愛の夢~Anchor~

 ヴィルヘルムは、ふと天井を見上げた。今日のホールは天井が高い。照明器具が吊り下げられた天井は、たわんだカーテンのような装飾が施されていた。二階席は舞台の後ろまでぐるりと張り巡らされ、パイプオルガンの前まで回っている。三階席は壁に張り付いたバルコニーのように張り出していた。このホールは観客席と舞台上の天井が同じ高さで一続きになっている、いわゆるシューボックス型のホールで、クラシック音楽の演奏会に向いているということを聞いていた。劇場内にはこのコンサートホールとは別に、オーケストラピットを備えたオペラなどに使われる大ホール、演劇などに使われる小ホールをそれぞれ備えているという。劇場の備品のピアノはそれなりの数があり、スタインウェイとベーゼンドルファー、そしてこの国の誇る楽器メーカーであるヤマハのグランドピアノがあった。今回使うのはヤマハだ。大学の授業でヤマハも調律したことはあったが、現場のものを触れるのは初めてだ。耳を澄ませて調律を再開する。

 調律の時間は、コンサートホールは楽団員も立ち入りを許されない。他の雑音が入っては調律が狂ってしまう。ゲネプロまでの限られた時間までに手早く調律を済ませないといけないので、無駄なことに時間は費やせない。もっとも、腕時計で確認したところまだ時間に余裕はありそうだった。手元の微細な力の込め方一つで、ピアニストの音は変わってしまう。ピアニストの癖と要求するところは長年の付き合いで身体に叩きこまれていたが、慢心は許されない。細心の注意を払い、ピアニストの音色だけを耳に響かせて、それに波長がぴったりと合うように一本一本のチューニングを整えていく。

 調律が終わる頃、舞台袖にいたステージマネージャーの女性が舞台に出てきた。板張りの舞台でも足音の響かない、柔らかなソールの靴を履いている。調律用の器具を仕舞ったヴィルヘルムに、ややたどたどしいドイツ語で話しかけた。

「終わりましたか?」

「はい」

「お疲れさまでした。では、団員に舞台上の音出し可能と伝えてきていいですか」

「よろしくお願いします。ピアニストから要求があるかもしれないので、ゲネプロ終了まで私も舞台付近にいます」

「助かります」

 女性は微笑んだあと、上目遣いで様子をうかがうように言葉を続けた。

「ええと、ラインハルト氏も、ブルナー氏も、終演後の飲み会には来ないのですか」

 ラインハルトはピアニストの苗字、ブルナーはヴィルヘルムの苗字だった。ヴィルヘルムは以前に断ったはずだがと思いつつ返す。

「ええ。皆さんがドイツ語を話せるわけではありませんから、私たちがいても、と」

「そういうことなら、大丈夫です。楽団内では私が一番ドイツ語を話せるので、通訳します」

 女性は急に意気込むような調子で言った。そうは言っても、今のところドイツ語がある程度話せるのは、客演の指揮者と彼女くらいなものである。正直、その四人だけで話していては、大人数の飲み会である意味がないのではないか。そう思って、ヴィルヘルムは首を振った。

「そんな手間を取らせるわけには。あなたも仲間たちと心置きなく飲みたいでしょう」

「いえ、貴重な機会なのでぜひ」

「フロイライン、音出ししていいかな」

 ヴィルヘルムの背後から軽やかなドイツ語が飛んできた。振り返ると、金茶色の髪を舞台照明に輝かせた青年が――ピアニストのハンス・フォン・ラインハルトが舞台上に出てきていた。いつの間に楽屋から出てきたのだろうと思ったが、楽屋にも舞台上の音が聞ける画面があったと思い出した。

「あ、は、はい! 大丈夫です!」

 ハンスの登場に、ステージマネージャーの女性はびくりと肩を震わせた。踵を返そうとする彼女に、ハンスはにっこり笑いかけて言う。

「悪いけど、おれもヴィルヘルムも明日のフライトが早いんだ。今日は終演したら、ホテルでしっかり休ませてくれない?」

「は……はい、すみません!」

 女性はそそくさと舞台袖に戻っていった。開け放たれた舞台袖の扉から楽団員が流れ込んでくるのを聞きながら、ヴィルヘルムは少しだけ咎める色を声に滲ませた。

「別に早くないじゃないですか。フライトは昼過ぎですよ」

「知ってるよ。でも、邪魔されたくないから」

 ハンスはにやりとしてから、少しだけ背伸びをしてヴィルヘルムの耳元で囁いた。

「せっかくの日本の夜、二人で楽しまなくちゃ損だろ」

「……そのためにわざわざ、あんな和風の部屋を取ったんですか?」

「たまには違う趣向もありだと思ってな」

 小声で交わされた睦言は、楽団員たちの音の中に紛れて見えなくなった。

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