幸福屋
日隅
幸福屋
家の近くにこんな道があるとは知らなかった。近所のことはある程度知っているつもりでいたが、いつも通っている道以外に目を向けてみればそこは知らない土地のようなものだ。スマートフォンの画面に映し出される地図には見覚えがあるのに、目に映る景色には覚えがない。そんな不思議な感覚に襲われる。
僕はわずかに不安を覚え、手にした紙を再度確認した。
『○○市二丁目八の二十九 幸福屋』
むしろ不安感の増すような店名だ。一歩間違えれば壺でも買わされるんじゃないだろうか。
相田に店の詳細を聞いておかなかったことを、僕は強く後悔した。
***
そもそも、僕は本来『幸福屋』なんて胡散臭い店に一人で向かうような陰気な人間ではなかった。つい最近までは、友達はそれなりにいるし、仕事も趣味も大抵のことはこなせる優秀な人間だったはずなのだ。
どこで歯車が狂ったのかは覚えていない。ただ、気付いた時には僕は無職で、何もかもが駄目になっていたことはよく覚えている。
一度駄目になった人間というのはひどく脆弱なもので、僕はすぐに酒に頼るようになっていった。相田と二人でコンビニの缶ビールを買い占め、くだらない理想を語りながら部屋で一日中飲み続ける。ここ数日、僕の生活は屑そのものだった。
昨日も、屑なりのちょっとした冗談のつもりだったのだ。泥酔した僕は、同じように泥酔している相田に「幸せになりたい」とやたらと抽象的な夢を語っていた。すると相田からは、思いの外具体的な返答が返ってきた。
「金を払えば相応の幸せが確実に手に入るって言うなら、お前は金出す?」
「もちろん。君が好きなパチンコとかいう不確定なものに賭けるぐらいなら、僕は確実に幸せを手に入れたいね」
「賭け事の面白さがわかんないんじゃ、人生半分以上損してるぜ」
相田は酒焼けした声でからからと笑った。
「それはそれとして。俺この間、金で幸せを買える店行ってきたんだよね」
「胡散臭い店だな」
「まあ聞けよ。俺ずっとこの辺に住んでるのについ最近知ったんだけど、その店、どうもここのすぐ近くにあるらしくて」
「へえ、僕もそんな店があるなんて聞いたことないな」
「最近パチンコ勝って金あったからさ、興味本位でそこでちょっと幸福?買ってみたわけ。そしたら、気のせいかもしれないけどマジでパチンコの当たり良くなってさ。テンション上がったよね、すげー店見つけたって」
「質は確かってわけか。そう聞くとちょっと興味湧くね」
「だろ? 場所教えるからさ、気が向いたらお前も行ってみろよ」
そう言うと相田はレシートの裏に何かを書きつけ、僕の手に握らせた。
***
その場では「気が向いたらね」と軽く返事をしたものの、昨日の今日で店に足を運んでいるあたり、思ったよりも自分はこの店に惹かれているのかもしれない。そんなことを思いながら、僕は一つの建物の前で足を止めた。
『幸福屋』。中世ヨーロッパを思わせるアンティークな外観には少し不釣り合いな漢字三文字が、錆びた看板にしっかりと刻まれている。しかし周囲に置かれた上品な装飾の数々から、店主のセンスの良さがよくわかる。こうして店の前に立ってみてもやはり胡散臭さは拭えないが、それ以上に新しい玩具を与えられた時のような好奇心が僕を支配していくのを感じた。
扉に手をかけ、軽く力を入れる。重厚な見た目とは裏腹に、その扉はあっけなく僕を受け入れた。
からんころん、と響くドアベルの音に、奥にいた店主らしき男性が顔を上げる。初老くらいだろうか、店の雰囲気に劣らず上品そうな姿をしている。彼はにこりと笑い、口を開いた。
「おや、初めて見る顔だね。お客さんかい」
「ええ、そんなところです」
「そうか、まあ掛けなさい。店に入って来たという事は、少なくともここに多少の興味は持ってくれたんだろう?」
店主は手早く席を準備し、コーヒーを入れ始めた。随分と手厚い接客だ。僕が手で要らないというジェスチャーをすると、店主はまたにこりと笑ってコーヒーを入れる手を止めた。
「幸福を買える店がある、と友人に教えて貰いましてね。とはいえ、それ以外のことは何も知らないんですが」
「はは、文字通りだよ。うちは幸福を売買する店でね、金を払うことで相応の幸福を手に入れられるんだ。物によっちゃあそれなりの金額にはなってしまうがね」
「なるほど。ところでその幸福というのは、具体的にどういうものなんでしょう」
「そりゃあ人それぞれだよ。運だったり、感情だったり、運命だったりね。何をもって幸福とするかなんて人によって全然違うだろう?」
店主が発した運、という言葉に僕はようやく納得した。おそらく相田にとっての幸福は運の良さだったのだろう。行き当たりばったりで生きている相田らしい考えだ。店主は続けた。
「どうだろう、買っていくかい? まだ疑っているのであれば、ほんの小さいものも取り扱っているよ」
「ええと、そうですね、僕は……」
僕が首を縦にも横にも振れず思案していると、再びドアベルのからんころん、という音が聞こえた。扉の方に目をやれば、そこに立っていたのは一人の少女だった。一切着崩すことなくお手本のような着方をされた真っ黒なセーラー服に、真っ直ぐ切り揃えられたセミロングの黒髪が目を引く。
彼女は慣れた様子で店内に入ってくると、開口一番店主にこう言った。
「不幸をください。とびきり大きいのを」
その場で動揺を見せたのは僕だけだった。少女本人はもちろんのこと、店主も顔色ひとつ変えず来客に応じ始めている。こういう注文は珍しくないのだろうか。
店主は先程と同じ動きで手早く席を用意し、彼女にコーヒーを入れ、彼女の前に置いた。彼女は軽く礼を言い、美しい所作でコーヒーに口づける。その佇まいはいかにも育ちの良い人間のそれで、不幸を望んだりするほど何か問題を抱えているようには見えなかった。
好奇心にかられた僕は少女に聞こえないよう声をひそめ、店主に声をかけた。
「この店では不幸も買えるんですか」
「ああ。正確には、幸福を売り払うことで、相対的に不幸を手に入れているんだがね。金と幸福を天秤にかけた時に金を選ぶ人間はそれなりに居るんだよ」
僕の問いに、店主は特に声量を落とすことなく答えた。ちらと彼女を見やると、特に気にした風でもなくコーヒーを啜っている。僕は落とした声量を元に戻した。
「幸福が欲しければ金を、金が欲しければ幸福を手放せ、ってわけですか」
「その通り」
「金があればそれに伴って幸福感も得られそうなものですがね。金は人間の心を満たしてくれますよ」
「ふむ、それも一理あるね。して」
店主は彼女に向き直り、ペンを取った。どうやら随分アナログな形で取引されているらしい。
「具体的にはどのくらいの不幸をお望みかな」
「人間が一人、死に至れるくらいのものを」
間髪入れず彼女が発したその答えにぎょっとせずにいられるほど、僕は大人ではなかった。僕が否定的な反応を示したのを察したのか、彼女は今度はこちらを向いて眉を顰め、口を開いた。
「何かおかしなことでもありましたか」
「いや。ただ、そうまでして金を手に入れようとしなくても良いんじゃないかと思っただけだよ。幾ら稼いだって本人が死んじゃあ仕方ないじゃないか」
「まるで私が金のためにここに来たみたいな言いようですね」
彼女がくすりとひとつ笑みを零した。その美しさに僕が心を奪われなかったのは、おそらくそこに嘲りが含まれていたからだろう。
「金が目的じゃなかったら何だって言うんだ?」
「さっき店に入ってきた時の、聞いてませんでした? 私は不幸を手に入れに来たんです」
「一体何のために」
「店主にならまだしも、貴方に言う義理はありません」
僕の好奇心は、彼女のつっけんどんな言葉に突っぱねられてしまった。僕が黙り込んでいる間に、目の前では淡々と取引が進められている。店主が見積り金、と言って普通に生活していれば聞くことの無い桁の数字を口にした。なるほど、確かに物によってはそれなりの金額だ。
どうやら金額が大きすぎてすぐに用意ができず、後日改めて手続きをする、ということで話が固まったらしい。大金が動くには些か短すぎる協議ののち、彼女は立ち上がった。
「では、また後日伺います」
「ああ。毎度ありがとう」
からんころん、とドアベルが響く。あっさりとした挨拶を交わし、彼女は特に何をすることもなく店を出て行ってしまった。
再び店内が静かになり、店主の目がこちらに向けられた。
「さて、君の番だね。どうするかな」
決して店主の圧に負けた訳じゃない。ただ、ついこの間取り消された内定が、引き落とし履歴ばかりが並ぶ自分の通帳が、その時頭をよぎった。目の前で幸福の取引を見たことで、僕は幸福を金で買うという行為へ抗うことができなくなっていた。
「ええ、買いましょう。僕に幸福をください」
店主は再びにこりと笑った。
***
からんころん、とドアベルの音が響く。いつの間にか日が暮れていたようで、暗くなった空には月が浮かんでいた。
「またいつでも待っているよ」
「どうも。また機会があれば」
店主に軽く会釈をして店を出る。特に身体に変わった様子は見られないが、これで少しでも幸福が手に入ったのだろうか。具体的に何を買ったのかは教えて貰えなかったが、出来ることならパチンコの収入を上げた相田のように実用的な幸福が欲しいものだ。
あれこれと考えながら夜道を歩いていると、ふと見覚えのある黒いセーラー服が視界を掠めた。僕は反射的にそちらへ手を伸ばす。僕の右手は運よく彼女の左肩をとらえたが、向こうは僕を認識した瞬間、まるで害虫でも見つけたかのように露骨に顔を顰めた。
「……ああ、さっきの」
「覚えてくれていたようで嬉しいよ」
「あんな店に入るような物好き中々いませんからね、そりゃあ覚えますよ」
「それを言うと君も物好きってことになるけれど」
「うるさいですね」
彼女は不機嫌そうに顰めていた顔をさらに歪めた。どうも僕は相手の気に障ることしか言えないらしい。それでもありがたいことに、彼女はまだ僕の相手をしてくれるようだった。
「それで、私は何の用件で呼び止められたんでしょうか」
「いや、特に用件があったわけじゃないんだ。見覚えのある姿を見かけたから、つい」
「帰って良いですか」
至極真っ当な返答だった。たった一回店で鉢合わせただけの少女を意味も無く呼び止める成人男性なんて、どう考えても不審者としか思えないだろう。だが、僕という人間はどうしようもなく好奇心旺盛でお節介だった。
ごめんごめん、とどうにか彼女を引き留める。せめて誘拐犯にはならないよう、僕はその場で立ち話を続けた。
「さっき、死に至れるくらいの不幸が欲しい、と言っていたのが気になってね」
「随分そこに食いつきますね」
「人間の本質と真逆の行動を取っている人がいれば、そりゃあ気になるさ」
「そうですか」
「他人の事情に首を突っ込むつもりは無いけど、わざわざ君の方から死に近寄る必要はないんじゃないか? 幸福を売って金を得るつもりなら、そのお金である程度生きていけるだろうに」
そこまで言って、僕は少しまずかったかな、と思った。ずっと僕に対してわかりやすく棘があった彼女だったが、一瞬、そこに明らかな嫌悪感が含まれたのだ。
「全ての人間が生に幸せを見出せる生活を送っていると思わないでください」
彼女は大きく溜息をついて、一言吐き捨てた。僕は何も言えなかった。
この話は終わりです、とでも言わんばかりに彼女はくるりとこちらに背を向けたが、数歩歩くともう一度振り返った。
「そういえばあの店で買い物はしたんですか? 幸せになれると良いですね」
「ああ。幸せになりたいね」
僕はそれだけ言って彼女と別れ、帰路についた。
***
幸福屋が気休めや冗談でないことはすぐに証明された。内定が取れたのだ。幸福を購入した翌日、僕は相変わらず飲み潰れている相田に興奮気味に語った。泥酔している相田の相槌はほとんど有って無いようなものだったが、全く気にならなかった。
「てか、お前が幸せ買うのわりと意外だったな」
「意外ってなんだよ。勧めてきたのは相田だろう」
「いやほら、お前めちゃくちゃ現実主義じゃん? 幸福屋なんてファンタジーなとこ興味無いかなって」
相田の言葉に思わず笑みが漏れる。正直な話、まったくその通りだ。
「まあね。でも僕に限らず人間っていうのは、行き詰まった時には藁でも神でも縋りたくなる生き物なんだよ」
「俺はそうでもないぜ」
「相田は楽観的すぎるんだ」
相田はげらげらと声をあげて笑った。
話によると相田の買った『幸福』はもう尽きてしまったらしく、もう一度買いに行こうと思っているそうだ。幸福ですら尽きれば買い足せば良いと思っているところがまた相田らしい。しかし一回で終わるつもりだった僕もまた、新たに幸福を買い足したいと思ってしまっていたようだった。
相田と僕はそれからも馬鹿話を繰り返し、げらげら笑いながら一日中飲み交わした。
***
結局、数日後には僕はもう一度あの胡散臭い店の前に立っていた。再就職が確定し、どうせこの後収入は入ってくるのだと思うと、もうそこに迷う余地は無かった。扉に手をかけ、軽く力を入れる。
からんころん、ともう聞くのも何度目かになるドアベルの音が店内に響く。わずかに間があって、かすかに驚きを含んだ声が聞こえた。声のした方向に視線を移したあと、僕も全く同じ声をあげることになる。
そこにいたのは店主と、例の黒いセーラー服の少女だった。卓上にアタッシュケースが幾つも積まれているのを見るに、取引を予定していた日が今日だったのだろう。随分な偶然だ。
僕と少女がぽかんとしているうちに、気を利かせたのか気が使えないのか、店主は手早く少女の隣の席を準備してくれた。
「また来てくれたんだね。コーヒーは飲むかな」
僕が手で要らないというジェスチャーをすると、やはり店主はにこりと笑って出しかけたカップを元の棚にしまった。
「前回お買い上げ頂いた幸福はいかがだったかな」
僕は内定が取れたことを伝えた。
「そうか、お役に立てたようで何よりだよ。……となると、また何か幸福を買いに来てくれたのかな? それとも何か別の件で?」
「いえ、特に別件などは」と僕は言った。「金の目処が立ったので、幸福を買いに」
「なるほど、ちょうど良いね。今たくさん幸福が手に入ったところだ。質も良い。小さいものでも大きいものでも、好きに買うといい」
「ああ、そこの彼女の分ですか」
隣で姿勢よく座っているセーラー服の少女を見て、僕は納得する。
「そうだ。最近良く来てくれるんだが、今回は特に多く買い取らせて貰えてね。幸福屋としてはかなり貴重な存在なんだよ」
仮にも客に資材かのような扱いをした後、店主は改めて二人の顔を交互に見て、少女に尋ねた。
「ところで、二人はいつの間に知り合ったんだい?」
貴方が答えてください、とでも言いたげに少女は僕に目配せをした。
「僕たちの間に何があったと思います? 当ててみてください」
店主はにこりと笑って言った。
「大方、どこかで運命の再会をした、といったところだろう」
流石だ、と僕は感心した。大方正解している。
「まあ、それはともかく。今回は君にとって大きな幸福を買うということで間違いないかな」
「ええ。よろしくお願いします」
***
からんころん、とドアベルが響く。何故か僕の取引を待ってくれていた少女と共に、僕は店を出た。
「毎度ありがとう。またいつでも」
店主の見送りにどうも、と会釈を返して外に出る。どこかで工事をしているのか、耳障りな金属音だけが夜道に響く。一人で歩くと思っていた帰り道に思わぬ同行者が現れ、話すことも無いまま数分が経過した。
沈黙に耐えかねたのか、或いはタイミングを窺っていたのか、先に口を開いたのは彼女の方だった。
「貴方にとって、幸福、とは何を指すんですか」
「金かな。おそらく金は世界で一番確実だし、金は持ち主を裏切らない」
僕の答えを聞いて彼女は「なるほど」と呟くと、抱えていた幾つものアタッシュケースを僕の眼前に突き出した。
「これ、全部差し上げます」
「どういうことだ?」
「文字通りです。私は要らないので貴方に差し上げます」
僕には彼女が狂ったようにしか思えなかった。人間が人間足り得るのに最低限必要なお金を要らないと言うような正気の人間がいるだろうか。彼女はさらに続けた。
「貴方は幸福の指標である金を手に入れられて、私は要らないものを処分できるのだからお互い得でしょう」
さあ、とアタッシュケースを押し付ける彼女の力は思いのほか強く、僕はそれを受け取るほかなかった。全ての金が僕に引き渡されると、彼女はようやく満足気に微笑んだ。
「私にとって幸福は死です。生は不平等ですが、死は金よりも、何よりも平等で、確実です」
工事現場が近いのだろうか。不快な機械音と金属音が耳に響く。
「なので、世間一般的には不幸、と言われる状況になる必要がありました」
「どうしてそうなるんだ? 生きていれば他に何か幸せを感じられるかも知れないだろう」
「かもしれない、だけを頼りに生きろと言うんですか? あるかどうかもわからない幸せな未来のために?」
「それを確実にするための幸福屋なんじゃないのか?」
はっと彼女が口をつぐむ。頭上で鈍い金属音が鳴る。
突然、僕と彼女の足元は影に覆われた。頭上を見上げると眼前には鉄骨があり、
___直後大きな衝撃があった。
***
「不幸にも」、黒いセーラー服の少女に鉄骨が直撃し、彼女は命を落とした。
そして僕は「幸福なことに」命があり、さらに彼女から受け取った膨大な額の金で何不自由なく暮らしている。
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