青春RTA!
くすり
第一話 青春RTA
急ぐのは嫌いだ。
小学生の頃、宿題の期限を忘れてしまったことがある。
そのくらいは誰にでもあることだろ。
でも、ふだんなら落ち着いて考えられる問題の答えが、急いでいるとめちゃくちゃ難しい問題に思えてくることってないか。
しっかり覚えていたはずの解き方もどこかへ行っちゃって、プリントに書かれた大事なことの上を目が滑っていく。
夜更かしして解いた宿題は無事に二時間目の提出に間に合ったけど、寝坊して朝ごはんを食べられなかった俺は給食の時間まで腹をすかせる羽目になった。
それ以来、やるべきことはなんでも余裕を持って終わらせるようにしてきた。
逆に、今やらなくていいこともせかせか先にやったりしない。
「人生は二十代が花だぞぅ」とか、「若いうちの苦労は買ってでもしろよ?」だとか、親戚のおじさんがよく酔っ払って子供に言うけど、そんなに急いでどうするんだと思う。
時間がないなんて嘘だ。
現代の男性の平均寿命は八十歳だというじゃないか。
俺たちには長い人生があるのだ。
学生や働き盛りのいわゆる青春時代を終えても、その先には、老後、余生をゆっくりと楽しむだけの長い時間がある。
いわば人生の落ちサビ。Cパートと次回予告だ。いや、生まれ変わりがあるかはわからないし、予告はないんだが。
むしろ、学生時代にやたらと生き急いで、部活や恋愛や勉強に一辺倒になって夢中になっていたやつらに限って、大切なものを見落としているんじゃないか。
俺は急がない。
今日やるべきことを今日やり、そうでないことは明日やる──
そう、思っていたはずなのだが。
「わたしと付き合ってくれませんか?」
言ったのは、目の前にいる名前も知らない女の子。
俺と同じ高校の制服を着ている。
といっても俺が着ているのは男子の制服であるブレザーであって、彼女が着ている女子用の制服とはかなり違う。
俺はスカート履いてないし、なんて考えるくらいには混乱している。
まじまじと見つめると、見つめ返してくる目はきらきらと輝いて見えた。
子供の頃に集めていた宝物箱の中に転がっているアクリルの宝石に似ている、と思った。
ゲームセンターの小さなクレーンゲームでお菓子の景品と一緒にとれる、あの透き通ったおもちゃ。
彼女の目に見えるのはそういう忘れかけていたワクワクするような気持ち。
「……あれ、聞こえませんでしたか?」
その目に見入ってしまったために一瞬言葉が出なくなる。
「あ、え……ああ。いや、聞こえた」
あれ、こんなに俺喋れなかったっけ。
母親には「あんた口から生まれてきたでしょ」と言われたことさえあるのに。
というか母なんだからどこから生まれてきたかあんたが一番知ってるだろ、と思わなくもないが。
──いや、いや。
目の前のことに集中しろ。
たしか俺は、高校入学初日に昇降口で困っている様子の女子生徒を見つけて声をかけたんだ。
そうしたら、彼女は「入学式を欠席してしまって、自分のクラスがわからないんです」と言った気がする。
だから俺は彼女を職員室に案内して、なんにもならないような我ながら気の利かない会話をして(やっぱり無駄に口が回るだけで俺のトークスキルは地を這うようなもので)、なんとか先生にクラスを聞くように促した。
職員室に入って行った彼女を見送ってさて、俺も自分の教室に戻るか、いやここまで付き合った手前せめて彼女が戻ってくるまでは待つか、と微妙な気を揉んでいるとすぐに戻ってくる。
名前も知らない彼女は、戻ってきてまだいた俺を見つけて嬉しそうにはにかんで、丁寧に頭を下げてお礼を言った。
よかった、これで解決だ。
俺は安心して自分のクラスに足を向けようとした。
かと思えば、急に彼女が俺に告白してきたのだ。
告白の前には特に意識もしていなかった彼女の姿が、いまの俺にはくっきりと浮かび上がって見える。
まるでハイライトが当たっているみたいに、ちょうど窓から差した朝日が彼女の黒くて長い髪を照らしている。
肩まであるかという髪に、もはやいままで気付いていなかったんじゃないかとさえ思った。
練り上げたシルクのような髪をふと揺らして、見上げるように俺の顔を覗き込んでくる。
少し小柄な肩が俺の体の内側に潜りこむ。ふと自分とは違う花みたいな香りが鼻腔をくすぐる。
「……だめ、ですか?」
「いや、だめではない、けど……なんつうか……」
いわゆる、上目遣い。
何かをねだるようなその視線に耐えられなくなって、思わず目を逸らした。
俺の情けない姿を見て、彼女が不思議そうにしているのが横目に見える。
「あのさ」
「はい?」
ついに、俺がなんとか身体の中から絞り出した一言に、彼女は聞き返す。
「返事、今日じゃなきゃだめか?」
「え?」
彼女は目を丸くしていた。
「まだ……えっと、きみの名前も知らないし、そもそも今日はじめて会ったばかりだろ」
「ああ、そうでした」
こともなげに言うけろりとした様子の彼女。
「そうでした、って……だから、まあ、まだ付き合うとかそういうのは早いんじゃないかって、思うんだが」
月並みに言うところの、お友達からというやつ。
だいたいやんわりと断るときの、相手を傷つけないための方便としてのお友達から。
それが俺の正直な、今日いまこの場所で出せる最大限の答えだった。
「うーん……」
彼女は顎に手を当てて少し考える。
彼女がその遠回しの意味を汲み取ってくれているのではないかと考えた俺は、ようやく安堵しかけて。
しかし、彼女は急に膝を叩いた。
「そうだ!」
「うわなんだ急に!?」
そのキラキラとワクワクを取り戻したような瞳にまた見つめられて、俺は性懲りも無くうろたえる。
そんな俺にかまいもせず、彼女は言った。
「わたしと付き合うの、だめではないんですよね?」
「確かに……そうは言ったな」
「じゃあ、わたしと付き合うのがいやなわけではない、ってことですよね?」
「そもそも、いやとかいいとかそういう段階にないというか……」
「あの、わたし思いつきました!」
彼女の目は爛々と輝いている。
俺はようやく、その目の光が自分にとって厄介なものになるかもしれない可能性に思い至った。
だが、気付いた時はたいてい遅すぎるものだ。
「わたしたちの青春には、時間がないと思いませんか?」
彼女の口から飛び出してきた言葉は俺にとって受け入れがたいもので。
「わたし、この高校生活でたくさん楽しいことがしたいんです! なのに、高校生でいられる時間はたった三年間しかない。だから、楽しいことをやるのを我慢したり、待ったりするのをやめようって決めたんです」
彼女がすらすらと演説のように話すのを、俺は呆然と見ているばかりで。
「ゲームの
青春ってそんなもんじゃないだろ、と頭の一隅で思う自分がいる。
「だからもし、きみがわたしのことをいやじゃなかったら、きみのペースに合わせますから……」
しかし彼女の瞳に宿る光は、確かな意志を持っている。
「わたしを、きみの彼女ってことにしてみませんか?」
彼女は手を差し出す。
俺は何も言えず、その手もとれず、気圧されてただ棒立ちになっていた。
答えがないのにはにかんで、彼女は手をもどし。
「教室、行きましょうか?」
そう言って俺に笑いかけた。
なんとか体勢を立て直して、俺は口を開いた。
「……名前、」
それを聞いて彼女はパッと表情を変えて、申し訳なさそうに答える。
「ごめんなさい、初対面の人と話すのひさしぶりで……」
「俺は
「……わ! わたしもB組!」
その心から嬉しそうな顔に、また目を奪われそうになる。
「わたしは、
「ぐ……」
俺はすぐに言い返せなかったが、すたすたと同じ教室に向かって歩き出してしまった優子を遅れて追いかけて。
「……いや、まだ付き合うって決まったわけじゃないからな?」
「はい、わかってますよ?」
彼女は笑いながら答える。
俺は優子を追いかけた。
本当にわかってるのかよ、と呆れながら。
途中で急に「教室まで競走ですよ」と言い出して全力ダッシュで行ってしまった優子に結局追いつけないまま、俺は新しい教室に着いた。
ふう、と一息ついて、途端に気になって制服の端々がよれていないか確かめたり、はたいて埃を落とそうとしてみたり。
最後にはガラス窓に映る自分の髪型をチェックまでしてしまう。
つい先日に髪を切りに行った美容院で、俺は「清潔で感じよく見えるようにしてほしいんですけど」とあとで思い返せばあまりに抽象的で、言われた側の立場を考えると気の毒になりそうな指定でカットをお願いしたのだが。
そんな俺に「春から高校生ですか、任せてくださいね!」とまさしく清潔感のある感じのいい笑顔で答えてくれた美容師さんのプロ意識には頭が下がる。
今日も教わったとおりワックスで軽くセットしてきたのだが、今朝は少し風があったから崩れていないか心配だった。
しかしこのぶんだとたぶん大丈夫──
「あれ、匡介くん?」
「うおっ」
ガラス窓から急に顔をのぞかせた優子に驚いてのけぞる。
優子は俺を心配してかドアを開けて恐るおそるこちらを覗き込んできた。
「……大丈夫ですか?」
「びっくりしただろ」
彼女は薄桃色のハンカチで首もとを拭いている。
見ると、少し襟をあけられたせいで見える肌がわずかに上気していて、確かに教室まで全力で走ってきたのがわかる。
しかし、こう、なんだ。
白い肌が薄く色づいているのは何か、見てはいけない感じがして目を逸らす。
「あれ、匡介?」
その時、優子以外の声がしたことに気がついた。
彼女の後ろからこちらを見ていたのは見たことのある顔で。
「あ、そうだ! 匡介くんにも紹介しますね」
優子がぱっと顔を明るくして言う。
「匡介くん! こちらは、松田さやちゃんです。さっき全力ダッシュで教室に着いたときに、わたし久しぶりに走ったから息が乱れちゃったんですけど、そのとき心配して声をかけてくれたんです」
紹介された女子生徒はこちらを見て、どもども、という仕草をする。
「さやちゃん! こちらは、竹宮匡介くんです。今朝わたしが教室を分からなくて困ってたときに、心配して声をかけてくれたんです」
俺のほうも意趣返しとばかりに、よろしく、と手を振ってみる。
「ああ、そうです! さやちゃんも匡介くんもわたしが困ってるところに声をかけてくれた優しい人じゃないですか! きっと二人も仲良くなれますよ!」
優子のテンションが知らないところまで突っ走ってしまう前に、俺は彼女を遮った。
「盛り上がってるとこ申し訳ないんだが、俺とさやはもう知り合いなんだ」
「え?」
優子は目を丸くする。
彼女がさやにも目をやると、さやは肩をすくめて肯定した。
「優子、あたしそいつとは同じ中学なのよ。むしろ優子が知り合いで驚いたぐらい」
「そうだったんですね! 二人が友達だったなんて……」
「友達ってより、腐れ縁みたいなもんだけどね」
「こっちのセリフだ」
なにやら感動した様子の優子に釘を刺すさやに、俺のほうでも文句をつけておく。
しかし優子はまるで聞いていないような様子で。
「わたしの新しい友達ふたりが以前から友達だったなんて、まるで運命みたいじゃないですか!?」
「……大袈裟だろ、さすがに」
「優子との運命ならまだしも、そいつとの運命なんて嫌よ」
俺はもう口答えするのも疲れて、何も言わずに教室に入った。
黒板に貼られた座席表を見て自分の席に座る。
窓際の後ろのほうの席で、なかなかの良席だった。
初日の自分の席からの景色を確かめていると、何故か優子とさやもついてきていた。
「……そろそろホームルームだろ? 自分の席に戻ったほうがいい」
「それがね、あたしたちの席も……」
さやはやれやれといった様子で、あとは言いたくないとばかりに手で優子のほうを示す。
優子は俺とさやをにこにこ見つめて。
「わたしたち、三人で近くの席ですよ!」
俺の隣が優子、俺の前がさや。
思わず目を押さえる。
実を言えばさやと同じクラスだということは知っていたのだが、それでも俺は新しい高校生活への期待を持たずにはいられなかった。
俺が憧れていたもの、それは静かな新生活。
ギャーギャーうるさいさやに絡まれることもなるべく少なく、自分のペースで楽しめる高校生活だったのだが。
目の前にあるのは──
「匡介くん、さやちゃん。あらためて、これからよろしくお願いします!」
「ええ。よろしくね、優子……あんたは、いまさらよろしくとかないけど」
初対面でいきなり告白してきた変わった女と、口うるさい幼馴染のクラスメイトだ。
俺は少し痛むような気さえする頭を軽く振って、なんとか答えた。
「ああ……よろしくな。一応、ほどほどに」
担任の男性教諭がやる気満々の様子で仕切っていたホームルームが終わって、今後の学校生活についてのオリエンテーションのような退屈な時間が過ぎた頃。
そろそろ腹が減ったな、と思ったちょうどそのとき昼休みのチャイムが鳴っていた。
俺は配られたプリント類をカバンにしまうと、自分の財布を持って席を立とうとした。
「あれ、匡介くん、どこ行くんですか?」
そこに空かさず声をかけてくるのは優子だ。
俺は、見つかった、という苦い顔をなるべく隠して答える。
「購買だ。うちの高校、コンビニが入ってるらしいからな。初日だから探検がてら、昼飯を買いに行く」
「そうなんですね! 買い食いもたまにはいいですけど、ずっとコンビニご飯は健康によくないですよ?」
「朝は忙しいから弁当作る時間もないし、仕方ないだろ……ていうか俺の健康だ。俺の責任で管理する」
「そんなつれないこと言わないでくださいよぅ。あれ、さやちゃんもどこかへ行くんですか?」
優子の呼びかけで俺も気付いたが、さやも立ち上がって行こうとしたところだった。
「……あたしも購買よ。目的は匡介とだいたい同じ」
俺のほうをあえて見ないようにしているらしいその目の逸らし方がなんか気に入らない。
「ともかく、時間もないしとりあえず買ってくるよ。つうか、ないなら優子のぶんも買ってくるか? 食いながら話そう」
「わ、ありがとうございます!」
優子は嬉しそうに自分の財布を出そうとして、あわてて思い直して。
「じゃなくて! ちがうんです、わたしお弁当つくってきたんです!」
「おーそうか。そりゃマメだな」
「初日から気合い入ってるわね」
俺とさやは感心するが、しかし。
「じゃ、俺(あたし)は買い物行くから」
と声を揃える。
いよいよ教室を出て行こうとする俺たちをまだ引き留めて、優子はついに言った。
「そうじゃないんです! わたし、ふたりの分のお弁当もつくってきたんですよぅ!」
「……は?」
意味不明だ。
「いや、さすがに嘘だろ? だって俺たち、今日知り合って初日だぞ」
「そう、よね? 優子、あんたまだ友達ができるか分からないのに、友達の分の弁当まで作ってきたなんてこと……」
「作って、きたん、です!」
そう言ってカバンから取り出したのは大きなつつみで、可愛らしい大きなランチクロスで包まれていた。
それはまるで一人分の量には見えない。
「お前……」
俺は優子をまじまじと見る。
「そ、そんな信じられないものを見るような目で見ないでくださいよ! お友達のためにお弁当を作ってきてなにがいけないんです!?」
「いや、違うだろ。もう仲良くなってる友達に弁当を作るのと、これからできるかわからない友達のぶんの弁当まで作るのは……」
「優子……何か、つらいことでもあった?」
「さやちゃんまでヘンな心配しないでください!?」
優子はぷりぷり怒りながらも、手際よく弁当を広げていく。
「と、とにかくっ! わたし一人じゃ食べきれないので! さやちゃんも匡介くんも、食べてください!」
「一人じゃ食べきれない量を自分で作ってきたんだよな……」
「ま、まあ……くれるならありがたくいただくけど」
さやが席に戻って、俺も仕方なくそうした。
優子の弁当は和食中心だった。
「おいしいわ、優子。なんていうのかな、懐かしい感じの味がするっていうか」
「そうですか? よかったー、初めて作ったから心配だったんです」
初めて作ったのかよ、まだいない友達のために弁当、と思ったのは俺だけではあるまい。
さやに目配せをしつつ、俺も食う。
「あ、ああ。うまいな。ばあちゃんの手料理を思い出すような……いってぇ!」
膝に鋭い痛みを感じたと思ったら、さやが足を蹴ってきたのだった。
俺は視線で抗議するが、知らないふりされる。
「そうね。しょっぱすぎないから、すごく健康的で優しい味わいだわ」
「嬉しいです! さやちゃんにそんなに褒めてもらえたら、自信が出てきました!」
「……ああ、なかなかいけるぞ」
「匡介くんも! ありがとうございます!」
……正直、現代のファストフードに慣れた人間にとってはほとんど味がしない。
まるで病院食みたいだ、と言わなかったのはさすがに俺にもデリカシーがあるからだ。
まあ実際のところ、いいように言えば素材の味が活かされており、それはそれでうまいのだが。
優子の家庭の料理が自然派(婉曲表現)だったのだろうか。
このへんはデリケートな問題だから、もちろん俺は何も言わない。
うま味調味料は、使っても使わなくてもいいんだ。
「でも、わたしたち三人で友達になれて本当によかったなって思います」
益体のないことを考えていたら、優子が言った言葉で現実に引き戻される。
「まあそうだな。俺も初日からこんなに賑やかになるとは思わなかった」
本当は静かなほうがよかったが。
「そんなこと言うのはちょっと早くない? なんか照れくさいわ」
さやも頬を掻いて答える。
「本当に思うんです。わたし、いままで同年代の友達っていませんでしたから」
「ま、優子が喜んでくれるならあたしも嬉しいけど」
さやが助けを求めるように視線を向けてくるが、俺は「お前が踏んだ地雷だろ」と目を逸らす。
また蹴られる。
……人体の脛って弱いんだぞ。
「そういえば、さっき言ってただろ。タイムアタックだのなんだの……あれってどういうことなんだ」
痛みを堪えつつ思い出してそう言ってから、その前に言われたこと──告白も自然と頭に浮かんで、少し顔が熱くなる。
俺がそれを誤魔化そうと前髪を触るうちに、さやが横槍を入れてきた。
「なんのことよ?」
優子がうんうんと頷く。
「説明しましょう!」
アニメの解説キャラのような口調で、かけていないメガネを触るような仕草。
「これから始まる高校生活、とっても楽しみなことがたくさんありますよね」
「まあ、そうね?」
「でもそんなイベントたちが来るのを待っていたら、気が付けばもう高校三年生になって、受験生になって……すぐ卒業してしまう。そう思いませんか?」
さやは迷いながらも頷く。
「だから、わたしは待つのをやめたんです! 楽しいことが、嬉しいことが向こうからやってくるのをただ待つだけなんて、もったいなさすぎます」
「そ、そうかな……」
「そうなんです!」
優子はあのキラキラとした目でさやを見つめているようで、少しも譲らなかった。
さやに少し同情する。
あの目で見られると、何も言えなくなるのだ。
「俺はそう思わない」
しかし、俺はそこで反意を示してみる。
優子は敏感に俺のほうへ振り返った。
「どうしてですか?」
輝いている目にまた気圧されそうになるが。
「……俺はマニャーナ主義者だからだ」
「ま、まにゃ?」
優子が首を傾げ、さやのほうを見る。
「またいつものが出ただけよ。優子、気にしないでいいわよ」
「いつもの?」
「まあ聞け。マニャーナは明日って意味だ。つまり明日やるってことなんだ」
「つまり、どういうことなんです?」
「俺たちマニャーナ主義者は、やらなきゃならないことをいますぐ今日やることを避けるんだ。絶対に今日やらなければならないほど、緊急の仕事なんてのは存在しないからな」
「……あるのでは?」
「いや、ないんだ。考えてもみろ、今日絶対にやらなきゃいけない仕事があるとして、それは本当に今日発生した仕事か?」
「発生……? でも、確かにそうですね。今日締め切りの仕事は、だいたいそれ以前からやらなきゃならないものかもしれません」
「厳密に言えば、今日頼まれた今日が期限の仕事もあるだろう。しかしそれは正当な仕事か? 責任を持ってやるべきことなのか? ──それは否だ」
「そ、そうですね……仕事を頼んだ人がいたとして、今日が締め切りだったら、頼んだ人にも問題があるかもしれません」
優子はたじたじとしている。
「マニャーナ主義者はスケジュール主義者だ。やらなきゃならないことがあったら、それを細かく分割して明日からのスケジュールに組み込む。やるべきこと、やりたいことは急いでやるべきじゃない。それで大事なことを見落としたらどうする? 大変なことも楽しいことも、ぜんぶスケジュール通りにやって初めて平穏で豊かな暮らしが実現するんだ」
優子はついにさやに助けを求めるように視線を向けて、さやがそれを引き取った。
「……あんたのウンチクはわかったから。優子が困ってるでしょ?」
「すまん。でも、その優子が言う青春ってやつをなるべく急いでやったら、それは自分で締め切りを決めてやるべきことを必要以上に急いで、時間をかけずにやることになる。それはよくないだろ。俺が一番言いたいのはこういうことなんだ……」
俺は話し終えて、ペットボトルのお茶を飲んだ。
優子は俺の言葉をしっかりと受け取って考えているように見えた。
それだけで俺は満足して、彼女の答えを待つ。
しばらくして、彼女は言った。
「……でも、それでも。わたしは待っていたくない。だからわたしは急いでやることにします。だからもしわたしが急いだせいで、何か大切なものを見落としてしまっていることが匡介くんにわかったら、匡介くんが教えてください」
──そう来たか、と思う。
「なんで俺が教えなきゃいけない?」
「匡介、いい加減にしなさいよ!」
さやが割って入ろうとするのを止めて、俺は優子の目を見つめる。
今度はその光に負けないよう、じっと耐えて。
「それは……きっと教えてくれます。匡介くんなら。だって匡介くんは、一人で昇降口で困ってたわたしを見つけてくれた優しい人だから」
「……どうかな」
俺はそう言いつつも、その答えに満足していた。
さやは頭にクエスチョンマークを浮かべつつも、雰囲気が弛緩したことを感じ取ったらしい。
俺は食べ終えた弁当の礼を言った。
優子がそこでつけたす。
「それに、匡介くんはわたしの彼氏くんでしょ? なら、わたしを助けてくれなきゃだめですよ」
「は、はあ……!?」
さやが大きな声を出した。
「あんた、彼氏って……!」
「彼氏じゃないからな!? コイツが勝手に言ってるだけで……」
「でもだめとは言われませんでしたもん。わたしはそう思ってるんです!」
「な……」
優子はテキパキと弁当を片付けはじめ、それ以上取り合おうとしなかった。
さやは憤然として納得いかない様子で、俺はあとで説明する時間をたっぷり取らされるのだろうな、と頭が痛くなる。
とはいえ、始まったのだ。
これが正真正銘、俺たちの奇妙な高校生活の始まりの日だった。
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