しい脚は見る影もなくすでに形を失くして砂の山を築き上げている。

 兵からしてみれば人間が突然石像になったように思えただろう。女神の胸を剣で貫いたまま逃げ出し、王宮に駆けつけた軍に呆気なく捕えられていた。

『サラ、サラ……なんで、なんで……!』

 殿下、と優しく呼びかける声はもう二度と聞こえることはない。そうと認めたくなくて縋ると、彼女はさらに崩れていく。最終的に顔だけが残り、ハウトのこぼした悲嘆の涙が落ちて頬を濡らし、まるで女神も泣いているような染みを作った。そっと持ち上げて胸に抱きしめると、肌の柔らかさや髪の滑らかさはどこにもなく、ただ石と砂のざらざらとした手触りがあるばかりだ。

 あまりに強く抱きしめたせいか、ついには顔も崩れた。ぽろりと手のひらに落ちた目玉の石が、ハウトに別れを告げるように見上げている。体を折り曲げてむせび泣いている姿を、誰もが痛ましそうに眺めていた。

 ――サラ。

 ――俺は、お前にもう一度会いたかった。

 ――会って、それで……。

『殿下』

 背後から声が聞こえ、はっと振り返る。

 ――ドゥルーヴ。

 呼びかけたつもりなのに、空気が漏れるばかりで声が出ない。ハウトが拾い、育てた少年は音もなく近づいてくると、床などない場所にひざまずいた。

『殿下、僕はあなたさまのお役に立てましたでしょうか。あなたさまの忠実なる下僕として、お役目を全うできましたでしょうか』

 ――違う、ドゥルーヴ。お前は下僕などではない。

 違うんだと言い募りたくても声が出ない。顔を上げさせようとしゃがんでも触れられない。

『殿下』と顔を上げた彼の首には生々しい傷跡が刻まれている。血はすでに流れていないが、衣服はべったり赤く染まってしまっていた。

『あなたさまを置いて逝ってしまうことをどうかお許しください』

 ドゥルーヴ、とハウトではない誰かが彼を呼んでいる。少年の背後に二つの人影がちらついた。遠くて見えにくいが、どうやら手を振っているようだ。ドゥルーヴは最後にハウトに一度だけ、深く長く頭を下げると、声に引き寄せられるようにして駆けていった。

 ――待て、行かないでくれ。

 ――お前が逝ってしまっては、俺は……!

 足元の光の中では、女神だった砂の山から引き離されるハウトが映し出されていた。

『やだ、やだよ、サラ! 俺を一人にしないで!』

 涙と鼻水でぐずぐずになった声を最後に、光はふつっと消えた。

「…………サ、ラ…………」

 やっと声が出せたと思ったら、喉が渇いてひりつくせいでひどく掠れていた。

 もうここにはないものをそれでも掴もうと手を伸ばし、何もない虚空で無意味に動かす。と、温かく柔らかいものがハウトの指先を包んだ。なんだろうと目を凝らしても闇が続くばかりで何も見えない。

「サラ……サラ、なのか……?」

 ハウトの指先に触れる何者かに呼びかけるが、応答はない。力なく握ってみると、優しく握り返された。

「……サラ、俺は……そなたがいてくれなければ、やはり駄目だった……。大丈夫だなんて、嘘だった……」

 指で握ったなにかを引き寄せ、額に押し付けて懺悔のようにぽつぽつと吐露する。

 ――俺はもう一度、サラに会って……。

「すまない」

 嗚咽を堪えながら言ったものだから、言葉は情けなく震えていた。すまない、すまないとどれだけ謝罪を重ねても、後悔はいっこうに薄れない。薄れるばかりか、より濃くなっていくような。

「ずっと、謝りたかった。俺はサラに甘えてばかりで、でも見栄も張りたくて嘘をついた。離れるなんて無理だった。なのに、俺が不甲斐ないせいで……俺が敵に捕まったりなんかしたから、そなたは壊れて……全部、俺のせいだ」

 母のようでありながら、友でもあった女神が壊れてしまったのは自分を庇ったからだ。そんなことはないと周りは言うが、ハウトにとっては事実なのだ。

「俺はただ、そなたにもう一度会って、謝りたかった。許されるはずはないと分かっていながら、それでも求めずにはいられなかった」

 己の願望を、いつから民の願望にすり替えていたのだろう。民はとっくに女神無しで生きられるようになっていたのに。

 指で掴んでいた何かが離れていく。待ってくれと追いすがろうとすると、目元に温かいものが触れて、知らないうちに流していた涙を拭っていった。

「サラ、なのか……?」

「違いますよ」と、聞こえたのは男の声だった。

 はっとして目を瞬くと、急に闇が晴れる。長年親しんだ天蓋が目に入り、急に周囲の明るさを捉えられるようになった。背中にふかふかした柔らかさを感じ、ベッドに寝かされているのだと次第に理解した。

「起きられましたか」

「…………ガレス……?」

 枕元に立っていた男は、疲れ切ったような表情を浮かべながら「おはようございます」と頷いた。彼の前に座り、ハウトの涙を拭っていたのはオリフィニアだ。彼女もまた色の違う両の瞳に疲労をにじませている。

「……俺は、どうしたのだ……?」

「覚えていませんか? 魔獣化して大暴れしていたんです」

「魔獣化、だと?」

「頭飾りをつけておられましたよね? 雫型の」

 ガレスはゆっくりとハウトが魔力や魔獣についてとか、魔獣化した経緯を話してくれた。正直に言うと全て理解できたとは言い難いし、自分の額で揺れていたものが〈核〉だなんて知らなかった。魔力なんてものも初耳だった。

「〈核〉は角となって額に癒着していましたが、すでに壊しましたのでご安心ください。魔獣化したのが短時間だったためか、体にそれほど影響はなかったようですし、あった部分は神力で浄化しました。他にどこか気になる部分は?」

「……今は、何時だ……?」

 ハウトが目覚めた今は、魔獣化して二日が経っているという。一連の騒ぎで命を落としたのは一人だけで、王宮はあちこちが壊れて修復作業のただ中らしい。ハウトの部屋も片付けられてはいるが、壁に掛けていた絵画や花を活けていた花瓶などは取り払われている。

「命を落とした、というのは……」

「ドゥルーヴくんです」

 やはり、と納得すると同時に、心のうちにぽっかり穴が空いたような気分がした。

「遺体が腐敗することを考慮して、殿下が眠っているあいだに埋葬は済ませました」と教えてくれたのはオリフィニアだ。いなくなってしまったドゥルーヴの代わりに、二人はいつ目覚めるか分からないハウトのそばにいてくれたのか。

「ですがドゥルーヴくんは魔獣化した殿下に襲われたのではなく、自分で首を切ったようでした。可能な範囲で教えていただきたいのですが、お二人の間で何があったんです?」

「…………ドゥルーヴは、俺が殺したようなものだ。俺のせいで死んだ。奴は『自分の体を、女神を作る材料に』と己の首を掻き切った」

「……そうでしたか」

「俺は、奴と……ドゥルーヴと、友になりたかったのだ。互いが互いを大切に、目に見えない糸でつながっているような……俺の言葉に賛成するだけでなく、反対もしてくれるような……」

 けれど実際ドゥルーヴとの間に築かれていたのは対等な関係ではなく、明確な主従関係で。

 大切にすべきだった相手を、ハウトは女神に焦がれるばかりで蔑ろにしてしまった。

 だから彼は去ってしまったのだ。重い現実が目に見えない塊となって圧し掛かってくる。

 ハウトが目覚めたことを知らせてくる、とオリフィニアが退室する。一人残ったガレスは、痛ましそうな眼差しでこちらを見つめていた。

「例え殿下がドゥルーヴくんの体を私のところに持ってきていたとしても、俺はお断りしたでしょうね。繰り返しになりますが、幻獣作成は」

「禁忌、だろう」

 もう分かっている、とハウトは呟くように言った。

「理解もしたし、受け入れた……遅くなってしまったが」

「ええ。でしょうね」

「俺がもっと早くに受け入れて、女神を蘇らせる以外の術をそなたに聞いていれば……ドゥルーヴが逝くことも無かっただろうに」

「過ぎたことを言っても仕方がありません。悔いても彼は戻ってこない。でも」

 ガレスはオリフィニアが座っていた椅子に腰を下ろし、ハウトの胸をとん、と指先で叩いた。

「ドゥルーヴくんは殿下の胸に居続ける」

「……俺の、胸に?」

「ドゥルーヴくんだけでなく、女神サラスヴァティーも同様です。二人は目の前からは消えてしまったけど、殿下が忘れない限り、その胸にずっと居続ける。記憶の中で生きているんです。去ることなく、永遠に」

「…………」

「ありきたりな考え方ではありますが、大事な考え方でもあるでしょう」

「ハウト!」

 ばたばたと騒がしい音を立てて父王が部屋に飛び込んできた。王妃も一緒だ。二人は飽きるほど名前を呼びながら涙をこぼし、ハウトを抱きしめてくる。このまま目覚めないのではと言う父の口調には、少しだけ叱責の響きがあった。

 ――俺の胸で、生き続ける。

 ――サラも、ドゥルーヴも。

 ハウトは己の胸をぎこちなく擦った。

 記憶の中にいる二人が、そろって微笑んだような気がした。

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