まるでキスするみたいな

2ka

まるでキスするみたいな

 ちょうど橋の真ん中辺りで男は煙草に火をつけた。

 今や禁煙の文字はビルや駅構内にとどまらず、通りにまで溢れてきている。けれど、まだこの橋には喫煙者迫害の手は及んでいないようだ。……たぶん、きっと。

 少なくとも男はここを歩いているあいだに『禁煙』の文字を見た覚えがない。徹夜明けでアルコールの抜けきらない頭は甚だ注意力に欠けるが、見落としてはいないはずだ。

 部署のお局サマが極度の嫌煙家のため、男は喫煙に神経質になっていた。いっそやめようかとも思うのだが、これがなかなか難しい。

 携帯灰皿は持っているし、風通しがバツグンにいいから臭いだって残らない。何より橋の上には男以外に誰もいなかった。何せ早朝四時である。誰にも迷惑はかけていないはずだ。

 ふぅっと空に向かって吐き出すそばから、煙は強風にさらわれてゆく。いつもは車でしか通らない道だから気づかなかったが、橋の上は川からの湿った風が絶え間なく吹いている。くたびれたスーツが湿気を吸って、一層くったりした気がした。

 足を止めて、男は三十メートルほど先にある橋の終わりを見つめた。

 渡りきったあと、どちらへ行くか。決めかねての一服だった。

 右へ川沿いを進めば自分のアパートへ。直進して急勾配の坂を上っていけば恋人の家に着く。

 一応左という選択肢もあるのだが、自分の部屋より三倍は散らかっている後輩の部屋など行きたくない。ここから一番近いので、転がり込みたい気持ちはあるが。

 本当は選択肢などないのだ。恋人も煙草を、特に衣類の残り香を嫌う。同僚二人と飲み明かした男は、全身余すところなく煙草の煙で燻されている。

 それでも男は恋人に会いたかった。

 喧嘩別れをしてから三十一時間が経っている。三十六時間を超えるとお互いが意固地になって長引くと、これまでの経験からわかっていた。

 顔を見て謝りたい。

 昨夜、同僚たちに愚痴るだけ愚痴って、結局は寂しくなった。

 ――やっぱり俺が悪いよな。

 ぽつりと男がこぼすと、同僚たちは顔を見合わせてニヤリと笑った。

 ――わかっているなら早く仲直りしろよ。

 ――まあ飲め。男と女はうまくいくことばかりじゃない。ときには鬱憤だってたまるだろう。

 そうして騒いでいるうちにバスの最終を逃し、三軒目はカラオケになだれこんだ。だから声もガラガラだ。

 普段であれば、恋人は渋い顔をしながらも迎え入れてくれるだろう。玄関で裸にされて風呂に直行させられるだけですむ。

 しかし今は喧嘩中だ。明らかに朝帰りの体で訪ねていけば火に油を注ぐだけ。まして朝の四時である。親しき仲にも礼儀あり。男はそれくらい弁えているつもりだった。

 でも会いたい。

 明けてゆく空を見ていると、余計なものが霧散して胸の内がクリアになっていく。純粋な気持ちはとても単純だ。

 会って抱き締めたい。

 けれど今の男では、近づいただけで顔をしかめられてしまう。たとえ自業自得とはいえ、好きな相手に露骨に嫌悪感を示されるのは悲しい。

 男は携帯電話を取り出した。発信履歴の一番上にあった恋人の番号を押す。

 二回のコールのあと、留守番電話に切り替わった。男の恋人は眠りを妨げられることを嫌い、夜になると短いコールで留守電に切り替わるよう設定している。眠りが深い質なので、二コールくらいでは目が覚めないそうだ。

 さらに律儀な恋人は、応答メッセージを自分の声で吹き込んでいる。

「よかったらメッセージを残してください。あとでこちらから折り返します」

 よかったらってなんだ。男は何度聞いても同じところで笑ってしまう。

 小さな笑い声をあげて、口の中が乾いていることに気がついた。

 ピーという録音開始を告げる電子音。

 口を開くが言葉が出てこない。

 何か、言わなければ。

 じりじりと焦燥が纏わりついてくる。

 風に嬲られっぱなしの耳が痛い。

 ゴゥ、とひと際大きな音のあと、不意に風が止まった。

「……好きだ」

 ピーという録音終了を告げる電子音。

 強い風が髪をかき乱す。

 ちりりと指先を焦がされて、男は煙草を取り落とした。舞い上がった灰に思わず目を閉じる。

 自分は何をしているんだろう。

 我に返ると途端に羞恥に襲われた。今伝えるべきは謝罪の言葉だ。何をとち狂って好きだなどと。

 どくどくと音を立てる心臓に連動して、手のひらがじんじんと痛んだ。見ると、変な痕ができている。携帯電話を強く握りすぎたらしい。

 片手で電話を持ち直すと、男は携帯灰皿を取り出して、落とした煙草を拾った。片手だから酷く手間取ったけれど、男はけして携帯電話を手放さなかった。

 片づけを終えてから、改めて着信履歴を開く。もちろん電話はない。

 無意識のうちに二本目の煙草にのびていた手に急ブレーキをかける。俺は一体煙草何本分ここにいる気だ?

 どれくらいなら通報されずにここに居続けられるだろう。どれくらい待てば、宵っ張りの恋人は目覚めるだろう。

 帰るべきだとわかっている。それが判断できないほど酔ってはいない。それでも足が動かない。

 男は両手で携帯電話を握り締めた。まるで、祈るように。

 どうか――

 男の手の中で携帯電話が震えた。

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