第10話 首都 -4
なぜあの後戻ってもう一度確認しなかったのかという後悔が膨らんでいったのは、村に帰ってきてからだった。あのときは自分の考えが信じられず、どうしても改めて足を向けられなかったが、どんどんと気持ちが膨らんで自分を圧迫してくるようだ。
戻って別人だったら、男は今度こそ絡んでくるだろうし、いくらなんでも自分の考えが信じられないからでもあった。だいたい何て声をかけるのか。
ミネットが工場を出て行ったのはもう15年近く前だ。彼女はそのころはまだ若かったが、もう随分姿かたちが変わっていておかしくない。それに顔もはっきりと見てはいないから、自分が感じたのはせいぜい姿と髪の色くらいだった。
それでも、まだ10歳ころだったとはいえ、一緒に暮らしていれば相手の空気がある程度自分にもしみつく。その感覚のようなものが、手足の末端から痺れるように騒いでいた。
もしかして彼女はミネットだったのではないか。その考えにしがみつきたい。
でも、会って何を言う?
誰も名言はしないが、ミネットが誰にも何も言わずに出て行ったのは、明らかに工場に原因があった。幼いリアは、学校の後姿を消したミネットがいないことに混乱し、父を随分問い詰めたが、結局答えを返してはくれなかった。
そのあと身を切るような寂しさから立ち直ったリアは、何も言わずミネットが出て行った理由を、年を重ねるごとに、村の人の言葉などを吸収しながら理解していった。
ミネットがなぜ、血も繋がらない職場の女の子の母親代わりにならなければならなかったのだ。
年頃になればなるほどに、よくわかる。
しかも彼女は自分の父親と恋仲だったわけでもない。そうなれば彼女を苦しめたのは、彼女を閉じ込めたのは、他でもない幼い自分自身だ。
小さい頃だったから、よく甘え、わがままさえ言った記憶だってある。思い出すと胸の柔らかい部分が恥で痛む。
優しい人だったから、母親を亡くしたリアが可哀想だったのもあるだろう。それでも、彼女は工場に働きに来ていたのだ。男ばかりの職場でも、やりたいことがあり、技術を手にするために勤めていた。同じ給金を払われながら、幼子の面倒を見てばかりの日々。そうしてみんなが自分を彼女に押し付けた。特に理由もなく、女だというだけで。出ていくまで、出ていってからもどれだけつらかったろう。
だからこそ、ミネットに会ったとき、彼女から目をそらされる想像をすると、恐怖で吐き気すらした。だいたい、彼女がこちらに気づいていた可能性すらある。
それでも、否定されたとしても、会えるなら一目だけでも会いたかった。涙が目に浮かんだが、流れる前に拭ってうつむいた。
*
そうなると、心待ちにするのはレオの呼び出しである。まさかこれまで受け取ると緊張で胸が痛むようだった作戦会議を、今か今かと待つ心持ちになるとは。
そうこうしているうちに彼女が居なくなってしまうかもしれない。そう思うと仕事を投げ出してでも首都に向かいたかったが、現実的にそうもいかない。
オータムが仕入れた金属も、入荷の整理がつき始めていた。そうなると、仕入れ後の段どりや人の配置も調整し始める必要がある。別の勲章をもらう可能性があるすれば、秘密裏にでも準備をしておかなければいざというとき軌道も修正できなくなる。色々な意味で焦りに火が付き始めると、それはいつでもぶすぶすとくすぶってリアの生活を焦らした。
かといって、特にミネットの件は誰かに相談できるような話でもない。エセルにも言うことは憚られた。彼女がそんなことを言うはずがないと分かってはいるのだが、十年も前に出ていった人にそこまで執着しているのかと、言われてしまったらと思うと背すじが冷えた。
そもそも首都まで行く馬車代も、自分で出すとなると中々財布に厳しい。こうなったら理由をつけてレオに何某か連絡をしてしまおうか、と工場の中庭に出て、日ごろほとんど使わないような高い便箋でも買いに行こうかと思っていたときに、明るい声でこちらに呼びかけてきたのは久しぶりの声だった。
「おーい」
にこ、と笑う太い眉に驚きが隠せない。茶色の髪はゆるく巻かれていて、久々に見たその高い背丈は大きく手を振っている。エセルの兄、フレードだった。
「フレード。帰ってきてたの?」
「時期外れの夏休みかな。貧乏暇なし」
「学者さんが何言ってるの」
腰に手をあててそう返したリアに、本当なんだけどね、と眉を下げたフレードは、きらきら光る太陽の下で頭をかいた。
フレードは昔から村一番の成績で、年若いうちから首都の大きな学校に行くだろうと思われていた。それでも彼は、いくつかの試験を優秀な成績で終えると、聞いたこともない西部の学校から手紙を受け、遠い砂漠の地へと飛び立っていった。結局その西部の学校で学者の道に進んでいるが、名声をとどろかすというほどでもない。勝手な村の人々は、なんだと肩を落としたものであった。
今では昆虫を専門にしているとエセルから聞いた。昔からの昆虫少年などではなく、どちらかというと馬車や馬など乗り物好きの印象だったので首を傾げたものだ。砂漠の多い西部に行ったのもその理由かと聞いても、フレードは静かに微笑むばかりだった。
自分の研究は予算がつきづらいから、立場はいつでもぐらぐらしていると困ったように笑んでいる。そういえば少し痩せたようだと見上げていると、フレードは目をきらきらさせた。
「最近、仕事で首都によく行くんだって? エセルに聞いたよ。すごいな」
その優しい物言いは変わらない、とリアは思う。フレードは子どもの頃から線が細く、声を荒げるようなタイプではないため、よくいじめられていた。10代の後半からひょろひょろと背が伸び始めてからはだいぶ落ち着き、また彼の学業面も目立ち始めていたので、そういった手もなくなっていったが。
「そのうち一緒に行っていいかな。僕も中央図書館に用があるときもあるし」
優しい声のフレードは、一人っ子のリアにとっても、遠慮なく軽口を叩ける幼馴染のお兄さんだった。「ぜひ!」とリアが返すと、フレードが「早速、これについていければよかったんだけど。あいにく母さんに呼ばれてて」と手渡してきた真っ白な封筒には見覚えがあった。
「ごめん、これもエセルに聞いちゃった。『殿からのお呼び出し』じゃない?」
工場に入る時、ついでに持って行ってくれと配達人に渡されたのだという。白い紙に映えるヴィラージオの文字と、彼を「殿」と読み始めたらしいエセルの言葉に、彼女にした口止めの効果は出ているのか、不安になってきた。
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