契約者
川野笹舟
契約者
午後十時、山田幸助はオフィスで残業をしていた。他の社員はとっくに帰宅し、半分電気の消えたオフィスには彼一人のはずだった。
本日最後のタスクを片付けた彼は、PCの画面に貼っていた
「ご契約いただきありがとうございます」
突然、彼以外の声がすぐそばから聞こえた。
「わぁ! ……お疲れ様です。契約ってなんの話ですかね?」
見ると、やせぎすで背の高い男が山田の近くにたたずんでいた。その男も自分と同様に働き過ぎなのか顔色が悪かった。
「失礼、私はあなたに召喚されました。さきほど何か紙を破りませんでしたか? それにより召喚と契約の最終条件を満たしたのです」
「はぁ、たしかに付箋を破ったけど……」
召喚? 契約? 何を言っているのか山田には理解できなかった。保険の契約か何かか?
「さて、今からあなたの願いを三つ叶えてさしあげます。よくよく吟味してお答えください」
わかった。わかったわかった。残業のしすぎで頭がおかしくなったのだろうこの人は。哀れな人だ。
幸い今日のタスクはやりきった。五分くらいなら会話につきあってやろう。そう思い、山田は言った。
「願いね。三つ。なんでもありかい?」
「はい、なんでも」
「なら一つはすぐに思いつく。体を若くしてくれ」
長年のハードワークのせいで、すでにどうしようもないほど体にガタがきている。山田が一番に望むのは健康だった。
「かしこまりました」
やせぎすの男はそう言って右手で宙をさぐったり、指で文字を書くような仕草をした。そして言った。
「一つ目の願いは果たされました。いかがでしょう?」
「いかがでしょうと言われても……。なんだ?」
山田はスーツの着心地がおかしいことに気づいた。中年太りでパンパンだった肩回りもお腹周りもスカスカになっていた。このまま立ち上がればズボンが脱げてしまいそうなくらいだった。
「痩せてる? 痩せてる! すごい! どういうことなんだ?」
「若くしました。あなたの肉体を十二歳のころまで戻したのですが……身長はそのころからほとんど伸びなかったようですね。体重はかなりのものですが」
「十二歳? 子供じゃないか……」
山田は呆然としながらも、オフィスの窓ガラスを見た。窓ガラスには子供の顔が映っていた。うっすらとした記憶だが、確かにそれは子供のころの自分だった。
「二つ目の願いをどうぞ」
男は無表情でうながした。
山田はまだ混乱していた。もしかするとこれは夢かもしれない。残業中に眠ってしまったのだ。そう考えたが、感覚があまりに現実的だった。現実だとしてもそれはそれでおかしい。肉体が若返るなんて。
頭が回らない。それはそうだ。一日中働いて脳のリソースはひとかけらも残っていない。
深く考えるのをあきらめた山田は、思いつくままに喋りだした。
「体が若くなってもあまり嬉しくないもんだな。心は濁りきったおっさんのままだから当然か。あのころの新鮮さこそが世界を美しく見せていたわけで……。なぁ、心も若くしてくれないか?」
「かしこまりました」
やせぎすの男はそう言って、再び芝居がかった仕草で宙に文字を書くような動きをした。
「二つ目の願いは果たされました。いかがでしょう?」
山田は混乱していた。目の前に知らない人がいる。しかも、知らない場所だった。
「あの、ここはどこですか?」
「東京都中央区日本橋人形町にある第三金剛ビルですね」
「東京? あの、僕は大阪にいたはずで……東京なんて行ったことないのに。なんで? ……というか、記憶があいまいなんですけど、僕はなぜここにいるんですか?」
山田の目の前にいるやせぎすの男は薄く笑った。
「なぜあなたがそこにいるか。もしあなたがそれを本当に知りたいのであればお答えしますが……それは、お願いということでしょうか?」
「え? そうですね、お願いです」
「かしこまりました。実はあなたは数十年ぶんの記憶を失っています。心を若返らせるために必要な処置でした。あなたは突然ここに連れてこられたわけではありません。東京に住み、このビルで仕事をしていたのです。ただ、十二歳以降の記憶を失ったので、いきなり知らない場所にいるように感じたのです。ご理解いただけましたか?」
山田は何もわからなかった。若返る? 数十年の記憶を失う? わからないが、目の前の男が言う話が本当であれば、確かにこの状況に説明がつくということは理解できてしまった。
山田が次に何を聞くべきか必死に考えていると、目の前の男が言った。
「三つの願いは果たされました。では、またいずれどこかでお会いしましょう」
男は丁寧にお辞儀をして、そのまま消えてしまった。
契約者 川野笹舟 @bamboo_l_boat
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