第58話 五つの指輪
城塞は喧騒に包まれていた。何十匹もいたゴブリンは危険を察知したかのように森へと散っていった。
動けるものはわずかにしか居なかった。一度は峠の中腹まで避難していた娼館の女中と修道女たちは引き返し、傷ついた白騎士たちを手当てしていた。
ローズはうなだれたまま城門の前で倒れていた。女中姿のソフィアはそっと彼女を支え、魔方陣の中に座らせた。
「……大丈夫? ねえ、ローズさん」
「おこしてはなりません、ソフィア殿。意識は、リウト殿と共にあるのでございます。彼女にとっては修羅場のような事実を見ることとなりましょうが、手前どもが水を差すべきではないでしょう」
「ら、ラルフ神父。貴方こそ起きて平気なのですか?」
「正念場といいましょうか。ここが落ちれば、誰も助かりませぬ。まして修道士がいなければ、助かる者も助かりません」
彼の周囲にはベナール教会の修道士たちが続いていた。ラルフは素早く指示をだす。
「ロセニア、フロウ、ウォルドにチコリ。
「手前は、生きている者すべてと言いました」
「はい……仰せのままに」
教会の
封印術師は生涯をかけて、特別な解封師を育て上げた。ローズに開けられない封印は、もはやこの世界に無いと言えるほどに。
彼女を操り、ユグドラシルに干渉することが可能となれば、この〈世界〉は大きな変革を迎えるに違いない。
その命運は、ひとりの魔術師が握っている。彼と
魔術の探求だけではない。彼の資質、考え方、生き方も興味深かった。〈隠者〉とは本来、真理を求める探求者でなければならない。
だが、彼は未来を予知する能力を自ら封印し、幼少期を過ごしてきた。
役に立たない能力と決めつけ、その資質を無視して生きてきたのだ。彼を馬鹿と決めつけるのは容易いだろう。
だが、もし百パーセント当てることの出来る賭博師から、その能力が失われたらどうなるだろう。
その賭博師の人生も同時に失われるだろう。他の選択肢が育たないのだから。
僅かにでも未来が見えれば、他のことを学ぼうとは思えない。秘められた探求心に蓋をしてしまう行為ともいえる。
〈隠者の
あのまま予知の能力に頼って生きていれば、広大な世界は狭い世界にしか見えず、長く伸びた地平線は短くなり人生は味気ないものになってしまっただろう。
美しく輝いた世界や人々の愛情ですら、ただの記号に成り下がっていただろう。真実を求める努力や好奇心に蓋をする行為は、彼の性質に合わなかったのだ。
ラルフは笑みをもらした。それでこそ〈隠者〉ではないか。能力を隠し、孤独に生きながら大学の書物すべてを読み漁った青年。
それこそが本来あるべき隠者の姿ではないのか。ここに来て、この戦いの行く末を見なければ、一生自分を許せないだろうと思った。
モリスンに治療を続けながら、神父は顔を上げた。どんよりとした雲が空を覆い、空気が湿っている。
「はじまったようで」
「馬鹿のリウトに世界の行く末がかかってるとは、笑えるな」
「……笑えるのは
「そうかもしれねぇな。ベナール教会で修行俺している間に、何があった?」
モリスンは神父の手を遮った。これ以上、神父に無理をさせたくなかった。
はじめにリウトは、何もない空間から樹輪の宝珠を二つ取り出しました。これによって、時間跳躍は手前と二人で行うことが可能になったのです。
彼は魔術師としての訓練をはじめました。その大部分は瞑想に費やされておりましたが、手前にもやるべきことがありました。
樹輪の宝珠を精霊魔術によって指輪へと加工することでございます。
二人の肉体以外の時間跳躍は出来ないため、増殖した武器や宝珠は、最後の最後に手元に残す形にしなければなりませぬ。
リウトの装備は何度も確認いたしました。パーゴ村のリングピアス、伝説の剣アンサラー、竜鱗の腕輪、恋人たちの指輪、そして自然界の魔力を集めることを可能とする樹輪の指輪。
浪人騎士や、治療に加わる者を想定し装備を増殖するのは最後の作業でございます。危険性の高いアイテムを余分に生み出すのは避け必要最低限にとどめました。
「彼には、充分な休養も取ってもらいました。全ての準備は完璧に終わったのでございます。そう、考えうる……完璧……の」
ふらつく神父を
「少し横になってください」
「さようで。手前はもとより、指示だけのつもりでここへ来ました。それより、サマー。かがむとシャツの中が見えますよ」
「……それでしたら、完璧です」
「はてさて」
「完璧だといっているんです。それより、修道女ロセニアがお困りですよ。あの魔女アネスが全て話すといってます」
「……なんと」
「封印術師ノアとローズの出生の秘密について」
「魔女はローズ殿がいったい何者なのか知っているのですね」
※
白の指輪と黒の指輪。
通称、天地の指輪。魔力を無限に生み出す
天――雷――氷――火――地。
雷雲が立ち込めていた。ピリピリと霞みがかった雲が現れ、イカズチが鳴り響いた。
のしかかってくる空気にリウトは息苦しさを感じていた。湿気を帯びた封印術師のローブは、どす黒く輝いているように見えた。
「……娘が私に与えてくれた」ノアは指輪から目を離さない。
「お前は奪っただけだ」
「いや、運命だな」ノアは落ち着こうと自分に言い聞かせるように言った。
「それが運命だと言うなら、俺はローズを奪う」
「よせ……馬鹿な真似はするな」ノアの呼吸が早く、浅くなっていくのが分かった。「ええい! 色恋ごときで、全てが徒労に終わることなどさせんぞ」
閃光の槍――
閃光の槍は数十、数百と無数に放たれていた。発射されてから、更にスピードが加速していく。
リウトは初めて目の前で魔術弓が音速の壁を超える瞬間を経験した。この閃光弾は衝撃波だけで、非接触であろうと負傷する。地鳴りのような破裂音は少し遅れてやってくる。
だがリウトが右手を掲げると、無数の槍は右手の中に吸い込まれていった。
「無駄だっ、ノア!」取り漏れた閃光の槍の細い隙間を、リウトはすり抜けて飛んだ。
「当たらないだと? なるほど、回避魔法を併用しているのか」
槍は生き物のようにリウトを追いかけた。獲物を見つけたオオカミの群れのようだった。とっさに体の向きを変え、円を描くように宙を舞うと閃光の槍は目標を見失い、引き離されていった。
「くっそおっ」封印術師は怒声を上げた。「ならば、実体化した弓ならどうだ」
千本の矢がリウトの頭上から豪雨のごとく降り注いだ。リウトは器用に飛び回りながら身をよじって弓をかわすが、股に一本受けていた。
「っ痛、危うく股間に当たるところだった!」すぐさま矢を抜き回復魔術で出血をおさえ、そのまま両手を振り下ろした。
弓は向きを変え、ノアに向かって飛んで行った。金属どうしが高速で、ぶつかり合う甲高い音が響いた。
ノアが指輪をかざすと無数の弓は、うねる大蛇のようにひと塊になって脇に逸れて行った。
「こい、ノア!」リウトは叫んだ。「お前の魔力を全て俺にぶつけてこい」
雷鳴が響きわたる。急激な冷気が周りを包むと、冷え切った腹の底から恐怖が湧き上がってくる。空中にいるにも関わらず地鳴り、土砂崩れのような爆音。
「神のイカズチを喰らえ!」ノアは怒りに陶酔していた。天地の指輪が生み出す膨大な魔力にあてられているように見えた。
強すぎる魔力を吸収し我を忘れている。上空には巨大な黒い雲が浮いていた。その雲に飲み込まれていく様は、まるで真っ黒な深海に、沈むような感覚だった。
ノアは大きな拳を振り上げた。その両手は避雷針となって大気の中から電気を集めた。リウトとノアのあいだでは無限とも思われる量の氷晶と稲妻が飛び交っていた。
実体化した雷槍ブリューナクは、雲を切り裂き真っ直ぐに伸びた。リウトの心臓に風穴を開けて仕留めたかに思えた刹那、リウトの体はバシャッと水に変わり吹き飛んだ。
背後からリウトは一気に距離を詰めてノアの両腕を掴んだ。二人の魔術師は稲光に包まれながらガッシリと組み合った。
「!!」
反射する無限の魔力、行き来する雷と氷。明滅する光と闇。樹輪の指輪をしていたから……それとも竜鱗の腕輪をしていたから。ローズがノアの封印された記憶を解放したから。
記憶の収蔵庫には無数のローズの姿が見えた。笑うローズ、恐れるローズ、はしゃぐローズ、慌てふためく、勉強する、泣き崩れる、成長していくローズ……ローズとリウトの目には、膨大なノアの記憶が流れ込んできた。
時間にすれば、ほんの一瞬だった。それは遥かな記憶であった。まるで、そこに自分が居合わせたような体験だった。
「うおおおおおおおおおおおっ!!」
『きゃああああああああああっ!!』
※
※
十六年前。
北部をめぐる戦争があった。その年は酷い寒波で、大地は雪に覆われ、豚や馬は死に絶え、穀物や備蓄された食料も底をついていた。
そんな状況で城を攻める事は無謀な試みだ。白騎士は時期を待つ為、湖畔に砦を築き戦に備えていた。しかし、黒騎士は凍る砦へと南下してきた。
黒騎士の襲撃は、何日も何日も続いた。青白くそびえる山脈から、重なった尾根を越え、積もる雪をかき分けて、ここにくるのだ。無謀な敵の進軍は善戦したほうだといえた。
砦からは、黒騎士が焚く火を見つけては狩りに向かう毎日が続いた。敵も寒さと食料不足によって苦しんでいたのだ。長い冬だった。多くの騎士達が傷つき、死んでいった。
小隊長のネイサンは〈石壁の騎士〉と呼ばれるがっしりした強面の剣士で規律に厳しく真面目を絵にかいたような堅物だった。
引退をまじかに控えた老魔術師〈火焔魔術のモーガン〉と二人の騎士が、ネイサンに呼ばれた。
薄汚れた革鎧の古株は〈
背のまるまった大きな解封師も呼ばれていた。大雪で孤立していた
「よう錠前破り。賭けに乗るか?」
「や、やあライナスさん。たったの五人で敵の城に向かうなんて、き、緊張するね。悪いけど賭けには乗れないよ。だ、だって全員ぼくが死ぬほうに賭けてるんだろ?」
「ひゃっはっは。ひでぇよな、いくらお前がノロマだからって」
「は、はは……気にしないで。でも、ぼくは錠前破りじゃなくて、解封師だよ。ちゃんと解封師って呼んで欲しいな」
そのずんぐりとした気の弱そうな男は、自ら名乗ることはしなかった。今の姿とは似ても似つかわない男、それが当時のノアだった。
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