第1章 ピックケースはどこにある

第1章 ピックケースはどこにある(1)

かつて僕の日常は、極めて平穏なものだった。


夜空を見上げては、無数の星々のきらめきを、ぼうっと眺めるような日々。星の名前も、星座の場所も、なにひとつ知らないまま生きてきた。なんの物語もなく、ただ光だけが夜にある。スマートフォンのディスプレイに映るそれを、わあ綺麗だなあ、と眺める。それだけで、十分すぎるほどに満ち足りていた。なにせ星は数え切れないほどあり、僕の夜道はそれだけで明るいものだったから。


けれど、そんな毎日は、今や跡形もなく変わってしまった。


たとえるなら、何光年の彼方に輝く恒星が、いきなり落ちてきたようなものだ。あまりの眩しさに目を開くこともできない。ありえない温度に焼かれ、強すぎる重力に振り回される。しかし徐々に軌道は安定し、今では僕はその星の周りを、ぐるぐると回っている。


伊藤いとう衣緒花いおか


それが、星の名前だ。

僕はなんの因果か、エクソシストとして、彼女に憑いた悪魔を祓う羽目になってしまった。

それからというもの、望むと望まざるとにかかわらず、僕の生活の中心には、彼女がいる。

そして今、衣緒花いおかは僕の隣の席に陣取っている。長い足を組んで、スカートの隙間から眩しい太腿をのぞかせながら、いささか神経質すぎるほど綺麗に整えられた爪を持つ指先で、スマートフォンを操作していた。


「ねぇ、有葉あるはくん。これ、見てください」


そんな彼女はおもむろに、僕にスマートフォンを向けてくる。

浮かべられた挑むような表情を疑問に思いながらも、僕はその画面を覗き込む。

そこに映っていたのは、街を歩く衣緒花いおかの写真だった。

やや遠くから望遠で撮影されたその写真には、こうコメントが添えられている。


衣緒花いおかちゃんいた! 実物細すぎやば!〉


そのコメントは、それが道行く誰かによって撮影されたものであることを意味していた。

衣緒花いおかが悪魔に憑かれ、そしてショーの本番に文字通り炎上した。その当事者であり、奇跡の生還者として、衣緒花いおかは注目の的になっていた。彼女が燃え上がる直前の様子はライブで中継されていたため、そのアーカイブ映像はニュースを駆け巡り〈燃えたモデル〉として、彼女の名前は響き渡った。


一時は放火かテロかと騒然となったが、調査の結果、原因不明であり会場にもブランドにも回避できなかったこと、デザイナーの手塚照汰が完璧な対応をしたこと、そしてマネージャーの清水しみずさんのフォローもあって、事態は急速に沈静化した。


不本意なかたちで有名になってしまったのだから、悪い噂を立てられていた可能性もあったかもしれない。しかし彼女を守ったのは、周囲の奮闘だけでなく、それまでの彼女の堅実な仕事ぶりと現場での評判だった。


そうなれば、注目のモデルを起用したいと考える会社が増えるのも自然なことだろう。こうして衣緒花いおかの仕事は爆発的に増え、こうして目撃情報がSNSを駆け巡る程度には、彼女は知られた存在になりつつあった。


なのでこの写真も、特に変わったものとは思わなかったのだ。

そう、最初は。


「うん、衣緒花いおかだね」


僕の感想に、彼女は不服そうに眉をひそめる。


「やっぱり」

「な、なにがやっぱりなの?」


「実はですね。この日、私は一日撮影でスタジオにいたんです。日が出ているあいだは外に出ていません」

「え? それって……衣緒花いおかがふたりいるってこと⁉」


急な展開に驚くが、どうやらそれは的外れなものだったらしい。


「なにを言っているんですか。そんなわけないでしょう」


彼女は呆れた顔をすると、事態を説明した。


「これは先月号の〈ABBY〉で着た服そのままです。ヘアもそっくりですし、顔はよく見えませんけど、雰囲気からしてメイクも似ています。誰かが私をまるごと真似したのでしょう」

「ははあ、なるほど」


考えてみれば当然のことだ。衣緒花いおかが呆れるのも無理はない。


「でも、有葉あるはくんには、私に見えるんですよね?」

「う、それは……」


「私と他の女の見分けも付かないと?」


睨みつけられ言いよどむと、彼女はふんと鼻を鳴らす。


「まあ、いいでしょう。そういう子が出てくるほどに、私の雷名が轟きつつあるということですから。讃えてください」


そう言って衣緒花いおかは、胸を反らして得意気な顔をする。

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