第19話 台所の灯り
とっぷりと暮れた夜。リアは馬車から降りて自分の街に帰ってきた時、もう指一本だって動かない。足が動かない、と思った。それでもしゃがみ込んでも誰も連れ帰ってくれるわけではないので、ずるずると足を動かす。
遠い幼い時の記憶で、この場所から父親におぶってもらって帰ったことを急に思い出した。あの頃は母さんが生きていて、なぜだろう首都に出たことがあったのだろうか。記憶ではずっとこの村に居たつもりだったけど。いつだって父親は厳しい人だと思っていたが、あの日だけは疲れて眠りに落ちた自分をおぶってくれて、夢うつつの中にそれが嬉しかった。
そんなことを思い出していたから、工場の裏口を開けたあと、台所にいったら父親が立っていて、心底驚いた。父親がここにいるときなど、自分のお茶をいれるときくらいだ。炊事はリアを含めた職人での分担制にしている。娘の自分はてこでも一人では背負わなかったから。
予想は正しかったようで、彼はお湯をわかしていた。こちらを見て低い声で「おかえり」という。父は寡黙だが、別に冷たい人ではないのだ。ただ喋らないだけ。なので、「ただいま」と返した。椅子に崩れ落ちるように座る。
無言でお湯をわかしている父の背中を見たら、危うく泣き出しそうになった。
鼻がつんとしてきて、口が震えるのを抑える。全部相談してしまいたくなった。ミネットに会ったこと、勲章のかたちを変えようとしていること、倉庫で怖い目にあったこと、全部全部。
でもここで幼子のように泣きつけば、もう首都にいけないことは分かっていた。父は仕事には厳しいが、きっとこの仕事を私から降ろすだろう。おそらく心配で。
本当に恐ろしい事態になっていれば、「職人」として「親方」に報告しなければならなかった。それでも、アルの「逃げるなよ」という言葉を思い出せば、ここですべてを吐露するわけにはいかなかった。
だからリアは、父の背中に向かって一言だけ言った。
「お父さん。間違えたことってある?」
お湯をカップに移していた父は、リアの方を見た。父と娘として他愛ない会話をするなど、数年ぶりだった。もちろん生活のやり取りや会話はあるが、これは明らかに自分たちになかった、幼い頃のような会話だった。
だからリアは父が何と返すか、内心緊張していた。せいぜい一言帰ってくるくらいかと思っていたが、予想外に父はふっと笑った。案外優し気に。そうして案外長い言葉を返した。
「本当に信じられないくらい、間違えるもんだ。取り返しのつかないことがたくさんある」
その答えに目を丸くしているリアに、「飲むか」と父が、棚のカップを指す。リアは「うん」と言いながら、父が自分のカップを把握していることに、また驚いていた。
「でも明日も仕事がある。俺は人を食わせてもいる。そうして毎日やるしかない」
リアは、自分がこの年になりながら、まったく父のことを理解できていなかったことがこの夜でわかるような気持ちになって、また泣きそうになるのをこらえた。父はお湯をカップに注いでいたから気付かなかったと思う。父は仕事では几帳面なのに、母のようにポットを使わず、直接茶こしをカップに置いて、茶葉にお湯をかける。
「そうか。そうなんだ……」
リアはそれしか返せなかったが、父もそれ以上は続けなかった。「そうだ」と言って、リアの前にカップを置くと、砂糖壺も置いた。それにリアは笑い出しそうになったが、それもこらえた。笑ったら絶対泣いてしまうから。
お父さん。私もう、お茶にお砂糖はたっぷり入れないよ。入れなくても飲めるよ。
そうして父は、意外なことにリアの向かいに座った。そうして二人でただ黙ってお茶を飲んだ。リアは何かしゃべらなくてはならないかな、と思ったが、もう涙腺が限界に来ていたので黙っていた。内心気まずいのか、案外リラックスしているのかわからないが、父も黙っていた。
そんな静かなテーブルで、リアは父のことを思っていた。
歴史の長い工場にいて、間違うことも、それを吐露する姿も見たことがない。頻繁ではないが工場の仲間と飲むこともあるが、父が酔って大声を出したり、愚痴を言ったりするところも見たことがない。
母がいたときは、父ももう少し喋っていたように思う。愛した妻を失って、彼は誰かに悲しみを相談できたのだろうか。悲しみを誰かと分かち合えたろうか。泣く子どもを前に、仕事上の人間に世話を分担させたのは彼の間違いではあるが、父を救う連帯はあったのだろうか。父は仕事仲間や近所の人間に寄りかかることができたのか。
そうして、もう大人になったリアは、自分の責任も正しく理解していた。母を失った父を、精神の面で自分が支えたろうか? 彼の悲しみを自分は分かち合ったか。いや、ただ毎日を過ごしていただけだった。彼が強そうに見えたから。彼の見た目がただ強そうだから、その心を支えようとしてこなかった。
ミネットにしたことはもちろん許されることではないが、自分が父親を嫌っていない理屈もそこにあるのだと思った。この人は間違うこともあるけど、別に悪人なわけでもない。
まあそれにして人に頼るのが下手すぎるけど。
そう思うとリアは顔をあげて、一言だけいった。そして微笑むと、父は少し驚いたようにも見えた。
「お父さん、ありがとう。おやすみなさい」
「ああ」と返した父の声色も優しく聞こえた。そうして飲み終えたカップをすすぐと、リアは自分の部屋に戻り、今すぐ眠りたい自分を叱咤しつつ、なんとか入浴を済ませた。そしてもう開かない瞼でなんとか仕入れのオータムに置き手紙だけ作ると、溶けるように眠った。
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