シニカル
日隅
シニカル
ああ、騒々しい。
目が痛くなるような原色をこれでもかと光らせたネオン、耳の中でかき混ぜられて原型を失くした流行り物らしき曲、悍ましい量の人間とそれの声。夜の大都会というものは本当に、目も耳も五月蝿くて仕方ない。
僕は必死に『悍ましい量の人間』の一部に徹しつつ、ネオン街を早足で歩く。待ち合わせの時間まではあと五分だ。彼女ならばもう来ているだろう。
「お兄さん、ひとり? 遊ぼうよ」
突然背後から飛んできた声に振り向くと、お決まりのというべきか、やたらと露出の多い女性が妖艶な笑みを浮かべて立っていた。驚いた、都会では自分のような人間にすら声がかかるのか。執拗に身体に触れてくる手を軽く払い退け、足早にその場を離れる。上手く撒けたか、というところでタイミング良くスマートフォンが震え、僕は素早く応答ボタンを押した。
『もしもし』
「ああ、ごめん。蜘蛛に捕まってた。すぐ行くよ」
『今どこですか?』
「五番街のコンビニ前」
『……そうですか。奇遇ですね』
背後から再び、しかし今度は先ほどよりも幾分かトーンの低い、女性の声がした。振り向いた先に見知った顔があったことに、僕は思わず安堵する。
「随分遅いから、迎えに来てあげましたよ」
そう言って彼女はふっと笑う。上下をジャージで揃え、ヘアセットも化粧もしていないその姿は明らかに周囲の人間から浮いていた。しかし僕の目には、彼女が誰よりも美しいように思えてしょうがなかった。
「ありがとう」
「何ですか、急に」
「僕を探し出してくれるのはいつも君だね」
彼女と同様洒落っ気のないジャージに身を包んだ僕は、彼女の白く薄い手を取る。すると彼女は一度僕の手を離し、違った指の絡ませ方で再度僕の手を取った。
「無個性なあなたを見つけられるのなんて、私くらいでしょうから」
つんとしたいつもの声に心なしか温かみが含まれているのを感じ、思わず僕の頬まで緩んでしまう。「早く行きますよ」と僕の手を引く彼女を、なんとなく呼び止めたくなった。
「ねえ、侑理」
「どうかしましたか」
「少し、煙草が吸いたいな」
彼女の目が僅かに見開く。それもそのはずだ、僕に喫煙経験は一度だって無い。しかし聡い彼女は僕の言葉の真意を理解したのか、夜露のような目でひとつ瞬きをすると、悪戯っぽく口の端を吊り上げた。
「偶然ですね、そこにコンビニがありますよ」
***
右手にライター、左手には聞いたこともない銘柄の煙草を持って自動ドアを抜け、目についた灰皿の近くを陣取る。少し遅れて缶ビールとスナック菓子を手にした侑理が現れ、彼女は僕を見つけると「宴です」と軽く缶ビールを掲げた。
灰皿に群がる喫煙者たちに習い、恐る恐るその小さな棒に火をつける。が、その炎は煙草でなく僕の指先に当たった。ぴりりとした痛みが指を襲う。どうも、思ったより僕は不器用だったらしい。
「ライターすら扱えないんじゃ人生厳しいですよ」
「厳しい人生を歩まずに済んで良かったよ」
「ポジティブなのかネガティブなのかわかりませんね」
彼女は僕の手からライターを奪い取り、さらにこちらに手を差し出した。その手の意味が汲めず侑理の顔を見ると、彼女は平然とした顔で「一本ください」と言った。
「お手本を見せますので」
そう言って彼女は僕から煙草を受け取り、口に咥えたそれに慣れた様子で火をつける。そうして優雅に煙を吸い込み――――大きく咳き込んだ。
「慣れないことはするもんじゃないよ」
「今から慣れないことをしようとしている人が何言ってるんですか。あなたも私と同じようになるんですよ」
彼女が苦痛の涙を含んだ目でこちらを睨む。半ば強引に押し付けられたライターの炎で、握られたままだった僕の煙草にようやく灯りがともった。つう、と細い煙が上空へ昇る。僕は何食わぬ顔で煙を吸い込み――――やはり、大きく咳き込んだ。
「言った通りでしょう。同じ道を辿ってくれると思っていました」
軽やかな笑い声が優しく耳に残る。缶ビールを呷った彼女は大きく息を吐き、そのまま天を仰いだ。つられて僕も首を傾ける。が、視界に入ってくるのは無駄に高いビルの明かりとすすけた真っ黒い空だけだった。
「随分と、寒々しい空ですね」
「本当にそうだ。ビルの影になってるのか知らないけれど、星はおろか月すら見えない」
「……すみません。不満ですか」
「まさか。月だの星だのみたいなロマンスが欲しいならこんな所選ばないよ」
視界の端で、他の喫煙者が吐いた煙が漂うのが見える。ロマンスは欠片も見当たらないが、見ごたえだけはある景色だ。僕はゆっくりと首の角度を戻し、立ち上がる。
「そろそろ、いい時間じゃないかな」
そう言って僕は名残惜しそうに空を眺める侑理の背を押し、先ほど目に入っていた無駄に高いビルに足を踏み入れた。
***
「折角なら、悔いなく、派手に終わりたいです。周りの迷惑なんて知りません」
僕が数日前に問うた時、彼女は迷うことなくそう言った。勿論、僕も同意見だった。散々周りから迷惑をかけられて生きてきた僕たちが、今更周りに気を遣う義理なんてない。それが僕たち二人の意見だった。
深夜だからか、僕と侑理だけを乗せたエレベーターはどこの階にも止まらず、順調に最上階へと進んで行く。後悔も不安も緊張もしていないはずだったが、ここに来て僕の精神を妙な焦燥感が襲った。なんとなく動きの鈍い口を開き、隣でスナック菓子を頬張る彼女に声をかける。
「僕に巻き込まれるのは、迷惑じゃないの」
僕の言葉を聞くと、彼女は一瞬、ぴた、と食べる手を止めた。が、その手はすぐに元の通り動き始めた。
「好きで巻き込まれてるんです。それに」
侑理はかかとを軽く上げ、僕の口にスナック菓子を押し込む。
「あなたの居ない世界に取り残されるほうが迷惑です。それはあなたも同じでしょう?」
そう言って彼女はにっと笑う。最上階に着いたことを知らせるアナウンスが響くと、侑理は遊園地にでも行くかのような軽やかな足取りで僕の手を引いた。
……実際、そこから見えたあった景色は遊園地と遜色ないような愉快で煌びやかなものだった。目が痛くなるような原色をこれでもかと光らせたネオン、耳の中でかき混ぜられて原型を失くした流行り物らしき曲、悍ましい量の人間とそれの声。それを上空数十メートルから見下ろすのは、確かに、愉快だった。
「見てください。綺麗な空ですよ」
街明かりに負けて一切の星が見えない空を見つめ、彼女がそう口遊む。彼女の目には、何が映っているのだろうか。ただ、僕はそれを問うことはしなかった。
「それじゃ、今から僕たちは死ぬわけだけど。心残りは無い?」
「後悔は無いです。あとは、私たちに素敵な明日があれば完璧ですね」
***
「それじゃあ、お先に失礼しますね」
仮にも好き合っている二人が今から人生を終わらせようというのに、随分と淡白な別れ方だ。窓枠に駆けていく彼女を見送り、僕は一人自嘲的な笑みを零す。もう侑理と目線は合わない。
侑理は一切の躊躇いを見せず、駆けた勢いのまま、ぴょん、と窓枠を飛び越えた。少し遅れて、肉の潰れる音。複数の悲鳴。叫び声。その様子は思いのほか遊園地と変わらないかもしれない、と呑気な考えが頭を通り抜けていった。
世界に侑理が居なくなった今、僕の心は驚くほど世界に無頓着になっていた。何の気なしに窓から下を見ると、先に落ちた侑理とそれに群がる人間が見えた。
「ここまで一緒に来ておいて最期は別々なんだから、不思議なもんだよ」
そうぼやいて、僕はさっき侑理が飛んだものと同じ窓枠に手をかける。そして、侑理の軌跡を丁寧になぞるようにして、ぴょん、と窓枠を越えた。
堕ちる。
強い重力に押し負けそうになりながら空中で身体を捻り、仰向けになる。視界を覆うのは、月も星もなく、五月蝿いネオンが目を刺してくるだけのすすけた夜空だった。そしてどういう訳か、僕にもそれを綺麗だと思う感性があるようだった。
背中が地に着く前に、ゆっくりと目を閉じる。不安はない。後悔もない。
おやすみなさい、素敵な明日がありますように。
シニカル 日隅 @waka-nu-6109
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