第23話 マンサ谷の娘

『溺れかけ、爺いとおなじ、お手々しわしわ』


 妙な句が浮かぶほど長い時間、水面に浮かび意識を失っていた。


 リウトはロザロの地下迷宮から更に深い地下の湖に落ち、遠く離れたセレース川へと流れついた。右肩の傷はまだ乾いておらず、縫うか焼かないかぎり回復の余地はなかった。


 ほっておいたら菌が入って破傷風になると確信した。自分はどうかしている。それどころか死んでいても不思議じゃなかった。


 ベルファーレの峠に続く断層、あるいはその副断層は東から西南西方向に走っており、その破砕帯に地下水脈があるのは知っていた。


 そこから湧出しているのが療養効果のある温泉だったのは幸運だった。上手くすれば一攫千金の儲け話にもなりうるが、今は命すら危うい状況だ。


 魔法のマジックフロート位はこんな自分でも作れる。伊達に大学は出ていないと言いたいところだが、これは子供でも出来る初級中の初級魔術だ。


 右腕は痛みをこらえれば多少何とかなった。足を使い、無造作に川辺に這い上がった。


 そこは、どの〈鬼〉からも死角になるルートだ。少し身体が温まると朦朧とした意識の中でただ、真っ直ぐ空を見上げた。


 月は鉛色の雲に隠され何も見えなかった。真っ暗な草むらは、まるで今も迷宮の奥深くにいるような錯覚を起こさせる。


 ながいこと虫の音と、木々の擦れ合う音しかしなかった。


 アネス。あの凍るような目つきは俺の知っている彼女じゃない。


 朝のとばりが降りると、冷たい空気がリウトの服や肌にしみ込んだ。


 麻痺状態だった。まるで血液が流れるのをやめたかのような。やっと上体を起こし道に這いでると、遠くにレンガと土で作られた家が何件か見えた。


 白く塗られた木の柵が立ててある。リウトは自分の右手が無事か再度確認をすると、仰向けになって倒れこみ意識を失った。

 

         ※



 その娘は花の刺繍の付いたベストに裾の広がったスカートを穿いていた。ブロンドの髪を後ろで三つ編みに結い、まだ幼さの残る華奢な体つきのわりにテキパキと仕事をした。


 ベッドの上で三日たっていた。


「今日は顔色が大分いいわね」


「ありがとう、君のおかげだよ」


「うふっ……毎日のように御礼なんて言わなくていいのよ。あとは口内炎と結膜炎を治さないとね」


「もしかして、もう起きた方がいいかな?」


「ふふっ。冗談よ、回復魔法ヒールで傷は塞がっているけど、完璧とは言えないわ。実際のところ、回復が早すぎるくらいよ。みんなもすごいって言ってる」


「今のうちに謝っておくけど、俺が完璧に治ることがなくっても、君のせいじゃない。よく、死ななきゃ治らないっていわれてる」


「ぷはははっ。明日には近くの広場に散歩に行きましょうか。ボールとフリスビーを持って」


「あ、ああ。遊んでくれるの!? ハッ……ハッ……ベッドの外でもすごいって所見せなきゃ」犬のように手を丸めて舌を出す。


「ぷぷーっ、あははははっ! 馬鹿ねっ」

 

 その言葉が嬉しかった。本当に馬鹿だと思っていたら、そんな言い方はしない。リウトは見知らぬ谷のちいさな村で傷の手当てを受けていた。寝室で花瓶の水を替えている娘は村長の孫娘マリッサだ。


 彼女の笑顔は完璧だった。もとから美人であることは疑いようもなかったが、彼女が笑うと見とれずにはいられなかった。正確なシンメトリーで笑顔を作れる女性は希少だ。そして最近では珍しい純真無垢な人間だった。


「ケーシーの馬車で通りかかったときは、死体だと思ったわ。でも、彼があなたを見て言ったのよ。この子は僕の、もと教え子だって」


「……いい教え子じゃ、なかった。君は魔術を使うのかい?」


「ええ、少しだけ」そう言って微笑むマリッサを見ると、自然とこちらも笑顔になる。


「この村はマンサ谷に面して孤立しているからケーシーは熱心に魔術を教えてくれるわ。それに人生が豊かになるもの」


「君はいい生徒だね。働き者だし、優しくしてくれる」


「ふふふ……人の役に立ちたいって思うのは自然なことよ」


 彼女のような考え方をみなが持っていたら、争い事や不幸なんか無くなると思った。村の学校の魔法使いはレンギル魔法大学での元教師、ケーシーだった。


 人口は約四百人。生徒は見たところマリッサを合わせても十人程しかいない小さな村だった。ケーシーは無垢な彼女を世間知らずにしないよう見守っているように思えた。


 ドアの入り口は暗闇に近かったがリウトには誰だか分かった。その男は湯の入った金盥かなだらいと新しいタオルを持ってきた。


「先生、大分よくなったよ。もう、歩けると思う。ありがとう」


「御礼なら、マリッサに言ってくれ」魔術師の白いローブを着た背の高いなかなかの美男子だった。


「俺が入学して、たしか一年もたたないうちに先生は教師を辞めたろ。でも、俺のことを覚えていてくれた。だから、こうして看病してくれたんだろう?」


「君が誰であろうとマリッサは看病したよ。もう先生はやめてくれ、君は立派に卒業したんだ。ケーシーと呼んでくれ」


 どの教師より規律にうるさかったケーシー・シュタイナーが大学を辞め、自分の育ったマンサ谷へ帰ったのは有名な話だ。

 

 優秀な教師は、戦場に駆り出される事が多かった。それは生徒を従えて実地訓練をすることが目的でもあった。


 ある日、ケーシーは三人の生徒を連れて戦場に行った。そして生徒だけが帰ってこなかった。黒騎士との戦闘で死んだのだ。大学側は彼の辞表をすんなりと受け入れた。


 別段、珍しい話ではない。退職した魔術教師は、聖職者と同じような役割を持っていたので、どこの村や町に行っても、ケーシーのような魔術師は重宝される。


 最後に見たときと比べて、彼は活き活きとしていた。戦場から戻り大学の中央棟にあるドームで戦死者の報告をする彼の姿は、ひどく痛々しいものだった。

 

 苦しみがその身体から流れ落ちていくようだった。負傷した腕は草の葉と麻布で包まれ、粗末な吊り包帯で縛られていた。


 ステンドグラスに照らされた祭壇のもとで、リウトが彼のなかに見たものは、疲れ果てて敗北のなか良心の呵責に追い込まれた病んだ男でしかなかった。


 しかし、今は村での生活が彼に平穏を与えたのが分かる。帰る場所があり、愛するべき人たちがいる――この村こそが、彼に残った唯一の慰めだった。 



 日が落ち月が出ていた。夕飯を終えたリウトは折を見て、ケーシーに聞いた。直接的な出来事には触れずに。


「アネスを、覚えているかい?」


「確か、べルツァーノ家の末っ娘だったか。穏やかで、戦闘向きでは無い性格の子だった。今の私もそうかもしれないが」


 ケーシーは魔術師には、二種類のタイプがいるという。一つには迅速かつ攻撃的に、敵を駆除していくタイプ。


 乱暴な殴り合いのような訓練を繰り返し、瞬発力と破壊力を高めていく。強力な魔法で直接的に敵をねじ伏せていくには、もってこいのスタイルで、大学もそちらを勧めている。


 いわば打撃系だ。戦場では、ほとんどの魔法使いがこちらに属する。結果、マジックアローとアローグラスだけがメジャーな魔法となって、複雑なエレメントを使う魔術師を見ることは少なくなってしまった。


 二つ目は、柔術や合気道に類似したタイプ。柔軟に魔法を駆使して、攻撃をかわしながら弱点をつく。


 なによりも自分とチームの身を守ることに重点を置く。合理的に魔力を使い、少ない魔力で強大な敵に抵抗できるのも、大きな強みだ。


 アネスは、あきらかに後者のイメージだとケーシーは言った。だが、地下迷宮で会った彼女は仲間を全滅させ、亡霊騎士ワイトには過剰な魔力を使って攻撃を仕掛けていた。


「いまは、まるで別人だよ。特殊部隊シビラの隊長をやってる」


「ほう、信じられないな。克服できたのか」


「うん? 何をだい」


「魔術にはスピードは大事な要素だが、彼女は気が弱いせいか敵に目を背ける癖があった。一流の魔法使いは戦闘中に、まばたきすらしない。そういう要素は、なかなか治せるものじゃない。だから戦闘向きじゃないと言ったんだ」


 足音が聞こえた。二人が入口のドアに目を向けると、そこにはマリッサが立っていた。


「ごめんなさい。盗み聞きするつもりじゃなかったんだけど、食器を……」


「いや、大丈夫だよ」ケーシーは優しくうなずいた。「いまの話、どちらのタイプが強いのかしら。やっぱり攻撃重視になっちゃうの?」


「はは、私も以前はそう思っていた。大学の考えもそうだった。だが柔軟なタイプのほうをお勧めするね」


「ケーシーなら、そう言うと思ったわ」


「まして彼のように白騎士になったのなら、遅かれ早かれ自分より強い敵に出会うことになる。乱暴な攻撃魔法ばかり重視して、強さだけを求めていると簡単に心が折れてしまう」


「柔軟な魔法をたくさん持っていれば、きっとどんな敵にも勝てるわね」


「ははは、そう簡単にはいかないけどね。もう一つ、魔術師に限らず、違ったタイプが存在する。私の授業を覚えているかな?」

 

 タロットカードに例えられる二十二の資質スキル。それこそがケーシーの専門分野だった。


「完治してからにしてあげて、ケーシー」マリッサはふたりに笑顔を見せた。「動けない彼に講義なんて、ムチ打ちの刑と同じよ」


「……むち打ちになるのか」


「「ぷっ、あははははっ」」



         ※


 犬たちは鼻を鳴らして、注意深く森の中を進んでいた。人間の匂いを嗅ぎつけると、その犬はムクムクと黒い毛を逆立てながら、肥大化していった。一瞬のうちに森の見張りをしていた村人の喉元を押さえつける。


 五匹が一斉に食らいついたと思うと手足の肉を噛みちぎり、くちゃくちゃと咀嚼した。血で真っ赤に濡れる牙を光らせ、漏れ出る息は悪臭を放ちながら白くひろがっていく。


 身の毛もよだつ光景を前に、黒いローブ姿の男は怯む様子もなく、近づき〈猟犬ガルム〉たちの頭を両手を使って撫でつけた。


「こらこら、みんな食い散らかすんじゃないですよ。きれいにお食べなさい。寄り道なんかしてないでさっさと見つけて欲しいんですけどね。お前らの嗅覚でも、なかなか見つからないってどれほどなんですか」


 人骨の砕ける音を聞きながら、精霊術師シャイアは自分に呟いた。月にみつめられながら咆哮をあげる〈猟犬ガルム〉たちを従えて。


「死神か魔術師か、精霊術師か。運命の輪は回りだしたようです。月の暗示によれば――どうかな。暗示だけじゃ、そこまでは分かりませんね。誰が選ばれるのかまでは」













 

 

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