鏖殺の剣の物語

かつエッグ

鏖殺の剣の物語(前編)

1)


 そこは昼なお暗き辺土の森。

 男は、森の中をひたすらに逃げていた。

 何から、あるいは誰から?

 男には、わからなかった。

 自分が誰であるかも定かではなかったが、逃げなければならない、逃げなければたいへんなことになる、それだけはわかっていたのだ。

 時折後ろをふりかえる。

 自分が突っ切ってきた緑の闇があるばかりだが、しかし——。

 が、

 捕まったら最期だ。

 とは何か?

 分からない。

 だが、逃げる。

 必死で逃げる。

 張り出した枝や、鋭い草の葉が、男の肌にいくつもの傷をつくる。

 男はそれなりに質の良い服を身につけているのだが、そんなふうに森の中を進んでいるため、生地は裂け、泥に塗れていた。髪も乱れ、汗みずくだ。

 息を切らし、足ももつれる。

 だが、それでも男はヨロヨロと進む。


 辺土の森は危険なところである。

 たとえ日中であろうと安全ではない。

 流浪のならず者、野盗、そういった人間ももちろん恐ろしいが、人を餌とみる凶暴な獣や、そして獣よりも恐ろしい魔物さえ徘徊している。

 男のように、なんの武器も持たず、たった一人で、闇雲に森の中に踏みこむことは、自殺行為に等しいのだ。

 しかし、そんなことに頓着している余裕は、男にはなかった。

 男の怖れるなにかから逃げるために、前に進むこと――それしか男の頭の中にはなかった。

 だが、森は、うかつな者をけして見逃さない。


 ズザザッ


 生い茂った樹の葉叢が揺れた。

 次の瞬間


 ギキイイイイイイイ!


 金属の擦れるような叫び声を上げながら、男の頭上から、黒いかたまりが降ってきた。

 塊は、男の眼前まで落ちてくると、そこで停まり、ぶらりと揺れた。

 縮れて、ごわごわした毛が一面にはえた、袋のような形状。

 それが、絡み合った、細く赤い血管のようなもので樹上からぶら下がっていた。

 毛の生えた袋には、真ん丸の大きな目が二つ。

 そして、その目の間に、縦に長く裂けた口が開いていた。

 口の両側には細かい歯が並んでいる。

 

 ギキイイイイイイイイ!


 鼓膜を不快に刺激する甲高い叫びを上げた。

 むうっと生臭い息が、男の顔に吹き付ける。

 生臭いのだが、その不快な生臭さの中に、妙な甘さも感じられるのがよけいに不気味だ。


「ひぃいいいっ!」


 男は悲鳴を上げ、尻餅をついた。

 化け物の眼が、瞬きもせず、男を見つめている。

 獲物を吟味しているのか。

(くっ、喰われる…)

 男は怯え、尻餅をついたまま後ずさる。

 だが、寸鉄一つ身につけず、なんの特別なスキルも持たない男が、こんな化け物から逃げられるわけがない。

 ここまでか?

 男は絶望した。

 が、その時。


 ギヒィィィィィィ!


 悲鳴のように一声啼くと、


 シュルルッ


 まるで糸を巻き取るかのように、魔物は樹上へと消えていった。

 男は、それをあっけにとられて見ていた。

 気がついたように、辺りをきょろきょろと見回す。

 化け物が、まるで、なにかに怯えて逃げ去ったように思えたからだ。

 あんなモノが、危険を感じて逃げるとしたら、それは、さらに恐ろしいなにかの脅威にさらされたからではないのか?

 男は怯え、起き上がりかけた四つん這いのまま、あたりの気配を伺った。

 しかし、近づいてくるような物音はない。

 消えた化け物も、もはやコトリとも音を立てない。

 どこか遠くで、森蜻蛉の笛のような鳴き声が聞こえてくるだけであった。



2)


 男はやがて、のろのろと立ち上がった。

 死の恐怖にさらされ神経が過活動になった後の身体には、どっと疲れと、そして痛みがのしかかってくる。

 あちこち怪我をしたようだ。

 そして空腹だった。

 だが

(逃げなくては……とにかく遠くへ)

 衝動は男を突き動かす。

 男は、重い足に鞭打ち、一歩一歩進んでいった。

 この森を抜ければ、もっと歩きやすくなるだろう。

 もし人里に出ることができれば——。

 そんなことを考えながら、よろよろと進んでいく男に


「動くな!」


 厳しい声とともに、何本もの鋭い刃が突きつけられた。

 たたらを踏んで、立ち止まる。

 男は、いつの間にか、武装した集団に囲まれていた。


「逃げるなよ……逃げたら斬る」


 リーダーらしい、鋭い目をした体格のよい剣士にそう告げられ、男はなんどもうなずく。

 

「両手を挙げて、じっとしていろ」


 目配せをされた別の剣士が、男の身体をあらためていく。

 あきれたように首を振った。


「なにも、持っていないな、身一つだ。身を護る武器えものさえない。これで森をうろうろするなんて、こいつ、ばかなのか?」

「いや、その、俺は……」

「おや?」


 男の身体を調べていた剣士が、声を上げた。


「どうした?」

「ちょっと待ってくれ」


 その者は、男の服の襟首を両手で掴むと、ぐいっと力任せに開いた。

 ビリッと布地が裂けた。


「これはなんだ」


 高い襟に隠されていた、男の白い首が露わになる。

 そこには首輪があった。

 赤黒く光る、なめらかな金属の首輪が男の首を取り巻いていた。

 首輪には不思議なことに、どこにも継ぎ目がなく、いったいどうやってそこにはめられたものか分からない。


「どうなってるんだ、これは」


 そういいながら、首輪の隙間に指をさしこもうとした剣士は、驚きの声を上げた。顔をぐっと近づけて確認する。


「妙だぞ。隙間がまったくない」

 

 首輪と、男の首の皮の間には、まったく間隙がなく、指が入らない。あたかも首の皮膚が硬くなって首輪を形成しているようだった。


「なんだ、これは……」


 一歩下がって、不気味なものを見る目で男を見た。


「なにかの呪いなのか? それともお前、魔導師の奴隷かなにかで、逃げ出してきたのか?」


 眼が険しくなる。


「それなら、しかるべきところに——」

「い、いや、俺はけして——」


 弁解しようとする男をさえぎるように、リーダーの剣士が言った。


「不審者というほかないな。連れて行け、砦でゆっくり吟味させてもらおう」


 顎をしゃくった。

 そして歩き出す。

 武装した一団が、男を囲むようにして移動を始めた。

 男はなすすべもなく、大人しく連行されていく。


「おう、そうだ」


 少し歩いたところで、先頭を歩く剣士が、前を向いたまま、思いついたように言った。


「名前くらいは、聞いておこう。名乗れ」

「俺は……」


 口ごもる男。


「言えぬのか?」


 剣士がふりかえり、強い眼で男を見た。


「い、いや……俺は……シャスカだ」

「シャスカ、だな」


 剣士はにやりと笑うと、言った。


「ま、とりあえず、そういうことにしておこうか」


 男はシャスカと名乗った。

 名を問われ、慌てて自分の心をさぐったところ、心の深いところからその名前が出てきたのだ。

 その名が、本当に自分の名であるのか、確信はなかったのだが。


 砦に連行されていく男——シャスカの耳に、森蜻蛉の、笛のような、あるいは聞きようによっては女の悲鳴のような鳴き声が、遠く近く聞こえていた。

 ひどく不吉な響きだった。



<鏖殺の剣の物語(中の一)に続く>

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